第十八話 『今が一番幸せ』
グローブとボールを手に取ったところで優太は再度の集合をかけた。全員小走りで優太の前へ集まってくる。
「本格的に硬球を触るのが初めてな人は?ま、おれもなんだけど」
優太は自ら手を挙げながら質問をする。
伊織と悠大以外の全員が手を挙げる。優太が思っていたよりも多かった。
軟式球と硬式球では重さや大きさ、手に取った感触などが全く異なる。中学校の部活動では主に軟式B球が使われている。Bとは球の大きさを表す指標となるもので、小学生はC、高校生以上はA球を使用するのが通例だ。対して中学生の時点で硬式球を使用していたのであれば、必然的に外部のクラブチームに加入していたことになる。
「あのー」
手を挙げていたうちの1人が言いにくそうに優太の方を見た。和希だ。
「一応硬式は使ったことがないから手を挙げたんだけど、 ジュンコー出身っす…」
大半がよくわからないといった表情をする。それもそのはずだ。
「えっとね、ジュンコーっていうのはね…」
明日香が解説を始める。説明したくてしようがないと、目を輝かせている。
「ジュンコーは準硬式球のことね。見た目は軟式、触り心地も軟式。でも硬さと重さは硬式に近い。中身は硬式だけど外見は軟式。そんな奥ゆかしさの塊みたいなボールなの。縫い目にはC、B、A球とは別に、H球って書かれてるんだよ」
へぇーっ、と声が揃う。
「軟式よりも重くて硬式よりも縫い目に指が掛かりやすい分、主に落ちる変化球が曲がりやすいの。外はゴムで軟式と同じくバットに当たった瞬間に変形しやすいから打球は飛びにくい。その上硬式よりは軽いから高く上がった打球がなかなか落ちて来ない。だから硬式よりもフライアウトが増えると言われているの。あとあとこれは都市伝説かもだけど、ゴロはツーバウンド目に突然跳ね上がるようなバウンドに変わるから、内野手は少し怖いらしいのよ」
火の付いた明日香は止まらない。
「久米くんって中学でジュンコー使ってたってことは、もしかして大阪の公立出身だったり?」
「えっ、凄い!当たってる!」
もはや入る隙のない明日香と和希のやり取りに、一同はただ眺めているだけだった。
「ジュンコーを使ってる中学ってかなりレアだからね。ほとんど大阪でしか使ってないし、全国で見ても数十校程度の規模なのよね」
「そ、そこまでは知らなかったよ」
当事者の和希ですら取り残されてしまった。明日香はハッとした表情で、優太へ主導権を返した。
「まぁとにかく。硬式を初めて使う人が多いということで、無理にいきなりの遠投はしないように。怪我をしたら元も子もないからな」
はいっ、と全員が声を揃える。しかし伊織だけはあまり聞き入れてはいないようだ。
「それだけ頭に入れたら、キャッチボールを始めるよ。みんなキャッチボールの体形に広がって」
10メートルほど離れた正面には明日香がいる。そして優太と明日香を基準に横に全員が並び、号令を待っている。硬式野球部発足初のキャッチボールだ。
「お願いしまーす!」
優太が帽子を取って頭を上げながら掛け声を上げる。そのあとに全員が続いていく。野球部経験者ならばどこのチームでも行う慣習である。
優太の投げるボールが明日香の胸元へ吸い込まれていく。難なくグローブに収める明日香を見て一同はまたも呆気に取られた表情をしている。そんな視線をよそに明日香はしなやかなフォームから低い弾道で返球をする。女子なのに、という相対的なものではなく、単純に一般的な選手よりも綺麗なフォームだ。優太はキャッチボールをしながらも主将としてチーム全体の様子を伺っていた。あくまでキャッチボールだけではあるが、見ていて目立っている選手がいた。伊織だ。内野手特有の小さなテイクバックからは矢のようなキレのある送球がミットを鳴らす。相手が捕手の悠大ということもあってか、その音は一際大きい。反対に少しぎこちない様子なのが頼人と慎太郎のペアだ。守備に自信がないと言っていたが、それにも納得してしまうほど制球が不安定だ。対する慎太郎も奇妙なフォームである。いわゆるアーム投法と言われているフォームで、テイクバックの際にトップの位置にある肘が伸びあがってしまっている。これでは近い将来に肩を痛めてしまいそうだ。なんていうことを考えているうちに、気づけば明日香はかなり遠いところまで離れていた。ざっと70メートルくらいだろうか、塁間の2倍ちょっとの距離をワンバウンドで正確に返球してくる。
「おーい、あんまり無理するなよー」
優太が叫ぶ。ここまで距離を取ってキャッチボールをしているペアはここだけだ。伊織たちでさえ、塁間ほどの距離で自重している。それくらい硬式球による肩と肘への負担は大きいのだ。
「メンバーが足りてない状況なんだよ。言ってる意味わかるよなー?」
優太は念を押す。明日香に怪我をさせるわけにはいかなかった。少なくとも現状のチームでは大きな戦力なのだ。
数球で遠投を終えた明日香は徐々に距離を詰めていき、やがてキャッチボールは終了した。もう明日香は優太の目の前にいる。
「そんな心配しなくても大丈夫なのに」
明日香はぷくっと膨れている。
「そりゃ心配くらいするよ。怪我したら本気で怒るよ」
優太はいたって真剣な顔つきで明日香を見つめる。はいはい、と優太をやり過ごす明日香の表情は誰からも見えなかった。いや、見られたくなかったから隠したのだ。
なぜなら明日香はとても幸せだったから。好きな野球を本気で、そして好きな人とキャッチボールをしている。これほど明日香にとって充実感を生むものは他にはないだろう。
「ありがとね」
明日香が微笑みながら呟く。
「ん、何か言った?」
やっぱり優太は気付かない。
「どうせ優太くんは気付かないと思ったから、言ったんだよーだ」
「おーい、悪口だろー絶対」
「きゃーばれたぁー」
「ふざけすぎだぞーイチャつくのは帰ってからにしな」
注意をしたのは悠大だ。本来であればキャプテンを任せたい人材である。
「い、イチャついてねーし!」
優太が慌てて否定する。
「照れてるー可愛いー」
明日香が追い討ちをかける。
「だからシャキッとしろ!」
今度の悠大は怒鳴った。優太も明日香も「はい」とだけ答え、肩を落とした。それでも明日香だけはすぐに楽しそうな表情へと戻る。
今の明日香は無敵なのだ。
「……」
杏菜は1人、離れた日陰から眺めていた。
「明日香、青春してるなぁ」
そうポツリと呟く。
まだ何も無いダグアウトの手すりに腕を組み、静かにゆっくりと流れる時間を噛みしめた。
「よーし、私も負けてられない!頑張ろっ」
杏菜は体操服の袖を捲り上げると、手に持ったゴムで髪を後ろに束ねた。集合の号令がかかったのを合図に、円陣の輪の中へ走り込んでいった。
太陽の日差しを受けた杏菜の目はキラキラと輝いていた。
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