第2話 十二月五日 金曜日 女教師の秘密
今日も待っていましたとばかりに僕は先制攻撃をした。
「相沢先生、今日は読書をしているので」
すると、女教師はこう返した。
「それ、植物の本ですか。苔は苔玉くらいしか育てたことないですねー。その時は……」
あ、完全に今日も負けた。さっき借りてきた本の題名は「杉苔の育て方」だ。
この女教師は四月からずっと十八時頃に各教室を回り、なぜか面倒くさそうに話をしてくる。それが最初は早く帰れとか、勉強しろとかそんなんだったから、口調も相まってお仕事なんだなと同情できたが、最近植物が趣味だとばれてしまってからと言うものその話ばかりしてくるようになった。ああ、この僕のマスクの下に隠れた最強の変顔でも見せてやりたい。そしたら、飛び上がって逃げるだろうに。
「そうなんですよ、最近苔を育てたいなと思っていて」
「へえー、上手く育ったら写真見せてくださいね」
「はい、もちろんです」
「じゃあもうすぐ、会議の時間なので」
「はい」
十一分四十七秒、こんなにあの人とは話せるのか。全くあんなだるそうな態度で生徒と話していて、よく処分を受けないなと感心する。ただ、この後はご褒美タイムが待っている。そう思い落ち着いた僕は耳を澄ました。
……よし、聞こえた。あの、まるでどんな具材でも包み込むパンのような柔らかで丸みを帯びている声。間違いない、百合ちゃんの声だ。僕は先程までの愚かな考え方をこの時だけは改め、紳士的に振る舞おうと思い緩やかに移動し、静かにドアを開けた。すると、百合ちゃんと連れの大里樹莉がいた。僕はあくまで、偶然を装って話し掛ける。
「……佐々木さん、こんな時間まで勉強? もうテスト終わったのに」
「あ、小林君。違うの、今日金曜日でしょ。だから明日どこか出かけようかって樹莉ちゃんと話してたの。ねえ」
「うん」
「あれ、小林君は?」
「僕は部活終わって、今は電車の時間待ち」
「そっか、じゃあまた月曜日」
「じゃあね」
二十七秒だったか。僕が残っている理由の二つ目がこれだ。こんな事のために残っている自分に羞恥心がないのは、きっと百合ちゃんに毒されているからだ。
百合ちゃんは、高校一年生になり一人暮らしを始めた僕に舞い降りた、天使のような存在だった。身長は百七十センチで、テストは平均点しか取れない、顔は言うまでもない、そんな何もかもが平均的な男の僕にも優しく接してくれるのだから、どうしたって好きになってしまう。ただクラスの奴らは、頭脳明晰で運動部の花形、サッカー部で一年エースの難波航生を推している。と言うか、くっつけようとしている。双方の心境は完全に無視されているが。一方の僕が週二日以上も残っていて全く踏み込んだ話ができないのは、連れの大里樹莉がいるからだ。あいつがいつも隣にいるせいで、僕と百合ちゃんの関係が一向に発展しないのだ。そして、今日はどうしても百合ちゃんと話したくて部活をずる休みした。好きな女子には見栄を張って嘘をつくと聞いた事があるが、これの事だろうか。いや、こんなちっぽけな嘘つくか? どちらにせよ、二十七秒のためにどうでも良い嘘をついてしまった自分の罪は大きい。罪悪感、そりゃあ感じている。僕は悲しみをぶつけるように荒くドアを閉めて、自分の席に突っ伏した。
次の電車まではまだ余裕のある時間だ。後少しはさっきの反省会をさせてもらう。
ガラガラ……
はっ!予想外の音に驚いた僕は、状況を飲み込むのに時間がかかった。そこには今日はもう来ないはずの女教師が息を切らして立っていた。僕は茫然として、その姿を見る事しかできなかった。
「こ、小林君、私のペン知りませんか」
ああ、あれか。さっき掃除した時にやたら高そうなペンを見つけていた。だけどあれは明らかに男性用だし、印字されているイニシャルも違う。
「もしかして、これですか」
僕は相沢美咲先生のM.Aではなく、確かにK.Yの文字が入ったペンを渡した。
「これです、本当にありがとうございます」
先生が長い前髪の間から僅かに見せた目の輝きは、四月から授業を受けている僕たちには向けられた事のない物だ。その時僕はある事を思い出した。 先輩から聞いた話で、それまで皆に笑顔を振りまいていた先生が、去年の十一月、急に今の様に振る舞い始めたという事を。
「相沢先生、それって前は誰の物だったんですか。イニシャルが違いますよね。……もし良かったら教えてください」
また元に戻った先生は、いつもの口調で躊躇しつつ話し始めた。
「そうですね、もしかしたら噂で聞いているかもしれませんが、私はこれでも愛嬌のある先生として生徒と良い関係が築けていたのですよ。ですが、あれは一年前ですかね。このイニシャルの人が亡くなってしまって……」
そうか、これは先生の大事な人の遺物か。しかし、こんな事を聞いて良かったのだろうか。まるで探偵気分だった自分を殺してやりたくて、心の中の濁流を抑えられなくなってしまった。一人暮らしを始めて、自立した大人になった気がしていたけど、それは勘違いだった様だ。
「良いの、小林君。私が話したくて話しているのだから」
僕の気持ちを察して諭すように話す先生の姿を見て、僕は心が洗われた。
「亡くなったのは当時付き合っていた彼氏で、あの日は彼の誕生日だったから、これをあげようと思ってレストランまで予約していました。でも彼は、待ち合わせの場所にはいつまでも来ませんでした。一時間後に急いで来た彼は、目の前の横断歩道を走っていて、轢かれました。もちろん歩行者信号は青で、悪いのは飲酒運転をしていた未成年者でした。でも、未成年だから公表はされず、向こうの保護者からはあなたも先生なら子どもを守るのは当然だと分かってほしいって言われて、この時初めて子どもを嫌いになりかけましたね」
「かけた」、僕はこの言葉に安心した。
「教師を辞める事も考えたけれど、やっぱり離れられなくて、今もこうして頑張って話す練習をしているのです。小林君には毎日のように付き合ってもらっていつも感謝しています。ありがとう」
「いや、僕こそ。先生は趣味の話ができる数少ない方なのでいつも助かっています。」
「それは良かった。でも、本当は嫌だったでしょう。掃除までして佐々木さんの事待っているのに、私に話し掛けられて」
な、何だって。全部ばれているじゃないか。僕の小人作戦は失敗だったのか。いや、それより顔に「百合ちゃん」って書いてないと思うのだが、それくらい分かりやすかったか。そして、上手い事先生の話を逸らされた。
まだ聞きたい事が山ほどあったのに。
「あ、図星ですか。まあ百合ちゃん可愛いですからね、私もよく分かりますよ」
先生の屈託のない笑顔は、きっと約一年心にしまい込んでいた物なんだと思うと、僕も自然に笑えてきた。
「絶対に内緒ですよ。それに、掃除は皆があまりしないからですよ。あくまで建前ですけど」
「あはは」
「それにしても、このクラスの担任じゃないのによく分かりましたね。僕そんなに顔に出てましたか」
「そんな事ないですけど、毎日放課後に全教室を回っていますからね。舐めないでください」
えっへん、と仁王立ちするその姿からは、百合ちゃんに似た愛くるしささえ感じた。昔はこんな感じだったのだろうか。
「あ、こんな時間まで引き留めてしまってごめんなさい。今日は本当にありがとう」
「とんでもないです、こちらこそありがとうございます。余計なお世話かもしれませんが、先生はそちらの方が素敵だと思いますよ」
「ありがとう。じゃあ、月曜日からちょっと頑張ってみようかな」
出過ぎた事を言ったか、と思った僕を丁寧に包み込んでくれる先生の言葉からは、本当に子どもが好きなんだと言う気持ちが感じられた。先生がいなくなった後の教室は、急に時間が遅く感じられて帰宅を急ぎたくなった。
教室の時計の針は十九時過ぎを指していた。
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