第十五話 『僕は君のマスコット』
教室の掃除を終えて教科書を鞄に詰めていると、いつものように明日香が視界に現れる。
「グラウンドいこっ」
昨日の興奮そのままに明日香は幸せそうに笑っている。それにしてもいつも支度が早い明日香はステップも軽やかだった。夢だった高校野球を出来るのだ、当たり前と言えば当たり前かもしれない。
「いっつも私より遅いんだからー。杏菜も木下くんも待ってるよ」
明日香が急かす。はいはい、と優太は中学校時代のエナメルバッグとバットケースを肩にかけると、一足遅れて輪の中に合流する。これからグラウンドで初練習だ。
「じゃあ行くか」
重い荷物を持っていることが少し誇らしい。おれたちは野球部員なのだ。優太は窓から見える丘の上を見ながら拳を握った。
優太は杏菜と雅也の後ろを歩いている。隣は当然明日香だ。ちょうど地下通路から地上へ出て、グラウンドが見えて来た。明日香は歩きながら、優太の肩に掛かったバットケースに手を触れる。
「これはマスコットだね」
コンコン、と軽く拳を当てて音を確かめる。
「そうだよ。まだ硬式用の金属バットは持ってなくて。硬式を打てるのはマスコットしかなかったから」
優太はケースからバットを取り出しながら答える。それを見た杏菜はとても不思議そうにしている。
「マスコット?キーホルダーとかの?そんな大きいバットが?」
「あ、これは…」と優太が答えようとするよりも明日香の方が早かった。
「マスコットバットは主に練習専用の木製バットのことで、試合で使う金属バットよりも重いの。それにプロが使うようなアオダモ製の木製バットとも違って、竹で出来ていることが多い。だから折れにくくて強いんだよ。素振りとかバッティング練習で使う人が多いのよ」
さすが野球については博識である。杏菜もなるほど、と頷いている。
「ま、私みたいなか弱い女の子には重くて扱えないけどねっ」
明日香が意地悪な顔で優太にわざとらしいウインクを送る。明日香なら余裕で振り回せそうな気がする。しかし必死に優太は思いとどまった。そんなことを言うとバットで殴られそうである。
「なんか言ってよー!」
無言を貫いた優太だったが、どちらにせよ明日香が真っ赤にした顔で優太に対してむくれてしまった。雅也は優太の気苦労をよそに大爆笑だ。杏菜も明日香の楽しそうな表情を見て笑っている。みんなにつられて優太も控えめに笑った。
グラウンドの入口に到着するやいなや、明日香は集団の一歩先を歩き始めた。徐々に歩く速度も上がり、優太たちがグラウンドに足を踏み入れたときにはかなり遠く、新部室棟の前まで離れていた。
「はーやーくー!」
明日香が叫んでいる。野球がやりたくてうずうずしているらしい。
「今いくよー!」
優太は新部室棟の方へ走り出そうとした。雅也も同じくである。
その時、さっと誰かの手が優太の手を掴んだ。杏菜だ。雅也はそのまま新部室棟の方へ駆けていったため、杏菜が優太を引き止めるような形になった。
「ちょっと待って。言いたいことがあるの」
杏菜の声のトーンが少し下がっている。優太は自分が何かしでかしたのではないかと不安になっていた。
「ありがと、ね。明日香のこと」
杏菜が困り眉をしながら、笑った。優太には何の事かさっぱりわからなかった。首を傾げた。
「明日香ね、中学の時はあんな感じじゃなかったから。もちろん根っこの部分は明るくて奔放な性格なんだけど、野球絡みで色々あって。一気に落ち込んじゃってたのよ」
杏菜が声を振り絞るように話す。
「お兄さんのこと、か?」
優太には思い当たる節があった。いや、そもそもこれしか思い当たる節がなかった。
「知ってたんだ、さすが荻野くんだね。私以外の人には絶対話さなかったことなのに。すごいや」
「なんと言うか、無理矢理話させてしまったようなものだけどな」
「ううん、明日香には荻野くんが必要なんだよ。あんなに楽しそうな明日香、本当に久しぶりに見たよ。だから荻野くん、あの明日香を守ってあげてね」
杏菜はそう言い残すと、明日香の元へと走っていった。小さくなっていく背中とは裏腹に、杏菜の言葉が何度も心に突き刺さっていく。
「明日香が?おれを必要と?」
動揺を隠せなかった。
そして同時に、明日香のことをこれまでと同じようには見られなくなっていた。
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