ある小説の読書感想文を書いた
休み時間になると、トイレに呼び出されて、何をするでもなく、ただ見世物にされる。
ほっといてくれと思うが、毎日呼び出される。いつ始まったのかは知らない。覚えていない。
ただ、文化祭を手伝わなくて、クラスのみんなから総スカンを食らった辺りから呼び出されるようになったのは覚えている。
毎日が忍耐の日々だった。毎日歯を食いしばって耐えていた。
「ただいま」
古ぼけたアパートの一室に帰ると、母親が顔出した。
「今日、学校どうだった」
俺は空元気でまあまあと答えた。
本当は最悪。鞄を置いて服を着替えて自分の机に向かう。そこには川端康成の『雪国』が置いてあった。
実は俺は図書委員なのだ。図書委員になると、図書委員便りという学校の広報誌に読書感想文を載せてもらえる。文章に携われると思うとうずうずした。
先程の『雪国』は図書委員として今回の読書感想文でオススメする本だ。どうして『雪国』を選んだかと言われたら、ヒロインの生き方に惹かれるものがあったからだ。芸者として生きながら、主人公に無駄な人生だと言われながらも精一杯生きている。そこが好きだった。でも自分の体験と合わせて書こうと思っても中々書けない。原稿用紙5枚以内なのに、もう30枚位の原稿用紙を無駄にしていた。
『雪国』を読んでいると母親がやってきた。
「もうすぐ受験でしょ。受験勉強しなさい」
「うるせえよ」
「この間、机を掃除してたら英語の期末テストが出て来たよ」
母親の甲高い声が家一杯に響き渡る。
「30点だったじゃない! どこの大学にも行けないわよ」
母親の雷がビシャンビシャンと落ち始めたので、ベッドにもぐりこんで丸まって寝た。
夜中2時。
家族みんなが寝静まるのを待って、読書感想文を書き始めた。でも書けなかった。
恵まれ過ぎてるから……
お袋が作ってくれたおにぎりをもぐもぐ食べると、読書感想文を開いた。
親父は単身赴任で長野に行っているが、両親ともに居るし、弟もいる。勉強さえ頑張れば大学まで行かせてもらえる。何の不自由も無かった。敷いて言うなれば、自分には故郷が無いということ。親父の転勤で自身も2年毎に引っ越して常によそ者扱いだった。後、常にいじめられていた。でも、それさえも大したことの無いような気がする。
そんなことをぼんやり考えていたら、もう朝だった。気がつくとドアの開け閉めやカラスの鳴き声など生活音がしていた、
読書感想文が書きたくても書けない日々が何日か続いた。
「お前、話聞いてんのかよ」
キツネが脇腹をこづいてドスを聞かしたような声色で話す。ここはいつもの通りトイレだ。
岩樹、キツネ、その他3人がニヤニヤしてこっちを見ている。俺の挙動不審な姿を見て楽しみたいのだ。キツネが岩樹の方をちらっと見ると、俺の胸倉を掴んだ。
「早く泣けよ。面白くないだろうが」
俺はその様子を客観的に見ていた。
読書感想文にこの事を重ねあわせて書けないだろうか。また書くとしたらどのように。そんなことをずっと考えていた。
取材の為に五感を研ぎ澄ます。
まず視覚情報、トイレはラクガキだらけでお話しにも綺麗とは言えない。また相合傘なども書かれている。根拠のないただのラクガキだ。
またトイレの壁には豚眼鏡と切り込みが入っている。これは以前キツネが俺の目の前で、ハサミで木製の壁に切り込みを入れた傷だ。そしていじめっ子達を見る。岩樹やキツネその他3人がニヤニヤしてこっちをみている。実力もないのに威張り散らかすキツネを見ているとイライラする。
次に嗅覚、鼻を使ってトイレの匂いを嗅ぐ。もうずっとトイレに居るのでなんか懐かしい匂いがした。芳香剤の匂い。しょんべんの酸っぱい匂い様々な匂いがごったまざっていた。トイレの窓が開いているので時々外の新鮮な5月の若葉の匂いがトイレに流れこんで来る。
聴覚……。
そこまで行ってふっと思った。
そういえば、俺がトイレに連れ込まれている間、先生も生徒も誰も来ないな。そこまでだった。
「豚、お前何ぼんやりしている訳?」
考え過ぎて頭がオーバーヒートしてくらくらする。
「生意気なんだよ。便器に顔突っ込んで頭冷やしてやろうか?」
頭がぐるぐるして言葉が出てこない。
その時だった。キツネが俺の頭を掴んで、便器に突っ込んだ。
強烈な匂いだった。
むせ返るような吐き気と酸っぱい匂いが入り混じっていた。抗うが、キツネに頭を押さえられていて身動きできない。思わず水を飲みこんでしまう。すぐさま、胃液とともに胃が逆流して水を押し戻す。便器から離されるが、強烈な吐き気が何度も襲う。手足がぐにゃりと力を失い、倒れ込んだ。そうする間にも強烈な吐き気が催して来る。学ランがゲロでぐちゃぐちゃだった。強烈な眠気に襲われると、そのまま意識を失った……。
気がつくと、ベッドの上だった。上着は脱がされていた。ここは……。仕切られていたカーテンをどかす。保健室だった。
「気がついた」
眼鏡をかけ、白衣を着た若い女性が座って本を読んでいた。女性は本を置くとこっちに近づいて来た。保健室の先生だ。
「辛かったね」
保健室の先生の目には涙が溜まっていた。強烈に恥ずかった。若い、綺麗な憧れの保健室の先生にこんな姿なんて見られたくなかった。
「親御さんには連絡しといたから、病院行ってきなさい」
先生がベッドの隣の椅子に座った。恥ずかしいってもんじゃなかった。
ふと……
頭に『雪国』のヒロインの姿が一瞬ちらついた。ゲロを吐き、先生に同情され、恥ずかしいという姿にダブったのだった。孤独、絶望、イジメられることへの諦め、そんな感情が頭の中を駆け巡った。これだ! このことを書けばいいんだ。
「先生、紙はありますか?」
先生は、顔を自分に近づけて「何に使うの?」といった。胸のふくらみが目の前にあり目のやりどころに困った。また少し、香水の匂いがした。
「今度の読書感想文のテーマが閃いたんです」
「分かったわ」と先生は言うと、コピー機から一枚のA4の紙を取り出した。
俺はお辞儀をして受け取ると、ボールペンで、関係図を描き始めた。そもそもの出発点は何だ。『雪国』のヒロインと自分の接点は。それをボールペンで殴り描いた。
親が迎えに来て、病院で精密検査を受けている間も頭の中のもやもやしたものを書き殴った。この日は精密検査で一日を費やしてしまったが、結果は何とも無かった。家に帰ると、母親は泣き崩れていた。
「なんで洋介が!」
そんなことを言いながら泣き続けていた。そんな母親に話しかける術は無かった。机に向かうと、関係図、アウトラインをみて、読書感想文を書き始めた。
途中、頭痛がしたので、頭痛薬を飲んだ。
翌日、出来上がった作品をカバンに詰め、朝の冷やりとした空気を吸いながら登校する。
もし仮にこれが採用されなかったとしても後悔はない。全力を尽くしたんだから。満員電車に揺られながら大事にカバンを抱える。
周りを見ると、みんなそれぞれにそれぞれの生活をしている。その中で、それぞれのお互いのポリシーなどが影響し合い、この世界は鳴り合っているんだと思う。いつかそのような壮大な小説が書けたらなと思う。
ただし、今じゃない、まだ経験が足りな過ぎる。いつかきっと……。
学校に着くと、真っ先に図書委員の先生に作品を持って行った。職員室はまだしんとしていた。
先生はその中で、大きく伸びをしている所だった。
「先生!」
先生は気付かない。
「菊池先生!」
菊池先生は身体をびくっとさせてこっちを見た。そして、「藤山か」と呟く。
「どうした。こんな朝っぱらから……」
菊池先生は伸びをした手をゆっくりと降ろしながら言った。俺はカバンから原稿用紙の束を取り出すとシワを伸ばして、心を込めて渡す。
「今度の読書感想文の作品を持ってきました」
菊池先生はぱ~と流し見すると、
「分かった」
と言って、原稿用紙を受け取った。
それきりだった。
なんか拍子抜けした。あっと言う間だった。事務作業だった。心がからんからんと道路を転がる缶コーヒーのように虚しく音を立てていた。
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