第24話 闇
暁が出撃している間、翡翠が七緒とともに避難した山奥の別荘。
それは、いざというときのための荒事用の別荘の一つである。
若干の防御設備があり、警備員も配置してある。
とはいえ、それはあくまで対人用のもの。
忌まわしい怪物が襲ってくれば防ぎきれるものではないし、警備員にも日本の法律下では銃火器を用意できず、あてになるものではない。
ここに翡翠が避難した理由は、別荘が人里離れた場所であり、民間人を巻き込むことがないことが一つ。
そして警備員や防御用の設備はあくまで時間稼ぎであり、暁が事件を終わらせるまで立てこもる、あるいはそれすらせずに逃げ出すためのものだった。
だが、それ故に別荘を警備する警備員たちにとっては命がけであった。
ろくな武装もなく、何らかの敵を確認したら雇い主である翡翠に連絡し、状況に応じて翡翠たちと立てこもる、あるいは彼女たちを連れて脱出することしかできない。
正直破格の報酬をもらっていなければやっていられない話だった。
しかし、巨大な触手が街を壊滅させたというニュースがネットでも流れた。
もはや戦うしかない。
詳細はわからないが雇い主を守ることこそが戦いだという思いが、警備員たちにやけくそじみた士気を与えていた。
警備員たちは相互に連絡を取りながら、別荘の周辺を巡回していた。
昼間ではあったが、霧が出て、視界が悪かった。
だからだろうか、近づいてくる人影に警備員たちがすぐに気がつけなかったのは。
人里離れた場所にある別荘である。ただの通りすがりなどありえない。
警備員たちは別荘の奥に隠れた翡翠に連絡を取りつつ、侵入者に宣告した。
それ以上近づくな。一歩でも近づけば侵入者とみなして排除する、と。
だが警備員たちは、霧と恐怖で侵入者の姿形もろくに確認できていなかった。
もう少し落ち着いてみれば、その影が、不自然なほど膨らんでいることがわかっただろうに。
影は、ゆっくりと背中に背負ったものを構えた。
*
轟音とともに別荘が揺れた。
そのとき翡翠は、七緒や数名の警備員と共に、建物の奥に立てこもっていたが、
埃が舞い落ちる中、揺れで転倒することをなんとか防ぎつつ、外を警備していた警備員と無線で連絡を取った。
「何があったのですか!」
「し、侵入者が……あいつ、狂ってやがる……!
う、うわあぁぁぁっ……!?」
再び轟音と振動。
翡翠は無線の先に呼びかけるも、返事が返ってくることはなかった。
「翡翠、すぐここを出るわ」
七緒が目をつむったまま言った。
「何を……何が起こったか、わかっているのですか?」
「ええ……落ち着いて聞いて。
相手は一見人間のようだけど……ロケットランチャーを持っているわ」
「は……?」
翡翠が淑女にあらざる間の抜けた声を上げた瞬間、またしても別荘が揺れた。
翡翠はぺたりと床に尻もちをついた。
「ああっ、今ので使い魔とのラインが切れた!
……翡翠、今すぐここを出るわよ。
ロケットランチャーにはさすがに数に限りがあるけど、他にも重武装してるみたい。
ここの防御じゃ防ぎきれない」
「え、ええ……それじゃあ表の車に……」
「残念だけど、車も今のでやられたわ。避難プランBよ。徒歩で山道を逃げるわ」
*
巧妙に隠された非常口から、翡翠たちは外へと脱出した。
立ち込める霧で、先が見えない。
だが、こんなときのために訓練を積んでいた警備員たちは、迷わず翡翠の手を引いて駆け出した。
足元に落ちた小枝を踏み折りながら山道を進む。
しばらく進めば道路に出て、そこに隠してある車で逃走できるはずだ。
問題は、そこまでたどり着けるかである。
警備員たちは訓練を積んでいるとはいえ、運動慣れしていない少女である翡翠の手を引いて、
さらに霧で視界が悪い状態ではどうしても進む速度が遅くなる。
「大丈夫よ、敵は相当の大荷物を背負っていた。そう追いつかれることはないはず……」
七緒の言葉が終わらぬ内に、山に銃声が響いた。
拳銃などとは比べ物にならない程大きく、そして連続した発砲音。
最後尾を守っていた警備員が、血飛沫を上げて吹き飛んだ。
「急いで!」
七緒の叫び。
皆が恐怖とともに走る速度を上げる。
その様は追い立てられる獣のようだった。
ロケットランチャーといい、敵は港町を攻めた特殊部隊の銃火器でも回収していたのか。
あれでは私の風の結界では防ぎきれない。そう七緒は判断した。
何か手はないか必死に頭を巡らせる。
だが、その間にも銃声が続けて響く。
翡翠と七緒を囲むように守っていた警備員たちが、次々に倒れていく。
そして最後の警備員、翡翠の手を引いていた者が倒れる。
一緒に倒れそうになった翡翠の体を七緒は抱え上げると、
本来進むべき道とは別の方向の斜面に身を投げ出し、転がり落ちた。
「距離は取った……博打だけど、これしかない!」
七緒が素早く呪文を唱えると、次の瞬間、銃声が止んだ。
「七緒さん、何を……!?」
「しっ! 絶対に動かないで声も出さないで」
七緒はそう言うと、再び精神を集中させはじめた。
翡翠が声をかける余地がないほどに。
翡翠もまた、先ほどまでの逃走で高ぶっていた人工心臓の鼓動を意図的に抑え、心理状況を無理やり冷静に整えていく。
本来、荒ぶる鼓動と共に供給されるはずだった酸素が弱まり、目の前が暗くなりかけるが、今はそれどころではない。
そして視界の隅で、霧の中を土煙が舞い上がった。
いや、違う。追跡者が音もなく斜面を降りてきたのだ。
翡翠の目に、追跡者の姿が明らかになった。口を開き、よだれを端から垂れ流すうつろな表情。
顎には手入れの形跡がないひげが生え散らかしていて、その顔は青白く、生気を感じ取れない。
そして、その両目を隠したサングラス。
それは変わり果てているとはいえ、翡翠が資料で見た暁のかつての仲間、青山の姿だった。
突撃銃を手に持ち、背中にもそれを背負った青山が、獲物を探すように顔を巡らせる。
そして翡翠の方向にそのサングラスが向いた。
動揺し息を飲みそうになるが、人工心臓の精神制御で無理やりに衝動を抑え込む。
大丈夫だ、相手は目が見えていない。
翡翠が必死にそう念じていると、青山は別の方向へと向き直り、ゆっくりと去っていき、霧の中を見えなくなった。
そのままどれだけ翡翠は息を止めていただろうか。
緊張の中、横にいる七緒から声がかけられた。
もう声を出していいわよ、と。
*
「……危なかったわ。霧があるにしては狙いが正確すぎると思ったから、
視覚以外に何らかのセンサーがあると思って、風を使った消音の魔術で対処して正解だったわ。
博打だったけど……って、翡翠どうしたの!?」
「……いえ、全力疾走した後で心臓の鼓動を押さえた反動が……」
翡翠は荒い息をつきながら七緒に返答した。
一方七緒は、そんな翡翠に背中に背負ったリュックからペットボトルの水を差しだした。
「はいこれ。……距離が取れたみたいだから、消音の結界は弱めたわ。
制御に集中しきらずに雑談できるくらいにはね」
「そうですか……音さえ消せば至近距離を取れることはわかりましたが、なんとかして倒せませんか?」
それを聞いて、七緒は少し考えた後で言った。
「多分、無理。ゾンビみたいなもんでしょ、あれ。
風の刃で首を切断しても止まるかどうか……」
「それじゃあ、消音の結界を維持したまま移動することは……?
当初の予定通り自動車までたどり着いてしまえば……」
「ごめん、全く動けないってわけじゃないけど、ほんの少しずつしか……」
「……この結界、どれだけ維持できるんですか?」
「……数十分ってところね」
「暁さんが解決してくれるまで籠城するのは無理そうですね……」
二人は顔を合わせてため息をついた。そして、次の瞬間雰囲気を一変させる。
「……それで、七緒さん。いつもの秘密兵器はどこにあるのかしら?」
「ふふふ、それを聞かれるのを待っていたわ」
窮地におちいりながらも、二人はそれを跳ねのけるかのように笑った。
「さっきはああ言ったけど倒せる魔術はあるわ。
ただ準備に時間がかかるし、その間消音の結界も解除しないといけない」
「……つまり?」
「言いづらいんだけど……翡翠、あなたが囮になって、私から敵を引き離して。
距離が開いたら消音の結界を解除して私が仕掛けるわ」
死ねと言わんばかりの七緒の言葉に、翡翠は息を飲んだ。だが……。
「……やりましょう。私を守った人たちを何人も犠牲にしてしまいました。
もう私も命を惜しんではいられません」
「本当に大丈夫……?」
「ええ、大丈夫です。
いえ、動揺と怖いのを無理やり心臓制御で押さえ込んでるだけですけど、やるやらないで言えばやれます」
「便利なんだかつらいんだかわからない能力ね……。
それじゃあ翡翠。合図したら真っすぐ駆け出して。大丈夫、私に任せなさい」
「はい」
恐怖を押し殺しながらの、それでも決意のこもった翡翠の言葉を聞いて、七緒もうなずいた。
*
おっかなびっくり、翡翠は七緒の傍から少しずつ離れた。
そう時間のかからない内に風の流れと、それを越えた感覚があり、自分の足音が聞こえるようになる。
消音の結界から出たのだ。
足音を殺しながら少しずつ進みたいがそれもできない。山道に積もった落ち葉が一歩進む度に音を立てるからだ。
運動が苦手な翡翠が全力で走れるのは精々一分ほどしかない。
それでは七緒が数分稼いでくれと言った時間に足りない。
敵から距離があることを期待して、小走りに走り抜けるしかない。
高ぶりそうになる心臓の鼓動すら抑え込み、翡翠は動き続けた。
もう十分に時間はたっただろうか。いやそんなはずはない。
今はただ我慢のとき。少しでも時間を稼がなければ。
だが翡翠の祈りに応える神はいなかった。
響く銃声。周囲の枝が吹き飛ばされる。
距離があるのか、狙いは甘く翡翠に命中はしていない。
だがもはや一刻の猶予もない。翡翠は握りしめていた「もの」を投げ捨てると、走り出した。
*
霧で視覚を制限された世界。慣れない運動に荒れる息と鼓動。それでも翡翠は走り続けた。
敵はどんどん近づいてくる。止まれば命はない。
だが走り続けても先はない。距離は縮まり続け、射撃はどんどん正確になっていく。
そして射撃が足元をかすめ、翡翠は倒れこんだ。
疲労と地面に打ち付けた体の苦痛。立ち上がろうとしても体が動いてくれない。
動きが止まり、翡翠が立てる音が弱まったからだろうか、
より正確に狙いをつけるため、敵は姿を現した。
さきほど見たのと同じ、血色のない顔に虚ろな表情。だが、違うところもあった。
何かの拍子に外れたのか、サングラスがない。
露わになったその眼窩には何もない……いや、闇があった。
青山だったものは目から闇を吹きこぼしながら、翡翠に向けて銃を構えた。
翡翠は意識を手放しそうになったが、それでも諦めることはできなかった。
人工心臓に制御された肉体も、ヒヒイロカネの長としての精神としても。
それに、翡翠にも切り札はあった。
青山の背後、これまで翡翠が走ってきた方向から不意に声が上がる。
それは間違いなく、暁の声だった。
青山が振り返り、銃を乱射するが、もちろんそこに暁はいない。
翡翠がスマートフォンに録音していた暁の声を、タイマーで作動させたのだ。
もちろんこんなことで稼げる時間は一瞬。
だが、その一瞬が魔術師には必要だった。
チュウ、と鳴き声がした。
ネズミの鳴き声。青山の周囲、見回す限りにネズミが山を覆うように絨毯となっていた。
まるで、山全体のネズミを集めたかのよう。
七緒の使う群れの使役の魔術。それに必要なのは時間だった。
包囲された青山が、ネズミたちに向かって銃撃をするが、そんなものは群れの一部を崩すことすらできない。
一瞬にして、青山が群れに飲み込まれる。
七緒は今の青山のことをゾンビのようだと言ったが、屍ならばネズミに食われるのが道理であったのだろう。
しばらくの後、ネズミたちが立ち去った跡には、白い骨と銃器だけが残されていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます