第32話 蛮勇

 テーブルや椅子、ソファといった家具が設置された、七緒の母である綾子の館のリビング。


 本来ならば、落ち着いた雰囲気がするはずのその場所は、二人の女性によって張り詰めた空気が漂っていた。

 

 人工心臓の少女、翡翠はその手を固く握りしめて。

 もう一人の見た目だけは少女である不老の女性、綾子は平静を装っていたが、額には一筋の汗がつたっていた

 

 二人はリビングにある不自然に家具が置かれていないスペースを見つめていたが、綾子はそこに手を差し伸べ、口から短く呪文を唱えた。

 

 瞬間、空間を歪ませ、綾子が手を差し伸べた場所に巨大な柱時計があらわれた。

 その時計は、激しい損傷を応急修理で間に合わせたことも明らかであり、中から二人の人間を吐き出すと、その身を激しく震わせ、次の瞬間には長針と短針がへし折れ、その機能を停止した。

 

 時計の中から飛び出してきた人間、暁は黎明のヘルメットを脱ぎ捨てると、ぞっとした様子でつぶやいた。

 

 「あ、危なかった……」

 

 「ぎりぎり壊れなかったからいいものの、時間移動中に壊れてたらどうなったのよ、これ……」

 

 同様に時計から出てきた七緒も、頭を振りながらそう言った。

 からくも命拾いしたことに震える二人に翡翠は駆け寄って、両手で抱きしめた。

 

 「暁さん! 七緒さん! よかった……お二人ともなかなか戻ってこなくて、やっと戻ってきたと思ったら壊れた時計だけで、心配していたんですよ……」

 

 「悪い悪い。心配かけたな。……だけど、収穫はあったよ。翡翠こそ大丈夫だったか?」

 

 「ええ。お二人がいない間は、綾子さんがよくしてくれました」

 

 その言葉を聞くと、翡翠に抱きしめられるままになっていた七緒が、眉をピクリと動かした。

 

 「母さん。翡翠のことはありがとう。……だけど、もうちょっとまともな迎えはなかったの?

  あの時計が時間移動中に壊れてたら、今度こそ時空間の塵になってたわよ」

 

 「ぎりぎりとはいえ、帰還はできたでしょう?

  もちろん私も時間移動という大魔術は万全の態勢で行いたかったですが、こっちはこっちで切羽詰まっていたのです」

 

 「敵襲か!?」

 

 一瞬で緊張感を取り戻した暁は、表情を引き締めたが、綾子はその言葉に首を横に振った。

 ならばどのような事情があるのか、そう聞こうとしたところで、暁は異変に気がついた。

 彼に抱きついており、身長の差から見下ろすような形になっている翡翠だったが、

 未来に旅立つ前、彼が最後に見たときから髪が伸びているような……。

 

 暁がその疑問を口にしようとしたところで、綾子は口を開いた。

 

 「暁さん。七緒さん。落ち着いて聞いてください。

  あなた達が未来に旅立ってから戻るまで、こちらの時間で半年が過ぎました。

  ……そしてその間にルルイエが浮上し、核が五度使われました」

  

 *

 

 太平洋に存在するクトゥルフが眠る島、ルルイエ。

 そこは神々が目覚めるその日が来るまで、深き海の底に沈んでいるはずだった。

 二十世紀前半にほんの短い間浮上したことはあったが、それは何かの間違いだと、事情を知るものたちはそう信じることで心の平穏を保とうとしていた。

 

 だが、ルルイエは暁達が旅立ってから五カ月後、今から一月前に浮上した。

 おそらくは、暁の師である楓が目覚めさせたことに遠因があるのではないかと事情を知る者たちは思おうとした。

 本来神々が目覚めるときはまだ来ていない。この浮上は一時的なものではないか、と。

 

 「……だけど、そうはならなかったのね。その希望的観測は」

 

 険しい顔をした七緒は、吐き捨てるようにそう言った。

 

 その言葉の通り、ルルイエが浮上したまま時は過ぎ、クトゥルフそのものが姿を顕すことはなかったものの、

 かの神の精神波は日本でのものとは比べ物にならない規模で世界を覆った。

 その結果、世界中でパニックや暴動が起こり、そしてクトゥルフの目覚めを真なるものにしようと狂信者たちが姿を隠すこともなく大規模に動いていた。

 

 そこで、アメリカは決断した。ルルイエに核を落とすことを。

 

 「……核で、神って倒せるものなのか?」

 

 「さあ。私も科学にはそれほど詳しくないもので。

  ただ、二十世紀に目覚めたクトゥルフは物理的ダメージを受けて再び眠りにつきました。

  じわじわと神の精神波を受けて国民を蝕まれていくより、動いた方が勝算があると思ったのでしょう。

  ……あるいは、それすら政治家が神の狂気に飲み込まれていたのかもしれませんが」

 

 「まあ、つまり、無駄だったのね?」

 

 あやふやな言葉を七緒は切って捨てたが、綾子は首を横に振った。

 

 「いいえ、効果はありました。クトゥルフの精神波を止めることに成功したのです」

 

 「本当なの!?」

 

 「ただ、それどころではなくなりました。

  核を投下した翌日、アメリカ西海岸に百メートルを超える巨大な深きもの二体が上陸しました。

  恐らくはダゴンとハイドラ、深きものの中でも最も古い雄と雌。神と呼ばれることすらある個体です」

 

 「核の報復にクトゥルフが差し向けたってとこか……」

 

 暁の身もふたもない言葉をを聞いて、綾子は咳払いをした。

 

 「下世話な言い方をすればそうなのでしょうね。

  この二体に対して通常兵器では足止めもできず、アメリカは再び核の使用を決めました。

  今度は自国の領土内で。

  科学の火は二体を塵に変えましたが……数日後にはそこから再生しました」

 

 「……どうしようもないな」

 

 「ダゴンとハイドラは無数の深きものを引き連れて、アメリカを我が物顔で行進しています。

  アメリカ軍はさらに三度の核攻撃を行いましたが、足止め以上の効果は出てませんね。

  二柱はもとより、従う深きものも核攻撃の後からもどこからかあらわれています。

  ……あるいは、二柱が制圧下の住人を深きものへと変えているのかもしれません」


 「最悪だ……待てよ。

  未来で色々あって感覚が麻痺してたんだが、よく考えたら核を凄く気安く使ってないか……?」

 

 「気づきましたか。状況が状況なのもあるでしょうが、核。すなわち科学についての忌避感が薄くなっています。

  そして、アメリカでは放射能汚染化で活動可能なパワードスーツ部隊が実用化されたと噂に聞いています。

  ……黎明が時空を超えて、人々の意識や科学技術の進歩に影響を与えているのでしょう」

  

 そこまで言って、綾子はため息をついた。

 

 「私や暁さんの師のように、未来を知って介入する者や暁さんの時間移動のせいで、少し途中経過が狂いましたが、このままいけばどの道にしても、超科学に操られる人類と邪神の最終決戦に突入します。

  人類は生き残れてもほんの少しといったところでしょう」

 

 そこまでが綾子と翡翠が手をこまねいて見ているしかなかった現実。

 

 事前に仕込んでおいた魔術で、音信不通とはいえ暁たちの無事はわかっていたが、時間移動機である柱時計がなくては手の出しようがなかった。

 

 だが数日前、ようやく時間移動機が戻ってきた。

 時間移動先で損傷を受けてはいたが、それに綾子はなんとか応急処置を施し、再度暁たちの迎えに送り出した。

 

 「……そして、今になります」

 

 そして、沈黙が訪れた。

 もはやどうしようもないのではないか。そんな弱音が重さを持って胸に宿る。

 だが暁は、彼をすがるように見る翡翠の瞳を見て、一瞬置いて口を開いた。

 

 「……だけど、俺たちにはまだできることがあるはずだ。そうだろう」

 

 その言葉を聞いて、綾子もしっかりとうなずいた。

 

 「ええ。ですが、まずはお二人が時間移動先で何を見たかを教えてください」

 

 

 *

 

 「……なるほど。黎明に支配された世界は観測済みでしたが、異界の法則の浸食で滅んだ世界は私も初めて知ります。

  どのような経緯でそうなったのか……」

  

 「興味深いかもしれないけど、今はその話は後で頼む」

 

 「そうですね。今はこの世界がこれからどうなるかの話をしましょう。

  人類はどうしようもなく押されていますが、そのうちに黎明の力で画期的な、これまでとは次元の違う新発明が続々出て持ち直すでしょうね。

  情勢が混乱しているので真偽は定かではあるませんが、すでにいくつかそのような発明の噂も聞きます。

  ……最もその過程で何人死ぬかは知らないし、その果ての世界もあなたたちは知っているでしょうが」

 

 「じゃあ今から黎明を破壊するのはむしろまずいか。人類の反撃の手がなくなる。

  ……これは確認なんだが、本当に破壊できないのか?

  手段の一つとして知っておきたい」

 

 「できるできないで言えば、見込みはありますが、意味がありません。

  黎明のトランクは、邪神の力を熟成させ、育てる繭でした。

  黎明を生み出したのはその力の一端に過ぎません。黎明ではなく、トランクの方が本体なのです。

  そしてもはやトランクは邪神の力で満たされています。

  むしろ、トランクという形があるからこそ、邪神の力をなんとか制御できてると言えるでしょう。

  それを破壊すれば、おそらく邪神の力があふれ出すか邪神そのものが降臨し……まあ人類は滅びるでしょうね」

 

 「そううまくはいかないか……。

  このまま放置するなり、政府機関に進んで技術供与するなりした場合は……俺たちが未来で見た通りになるわけか。意味がないな……。

  ……ところで、もう一つ聞いておきたいんだが、

  黎明に力を与えている神ってなんだ? 未来の量産型黎明は科学の神とか言ってたけど」

 

 「あら、七緒さんから聞いてませんか?

  七緒さん、私がいなくてもちゃんと勉強しないと……」

 

 「やってたわよ! でも科学の神なんて聞いたことないわよ!?」

 

 「……ちゃんと私が使っていた部屋の隠し書庫は見た?」

 

 「え、何それ、初耳……」

 

 きょとんとする七緒を見て、綾子は深々とため息をついた。

 

 「抜けている娘ですいません」

 

 「くっ……」

 

 猛烈に反論したい様子を七緒は見せていたが、今はそんな場合ではないと怒りをこらえていた。

 暁と翡翠は、そんな七緒を見て、母親といると年相応の様子を見せるのだな、と場違いなことを思った。

 

 「……話を戻しましょう。科学の神とは、複数の属性を持つ千の顔を持つとされる神の側面の一つ。

  真なる名は混沌の神です。……混沌に真なる姿があるかはわかりませんが。

  逆に無貌の神と呼ばれることもありますね」

 

 「あ、そっちの名前なら聞いたことがある……というか、とびっきり大物じゃない!」

 

 「……だから、ちゃんと勉強しないと」

 

 「むぐぐ……」

 

 「まあ七緒さんは置いておいて、科学の神としても核の研究にも関わってたという眉唾ものの話もあります」

 

 「なるほど。しかし無貌の神か……師匠たちを蘇らせて取り込んだのもそいつだって話なんだが、

  黎明に力を与えているのがそいつなら、なんで師匠たちを使って黎明を潰そうとしたんだ?」


 「……これを言うと暁さんは怒るかもしれませんが、おそらくはあなたの師は黎明の餌にされたのでしょう。

  あなたと黎明に障害としてぶつけ、一度死を与えることで殻を打ち破らせるために」

  

 「……ふざけるな」

 

 怒りに満ちた暁の言葉。だが、握りしめた拳を翡翠のやわらかい両の手で覆われ、彼は我に返った。

 

 「……すまん、取り乱した」

 

 「いえ、無理もないでしょう」

 

 「……表情変えないで言われてもなあ」

 

 「こういう人なのよ……でも悲観的な意見はここまでよ。

  あんたが勝つための道筋を整えてあげるって言ったでしょ」


 「ああ。だが、疑うわけじゃないが、どうするんだ……?」

 

 「ええ、確かに現状は絶望的ね。だけど思い出して。

  カブト虫に招かれた世界で、残された人類が何をやろうとしていてたかを……。

  世界を書き換えるのよ!」

 

 

 *

 

 「黎明と邪神の目覚めをなかったかのように魔導書の力で書き換える。

  ただ、魔導書の製作者がやろうとしてたようにインターネットで拡散は駄目。

  魔導書の解読が間に合わない。

  ただ、魔導書の翻訳データは黎明の内部には存在する。

  黎明には、世界に科学技術の発展を促すように世界に影響を発信する機能がある。

  その機能を使って世界に魔導書の力、何も異変は起こらなかったという情報を発信し、

  世界を書き換えるの」

  

 「な、なるほど」

 

 一気にまくしたてられた七緒の言葉に、半ば圧倒されながら暁は頷いた。

 

 「だけど七緒さん。その手段では科学技術の発展の書き換えはともかく、

  邪神の目覚めを書き換えて阻止できるかは未知数よね?

  ううん、むしろ分の悪い賭けじゃないかしら」

 

 母親の言葉を受けて、それでも七緒は不敵に笑った。

 

 「そうね。でも母さんにだって、腹案はあるんでしょ? それと組み合わせればいいのよ」

 

 「……そうですね。七緒さんの世界を書き換えるという方法論自体は問題はない。

  変更点は、書き換えの情報を送るのを過去にするのです。

  黎明とトランクは無貌の神の一部であり、生まれたときから時空を超えて繋がっている。

  それを利用するのです」

 

 精神汚染として黎明に記憶を消去された結果、暁は覚えていなかったが、

 黎明はかつて教授との戦いで無貌の領域にアクセスしたことがある。

 綾子はそれを知っていたわけではないが、分析からその機能があることにたどり着いていた。

 

 「私流の黎明を利用した世界改変術式の準備はできています。

  あとはこれをカブト虫に招かれた世界で入手した黎明内部の世界改変術式と組み合わせれば、黎明の誕生から今に至るまでを書き換え、技術レベルの上昇から邪神の目覚めまで、全てをなかったことにできるはずです」

 

 「ここまで来て、はず、なの?」

 

 「しょうがないでしょう。時間の書き換えなんてさすがにやったことがありません」

 

 「……なるほど。言いたいことはわかった。筋は通っている。

  で、俺はどうすればいい?

  七緒たちが世界改変術式を実行するのを見てればいいのか?」

 

 「そんなわけないでしょ。暁、あんたにやってほしいのは……」

 

  

 *

 

 夜遅く、屋敷の廊下。

 建物の明かりはつけられておらず、窓から差し込む月の光だけが頼りの中、暁は一人、壁によりかかり、顔を覆ってうずくまっていた。

 

 だが、そこに駆け寄る小さな影があった。

 暁もそれに気づき、顔を上げた。

 

 「翡翠、か……」

 

 「ええ。……不安なのですか、七緒さんから言われたことが」

 

 「そりゃあ、な……」

 

 暁が七緒から課されたもの。それは黎明内部領域での無貌の神との戦闘であった。

 黎明を利用した過去への情報発信、それには黎明の権限を今以上に暁が手に入れる必要がある。

 そしてそれは、黎明と繋がっている無貌の神との戦闘が不可避であったからだ。

 

 「殴れば勝てる敵を用意するって言われたけど、さすがに勝つのきついと思うんだよ……」

 

 人間と神。その間には語るのも愚かしいほどの差がある。

 星一つにへばりついて一生を終える人間と、宇宙を我が物とし、次元を問わずに存在する神。

 かつて戦ったクトゥルフといえど、相手にしたのは触手の一本。

 それも相手は意識をろくにこちらに向けていなかった。その差は歴然だった。

 

 「……でも、暁さんなら勝てますよ。今までだって勝ってきたじゃないですか」

 

 そんなわけがあるか! そう叫ぼうとして暁はその言葉を喉元で押しとどめた。

 翡翠の言葉は無知ゆえの蛮勇に過ぎない。だけどその顔には、暁に対する純粋な信頼があったからだ。

 

 「……あー、くそ、しょうがねえな」

 

 「ええ、なんとかなる……きゃっ」

 

 暁は座ったまま翡翠の手を引いて抱き寄せると、髪の毛を乱暴にかき回した。

 

 「も、もう、何をするんですか!」

 

 「翡翠が無茶ばっかり言うからだよ。……勝てばいいんだろ、勝てば!」

 

 「ええ、それでこそ暁さんです」

 

 笑顔を浮かべた翡翠だったが、一瞬後、その顔が不安に曇った。

 

 「……どうした?」

 

 「綾子さんの話だと、黎明が生まれた時期は、時間を遡って改変を行うのは今から数年前ってことでしたよね。

  ……そこから今に至るまでの歴史を、人類全ての歴史を改変してもいいんでしょうか。

  それも、私たちの独断で……」

 

 それは暁の胸にもつかえていたことだ。だが暁は、それでももう決断をしていた。

 

 「……翡翠、お前の気持ちもわかる。

  だが、今それを実行できるのは俺たちだけで、世界は明日にも滅亡してもおかしくない。

  だから……」

 

 「そうですね。ごめんなさい、困らせてしまいました……。

  ……それにしても、遠くにきてしまいましたね。

  私は世界のために戦うと言ってましたが、その実、暁さんと七緒さんと私の三人で

  騒がしくやっている時間が続けばいいと思っていました。……不謹慎でしょうか」

 

 「……いや、悪くないと思うよ」

 

 七緒が聞けば怒るのだろうが、暁にもそれを否定できない気持ちがあった。

 

 「それはそうと、世界が戻ったらとりあえずおじいちゃんを殴って止めようと思うんだ」

 

 「……お年ですし、死んじゃいません?」

 

 「俺にはその権利がある! どれだけ苦労させられたかと……」

 

 「もう……でも、世界が変わっても、会いにきてくださいよ」

 

 「ああ。身分が違うから門前払いされないかが問題だがな」

 

 世界改変術式が発動すれば、歴史は変わり、二人が巡り合う可能性は限りなく低いだろう。

 それをわかった上で、知らぬように暁と翡翠は笑い合う。決意を鈍らせないように。

 そして、二人の影がゆっくりと重なっていった。

 

 だが暁は、翡翠の秘めた想いを知ることはなかった。

 

 

 *

 

 一方その頃。

 

 埃っぽい空気、広大な空間に並び立つ、びっしりと中身の詰まった本棚。

 七緒は、母親と共に屋敷の書庫にいた。

 

 「さて七緒さん。あなたにはこれから、私の作成したこの魔術を明日までに習得してもらいます」

 

 書庫の端にある机に向かって座る七緒の前に、綾子が自作した魔導書が置かれる。

 時代が進んでも、デジタルデータより保存性に優れることから、今でも魔術師の間では記録用には紙が使われていた。

 

 「わかってる。あらかじめ母さんが準備した黎明を利用するための魔術ね……。

  ……出力の大きな魔術は本来私は使えないけど、

  この魔術なら主工程は接続した黎明を利用して演算するからなんとか……」

 

 暁たちに明かしたことはなかったが、七緒には大規模な魔術を行う才能に欠けていた。

 訓練で身に着けた器用さで、複数習得した小規模な魔術を状況に合わせて行使することで、実戦では弱点を補っていたのだ。

 

 「……それにしても母さん。本当に神を相手にして私たちに勝機があると思ってる?

  いや、あるからあそこまで黎明を深く利用した魔術を作っておいたんでしょうけど……」

 

 「勝機ですか。本来なら神相手にそんなものありません。。

  ですが、無貌の神は違う。あれは神の中で唯一、人間的な悪意を持つもの。

  悪意があるからこそ、こちらをいたぶることもするでしょう」

 

 「……つまり、相手がこっちを舐めてる間に出し抜くわけね。

  オッケー。私好みだわ」

 

 絶望的な状況で、無理やりにでも七緒は笑みを見せた。

 一方、そんな七緒を無表情に見つめながら、綾子は何事もないかのように七緒に問いかけた。

 

 「ところで、作戦の全てを伝えないのですね」

 

 「暁には言えないわ。あいつの心が黎明を通じて無貌の神に読まれる危険がある。

  命を張るのに悪いけどね。

  それから、私も母さんに聞きたいことがある。

  母さんは実際のところ、何が望みなの。

  人類と邪神の戦いで、人類が数えられないほどに減少しても、魔術師である母さんなら生き延びられるはずでしょ」

 

 「そうですね。人間の数が減るのは住みやすくすらなるのですが、

  黎明がもたらす超科学の世界。あれはいけません。魔術師の住む世界の闇がなくなります。

  生き延びるためには今までのような世界の方が好都合なのですよ」

 

 「つくづく自分のためね」

 

 「今更人のためだなんて言いませんよ。……七緒さん」

 

 「何?」

 

 「……あなたは不格好にでも、よたよたした歩みでも自分で選んでここまで来た。

  私から見れば半人前でしかありませんが、そのことを認めています」

 

 「……何よ、気持ち悪い」

 

 「ですから、後のことはお任せしますね」

 

 「え……」

 

 その言葉を発すると同時に、綾子は床に崩れ落ちた。

 七緒が慌てて駆け寄り、抱え起こすが、その体は氷のように冷え切っていた。

 

 「ちょっと、何よ……どういうこと!?」

 

 「……いえ、時間移動魔術で、魔力を使いすぎまして。

  ……ぎりぎりもつかと思ったら、もたなかったようです……」

 

 「ふ、ふざけないで! ……何よそれ、自分のために生きるって言っておいて、何してるのよ!」

 

 「……自分のためですよ。動かなければ、この世界には先がない。

  ……それじゃあ、新しい世界で会いましょう……」

 

 綾子の手が、ぱたりと落ちた。あまりにもあっけない死だった。

 

 その事実を受け止めきれず、七緒は母親の体を抱いたままわずかに肩を震わせていたが、

 すぐに綾子の体を横たえると、机に向かいなおした。

 

 「……いいわ、母さん。あなたが自分のために戦うなら、私は世界のために戦う。

  それだけよ……!」

 

 そう言うと、七緒は魔導書を開き、魔術の習得に入った。

 母の用意した魔術が脳に刻み込まれ、浸食される悪寒に脂汗を流しながらも、魔導書のページをめくる手は緩めなかった。


 長い夜になりそうだった。

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