第19話 約束

 楓の運転する車は、それから敵襲を受けることもなく街中へと順調に進み、翡翠の自宅へとたどり着いた。


 地価の高いであろう高級住宅街にありながら、広大な敷地を持つ大きな屋敷、それが翡翠の自宅だった。

 

 「止まれ。何の用だ」

 

 屋敷の入り口の門で、警備員に車が止められた。

 運転手である楓は、翡翠のいる後部座席の窓を開けながら警備員に答えた。

 

 「雨霧鷹彦さんから話が通ってないかな。

  翡翠お嬢様を連れ戻してきた。無事だって伝えてくれない」

 

 「翡翠お嬢様! ど、どうぞ、中にお進みください」

 

 翡翠の祖父、雨霧鷹彦の名前を出され、

 翡翠の姿を目にした警備員たちは、慌てふためきながら楓の車を門へと通した。

 

 庭の中を進むこと少し、屋敷の入り口まで車を進めると、そこに一人の人影があった。

 

 「……おじい様!」

 

 翡翠の言葉。

 

 七十を過ぎてすっかりと白くなった髪と、しわの刻まれた顔。

 そしてそれらと相反する未だに鍛えられた肉体。

 それが大規模な企業グループである雨霧グループを率いる翡翠の祖父、雨霧鷹彦だった。

 

 車が入り口の前で止められ、翡翠が車の外に出てくると、鷹彦は何も言わずに翡翠を抱きしめた。

 

 「よかった。無事で……」

 

 「……おじい様」

 

 それからお互い何も言わずに、翡翠は鷹彦に抱きしめられるままになっていたが、そこに楓が口を挟んだ。

 

 「あの、口出しはしたくないんだけど……翡翠お嬢様、苦しそうにしているけど」

 

 「はっ!?」

 

 鷹彦が慌てて腕を放すと、解放された翡翠は、けほけほと小さく咳き込んだ。

 

 「す、すまない、お前が無事だったのでつい……」

 

 「いいんです、おじい様。気にしていません……ありがとうございます」

 

 「う、うむ……翡翠、ゆっくりと話したいところだが、私はこれからこの者たちと話がある。

  今日はもう遅い。部屋に戻って休んでいなさい」

 

 「はい。……あの、おじい様、お二人にはとてもお世話になりました。

  ですから、その……」

 

 「わかっている。下がっていなさい」

 

 そして翡翠は、暁たちの方を振り向きながらも、メイドに連れられて屋敷の奥へと去っていった。

 

 「さて、と」

 

 先ほどまでの孫を前にした祖父のものとは違う、冷えた声。

 

 「二人とも、来てもらおうか。事情を話してもらおう」

 

 

 *

 

 屋敷にある応接室。

 

 そこは豪奢でありながら、重厚な雰囲気と実用性を感じさせる作りになっていた。

 鷹彦はソファに腰を下ろし、暁と楓にも腰を下ろすように促した。

 

 「君たちから、翡翠が深きものたちに狙われていると聞いたときは半信半疑だったが……。

  正しかったようだな、残念なことに」

 

 今回暁たちは、事前に鷹彦に翡翠が狙われていることを伝えた上で動いていた。

 

 魔術の世界と関わりがないにしろ、雨霧グループほど大きなグループになれば、闇に潜む者たちについても多少の知識はあるはずであり、交渉の余地があると判断したのだ。

 そして何より、雨霧グループとうかつに事を構えれば、暁たちが潰されかねないからであった。

 

 連絡を受けた鷹彦は、翡翠の警備を強化しようとしたが、それが間に合わずに襲撃は行われ、依頼を受けた暁たちが奪還に動くことになった。

 

 「……すいません。俺の祖父のせいで」

 

 「それ以上言わなくていい。

  それは君の祖父の責任であって、孫の君には関係ないのだから」

 

 暁の言葉に、押し殺した言葉で答える鷹彦。

 暁は、ただ無言で頭を下げるしかできなかった。そこに、楓が言葉を発した。

 

 「それじゃあ、話を先に進めさせてもらうね。

  翡翠お嬢様の人工心臓はもう外せない。改めてドナーからの心臓の移植を受けるにせよ、そう簡単には見つからないはず。

  そして彼女を狙っているディープワンの集団……いや、深海の神を崇める教団がいる。

  ならそいつらをぶっ潰すしかない」

 

 「だから援助しろ、と。君たちはそれほど信頼がおけるのかな」

 

 鷹彦の試すような言葉に、楓は動じずに返答した。

 

 「実力なら翡翠お嬢様の奪還で示したはず。

  それにたいしたことを要求するつもりはない。敵教団の本拠地はほぼ絞れつつある。

  そこを潰すとき、手を回して警察を黙らせてくれればいい。

  彼らが介入してきても犠牲が増えたり混乱の元になるだけだからね」

 

 私たちも逮捕されるつもりはないし、と続けた楓に、鷹彦は苦々しい口調で言った。

 

 「随分と気安く言ってくれるな。

  噂では政府にも化け物どもに対応する組織があると聞く。そちらを頼った方が確実ではないかね」

 

 「政府の組織は図体が大きい分動きも遅い。私たちの方が迅速に動ける。

  それに……」

 

 「翡翠の事情を政府に知らせるわけにもいかない、か……」

 

 鷹彦はそこまで言うと顔を歪めて、しばらく黙り込んだ。

 

 「……翡翠の両親は事故で早くになくなっている。

  私が親代わりとなって育てたつもりだが、大きな家だけにいらぬことも言われただろう。

  ……だが心臓の病も治り、翡翠の人生はこれからだ」

 

 鷹彦の重々しい声を、暁と楓は黙って聞くことしかできなかった。

 

 「いいだろう。君たちに手を貸そう。

  だが、連絡は密にするように。

  連絡が途絶えた場合、失敗したとみなして政府の方に依頼をする。

  ……政府の実験台になる恐れがあろうが、翡翠の命には代えられん」

 

 「交渉成立、だね」

 

 そこまで話したところで、表の方から大きな音が聞こえた。何かが激突するような音。人間の悲鳴。

 

 「……あいつら、失敗を取り戻すために追ってきたか。

  街中で堂々と仕掛けてくるなんて」

 

 楓のその言葉を聞く前に、鷹彦は動いており、警備との直通電話で連絡を取っていた。

 

 「おい、どうした!」

 

 「あ、あ、バケモノが、バケモノが……! やめろ、こないでくれ……!」

 

 肉を裂く音。そして電話の先は沈黙した。

 鷹彦は電話を切ると、楓と暁に言った。

 

 「悪いが、一つ仕事を追加だ。襲撃してきたやつらを迎撃してきてもらおう」

 

 「言われるまでもないですよ」

 

 暁は会話の最中には脱いでいた黎明を改めて装着すると、楓とともに屋敷の正面へと向かった。

 

 

 *

 

 正面の門を破り、門で見張っていた警備員を跳ね飛ばして、大型のトラックが突っ込んできた。

 門を破ったところでトラックは勢いを失い、スピンして止まったが、その荷台からは次々とフードを被った大柄な人影たちが下りてきた。

 

 「止まれ、この野郎! ……え?」

 

 警備員が静止の声を上げながら特殊警棒で打ちかかるが、相手はそれをまともに受けてもびくともしない。

 それどころか、打ちかかってきた特殊警棒を握りしめ、べきべきとへし折ってしまった。

 かぎ爪と鱗の生えたその手で。

 

 襲撃者たちはフードを破り捨てた。

 表れたのはまさに魚人の姿、ディープワン。

 

 警備員たちは事前にどんな相手が来ても怯むなと言われていた。

 十分な訓練を受け、給料も支払われていた。

 だが、怪物相手に戦うことなど考えもしていなかった。

 異形の姿に怯み、思わず下がったところを踏み込まれ、

 一人、また一人と血飛沫を上げて引き裂かれていく。

 

 「ひ、ひいぃぃぃぃ……!?」

 

 警備員たちの士気は崩壊した。

 逃げ惑う警備員たちには目もくれず、ディープワンたちはゆっくりと我が物顔で屋敷へ向かって庭を進んでいく。

 

 屋敷の入り口まではあと少し。

 だがそこで。先頭を進んでいたディープワンが銃声とともに頭部から血飛沫を上げてよろめいた。

 衝撃に立ち尽くしたところに続けて二度の銃声。標的となったディープワンは、頭部を破壊されて倒れ伏した。

 

 「……まず一匹」

 

 射撃したのは、屋敷の入り口でライフル銃を構えて立ちはだかる楓だった。

 正確な狙いで、頭部に確実に銃弾を命中させていた。

 ディープワンといえど、ライフル弾を複数発頭部に受けては死をまぬがれない。

 

 だが、怪物どもは同胞の死を目の当たりにしても怯まない。

 数を頼りに押しつぶそうと、入り口に殺到する。

 

 だが、そこに暁が真正面から突撃を仕掛けた。

 ディープワンのかぎ爪も怪力も、黎明の装甲の前には歯が立たない。

 敵の中心で暁は嵐のように暴れまわり、逆に怪物どもを蹂躙する。


 そして暁を避けて屋敷に向かって進むディープワンに対しては、楓が射撃で対応する。

 順調な戦いだった。そこまでは。

 

 「……!?」

 

 ディープワンの肉体を貫くはずの暁の抜き手が、一体のディープワンによって弾かれた。

 ただ単純に、胴体の硬さだけでそいつは黎明の鋼鉄の抜き手を弾いたのだ。

 

 いや、そいつはディープワンなのだろうか。

 フードを脱ぎ捨てて異形を露わにした他のディープワンと違い、そいつだけは未だにフードを被り続けている。

 そして、他より一回り大柄だ。嘲笑うように、暁を見下ろしている。

 

 「調子に乗るな。正体を、表せ……っ!」

 

 黎明の腕が怪物の纏うフードを引き裂く。

 その下から現れたのは、甲羅だった。

 

 「……亀!?」

 

 魚のようなヒレが頭や手足についており、手足の先が人間のようになっているという違いはある。

 だが特徴的な甲羅から突き出した手足に頭。

 その姿は、まさしく直立した亀であった。

 

 「暁、ディープワンは人間以外とも混血すると聞いたことがある。惑わされるな!」

 

 屋敷に迫るディープワンたちを狙撃しながら楓が叫ぶ。

 そうだ、硬いだけなら手の打ちようはいくらでもあると暁が拳を握りなおしたそのとき、

 亀は密着した距離から突撃をしかけてきた。

 

 とっさに避けきれず、突撃を受けて、暁は両肩を掴まれる。

 重量と勢いを前に押し倒されないのがやっとの暁だったが、さらに亀は大きく口を開いた。

 そこからあふれ出したのは紫色の煙。

 

 「小細工を……!」

 

 視界を遮られた暁は、とっさに視覚センサーを赤外線に切り替え、相手の足を払い、蹴り飛ばす。

 

 だが亀は滑稽にも甲羅を下に転がり回りながら、周囲に紫煙をまき散らす。

 それは、驚くべき勢いで辺りを包み、楓のいる屋敷の入り口にまで及んだ。

 

 そして黎明のセンサーからの警告が暁に入った。煙に毒性あり、と。

 

 「師匠!?」

 

 楓の返事はない。そして、耐性があるのか、他のディープワンは紫煙の中を屋敷に向かって進んでいく。

 どうすればいいかわからず、暁がパニックになりかけたとき、銃声が響き、ディープワンが倒れ伏した。


 師匠はまだ無事だ、ならば俺は屋敷まで煙が広がらないうちにこの亀を始末する。

 暁はそう決断すると、ぐるぐると滑稽なダンスをいまだに繰り返す亀に対して向き直った。

 

 「いつまでも遊んでるんじゃねえ!」

 

 跳躍して亀の甲羅に上から飛び乗る。

 亀は回転しながらも紫煙を黎明に吐きかけるが、気密性のある黎明に守られた暁には効果がない。

 

 暁は抵抗に構わず両手からワイヤーを射出し、亀の首に巻き付ける。

 亀は首を甲羅の中に引っ込めようとするが、ワイヤーに引き戻され、逃れられなかった。 

 そしてそのまま、暁は電撃をワイヤーから放出する。

 

 亀は狂ったように暴れまわるが、暁はロデオのようにワイヤーを支えにして亀の上から離れない。

 必死の抵抗も虚しく、亀は焼け焦げた臭いを発しながら絶命した。

 

 「手こずらせやがって……師匠!」

 

 銃声はすでに止んでいた。そしてもはや動いているディープワンは残っていない。

 暁は急ぎ、屋敷の入り口へと走った。

 そこでは、楓がライフルを手に握ったまま倒れ伏していた。

 

 「師匠! くそっ!」

 

 暁は楓の体を抱えて、煙の外、風上へと向かって移動した。

 庭のやわらかい土の上に、楓の体を仰向けに横たえる。

 

 「……ああ、うん」

 

 「よかった、無事だった……」

 

 「これくらいで、どうにかなる鍛え方はしてないよ……ゴホッ。

  ……敵は、全部倒したんだろうね」

 

 「ええ、みんな倒しました。だから師匠も医者に……」

 

 そのとき、ガラスの割れる音と悲鳴が聞こえた。翡翠の声だ。

 

 「こっちは陽動か……。……暁、急げ!」

 

 「で、でも、師匠をこのままにして……」

 

 「暁!」

 

 弱った体とは思えない、楓の鋭い声。

 

 「私は、大丈夫だ。

  だから君は行くんだ! あの女の子を、助けるんだろう。

  だったら私に構っている暇はないはずだ」

 

 暁は、その言葉を聞いて走った。振り返ることなく。

 楓はそれを見届けると、ゆっくりと地面の上で目を閉じた。

 

 

 *

 

 翡翠をさらった者は、屋敷から脱出するとすぐに近くに潜ませていた車に乗り込んでいた。

 

 暁はその後を追い、人気のない深夜の道路を駆け抜けていく。

 パワードスーツである黎明の力を全力で発揮し、装着者への負担を考えなければ、車と同等の速度を出すことも可能だ。

 

 だが、それでは引き離されることもないが追いつくこともできない。

 根競べのように走り続けていたが、暁の速度が落ちた。

 装着者の肉体負担が限界だという黎明の判断によるものである。

 暁は車からゆっくりと引き離されていく。

 

 だがここまでくれば敵の目的地はわかっていた。

 そして見えてきた。最初に翡翠が攫われていた、森の中の廃棄された建物が。

 

 建物の周囲に散らばっていた、楓が始末したディープワンどもの死体はもうない。

 やつらが掃除したのか。だが、そんなことは今の暁にはどうでもいいことだった。建物の奥へと足を進める。

 

 暁を誘導するかのように通路には明かりがついていた。

 これは罠だ。だが、今は乗るしかない。

 

 通路を進むと、そこは翡翠を救出した部屋だった。

 部屋の中には外から運ばれたのかディープワンの死体が転がり、

 部屋の中央のベッドにさるぐつわをはめられた翡翠が拘束され、身をひねりながら暁に助けを求めていた。

 

 だが、今は暁はそれに答えることができなかった。翡翠との間に、

 フードを被った細身の男が立っていたのだから。

 

 「……翡翠を解放しろとは言わない。お前を倒して取り返させてもらう」

 

 「できるかな。

  ここでお前を倒し、その黎明を奪い、雨霧翡翠を連れて我らが本拠地へ戻るまでよ」

 

 深きものにしては流暢な口調。その事実に対して、暁ははったりも兼ねて言い返した。

 

 「その喋り方、ただのディープワンってわけじゃないな。

  だが、今更変異途中の人間との混血種とも思えない。さてはあの亀みたいに何か他の生物との混血か」

 

 フードの男はそれに答えず、暁を嘲笑した。

 

 「この部屋は元々儀式のための部屋。そしてお前たちに殺された同胞の血。

  恐怖の感情を神に捧げる贄……条件は整ったのだ」

 

 部屋の中央、翡翠が捕らえられたベッドの周りの床が赤く輝く。

 それは、血で描かれた魔法陣の輝き。

 

 「てめえ……!」

 

 暁が殴りかかる。だが、フードの男の詠唱の方が早い。

 

 「遅い! いあ・いあ・くとぅるふ・ふたぐん!」

 

 海神を崇める呪文とともに、魔法陣から大量の濁った水があふれ出し、逃れる間もなく暁を飲み込んだ。

 

 

 *

 

 暗闇の中で暁は意識を取り戻した。

 体がひどく重い。慌てて各種センサーを起動する。

 わずかな間を置いて分析結果が出る。ここは深い海中。光も届かない闇の中。

 

 意識が途絶えたのは暁が師匠から話に聞いていた、魔術による空間転移に伴う弊害だろう。

 海中とはいえ、黎明の気密性と内蔵酸素によって、即座に窒息する心配はない。

 そして翡翠がここに飛ばされていないことについては祈るしかない。

 一刻も早く敵を撃破し、帰還しなければ。

 

 そのとき、黎明の赤外線センサーが何かを捉えた。

 水中を泳ぐ人型の影。フードを被ったその姿を認識した瞬間、暁はワイヤーを射出していた。

 

 だが、敵はフードを脱ぎ捨て攻撃を回避。その下から現れたのはやはり魚人。

 だがこれまで多く戦ってきた魚人たちよりも細身で流線形のその姿は、

 暁がかつて祖父と行った水族館で見たものを彷彿とさせた。

 

 「イルカ魚人……!? ほ乳類か魚類かはっきりしやがれ!」

 

 ワイヤーを引き戻しながら、暁は黎明のヘルメットの中で悪態をつく。

 イルカ魚人は攻撃を回避した後、大きく回り込んで背後を取ろうとしてくる。

 それに対して暁はもたもたと方向を変えることしかできない。

 黎明は水中でも活動可能なパワードスーツであるが、活動可能なだけで水中戦闘を大きく考慮していないのだ。

 

 有利な位置を取り、突撃してくる相手に対して暁は覚悟を決める。

 水中戦では確かに相手に分がある。

 だが、風変りな姿をしていても所詮は魚人、近づかなければ攻撃できないはず。

 接近戦なら戦い方はある。そのはずだった。

 

 「がはっ!?」

 

 相手からの一撃を覚悟して反撃に出ようとした暁だったが、相手は触れることなく暁を吹き飛ばした。

 

 イルカは超音波を感知に利用する動物である。

 イルカと混血した結果生まれたこの深きものは、超音波を攻撃手段として使用することができた。

 音による攻撃が、黎明の装甲を貫通し、内部の暁を責め立てる。

 

 だが暁もやられるままではない。吹き飛ばされながらも敵に向かってワイヤーを射出する。

 だが、不安定な姿勢な上、距離がある状態で射出されたワイヤーをイルカ魚人は軽々と回避。

 

 その後もイルカ魚人は、暁の下方や上方、そしてまた背面へとに回り込んでの超音波攻撃を繰り返してきた。

 暁は黎明の内部で血を吐く。黎明の装甲も超音波に対して全く効果がないわけではない。

 もし黎明を着ていなかったらとっくにぐちゃぐちゃの肉塊になっていただろう。

 

 「分は悪いが、根競べしかない……!」

 

 暁のワイヤーがイルカ魚人を絡め取るのが早いか、超音波が暁を仕留めるるのが早いか。

 

 だが、戦場の優位は覆らない。

 

 幾度目の攻撃だっただろうか、吹き飛ばされた暁の動きが止まり、手足からだらりと力が抜ける。

 それでもイルカ魚人は油断をしない。

 死んだ振りを考え、動かなくなった暁に執拗に超音波を浴びせる。

 その度に暁の体が水中で跳ね飛ばされた。

 

 そしてどれだけたっただろうか、海水が渦巻き始め、どこかに流れ始めた。

 流れのままに引きずり込まれ、重い音を立てて、黎明がコンクリートの床に落下する。

 海中と陸を繋げる魔術も永遠には続かない。元の場所へと戻ってきたのだ。

 

 「……! ……!」

 

 ベッドの上に拘束されたままだった翡翠が、暁を見て声なき声で悲鳴を上げる。

 だが、暁は横たわったまま、ぴくりとも動かない。


 そして同じく陸へと戻ってきた、勝者であるはずのイルカ魚人は悩んでいた。

 超音波は内部攻撃である以上、外部から鎧の内部にいる暁の状態を判断することはできない。

 

 力自慢の深きものが数人がかりならば、黎明を力づくで引きはがすこともできるだろうが、イルカの血が混ざったこの個体は単純な腕力ならば他の同胞に劣った。

 

 だが、超音波をあれだけ浴びて無事なはずがないという自信もあった。

 黎明は深きものの教団の目的の一つだ。放置することはできない。運び出さなければ。

 その前に念には念を入れてだ。

 水中ではないため遠距離からの超音波は使えないが、密着しての最後の駄目押しをくれてやる。

 

 イルカ魚人の判断は正しかった。暁にはまだ息があった。

 しかし黎明の中で血反吐にまみれ、意識を失っていた。

 

 ゆっくりと暁に近づいてくるイルカ魚人。

 これでとどめだ。彼はそのつもりであったのだろう。

 だがそのとき黎明の腕が動いた。

 陸上では魚人が反応できない速度で羽交い絞めにし、力任せに捻りつぶす。

 

 イルカ魚人は苦痛に叫びながら、額から超音波を発するが、

 不幸にも鎧に額を密着できていない。その攻撃は空に虚しく溶けた。

 

 暁はタイミングよく意識を取り戻していたわけではない。未だ意識を失ったままだ。

 だが戦いの中、暁は自分が水中での戦いには勝てず、超音波に耐えられないだろうと判断していた。

 そこで黎明に事前に行動を入力しておいたのだ。

 自分が意識を失った場合、近づいてくる相手を全力で締め上げろと。

 黎明の鋼鉄の腕が無慈悲に魚人を締め付ける。陸の上で、魚人に耐える術はもはやなかった。

 

 

 *

 

 何か声のようなものを聞いて、暁は目を覚ました。

 

 腕の中には何か固いものの感触。耐えがたい頭痛。止まらない吐き気。口の中から溢れる血反吐。

 暁は思わず腕の中の魚人のなれの果てを振り捨て、黎明のヘルメットを脱いで嘔吐した。

 

 暁はしばらく血混じりの胃液を吐いていたが、視線を感じ、ふと顔を上げた。

 涙をたたえた瞳でこちらを見つめる翡翠と目があった。

 

 そうだ、彼女を助けなければ、と暁はよろよろと起き上がり、翡翠をベッドの拘束から解除した。

 

 「……大丈夫か」

 

 「それは、こっちの台詞です」

 

 起き上がり、ベッドに腰を下ろすと、翡翠はふらついている暁を抱き留めた。

 

 「泣きわめきたくても、頭は勝手に落ち着いちゃいますし、

  暁さんが動かないからもう駄目なんじゃないかって考えが頭から離れなくて、凄く困ったんですが……」

 

 「……すまん」

 

 「無茶、しないでください」

 

 「……ああ、次があったら、もっと頑張る」

 

 「……また襲われるんですか?」

 

 翡翠の暁を抱く手に力がこもる。だが、暁は翡翠を抱きしめて言った。

 

 「……いや、そんなことにはさせない。やつらは俺たちが絶対に叩き潰す。

  でももし、また翡翠が狙われることがあったら、絶対に助けに行く」

 

 「絶対って言いすぎですよ。

  ……でも、もしそうなったら、絶対にお願いしますね」

 

 「ああ……」

 

 約束した。必ず、勝って生き残らないといけない。

 そしてここはまだ敵地だ、脱出しなければ。

 

 だが、翡翠を抱えて屋敷まで走る力は今の暁にはない。

 ここから抜け出して近くに潜伏し、師匠に連絡を取って迎えにきてもらおう。

 ……だが、体に力が入らない。もう少し、もう少しだけこの柔らかい腕の中で休んでもいいだろう。

 そう思いながら、暁は意識を失った。

 

 

 *

 

 屋敷の庭で目をつむり、横たわる楓。

 そんな彼女に近づく人影があった。

 

 それは屋敷の使用人服を着たメイド。

 だが、その手には鋭くとがったナイフが握られていた。

 ためらうことなく、楓の心臓に向かって刃が振り下ろされる。

 

 「よっと」

 

 「!?」

 

 気絶していたはずの楓は、横たわったままその身に迫る刃を腕を掴んで止めていた。

 その力は万力のようで、メイドがどう抵抗しようが引きはがすことができなかった。

 

 「気絶している今なら容易に倒せると思ったかな」

 

 楓はそう言いながら、メイドを引き倒し体勢を入れ替える。

 うつぶせに地面に倒れたメイドの上に楓がのしかかる形になった。

 そしてそのままナイフを奪い取る。

 

 「な、何故だ、あの毒を吸って人間がすぐに動けるようになるわけがない!」

 

 「お前たちみたいなのと戦うんだ。こっちにだって備えの一つくらいはあるさ」

 

 そう言いながら、楓はナイフでメイド服の背中を縦に切り裂いた。

 その下から表れたのは柔らかな白い肌、ではない。

 一部分ではあったが、確かに魚類の鱗が生えていた。

 

 「ディープワンと人間の混血。それも覚醒途中ってところか。

  ……雨霧翡翠が帰国後間もなく襲われたことで、身内に裏切り者がいる可能性が高いと考えていた。

  早くにぼろを出してくれて助かったよ」

 

 「……私をどうしたって無駄だ。翡翠お嬢様、いや、生贄は連れ去ったのだから」

 

 「いいや、そうはならないね。私の弟子はそんなにやわじゃない。

  お前たちのやろうとすることは全て無駄だ」

 

 「……何故、邪魔をする、私たちのようなものが救われる道は、神の降臨にしかないんだ!」

 

 メイドの叫びを聞いて、楓は笑った。

 

 「ああ、そうだね。そうかもしれない。

  ……だけど、お前たちの思い通りになんか絶対にさせない」

 

 「くっ」

 

 咄嗟に舌を噛んで自害しようとしたメイドだったが、

 背後からの楓の拳がその意識を奪い取った。

 

 「混血種なら少々手荒に扱っても大丈夫だろう。情報はたっぷりと吐いてもらう。

  ……ああ、聞こえてないか」

 

 そう言うと、楓はメイドから手を放し、立ち上がった。

 

 「……私たちは世界を救うと誓ったんだ。たとえ、何を失ったって。ねえ、そうだろう……」

 

 ここにはいない誰かに向けられたその言葉。

 それを発する楓の瞳は、深い青色に輝いていた。

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