第2話 名も無き徒労

 潮風の冷たさでほほがぴりぴりする。筒抜けの窓で海流が複雑に絡み、朝の光を乱反射する。この街にも朝が来た。

 私の名前は『名無し』。名前が名無しとは何ともおかしいが、気に入っているのでしかたない。

(空が広くて良いな)

 潮にさらされて傷んだ建造物はメッキが剥がれ、倒壊し、コンクリートの漂白された色が奇妙な神秘性を醸している。海風に耐えうる蔓植物ののたくった壁を見ていると、私は酷く敬虔な気持ちを覚えた。神や仏の姿は知らないが。

(しかし、ここらは骨がそんなに無いな)

『崩壊』を生き抜いた魚や鳥に食べられたのだろうか。ほんとうにがらんどうとした建物が続く。

 暫く歩くと、海に浮かぶ道路が見えた。道には何台もの車が乱雑な配置をされており、中には人骨が見える。みんな、ある日突然、一瞬で死んだ様な感じだ。

 海の上の壮大な墓場に、祈る場所は知らないものの取り敢えず手を合わせると、墓場沿いに歩き始めた。横には未だ立ち続ける大きなビルや、海中に沈んだ多量の瓦礫が見える。ここいらは仕事をする場所だったのかもしれない。

 ふと、左手に道を伝って入れそうな建造物を見つけた。

(運が良ければ、海水に守られた備蓄があるかもしれないな…)

 埃を立てないようそっと中に侵入する。暫く人がやって来ていないのか、濃密なカビの臭いが鼻を付いた。

(あと微かな腐臭)

 服のネックで口元を覆う。

 しかし、どうやら物資には期待できなさそうだ。床には埃が雪の様に積もって人の足跡を綴るのだが、私の他にも足跡が確認できる。埃の積もり具合から見て、先客はもうここには居ないみたいだが。

(というか、これがその先客じゃないのか…?)

 頭蓋のへこんだ骨を眺める。よく見ると諍いの跡も確認できた。そしてその服に付けられたチームの様な紋章も。

 数少ない物資を巡って、ここで争ったのかもしれない。

(崩壊は培ってきた人間関係をも壊してしまうのか)

 そもそもそんなもの無かったのかもしれない。

(まぁ、ここにはもう用はないな…。他を……)

 思いかけた時、耳にピシリと何かが軋むような、嫌な音が聞こえた。

 私は…一瞬考えて、

(やばい!!!)

 一気に入り口まで走った。

 その直後、大きな音をたてて建物が斜めに傾いた。

(まずいまずいまずいまずい!!!!)

 必死で来た順路を遡る。埃や小さな金物、人の骨が出鱈目に飛び交う

(うっ!!)

 こちらに飛んできた四角の塊を体を反らして咄嗟に避けた。後ろの方でゴキャリとぶつかる音がする。

 私は頭をフルで回転させて、床と天井を繋ぐ役割だった柱の上を走りながらワイヤーの付いたピッケルを持つ。

 もう直ぐ完全に沈んでしまう。その前に…!

「んっ!!」

 渡ってきた外の道路にそれを投げ、飛び出した。

 ピッケルはなんとか縁に掛かり、私は猛烈な倒壊の音を背に這這の体で倒れこんだ。後ろを見ると、先程まで居た建物はもう視界に無く、ただ海の中からあたりに響く低い音が聞こえるばかりだった。

(あ………危ない所だった…!)

 本当に死ぬかと思った。一見しっかりしている建物でも、海の場合足下が見えないので判断が付けづらい。

(景観は良いんだけどな……ヤレヤレ……)

 何も手に入れられず時間だけを消費してしまった。まぁ、こんな事もある。焦る事はない。

 計る者の死滅したこの世界では、時間は無限にあるのだから。

(次は何か食料があると良いんだけど……できれば肉系の)

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