瓶底の人魚

夏野梢

瓶底の人魚


     *


 油蝉あぶらぜみいている。

「いらっしゃいまし」

 耳鳴りのような蝉しぐれをって掛けられた声に、私はうつむけていた顔を上げた。

 気づけばいつもの駄菓子屋の前におり、薄汚れた前掛けを付けた中年男が、見慣れた笑みで立っていた。



     *



「二本ですか?」

 問われて私が答える前に、男は身を屈め、巨大な金盥かなだらいに張った氷水の中からラムネのびんを引き揚げた。

 首に下げていた手ぬぐいで水滴を軽くぬぐって「ハイ」とこちらに寄越す。一本、二本、三本……四本。片手では持ちきれず、両腕で四本の冷たい瓶を抱えた私に、男はやはりいつもの笑顔で、

「二百円です」

 と告げながら右手を差し出した。

 私は無言で、用意しておいたビニール地の買い物袋を鞄から取り出した。まだ少し中が湿っているそこへ四本のラムネを入れる。それから、差し出されたままの骨ばった掌に硬貨を二枚のせた。

「ありがとうございました」

 笑みぶくんだ声に見送られて後にした店は『髙砂たかさご屋』といった。の下に古くからある商家で、駄菓子の他にも日用品や雑貨などを扱っている。二年前に火事を起こして潰れるまでは近隣の住民たちに重宝がられたものだ。

 現在、店の入口は煤で黒く変色したシャッターに塞がれている。店主と常連客の一人が火事に巻き込まれて亡くなった後、家族はひっそり越して行き、土地と建物は売りに出された。しかし未だに買い手のつく気配はなく、周辺は荒れる一方になっている。

 私は四本のラムネが入った買い物袋を持ち直した。

 ふと思い立って振り返ってみると、廃屋の前ではさっきの男が金盥の水を手ですくってだる通りにいていた。

 そう。あの男は『髙砂屋』ではない。

 いつの頃からか現れて、潰れた商家に勝手に住み着き、勝手に物を売っている。

 なんでも、死んだ店主の甥だか従兄弟だかで、火事があった当時もこちらに来ており、失火を起こした張本人という。しかし精神の病を理由にとがめられなかったとか──噂話はいろいろ聞くが、本当のところはわからない。

 私が知っているのは、売られているのがラムネだけということと、どうやら彼は物の勘定が苦手らしいということだけである。

 初めて祖父を見舞った時、何も知らずにうっかり買い求めてしまったのがいけなかったのだろう。以来、私は『髙砂屋』の前を通りかかるたびに、当然のようにラムネを売りつけられていた。



 八月のひるの日差しに背を焼かれる。

 をのぼっていく私の体からはたちまち汗が吹き出した。

 傾斜のゆるい坂である。

 一見すると、ただの平坦な道に思える。

 しかし、実際に足で踏むと確かに傾いており、重心を前に掛けなければ進みにくい。それが百メートルばかり続いているので、意外に疲れる。

 三分の一ほどのぼったところで、汗みずくになった私は、手に提げた買い物袋からラムネを一本取り出して開けた。

 ぽん。

 小気味良い音と共にラムネ玉が落ち、泡が瓶の口まであがってくる。こぼれる寸前で啜って瓶を傾ける。飲み干すまでの時間はおそらく五分とかからなかったに違いない。短く息を吐いた私は、空瓶を手に再びのろのろと坂をのぼりだした。

 蝉の声がやかましい。

 の左側は国有林こくゆうりんであった。

 道との境は私の身長よりも高い金網に仕切られ、その向こうには鬱蒼とした緑が広がっている。今の季節、そこは昆虫たちの憩いの場である。油蝉、熊蝉、みんみん蝉につくつく法師、種類の異なる蝉の大合唱が網の穴を通して坂にまで溢れ、私の耳を悩ませる。実にやかましい。やかましい。

「おじちゃん」

 靴の裏でジャリと硬い音がした。

 その感覚に、私は足を止めて視線を落とした。

 同時に、荒いアスファルトの坂道の上に横たわる人魚を目撃する。

 いや。正確には、白い線で描かれた人魚の漫画だった。

 全体的に歪んでおり、お世辞にも上手いとはいえない。顔も般若のようで、美しくも可愛くもない。下半身が魚っぽいので、かろうじて人魚であろうと推測できる程度だ。しかし、それもそのはず、人魚の尾の位置にしゃがんで白墨はくぼくを左手に握っていたのは、まだ十にも満たないであろう女の子だった。赤いジャンバースカートがよく似合っている。

「おじちゃん」

 の途中で一人、落書き遊びをしていたその子は、私をじっと見上げて甘ったるい声を出した。つい今しがたも、蝉の合唱の中で聞こえたように思う。

「それ」

 幼い指が、私の手にあるラムネの空瓶をさした。

「もういらない?」

 思わず瞬く私に、女の子は「いらない?」と繰り返す。表情は変わらないが、口調には某かの期待が込められているようだった。その証拠に「ああ」と私が頷くと、彼女の黒目がちの双眸そうぼうが深みを増した。

「じゃあ、ちょうだい」

 予想通りの言葉を聞いて、私は空瓶を軽く持ち上げて見せる。中でラムネ玉がカラリと涼しげに回り、女の子の頬が色づいた。これが欲しいのだ。

 一瞬、中身を取ってやろうかとも思ったが、私は少し意地悪な気持ちになり、瓶ごと彼女に手渡した。

「ありがとう、おじちゃん」

 できればお兄さんと言ってもらいたかった。これでも、まだ三十路を一つ過ぎたばかりの年である。

 私の苦い想いなど知らぬげに、女の子はさっそく瓶を何度も振ってラムネ玉の音を確かめた。次に飲み口をくわえて逆さにし、底のほうにわずかに残っていた炭酸水を小さな舌で舐めとる。そうしてから、おもむろに瓶を頭上高く持ち上げた。

「おい」

 私が止めるよりも早く、水気をふくんだ派手な音が響いた。

 勢いよくアスファルトに叩きつけられたラムネの瓶は、四方に砕け散る。咄嗟に身を引いた私の足元で、青みがかったガラスの破片が陽光をきらきらと反射しつつ、へたくそな人魚の絵に降り注いだ。

「危ないじゃないか」

 スラックスにかかった破片を払い落として、私は女の子を叱った。

 しかし彼女は謝るでもなく、地面を見つめて「あ」と一声もらしたと思うと、白墨を放り出して私の脇をすり抜けた。

 つられて振り向けば、割れた瓶から飛び出たラムネ玉が坂道を転がっていくところだった。それを追って、女の子もを駆け下りて行く。赤いジャンバースカートが『髙砂屋』にさしかかり、私は視線をもとへ戻した。

 軽く肩をすくめる。

 周囲に広がったガラスの破片は、適当に国有林のほうへと蹴りよけておく。いくらか憮然ぶぜんとした思いで再び歩き出すと、私の靴底がガラスの破片を噛んでジャリジャリと硬い音をたてた。



 私が寝たきりの祖父のもとを訪ねるのは、およそ月に一度のことである。

 普段は母や伯母や叔父が交代で来て世話をし、手が足りない部分はヘルパーさんにお願いしている。孫の私は自分の仕事の都合に合わせて訪問の日を決めさせてもらえたし、頼まれていることも掃除ぐらいしかない。ほとんど顔見せのつもりで行くような、ひどくお気楽な立場だった。

 にもかかわらず、私はこの訪問が憂鬱だった。

 はっきり言ってしまうなら、嫌だった。

 それも、可能であれば今すぐにでも回れ右をして帰ってしまいたいほどに。

 ──どうして私なのだろう。

 首筋に湧いた汗を手で拭いながら、理不尽な思いに駆られる。どうして月に一度の、誰にも期待されていない私が、このやる気もなく訪ねる日が、でなければならなかったのだろう。

 暑さと相まって、をのぼる足取りは重かった。

 坂の右手には住宅が建ち並んでいる。どの家もこちら側は裏に当たり、おもしろみのない生垣やブロック塀が延々と続いている。それら家によって種類の異なる塀を見るともなしに眺めていくと、じきに取り分け見事な築地ついじが現れる。この近辺の住民が帰依している檀那寺だんなでらの囲いである。やはりこちら側は裏だが、他の住宅とは違って寺の塀には一カ所切れた部分があり、小さな通用門が設けられていた。

 私はかすかに目をすがめた。

 通用門に人がいる。

 制服姿の女子学生だ。門前の石段に腰を下ろし、脇の塀にぐったりと上半身をもたせかけている。青白い顔でハンカチを口に当て、荒い息をついている様子は、明らかに尋常ではなかった。

 近づいてくる足音が聞こえたのか、女子学生が顔を上げた。目が合う。改めて見回すまでもなく、現在を歩いている者はおのれをおいて他にない。私は眉宇をひそめた顔を気づかれないように伏せて、げ持った買い物袋を覗き込んだ。



「すみません……」

 冷えたラムネを受け取って、女子学生は恐縮した。

「首の後ろに当てると楽ですよ」

 言いながら、私は彼女と直射日光の間に立って影を作る。聞けば、坂の半ばを過ぎたあたりで眩暈めまいがして気分が悪くなったのだという。夏期補習の帰り道らしい。素人判断ではあるが、おそらくは補習でくたびれているところに強い日差しを浴びて、軽い熱射病か脳貧血を起こしたのだと思われる。

「誰か呼んできましょうか。家は近いのかな?」

 なんなら、寺の中で休ませてもらえるよう頼むのもいいかもしれない。

 私の提案に、だが女子学生はゆっくり頭を振った。塀に寄りかかったまま、左手で首に当てていたラムネを白い頬に移動させて息を吐く。

「大丈夫です。もう少しこうしていれば、一人で帰れると思うから」

「本当に?」

「はい。ありがとうございます」

 薄く微笑んでこちらを見上げてくる目は、大きく黒く澄んでいた。なるほど意外にしっかりしている。しかし、かと言ってすぐに立ち去るのも薄情だ。第一、私が動けば影が消え、彼女は再び強い太陽に身をさらさなければならない。近くに適当な木陰でもあればいいのだが、残念ながら樹木は金網の向こうの国有林しかなかった。

 どうしたものかと立ち尽くしている私の心情を察したのか、女子学生がまた「すみません」とつぶやいた。

「お急ぎじゃなかったですか」

「とくには」

 嘘ではない。

 私が急ぐ理由は何もなかった。

 の上にある祖父の家には、歩いていればいずれ着く。遅いか早いかなど問題ではないのだ。私の役目なんて、あの家へ行って祖父の様子を見てくるだけにすぎない。むしろ、ここで時間を潰すことで少しでも到着を遅らせることができて助かるぐらいだった。

 そんな思考に、我ながら吐き気がした。

「あの」

 遠慮がちな声がして、私は日差しにしかめていた表情を改めた。

「訊いてもいいですか?」

「はい?」

「もしかして万丈ばんじょう先生の……?」

 私が振り向くと、女子学生は少し慌てたように視線を逸らした。

「あ、違ったらごめんなさい」

 ラムネを頬から下ろし、膝の上で掴む両手に落ち着きがない。汗をかいた瓶の表面からはいくつもの雫が伝い、制服のスカートや地面に濃い色の円をにじませた。

「いや。違わないよ」

 一呼吸置いてから、坂のほうを向いて私は答えた。

「わかる人にはわかるみたいだからね」

 女子学生がこくりと頷くのが、視界の隅に見えた。

「先生によく似てます」

「よく言われます」

 うちの家系は男も女もよく顔が似るらしい。私は父親の、両親は各々の親の同年代の頃と瓜二つだった。以前、親戚たちが撮った古い集合写真を見た時は、驚きを通り越して気味悪く思ったものである。違いはせいぜい性別や加齢から来る変化ぐらいで、目元や鼻筋や顔の造作の雰囲気は全員ほぼ統一されていたからだ。

 おかげで親類の家に行く時などは、近所を歩いているだけで私が万丈家の人間だと看破されることも少なくない。おまけに、揃いも揃って教師職ばかりに就いているため、人違いもしばしばだった。

 何しろ父も母も伯母も叔父も祖父も、そして私も「万丈先生」なのだ。フルネームで確認でもしない限り、「先生」だけでは誰のことだかわからない。

 例外は祖母ぐらいなものだった。

「先生にはお世話になってます」

 女子学生はほんのり頬を染めて、私に小さく頭を下げた。

「そう、ですか」

「よろしくお伝えください」

「ええ」

 考えてみればおかしな話である。私は女子学生の言う「先生」が誰のことを指すか訊かなかったし、彼女も名乗ろうとはしなかった。流れで首肯しゅこうしてしまった後に違和感を覚えたものの、敢えてただすことはやめた。必要がないと思ったからだ。

 代わりに私は、数分前に会った赤いジャンバースカートの女の子のように、

「それ」

 と女子学生の手の中で濡れているラムネを指でさした。

「飲みますか?」

 意味を取りかねてきょとんとする顔に「開けましょうか」と言い添える。ややあって女子学生はうれしそうに、はにかんだ。

 ぽん。

 小気味良い音と共にラムネ玉が落ち、泡が瓶の口まであがってくる。最初の一吹きがおさまるのを待ってから、私はもう一度、女子学生に瓶を手渡した。

「ありがとう」

 軽やかに弾むような声で言って、彼女は青いガラスに唇を寄せた。カラリとラムネ玉が涼しげに回り、瓶の傾きに合わせて白い喉が上下する。その様をぼんやりと見つめていた私は、しばらくしてそらにかかった一筋の雲が陽光を翳らせたのを機に、また坂道に戻ることにした。

 マイペースにラムネを飲む女子学生に簡単に挨拶をして、通用門を離れる。

 相変わらず蝉の声がかまびすしい。

 すでに、は三分の二を越え、終わりにさしかかっている。

 黙々と歩けば、祖父の家はもうすぐそこだった。



 初めて祖父が脳梗塞で倒れたのは、私が生まれた年だったという。

 当時は祖父もまだ四十代と若く、教員としても脂がのってきた頃だった。酒好きが祟ったのか不摂生ふせっせいだったのか、以降、治療して回復してはまた症状を起こして倒れるという悪循環を繰り返して三十年が経つ。昨年の秋に五度目の脳梗塞で倒れ、一時意識不明の重体に陥ってからは、かかりつけ医の奮闘もあって命は取り留めたものの、すっかり寝たきり状態になってしまった。

 当然、仕事は五十を待たずに辞めている。治療費や生活費は、子供たちの収入に頼る部分もあったが、ほとんどは祖母が稼いだそうだ。

 祖父の先代、私からみると曾祖父の代の万丈家は主に農業を営んでおり、家の周囲や近所に畑を残していた。祖母はそれを活用し、できた農作物を売りながら祖父の世話をしたのである。もちろん、一人でやっていたわけではない。手伝いを雇ったり、周囲の助けもあったろうが、誰よりも汗を流して働いていたのは祖母だったと聞いている。

 私が物心ついた時、祖父は決まって病床にあり、祖母の顔は冬でも真っ黒に日焼けしていた。二人がそこに至るまでの経緯は、後で親類に教えられたものでしかなく、裏側に流れる感情まではみ取ることができない。

 大変だったろうとは思う。

 思うが、それだけである。

 別に軽んじているのでも、必要以上に重くみているのでもない。

 当事者ではない私にはわからないだけだ。

 ただ……。

 祖母はいつも私には優しかった。

 子供の頃、半身が麻痺してろくに口がきけない祖父を相手にどう接したらいいか困っていると、よく隣に来て助けてくれた。母に内緒でもらったお小遣いは数え上げればきりがないし、夏休みに泊まりに行けば必ず私の好物をこしらえてくれた。私に向ける祖母の表情は笑顔ばかりが印象的で、一つのことを除けば怒られた記憶などいくら掘り起こしても見つからない。

 だから私は──。

 昔はこの家に来るのが好きだったのだ。本当に。

 をのぼりきった先の、右手奥。見えてきた万丈家を前に、私はつい足を止める。かつて、名主なぬしとしてこの辺り一帯を取りまとめていたという屋敷は、長い時間をかけて修繕を重ね、黒ずんだ二階家として佇んでいた。良く言って歴史と風格を感じさせる家、悪く言って古くて汚い時代遅れの家だ。今の私には後者のイメージが強い。そのようになってしまった。

 いつの間にか、坂の下では焼け付くようだった日差しが絶え、空を重たい雲が覆い始めている。

 汗で湿った首にひゅうと風が吹き付けて、私の肌が粟立った。

 ひと雨くるのかもしれない。

 万丈家の入口に近づいた私は、勝手知ったる鉄門を開けて敷地内に入った。奥に引っ込んだ縦に長い土地なので、見た目以上に前庭は広く、玄関までは距離がある。よく掃き清められた石畳を歩いていくと、ほどなくして、ザッザッという草を刈る音が聞こえた。音の源は玄関の脇に屈んだ丸い背中であった。

「こんにちは」

 赤いシャツとズボンの隙間に覗く素肌を眩しく見ながら、私は「スミエさん」と声を掛けた。



「あらあらあら!」

 振り返った彼女は、こちらを見ていつも通りに顔を輝かせた。左手に草刈り鎌を握った格好で、驚いたように首に下げた手ぬぐいで顎先に溜まった汗を押さえる。

「どうしたの? 今日、来るって言ってたかね?」

「うん」

 私が頷くと、彼女はまた「あらやだ」と大きな目を瞬かせた。

「すっかり忘れてたわよ。ごめんねえ」

「別にいいけど。また草むしり?」

「そうよお。この時期は夕立が来るたんびにあっちこっちから生えるから。まめにやらないとね」

 彼女が屈んでいた位置には、これまでに刈り取られた雑草が山になっている。ほのかに漂う煙臭さは蚊取り線香のものだろう。草が積まれた地面に、お馴染みの色をした小型の渦巻きが置かれているのが見えた。

「久しく会ってないけど、お母さんは元気?」

「まあね」

 彼女の目尻に刻まれた笑い皺が、吹き出す汗で湿っている。首の後ろで一つにまとめた白髪混じりの頭は、もう半分以上ぐっしょり濡れていた。

「あの子、暑いの弱いでしょう? 夏バテしてないかしら」

「今年は大丈夫だよ。それに、弱いのはスミエさんも同じじゃないか。ちゃんと水分ってるの?」

 言って、私はずっと提げ持ってきた買い物袋から三本目の青い瓶を取り出した。「あら?」とつぶやく声を耳に、開栓用の凸形器具を瓶の口に押し当てる。

 ぽん。

 小気味良い音と共にラムネ玉が落ち、泡が瓶の口まであがってくる。こぼれる液体はそのままにして差し出すと、再び彼女が「あらあら」と言って頬を明るくした。

「気をつかっちゃってまあ。いいのよお、あたしなんか」

「ダメだよ。熱中症になる」

「平気よ。若い頃じゃあるまいし。でも……わざわざ買ってきたの?」

「ああ。『髙砂屋』でね」

 私の答えに、彼女はケラケラ笑った。そうして手早く鎌を置いて軍手を外し、壊れ物を扱うような仕草でラムネを受け取る。しかしすぐには口を付けない。

「せっかくだけどねえ。これは先生も好きだし、後で一緒にいただくわ」

「ケチなこと言ってないで飲みなって。もう一本あるから」

「そうなの? あなたいつからそんなに用意が良くなっちゃったの?」

 どこかおどけた口調で言った後も、彼女はまだ瓶を傾けなかった。「じゃあ」と左手をズボンのポケットに突っ込んで、何やらまさぐり出す。じきに取り出したのは二枚の硬貨だった。

「これで足りる?」

 何の疑問もなくラムネの代金を払おうとするのを、私は拒んだ。

「いらないよ。そんなつもりで持ってきたんじゃないよ」

「だって悪いわ」

「小さい子じゃあるまいし」

「なに言ってんの。あたしから見たらまだ子供よ」

 心外である。

 軽く絶句した私の手に無理に硬貨をねじ込んで、彼女は「お小遣い」と囁いた。

「だから──」

「先に上がっててちょうだいな。あたしもこれ飲んで、草のゴミを始末したら今日は切り上げましょう」

 私の抗議などお構いなく、そう宣言した彼女は、ようやくラムネに口を付けた。大事そうに瓶を支えるその両手は、女性にしては分厚くがっしりしている。若い頃、美術の教師であった祖父について絵画の勉強をしていたようには思えない、たくましい手だ。いつだったか、本人も「もうこれじゃあ絵筆が似合わないね」と言っていた。「もう細かい線なんて描けない」と笑っていた。

 冷たい風が吹いた。

 気づけば、少し前から頭上に垂れ込め始めた雲が、今にも泣き出しそうな色に変わってきている。

「先生に顔を見せてやってね」

 がらがらと玄関の引き戸を開けた私の後を、軽やかな声が追ってきた。

「わかってるよ、スミエさん」

 首だけ向けて簡単に応じる。微笑んだ彼女が、飲料が半分ほどに減ったガラス瓶を持ち上げた。中でカラリとラムネ玉が涼しげに回った。



 引き戸を閉じると、蝉の声がやんだ。

 同時に今まで私をさいなんでいた夏の暑さも消え、湯水のようだった空気が、波が引くように冷えて止まった。外が明るかったせいか、もともと光源が弱いのか、万丈家の中は紗幕さまくがかかったように薄暗かった。

 わずかにえた匂いがする。

 私は靴を脱いで三和土たたきから上がり、廊下を奥へ向かった。築数十年の影響で、足を踏み出すごとに床板がきしむ。いや。家全体が軋んでいる。


 ぎしり。


 ごぽり。


 ぎりりり。


 ごぽぽぽ。


 嫌な音だった。

 私がこの家に来るのが憂鬱になった理由の一つはここにある。

 本当に、よくっているなと思う。


 ぎしり。


 突き当たりを左に曲がったところで、何か硬い物が私の足の指に当たった。ビー玉である。通常よりもやや大きい。ビー玉は廊下の彼方よりやってきて、私で跳ね返り、漆喰しっくいの壁際に転がった。表面が濡れていたらしく、玉が通った跡は濃い色の筋となって床板に描かれた。

 私はそれらを一瞥いちべつして、歩みを進める。

 鼻孔を刺激する匂いが強くなってきた。甘いような酸っぱいような、妙な匂いだ。けれども悪い匂いではない。そよとも動かない万丈家の空気の中にあって、唯一、某かの色を添えるものでもある。


 ごぽり。


 祖父は一番奥の洋間に寝ているはずだった。元気だった時は畳の上で寝起きしていたようだが、脳梗塞を患ってからベッドに変えたため、合わせて屋敷の一部を造り替えたのだそうだ。洋間は全体で十畳半ほどあり、後に再び改修をして壁を設け、六畳と四畳半の二間に分けられた。六畳を祖父、四畳半を祖母の自室とし、部屋と部屋との間は扉を通して行き来できるようになっている。部屋の改修を希望したのは祖母だったという。

 私はその祖母の部屋の前に立った。

 軽く扉をノックをする。返事はない。

 代わりに、


 ぎりりり。


 家の軋みがひどくなった。

 扉のノブをひねる。鍵がかかっていないことは知っている。

 少し勢いをつけて押し開けると、一定の抵抗感に加えて、私の耳に陳腐な波の音が滑り込んだ。言葉をえるなら、大きさも硬さも変わらない小さな物が、数多くぶつかり合って奏でる和音とでも言えばいいだろうか。

 隙間を縫うように室内へと体を入れた私は、しかし次の瞬間、スリッパを履かないで来たことを後悔した。

 足の裏に鈍い痛みと違和感を覚えてよろめく。バランスを取るつもりで踏み出した足にも、さらなる痛みが加わった。しばし呻いた後に、どうにか辛抱して立ち直り、そっと右足を持ち上げてみれば、土踏まずに当たる場所にまたビー玉が転がっている。先ほどのように一つではない。いちいち数えるのも馬鹿らしく思えるほど大量に、だった。

 まさに足の踏み場がないとはこのことであろう。

 決して広くはない四畳半の床一面に、ビー玉が溢れている。それらは一様に湿り気を帯びており、甘いような酸っぱいような独特の匂いを放っていた。

 そう。例えば飲み終わったラムネの瓶からガラスの玉を取り出した時のような。


 ごぽぽぽ。


 祖母は、部屋の真ん中に居た。

 無数のラムネ玉に囲まれながら、臙脂色えんじいろの座布団の上でじっと正座している。長年の農作業で腰が曲がってしまっているために、いくらか前のめりになった格好だ。そのせいで俯いた顔の表情までは窺えないが、確かに祖母である。

 見るたびに小さくなるその姿を目に、私はすぐに掛ける言葉が見つからなかった。

 ひとまず、溢れ返るラムネ玉を踏まないようにして近づき、買い物袋から残っていた最後の一本を取り出す。

「これ……」

 かろうじて絨毯の覗く場所を見つけて置けば、祖母の肩が痙攣するかの如く、大きく一つ揺れた。

──ごくろうさま。

 消え入りそうな声音で言って、頭をもたげる。

 老いてもなお変わらず黒目がちな双眸が、私を認めて半月型になった。しかし、それもほんの一時のこと。たちまちれた視線は、私の体を素通りして背後の壁へと注がれてしまう。そこは部屋の南側に当たり、祖父の部屋がある位置だった。

 私が、最初から敢えて視界に入れないようにしていた場所だった。

 見たくなかったのだ。

 けれども……。


 ぎしり。


 ごぽり。


 私の迷いをあざ笑うかのように、家が軋む。

 看病をする都合で、二つの洋間の間には扉の他にもう一つ、窓が造られていた。潜水艇にあるような、丸く小さな窓である。これを覗けば、祖母の部屋から定期的に祖父の様子を知ることができ、急に具合が悪くなった時などに素早く対処できる仕組みだった。

 今、祖母の視線は、間違いなくその丸窓に向けられていた。

 そして、万丈家を軋ませる音は、その丸窓の奥から響いている。

 どうして。

 どうして私なのだろう。

 これまでにも幾度となく湧き上がってきた疑問に私は苛まれた。

 祖母は何も言わない。理由のない、無言の圧力だけが押し寄せてきている。このまま部屋じゅうのラムネ玉を蹴散らして帰ってしまえたら、どんなにか楽だろうと思った。なのにできない。

 私は祖母と同じものを見るために、背後を振り向く。振り向かざるを得なかった。

 南側の壁は薄黄色く汚れていた。幾本もの黒いカビの筋ができている。天井から滴り落ちた水の跡だろうか。他に装飾はない。ただ一つ、中央に丸い窓があった。

 青白く光っている。

 め殺しのガラスは透明だ。にもかかわらず、それは青かった。


 ぎしり。


 家の軋む音に合わせて、ガラスの向こう側の祖父の部屋の景色がゆがんだ。

 次いで、


 ごぽり。


 必ず軋みの後にくる水っぽい音に合わせて、景色の中に大きな泡が生まれる。部屋の下方から出たそれは、ゆらゆらと揺れながら上昇していき、天井付近で音もなく弾けて消えた。その様が丸窓を通して見えた。

 これによく似た光景を、私は知っている──水族館である。

 青白く光る巨大な水槽は、祖父の部屋そのものだった。中に満たされているのは海水ではなく炭酸水であり、入れられているのは魚ではなく祖父だった。

 細かい泡が立ち上る水の中に、介護用ベッドが沈んでいる。祖父はその上に横たわって眠っていた。

 水流に寝間着がひるがえり、骨と皮ばかりのすねが剥き出しになる。ともすれば浮き上がってしまいそうになる痩せた体は、同じく炭酸水の中を泳ぐ一人の女によって押さえられていた。黒い髪に白い肌、豊かな乳房も露わな裸の女だ。しかし生き物のようにうごめく髪の間から覗く顔は般若のようで、美しくも可愛くもない。加えて、腰から下には銀の鱗と見事な尾鰭おびれがついていた。

 祖父の上に乗った人魚は、その皺だらけの細い首を両手でめていた。


 ぎりりり。


 人魚の指が皮膚に食い込み、眠る祖父の顔に苦悶の表情が浮かぶ。だらりと漂わせていた腕が痙攣するように上がり、炭酸水をかき回す。二人の周囲が無数の泡で包まれたところで、人魚はようやく手を離した。そうして上体を反らして大きく深呼吸をし、あたりの泡を口にふくんだかと思うと、もう一度、祖父の上に覆い被さる。


 ごぽぽぽ。


 人魚の口から祖父の口へ。

 酸素の泡が供給されるに従い、苦しげだった祖父の表情に穏やかさが戻った。上がっていた腕の力も抜け、大人しくなる。再び静かに惰眠を貪る祖父を、人魚は満足そうに見つめた。白魚のような手が顔の輪郭を愛おしそうに辿っていく。額から目尻を通って頬を撫で、まばらに髭の生えた顎先をくすぐって首筋に落ちる。そこでまた、力を込めて喉笛を潰した。


 ぎしり。


 ごぽり。


 ぎりりり。


 ごぽぽぽ。


 首を絞めては口づけ、また絞める。

 それを飽くことなく繰り返している。

 祖父は表情は変えるものの、目覚めることはなかった。全身がすっぽり炭酸水に沈んでいるというのに、死ぬ気配もない。ただひたすらに眠り続け、私たちに人魚との怖ろしい痴態を見せつけている。

 私は今日も今日とて変わらぬ丸窓の光景に、溜め息をついた。

 これでもまだ正気を保っている自分が自分で不思議であった。


 ぎしり。


 ごぽり。


 定期的に響く二つの音以外、万丈家の中は時が止まったように何事もない。

 玄関先で草刈りをしていた彼女は、まだ一向にやってこなかった。やってくるはずがないことを、そもそも私は承知していた。

 なぜなら、

 ラムネ玉の海の中で臙脂色の座布団に腰を下ろし、私と共に黙然もくねんと丸窓を凝視している祖母が、その人なのだから。



 幼い頃より絵を描くことを好み、進学した美術学校で祖父と出会い、やがて夏の暑い日に貧血を起こして介抱されたのをきっかけに、教師と生徒の枠を越えて交際。後に結婚してからも、夫を「先生」と呼んで支え、孫には「おばあちゃん」ではなく「スミエさん」と呼ばせることでささやかな喜びを得ていた、祖母。

 彼女がどんな想いを抱いて日々を過ごしていたか、推し量ることは難しい。

 彼女はいつでも明るく、誰にでも優しかった。

 祖父が最初に倒れた場所は、自宅でもなければ勤め先の学校でもなく、愛人の家だったという。二人の間にはすでに娘が一人いたものの、祖父が倒れたことで愛人は子供を置いて雲隠れしてしまった。残された娘は万丈家が引き取ることになり、祖母が育てた。私の母親の話である。

 経緯はどうあれ、母と祖母の親子関係は良好だった。私も大変に可愛がってもらった。

 だからこそ、理由がわからないのだ。

 やはり祖父の甲斐性のなさがいけなかったのか、それとも、絵画への道を諦めざるを得なかったことが残念なのか、はたまた、私が『髙砂屋』であの妙な男からラムネを買ってしまったのがまずかったのか──。


 私はそれ以上、祖父と人魚を見ていることができなかった。

 ラムネ玉を蹴散らして壁際まで進み、隣室との間を繋ぐ扉のノブに手を掛ける。


 ぎりりり。


 ごぽぽぽ。


 己の五感を信ずるのなら、扉を開いた途端にこちら側の部屋もラムネに呑まれるはずであった。そうでなくてはならなかった。が、しかし。

 覚悟を決めて押し開けた扉には、なんの抵抗感もなかった。

 踏み込んだ祖父の部屋はごく普通の洋間で、介護ベッドの他に衣類の籠が置いてある他は何の変哲もない。壁も床も天井も濡れていないし、染みもない。部屋の中に漂うのはラムネの匂いではなく、独特の老人臭だった。

 いつもこうだ。

 試しに祖母の部屋を振り返ると、あれほどたくさん床を埋め尽くしていたラムネ玉が一つ残らず消えていた。その中心に座していたはずの祖母の姿も見えない。

 いつもこうなのだ。

 私は何度目かの息をついて、介護ベッドに近づいた。

 祖父は今日も眠っていた。

 口をぱかりと開けた彼の寝顔を目にするたびに、私は自分の晩年を見る思いがする。皺や皮膚のたるみを除いて若返らせれば、おそらく鏡を見るのと大差ないだろう。それほどに私と祖父とはそっくりだった。

「おじいちゃん」

 呼びかけると、血管の浮いた瞼の下の眼球がわずかに動いた。

 開いたままの口が一度ゆっくり開閉する。何か言っている。私は俯いて祖父の唇の動きを注視した。

「も」「う──」


 か、ん、べ、ん、し、て、く、れ。


 スミエさん。

 声にならない声の直後、祖父の口は牛蛙うしがえるのような音をたてて、ラムネ臭いゲップを放った。



     *



 油蝉が啼いている。

「いらっしゃいまし」

 耳鳴りのような蝉しぐれを縫って掛けられた声に、私は俯けていた顔を上げた。

 気づけばいつもの駄菓子屋の前におり、薄汚れた前掛けを付けた中年男が見慣れた笑みで立っていた。

「二本ですか?」

 問われて私が答える前に、男は身を屈め、巨大な金盥に張った氷水の中からラムネの瓶を引き揚げた。

 首に下げていた手ぬぐいで水滴を軽く拭って「ハイ」とこちらに寄越す。一本、二本、三本……四本。片手では持ちきれず、両腕で四本の冷たい瓶を抱えた私に、男はやはりいつもの笑顔で、

「二百円です」

 と告げながら右手を差し出した。

 私は無言で、用意しておいたビニール地の買い物袋を取り出した。まだ少し中が湿っているそこへ四本のラムネを入れる。それから、差し出されたままの骨ばった掌に硬貨を二枚のせた。

「ありがとうございました」

 笑みぶくんだ声に見送られて後にした店は『髙砂屋』といった。二年前、祖父の好物のラムネを買いに行った祖母が、火事に巻き込まれて死んだ店である。そして、彼女の命日に万丈宅へ訪問することになった私が、うっかり買い物をしてしまって以来、入り込んでしまった迷宮の入口であった。

「またか」

 一体どれだけの回数、つぶやいたか知れない言葉を今度も口にして、私はひら坂をのぼり始めた。まったくもってわからない。祖母は何をそんなに怒っているのやら。

 前方には再び、赤いジャンバースカートの小さな人影が見えてきていた。



                        了

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瓶底の人魚 夏野梢 @kozue_kaze

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