第二十話 『くせ者』
キャッチャーの守備位置には堀川悠大がいる。まだ防具が一式揃っていないためあまり「らしさ」はない。それでも悠大の体格の良さはキャッチャーのそれだ。
セカンドには喜多明日香。女子選手というだけあって小柄であるが、軽快にゴロを捌いては素早くファーストへと送球をしている。肩の弱い部分も捕ってからの早さで充分に補っている。まだファーストを守る選手はいないため、とりあえず唯一グラウンドに置いてあった防球ネットをファーストベースの前に立ててそこへボールを投げ入れている。
ややぎこちない捕球かつアーム投げでやや不安を感じさせるのはサードの森田慎太郎だ。守備に関してはかなりの特訓が必要なレベルである。
その隣では一見するだけでセンスの良さがわかるプレーを見せつけている選手がいる。田沢伊織だ。瞬発力のある軽い身のこなし、身体をバウンドに合わせる能力、ボールの握り変えの速さ、そして気付いた頃にはファーストへとボールが届いている肩力。圧倒的な守備力で目線を寄せ付けている。内野の要であるショートのポジションは絶対的に伊織以外には務まりそうもない。
その伊織のすぐ後ろ、レフトには久米和希がいる。ライトの山本頼人とフライを投げ合っている。和希と頼人は守備力という面においてはあまり高くない水準で拮抗している。
そしてマウンドには荻野優太がいる。
「よし。大丈夫」
これから行うのはシートノックだ。立ち投げでキャッチャーへと軽く投げることに関しては何の問題もなかった。心体両面でのウォームアップが完了したことを確認すると、センター方向を向き、叫んだ。
「ノックいくぞー!」
おーっ!と声が返ってくる。優太はやる気満々でホームを見ると、重要なことを忘れていたことに気付いた。
「あっ、ノッカー忘れてた」
そうだ。全員が守備位置についてしまえば、当然ノックを打つ人はいなくなる。むしろ守備すら足りていない。優太は拍子抜けした足取りでダグアウトへ戻ると自宅から持ってきたマスコットバットを取り出し、打席に入った。それと同時に悠大をファーストへと向かわせ、防球ネットではなくファーストにはきちんと選手がついた。
「今度こそノック始めるぞ!」
カーンッ!乾いた木製バットの音が響く。硬式球独特の重いバウンド音。慣れないバウンドに戸惑いながらもゴロを処理していく選手たち。硬式球への恐怖心からか腰が引けている選手が多い。それでも高校で野球ができる喜びを噛み締めながら、みんな真剣にゴロに食らいついていく。ただ一人、田沢伊織を除いて。まだまだ足りないものだらけの新生野球部の初めての守備練習が幕を開けた。
「全然だめ。みんなセンスなさすぎ!本当にみんな経験者なの?」
ノック後のミーティングで真っ先に口を開いたのは伊織だ。一同は伏し目がちに伊織を見上げている。
「もちろん守備なら誰にも負けるつもりないけど、これじゃあ張合いが無さすぎる」
これにはさすがの明日香もしゅんとして俯いている。元々弱気の頼人なんて今にも消えてしまいそうなくらい小さくなってしまった。
あまりのダメ出しの多さに、ついに杏菜が怒った。
「田沢くんさ?ちょっと自分の方が上手いからって調子に乗りすぎじゃない?」
杏菜の声色からは必死に冷静さを保とうとしているのがわかる。怒りに震えているのだ。
「わかったようなこと言うなよ。たかがマネージャーのくせにさ」
伊織の一言に、真っ赤だった杏菜の顔色が一気に真っ青に変わった。
「それは、ひどいよ…」
あまりのショックにぽかんと口を開けたまま、目からは大量の涙が零れ落ちた。
泣き崩れる杏菜の様子を見て明日香は俯いたまま、冷たい声でこう言った。
「もう練習には来ないで」
伊織は少しハッとしたように見えたが、あくまで強情を貫いた。
「わかったよ。練習なんてしなくても俺が一番上手いし。試合にだけは来てやるよ」
そう言い残すと、グローブを拾い上げ部室棟へと消えて行った。
「なんなのあいつ。超むかつく 」
伊織の姿が見えなくなったのを確認し、杏菜が呟く。
「たしかに慣れてないだけあって守備は酷かったけど、まだ今日が初めて。あれは言い過ぎだ」
悠大が杏菜をフォローする。硬式の経験者である悠大は比較的マシな方ではあった。イップスを隠している優太は何も言えることはなかった。
「今は田沢くんがいなくても勝てるように練習するだけだね!」
明日香が何か吹っ切れた様子で重い空気を切った。これで現状のメンバーは明日香を入れて7人だ。1人が欠けるだけでもかなり痛い。さらに伊織は主戦力クラスの守備力だった。もしも伊織が試合までに戻ってこなかった場合のことも考えてショートの練習は誰かがしておかなければならない。優太なるべくポジティブに考えるとこにした。もしもの事態というものは試合中にも起こりうる。最低限の人数しかいないチームとしては1人が複数のポジションを守ること出来る方が良い。これはその前哨戦である、そう考えた。
「よーし、次はフリーバッティングするか!」
優太が声を上げた。今はグラウンドが貸切状態だ。サッカー部も陸上部もまだ存在していないのだ。フリーバッティングをするには絶好の機会である。とりあえずバッターには悠大を指名する。キャッチャーの防具はまだないため防球ネットをホームベースの後ろへ設置した。バッターのヘルメットは体育のソフトボールで使うフリーサイズのものだ。
ここで優太はピッチャーをするのは避けたかった。イップスを知られてしまうのが怖かったのだ。しれっと外野守備に着こうとする優太の腕を明日香が掴んだ。
「ピッチャーよろしくね!」
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