第3話4月 10日 月曜日 キャサリン

 4月 10日 月曜日




 僕は目覚めるとさっさと支度を始めて家を飛び出した。


 午後から講義があるのだが、この瀬戸から備前原はかなり遠い。そのために早めに家を出たのだ。そして、電車のシートに座り瀬戸駅から岡山駅に向かう途中僕はある光景を見た。


 中年のおばあちゃんが一人で立っている。席は若い人たちが埋まられている中でおばちゃんが一人で立っていた。

 僕はスクっと立ち上がりおばちゃんに言った。


「どうぞ」

 そのおばちゃんは最初何を言われたのかわからずぽかんと僕を見ていた。

「席をどうぞ」

 それでおばちゃんは、はっ!と慌てて首を横に振った。


「いいえ、私は大丈夫です」

「いえ、どうぞ。女性を立たせるわけにはいきませんから」

 そう言ったらそのおばちゃんはミカンの笑みを見せた。


「そう?悪いわね。じゃ、お言葉に甘えて」

 そうして女性は席に座った。

 窓を見ると、どこからか桜の花びらが一枚窓に張り付いた。

「もう、春だな」




「え〜、ですから第二次世界大戦が終わって、これから戦争を行わないためにヨーロッパ連合という機運が生まれました。ただ、いきなりヨーロッパを自発的に統一することは不可能なので前身になる欧州石炭鉄鋼共同体、すなわちECSCができました。こここから少しずつヨーロッパ連盟を生み出そうとしたのです」


 狭い教室の中50台ぐらいの覇気のない教授がテキストを持って授業を行なっている。

 大体の生徒は死んだ魚の眼でぼーっとホワイトボードを見て、一部の少数の生徒が熱心に授業の内容をノートに書いていた。

 そして、僕はといえば………。


「え〜、ですからこのECSCから始まって………」

「金本教授。質問があります」

 それに金本教授はあたふたしながらこたてえて来た。


「はい。なんでしょう」

「当時は鉄のカーテン宣言で冷戦に入っていますよね。もちろん、ドイツの東はソ連下の元に置かれていた訳ですし、当時、誰もソ連が滅びるだろう、という予測を誰も立てていませんでした。そんな中でヨーロッパ連盟の構想が打ち出された訳ですよね?当時の西側のヨーロッパ諸国はこれをどのように考えたのでしょうか?」


 それに彼は困惑の汗が滝のように迸りながらテキストをめくっていた。

 それに横手からある声がした。


「一樹。彼にこれがわかる訳ないわ。だって、さっきからテキストしか彼は見ていないじゃないの?そんな無能な准教授か教授かわからない人に真面目な質問をしても無理よ」


 彼女は前に紹介したキャサリン・フレイジャーだ。キャサリンはその冷たいバラのトゲを周辺に映えさせながら言った。

 それに僕はちょっと赤い棘が心臓に刺さった。


「いや、聞いて見ないとわからないだろ?確か名前は忘れたけど、ヨーロッパ連盟の提唱者はソ連崩壊と東西ドイツの統一も予言していたと言われていますけど、それはどれくらい信憑性を持って周りに受け止められたんですかね?今でも、その二つは奇跡的なことと呼ばれていますし、当時はその予言がどれくらい信憑性を持たれていたんですか?」


「え、ええと………」

 滝の流れが止まることを知らず、ついにナイアガラの滝となって地上に落ちて行った。

 それに僕は、ああこの人何も知らないんだな、と思った。ちょっと悪いことをしたかな?反省。


 しかし、僕の隣に座っている氷の女王はそうは考えていなかった。

「教授。なんですかその態度は?仮にも教授を名乗るぐらいならそれぐらいの一般論でもいいから知っておいて当然でしょう。一樹のいうことは学問を志す者として当然の疑問です。そんな体たらくで教授なんか務まるなんていいご身分だとこと」


「ええと!ええと!」

「キャサリン!もう、それくらいにしておけって。本当に知らないらしいし、そこまで言わなくてもいいだろう?」

 それにキャサリンは猛犬の目で僕をにらめ返した。


「いいえ。よくないわ。大学はあくまで学問を勉強するところ。本気で学問を志す人にテキストだけ読んでそれでことを済ませようなんて、無能な生徒にはちょうどいいかも知れないけど、才能のある生徒に比べたら時間の無駄だわ。こんな体たらくでは日本の大学の知的水準がだだ下がりなのも頷けるわね」


「ええと!ええと!ええ………!!!」

 止まることを知らない滝の流れは、やがてダムを圧迫してついに決壊した。


「あとは自習にします!今日はこれまで!」

 そして、金本教授は窮鼠の勢いで教室から逃げていった。

 それで、真面目に勉強をしていたと思われる生徒たちが、キャサリンの周りを取り囲んだ。


「なんてことをしてくれるんだ。せっかくの授業が台無しじゃないか!」

 それにキャサリンは一瞥して言った。


「はっきり言っておくけど、あんな講義にありがたみを感じるよりも、まだ女と乳繰り合ってる方があなたのためよ。一樹のようにことの本質を理解できずにまともな質問もできないなら、あなた、真面目に勉強している意味はないわ」


 そう言われた男子生徒は明らかに顔が紅潮し、いまにもザクロの実が爆発する直前だった。

 赤い棘が一本ではなく、2、3本心臓に刺さってくる。


「キャサリン。それくらいにしとけよ。気持ちはわかるけどさ、僕自身言いすぎたみたいだし、彼だって、彼なりに真面目に勉強をしているんだからさ、一応謝ったほうがいいんじゃないのか?」


 そう、笑顔で取り繕って僕は言ったが、キャサリンはナイフの瞳で僕をじっくり見つめた。


「何が言いすぎたのよ?」

「え?」

 ズキンと棘が心臓深くに捻りこまれて行く。


「一樹、あなたの言ったことは間違っていないわ。ここは学問を学ぶ場なの。それも自発的によ。あなたの言っていることは何も間違いではないわ。その活発な議論になぜあなたは取り繕う真似をするの?おかしいなのはあなたではなく、ここの大学だわ」


 僕の体を貫いたきりはそのままどくどくと血を流し続けていた。

「し、しかし………」


「何?反論があれば聞くわ」

「………」


「ないなら、これで帰らせてもらうから」


「反論できなかったなぁ」

 僕は今、後楽園にいて、その湖を見ていた。

 あのあと、キャサリンは帰って、キャサリンの周りを取り囲んでいた連中も僕とキャサリンのやりとりを見て、教授に言ってやると言い残し去っていった。


 しかし、僕はそれはどうでもよかった。むしろ、キャサリンの言葉が耳に残っていた。


『ここは学問を自発的に学ぶ場なのに、なぜあなたは取り繕う真似をするの?』

 ………


 なぜって?言われても周りが迷惑にしているから、としか答えしか思い浮かばない。

 しかし………。

 僕は空を見る。


 それは答えになっていない。僕は大学に勉強するために入った。それなのに質問をしてはいけないというのは矛盾している。悪いのは金本教授だからだ。


 だが、またしかし………。

 理の上ではキャサリンが優っていても、なぜか僕はそれが腑に落ちなかった。

 何か違う気がする。それが何かとは言えないまでも何かがキャサリンの言葉を全肯定してはいけない気がするんだ。

 そして、しばらく僕はそこへ佇んでいた。

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