傘の下

 一時間半後、午後五時半過ぎ。響子は大輔の隣を歩いていた。同じ傘の下で。


 閉室時間になって二人で下駄箱まで行き、そこで響子は自分が傘を忘れたことを思い出した。


 最終下校時刻も迫るこの時間は静かで、雨の音が手招いているようだった。


 靴を履き替えて雨を見ながら覚悟を決めていると、鍵を返しに行っていた大輔が追い付いてきた。


「どした?」


「傘がない」


「マジか」


 一緒に帰ろうとしていたが、残念ながら無理そうだ。


 走って帰るよと笑って言おうとしたときに、傘の開く音が昇降口に響いた。響子がそちらを向くと、少しだけ前にいて顔の見えない大輔が、こもった声を出す。


「じゃあ、ほら……、入ってけば?」


 ぶっきらぼうなその言葉で頭がいっぱいになって、大輔の耳が赤いことには気づかず、響子は下を向いた。


「じゃ、じゃあ、ありがたく」


 誰かに見られたらなんて無粋な考えもよぎらないほど、二人は体を強張らせて帰路についた。


 傘を持った手が腕に少しでも当たると、二人ともびくりと体ごと跳ね、数ミリ離れる。


 二人の間には、雨の音だけだった。


 何か話そうと思うのに、話せないでいる。


「あ、もうすぐだ」


 やっと出た言葉は、ただの報告。


「そっか」


 歩きながらした会話はそれでおしまい。終始無言で家の前にたどり着いてしまった。


「あ、ありがとう」


「いや、べつに」


 早く家に入ればいいのに、この空間が終わるのがもったいなくて、なかなか足が動かない。


 あまりそうしているとさすがに怪しまれると思い、響子は諦めて、顔を上げて、手のひらを見せた。


「じゃあね」


「あのさ」


 歩き出したところを止められて、制服が濡れる。大輔は慌てて傘の下に響子を入れた。


「何?」


 呼び止めたくせに、大輔はなかなか喋りだそうとしない。


 理由のわからないドキドキが、響子を一個の心臓にしたみたいに震えさせる。顔を見ることが出来ない。


「俺、あの本の最後の場面が好きなんだ」


 それがさっき、図書室で言っていたことだと気づくのに、数秒かかった。


 気が付き、最後のシーン?と訊こうとして、なんだか今ってあの状況に似てない?と遅まきながら気づく。


 響子が気づいて大輔の顔をやっと見上げると、顔を真っ赤にしていた。


「お前とまた、同じ傘で帰りたい」


 それは、寡黙な男が意を決して言った告白の言葉。その本では女性に気づかれず、その恋は悲恋に終わってしまう。


 けれど、響子はこの言葉の意味を知っている。


「……本気?」


「まぁ、うん。本気」


「えと、えっと」


 爆発しそうな感情を、必死に抑えこんで、冷静にと言い聞かせながらあたふたしていた響子の様子をどう受け取ったのか、大輔まで慌てだす。


「いや、いいからいいうん。すぐに返事くれなくてもいいから、うん、じゃあ」


 帰ろうとする大輔に、まだ全く冷静になんてなれていない響子は、とにかく行かせないようにと手を伸ばし、胸ぐらを掴んでしまうが構わず自分の方を向かせた。


 言葉は続かない。二人の間に沈黙が下りる。雨の音さえも、二人には届いていない。


 響子の手が離れて、二人はじっと、お互いの赤い顔を見つめ合う。先に動けたのは響子だった。


「ま、また明日!」


 数メートルの距離を全力で駆けて行く。


 しばらく大輔が動けずに蹲っていたことを、響子は知らない。


 響子も同じく、玄関にへたり込んでいたのだから。




             了

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初めては傘の下 リリィ有栖川 @alicegawa-Lilly

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