お礼を言うのは大事!
【天梨視点】
「ただいま~」
「あ! ママー!」
午後5時前。
私が帰宅すると、娘の明るい声がリビングから聞こえてきました。
程なくして、今朝結った三つ編みを揺らしながら天那が私に抱き着いて来たので、私も抱き返します。
はぁ~……癒されます……。
こうしているだけで疲れた心を癒してくれるなんて、本当に天那は凄い子ですね。
ずっと抱き合っていたいのですが、それでは夕食が作れません。
なので名残惜しさを堪えて天那との抱擁を解きます。
「ママ、きょーのばんごはんはなーにー?」
「今日はオムライスですよ」
「ホント!?」
「ええ、ホントです」
「わぁーい!」
あぁ、可愛い……。
天那は好き嫌いをせずに食べてくれるので、基本的に美味しい物が好きなそうです。
オムライスを食べられると知って、とても喜んでくれました。
料理を作る前に、玄関に置いてある発泡スチロールの箱から食材を取り出して冷蔵庫へ入れて行きます。
「天那。今日は早川さんと何か話しましたか?」
「うーんうん。きょーはおしごといそがしーっていってて、あんまりおはなしできなかったの……」
くぅっ!?
シュンと落ち込む天那を見て、私は胸が締め付けられるような錯覚に陥りました。
娘は何故か、この食材を配達してくれる早川さんに懐いています。
本人達曰く友人関係だそうですが……いくら天那の言う事でも中々信頼できません。
ですが……。
『この人がどんな思いで子供を産むって決めたのか、旦那のいない辛さに耐えて娘のために頑張ってるのか、本人にしか分からない事を赤の他人のお前らに理解なんて出来るわけないだろ』
あんな言葉……初めて言われましたね。
今まで私に近付く男性は見え透いた下心を持っているような人が殆どで、持っていない人も私が子持ちだと分かった途端身を引く人や、子供を介して仲を深めようと企む人だけでした。
私は天那のために新しい恋愛に時間を割くつもりはありませんから、それらはすべからく断って来ています。
そんな経験測から早川さんも同様だと踏んでいました。
天那とついでに自分を守る為にあの人のことを明かしたり、過干渉をしないと約束を取り付けたりしたのですが……。
『私のことを、疎ましく思ったりしないのですか?』
『え? なんでそう思わなきゃいけないんです?』
なんの不満も口にせず、むしろそれが当たり前だと受け入れる度量の深さを見せ付けられました。
もちろん、それが演技の可能性だって考えられます。
現に彼は一度私との約束を破って、天那にプリンをあ~んされたというではありませんか!
嫉妬で頭がどうにかなりそうでしたが、何とか抑えて彼に釘を刺すだけに留めました。
むしろ、通報しても良かったかとも思いましたが、話を聞く限り天那が自ら行ったことだそうなので、それで早川さんの人生を棒に振らせるのはどうかと思ったのもあります。
まぁ、今日の配達ではそんなことはなかったようですね。
「天那」
「なーにー?」
夕食後。
私が声を掛けると、天那は絵を描く手を止めてこちらに顔を向けます。
「今日、外で早川さんと会いました」
「え? ママ、おにーさんとおはなししたの? ずるい!」
「ず、ずるいってなんですか……それに話したと言っても世間話だけです」
まるで抜け駆けしたと責められている様で、慌てて訂正しますが頬を膨らませたままです。
どうにも、天那は早川さんの仕事の邪魔をしちゃいけないという約束が不服なようですね。
娘がこんな風に不満を表に出すのは大変珍しいことです。
初めてと言っても過言ではないのかもしれません。
それがよりにもよって早川さんでなければ、私も素直に受け止められるのですが……。
「ママ!」
「ん?」
不意に呼び掛けられたので顔を向けると、天那は私の膝の上に座って可愛らしくキリッとした眼差しを向けて……。
「ママはあまなにおにーさんとおはなししたことをきくよね?」
「ええ、出来る限り知っておきたいですから」
「じゃあ、あまなにもママがおにーさんとおはなししたことをおしえて!」
「え……?」
──この子は一体何を言っているのでしょうか?
いえ、内容と理由は分かります。
自分が早川さんとの会話内容を話すに、私が話さないのは不公平だということでしょう。
ですが、何故それを今この場で告げたのかが解りませんでした。
ひょっとして、早川さんが何か言ったのでしょうか……?
そんな考えが一瞬浮かびますが、そうであれば正直に話してくれているはずですので、その線はないとすぐに結論付けました。
ひとまず、話さないと嫌われてしまいそうですね。
それだけは地獄に堕ちようと避けたいので、私は昼間に早川さんと会った時の会話を明かしました。
当然、山木さんと恒森さんが口走っていた悪口は省きますが。
娘の教育に悪いですからね。
そうして一通り話し終えると、天那は何故か機嫌の良く笑みを浮かべていました。
「ママ、おにーさんにたすけてもらったんだ!」
「え、ええ。一般的に見ればそうなりますね」
特に『人の幸せに嫉妬している暇があるなら自分の幸せを見つけて来い』というのは、正直思っていたことそのものでしたので、胸の奥の黒い気持ちが晴れていくようでした。
早川さんは言いたいことを言っただけと仰っていましたが、あれは殆ど私の本音と遜色ありません。
──別れた後で、口元が緩むくらいには嬉しかったと言えるでしょう。
「それなら、ママはおにーさんとまたおはなししなきゃだね!」
「え? どうしてですか?」
「えー? ママ、いつもいってるでしょー?」
さも当然という風に語る天那の真意が分からず、首を傾げていると娘は膝の上から降りて、改めてこちらに向かい合ってから口を開きます。
「たすけてもらったら『ありがとー』って、おれーをいうの!」
「あ……」
その瞬間、私の心境は天那の可愛さではなく、早川さんにお礼を言いそびれていた事実に気付いたショックで占められました。
子供に教えたことを実践していないのでは、母親失格では……!?
愕然とその事実に打ちひしがれたのちに、私は慌ててスマホを取り出して電話を掛けようとしますが、そこで私の動きは止まりました。
早川さんは配送業者であるため、終業時間が不安定です。
今の時刻は午後8時前……とてもではないですが、安易に電話を掛けて良い時間帯ではありません。
「ママ?」
「……そう、ですね。次にお会いした時に伝えるようにしないといけませんね」
「こんど、あまなからおにーさんにおしえるよ?」
「ありがとう。でもこれはママ自身が言うって決めてることですから、あまなはいつも通りでいいですよ」
「うん、わかったー」
流石に子供伝手に伝えるのは気が引けます。
娘の前で言った手前、ちゃんとしないといけませんね。
それがいつになるかは分かりませんが、母親として子供の手本になれるようにないと……。
私はそう密かに決意を固めました。
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