第十四話 『ずっと前を向いているあなたでいて』

土日を挟んでの月曜日、杏菜は日直としてこの日最後の仕事に取り掛かっていた。課題のファイルを人数分回収し、職員室の川上先生の机の上へ提出する。単純でありながらやや面倒な仕事である。

2回に分けてクラス全員分提出し終えた杏菜は、ふーっと息を吐く。職員室を出る瞬間、反対側の扉から優太と明日香が入室したのが見えた。なんだろうと杏菜は抜き足で近づき、扉越しに覗き込む。明日香と優太は3人の先生たちと対峙している。



5分ほど前のことである。掃除が終わると優太と明日香は川上先生から職員室へ呼び出されていた。2人はやや緊張の面持ちで職員室の扉を開くと、そこには教頭と川上先生、それに初めて見る年配の先生が立っていた。

「君たちが硬式野球部を作ろうとしている荻野くんと喜多さんかな?」

教頭が声をかける。

「はい」

優太はぐっと息を飲んだ。高校生という立場ではほとんど教頭レベルの先生と話す機会はない。優太は何か大きなことを成し遂げようとしていることをひしひしを感じている。

「硬式野球部の設立の申請なんだが…」

優太はごくりと息を飲む。心做しか明日香も緊張気味だ。

「受理されたよ。条件は満たしていたし、共学化に伴って野球部をはじめとする運動部の新設は予期していたんだ。第2グラウンドと新部室棟の準備も出来ているから安心しなさい」

ひとまず優太と明日香は教頭に向かってありがとうございます、と頭を下げた。感激したのか少し涙目になっている明日香を見て、優太まで泣きそうになっている。明日香の努力は今まさに報われようとしているのだ。


「ただ1つだけ問題がある。野球経験のある先生が1人も居ないんだ」

教頭はそう言うと、隣にいる年配の教諭の方を見た。定年を超えているようにも見えるその教諭は1歩前にでると、口を開いた。

「私は柴田です。候補のいなかった硬式野球部の顧問になりました。よろしく」

いかにも優しそうなおじいさんといった様子の柴田先生はそう言うと、ぺこりと頭を下げた。あとを追うように優太と明日香も頭を下げる。

「野球はテレビで観戦して得た知識くらいしかないので、基本的には生徒の自主性に任せようと思っています。主将は荻野くんということでいいのかな?」

柴田先生は優太の方を覗き込む。優太は躊躇ったが、明日香が背中を押す。

「そうです、荻野くんが主将です」

やっぱりそうなるの?と明日香に視線を投げるが彼女は見向きもしない。

「では早速今日から部室もグラウンドも好きに使いなさい。完全下校時間は18時半だから、それだけは必ず守るようにね」

そう言うと部室棟1Aと書かれた名札のついた鍵を優太に手渡した。何はともあれ、無事に部活創設にまで辿り着いた。もう1度頭を下げて職員室をでると、自然と明日香と向い合う形になった。

一瞬の間の後、2人は勢いよくハイタッチをした。

「やったな、明日香!おめでとう!」

明日香からは無邪気な笑顔が溢れ出ている。優太は心の底から良かったと思えた。

「でも優太くん、まだスタートラインに立っただけだよ。引き締めていかないとね」

明日香はもっと前を向いている。2人はその足で放送室へ向かうと、新生野球部の部員へ集合のアナウンスを行った。

「野球部員は校庭前の広場へ集合してください」

明日香の澄んだ声が校舎に響く。そのあと2人は案内した広場へと向かうと、早くも野球部員が揃っていることに驚いた。

「早っ」

思わず明日香が口に出す。坊主頭の部員が少し苛立ったような表情で反応する。

「下校している途中だったんだ。校舎を出たと思ったら丁度放送が聞こえて、戻ってきた」

なるほど、とタイミング良く到着した杏菜が頷く。後ろから着いて来ていたのをバレないように、明日香たちから少し間隔を空けていたのである。


「急に集まってもらったのは、重要なお知らせがあるからだよ。えーっと。野球部が正式な部活として認められました!ぱちぱちー」

明日香は自ら手を叩きながら発表した。

「早速明日からグラウンドで練習を始めたいと思います。授業が終わり次第第2グラウンドの新部室棟前に集合してください。暫定ですが僕が主将として頑張りますので宜しくお願いします」

優太の言葉に一同がざわめいた。

「おい、いきなり練習するのか?設備とかは?」

やや髪の長い部員が代表して質問をした。

「目的は練習することじゃないよ!野球を通して自己紹介しようっていうこと。プレーしたらわかることってあるでしょ?」

まだお互いを全く知らないような状態だったが、優太には考えがあった。言葉よりもプレーで。これまでの経験上、野球のプレースタイルから性格や考え方を知る方が手っ取り早いと学んだのだ。

答えを先に出したがる性格の明日香はこれに賛同した。いや、とにかく早く野球がしたいだけなのかもしれない。

「明日新調したグローブ持ってこよーっと」

先程の髪の長い部員が期待を膨らませる。各々がやる気に満ちた表情をしている。優太はこの気持ちを忘れずに最後まで駆け抜けることを決意した瞬間であった。


明日香は制鞄からおもむろに兄のグローブを取り出す。寂しさと覚悟が混じりあったような、少し懐かしさにも見える表情でグローブを見つめている。そんな明日香に気づいたのは隣にいた杏菜だった。中学の頃からずっと明日香の背中を見続けてきた杏菜だから気づいたのだ。


「良かったね。頑張ったね。明日香」

誰にも聞こえない声で呟いた。

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