第18話 翡翠

 闇。彼女は、暗闇の中で目覚めた。

 

 状況を把握できず、何事かと体を起こそうとしてところで、体勢を崩して無様に暗闇の中で転がってしまう。

 

 理由は後ろに回された両手にある冷たい感触。

 どうやら手錠か何かで拘束されているようだ。

 

 彼女は混乱する感情を落ち着けようと、状況を整理しようとした。

 自分の名前は雨霧翡翠。高校生。雨霧グループの令嬢。

 長年の病魔から解放され、ごたごたを避けるためについ先日まで海外で療養していたところ。

 そして日本に帰ってきて……。

 

 「思い、だした……」

 

 空港から自宅の屋敷まで車で移動している最中、不意に横につけてくる大型車があった。

 最初は強引な幅寄せかとも思ったが、それどころか横から体当たりされ、翡翠の乗っていた車はガードレールに衝突した。

 

 「そこまでしか覚えていませんけど……拉致された、ということですよね」

 

 都合の悪いことに、彼女は拉致されるような心当たりには事欠かなかった。

 犯人たちの要求は何だろうか。金銭か。私の命か。

 そこまで思考を巡らせたところで、ギィという音がした。扉が開く音。

 暗闇の中で姿は見えなかったが、何者か……彼女を拉致した犯人が彼女のいる部屋に現れたのだ。

 

 「……目が覚めたか」

 

 くぐもった、無理をして出しているような不自然な声。

 翡翠はそこから犯人は日本語に慣れない外国の人間かと判断した。

 

 「ええ。素敵な待遇ありがとうございます。快適な目覚めでした。

  ……私についていた、運転手と護衛は無事でしょうね」

 

 その言葉に相手は答えなかった。

 暗闇の中、無言で翡翠に近づき、服の襟首を持ち上げる。

 

 「ちょ、ちょっと……」

 

 密着した瞬間、相手から漂う生臭い臭いに吐きそうになる。

 だが、そんなことは言すぐに言っていられなくなった。

 相手は、翡翠を立たせることすらせず、襟首を掴んで部屋の外へと引きずっていったのだから。

 

 首が締まり、窒息することがないように、翡翠は不格好に足を動かして引きずられていくしかなかった。

 

 明かりのない暗闇の中だというのに、相手は不自由する様子もなく廊下を進み、階段を降り、扉を開ける。

 そして翡翠は部屋の中へと放り投げられた。

 

 部屋の中にはには点滅しているも電灯の明かりがあり、暗闇と引きずられることから解放された翡翠は、咳き込みながら周囲を見回した。

 だが、すぐにそれを後悔することになった。

 

 「横山さん……高峰さん……!?」

 

 鼻を刺す鉄錆の臭い。

 翡翠の運転手と護衛は、苦悶の表情を浮かべ、

 全身に無数の穴が開いたその死体を、部屋の中で晒していた。

 

 翡翠が連れてこられた部屋は手術室のように広く、

 中央に拘束具が付いたベッドがあり、その周りには用途を想像するもおぞましい拷問器具が転がっていた。

 

 そして、フードを目深に被った男が床に転がる彼女を見下ろしていた。

 

 「……すまないね。手荒に扱うなと注意したんだが。

  一人で起きられるかな? 手を貸そう」

 

 そう言って男は、赤い、血塗られた手を翡翠に伸ばしてきた。

 彼女は身をよじって逃れようとするも、抵抗虚しく肩を掴まれて引き起こされた。

 

 「……何が目的なんですか」

 

 あまりにおぞましい状況。

 見知った人間の変わり果てた死体。

 普通なら狂乱していてもおかしくないはずだった。

 だが、雨霧翡翠はそう聞き返してしまっていた。

 

 「うん、この状況でも心音は落ち着いているね。情報通りだ。

  ……正気を保ててしまっている」

 

 くぐもった声で、満足そうに言う男。

 翡翠はそれに何も言うことができなかった。恐怖からではない。

 この男を刺激してはならないと判断したからだ。

 

 「ああ、なに、君の護衛たちのように乱暴に扱いはしないよ。

  君にはどれだけの苦痛を味わっても正気を取り戻す力がある。

  ……だからこそ数えきれないほどの苦痛を与え、それを我らが神に捧げさせてもらう」

 

 その言葉を聞いて翡翠は思った。神だと。こいつらは頭がおかしいのか。

 いや、それよりも確認するべきことがある。

 

 「……正気を取り戻す力って、私にそんなものはありません。何かの間違いですよ」

 

 だが、フードの男は大きく首を横に振った。

 

 「いいや、君は知らないだけさ。君の胸に埋め込まれた人工心臓。

  それが狂気の科学者、御堂仁の遺産なのだからね……!」

 

 その言葉に翡翠は意表を突かれた。

 人工心臓。長年の彼女の病を癒してくれた恩恵。

 そしてそれを彼女に与えてくれた、稀代の科学者御堂仁。

 だがこいつはそれを何といったのだ。

 

 「わかりません、あなたは一体、何を……?」

 

 だが男にはそれ以上話すつもりはなかったのだろう。

 翡翠の体を抱き上げると、ベッドの上に横たえる。

 そして拘束具に腕を通すのに邪魔だったのだろう。翡翠の両手を結びつける手錠の鎖を、素手で引きちぎった。

 

 思わず翡翠はフードの男の手を凝視する。

 血で赤く染め上げられていて気づかなかったが、その手には鱗とかぎ爪があった。

 フードの奥に覗く顔は、目が左右に離れていて、鱗でつるりとしていた。

 

 「バケモノ……!?」

 

 無言で喜悦の気配を浮かばせるフードの男、いや、バケモノ。

 これからどんな目に合わされるかを想像してしまい、翡翠の心は狂乱の渦に包まれた。

 

 だが、そんな心に構わず、心臓は変わらない心音を鳴らし続けており、彼女は正気のまま、狂気に逃げることすら許さなかった。

 

 絶望を瞳に浮かべる翡翠をバケモノはゆっくりと拘束しようとした。

 だが、そこで、部屋の扉が吹き飛んだ。

 

 「え……!?」

 

 扉ごと、魚と人を混ぜ合わせたような怪物……翡翠をこの部屋まで連れてきた男が部屋の中に吹き飛んできた。胸に大穴が開き、絶命している。

 

 そして、扉を破ってゆっくりと姿を現したのは、漆黒の鎧に身を包んだ人間だった。

 翡翠を拘束しようとした怪物が焦りの声を上げた。

 

 「黎明……!? 御堂暁、またも我らの邪魔をするか!」

 

 「うるせえよ!」

 

 大きく踏み込んでの真っすぐな突き。

 パワードスーツの脚力と腕力を乗せた、頭部を狙った一撃を、怪物はなんとか両腕を交差させて受け止めた。

 だが、突きの威力に耐えられず、両腕がへし折れる。

 

 苦痛にわめく怪物に構わず、暁と呼ばれた男はむき出しになった怪物の腹に蹴りを放つ。

 怪物は壁へと吹き飛ばされ、口から大量に赤黒い体液を噴き出すと動かなくなった。

 

 「よし!

  ……大丈夫か。すぐに敵の増援が来る。ここから離れるぞ」

 

 伸ばされたその手、血塗られたその手を恐れてもおかしくはなかった。

 

 「……はい。連れて行ってください!」

 

 だが、翡翠はその手を掴み、その場から逃げ出した。。

 

 

 *

 

 翡翠が外に出ると、そこは夜の森の中だった。

 建物の中にいるときにはわからなかったが、どうやら郊外の廃棄されたボロボロの建物に閉じ込められていたらしい。

 

 建物の外には、頭を撃ち抜かれた魚人たちの死体がいくつも転がっており、

 翡翠は思わず息を飲んだ。

 

 「無事救出できたみたいだね」

 

 魚人たちの死体の傍に立っていた、散弾銃を持った無表情な女性が暁にそう声をかけた。 

 

 「いや、護衛の人たちまでは助けられなかった……」

 

 「そう……。でも敵の応援が来るかもしれない。今はここを離れよう」

 

 女性はそう言うと、近くに停めてあった車に乗り込み、暁と翡翠にも乗り込むようにうながした。

 

 「かっ飛ばすよ」

 

 二人が乗り込むと、女性はそう言って車を走り出させる。

 一気に加速し、建物を後にした。

 

 

 *

 

 しばらくしたころ。

 車は郊外の山道を走っていた。対向車もいない、明かりは車のライトだけ。そんな辺鄙な道だった。

 

 「あの……」

 

 「……ああ、すまない。

  自己紹介がまだだったな。俺は御堂暁。

  運転してるのは俺の師匠で楓って言うんだ。

  俺たちは君が攫われたって聞いて助けに……」

 

 「いえ、説明はありがたいんですけど、これを外していただければと……」

 

 そう言って翡翠は、手錠がはめられたままの腕を暁に見せた。

 手錠を結ぶ鎖は魚人によって引きちぎられていたが、手錠の冷たい重さは未だに翡翠を縛っていた。

 

 「あっ、ごめん。すぐに外す」

 

 表情は鎧で見えなかったが、暁は慌てた声を出すと、手錠の輪を鎧の指の力だけで粉砕した。

 ようやく解放された腕を翡翠はさすり、あらためて暁に話しかけた。

 

 「ありがとうございます。

  それから、お顔くらい見せていただいてもよろしいのでは?」

 

 「……そうだな。顔だけでいいなら」

 

 そう言うと、暁は鎧の頭の部分だけを取り外した。

 中から現れたのは、翡翠とそう年も変わらない男の子の顔。

 だが、どこか荒んだ印象のある顔だった。

 

 「これでいいかな」

 

 「ええ、これで落ち着いて話ができますね。

  御堂暁さんとおっしゃいましたね。御堂仁さんのご親戚か何かですか?」

 

 その言葉を聞いて、暁の顔が苦々し気に歪められた。

 

 「……ああ、孫だ。

  君が狙われたのもおじいちゃんの研究が原因になる。すまないって言葉じゃ済まないが……」

 

 「暁、謝罪の前に事情を説明しないと混乱させるだけだよ」

 

 運転席の女性、楓からの指摘を受けて、暁は気まずげに口を閉じた。

 

 「……私をさらった連中は、私の心臓に秘密があるって言いました。

  それを教えてください」

 

 「ああ。順を追って話そう。

  君は重度の心臓病で、おじいちゃんが新開発した人工心臓の移植を受けたって聞いている」

 

 重度の心臓病患者の治療については、臓器移植でまかなうのが最善だが、

 ドナーの数は限られ、相性が合うドナーがタイミングよくいるとも限らない。

 そこで必要となってくるのが人工心臓だ。

 

 人工心臓には二種類ある。

 一つは心臓を丸ごと機械と入れ替える置換型人工心臓。

 もう一つは心臓は残したまま、補助の機械を入れる補助人工心臓。

 そして御堂仁の開発した人工心臓は前者である置換型人工心臓だった。

 

 「ええ。人工心臓には臓器移植と比べて、様々な問題点がありますが、

  それらを全てクリアしたものだと聞いています。

  御堂仁さんには、時間をかけて私に合わせたものを造っていただきました」

 

 もっとも性能のためにコストは度外視されていたが、翡翠の実家である雨霧グループにはその費用を容易に支払えるだけの力があった。

 そして、移植後の体調は良好そのもの。今日まで不安に思うことなどなかった。

 

 「……でも、それだけじゃないんですね」

 

 「ああ、君に移植された人工心臓には副作用がある。心臓が心を決めてしまうんだ」

 

 翡翠は目をぱちくりとさせる。

 彼女をさらった魚人にもそう言われた。

 実際に修羅場にあってもありえないほど落ち着いてしまっていた。

 だが、納得はできない。

 

 「心当たりはありますが、私は私です。私の心は私のものです」

 

 「暁、言い方が悪い」

 

 また運転席からの指摘。暁は頭をかくと、しばらく考えた後、翡翠に言い直した。

 

 「ややこしくなるが……まず、精神的に動揺すると動悸が激しくなったりするよな」

 

 「ええ」

 

 かつて病の身であったころには、強い精神的な刺激を避けるようにしつこく言われていた。

 翡翠にとってはわかりきったことだ。

 

 「だが逆はどうだ。どれだけ精神的に動揺しても、

  心臓の動きが平常通りなら、心は平静を取り戻すとしたら?」

 

 そんなことは常識的にはありえない。

 だが、先ほどまでの体験が、翡翠にそれが事実であると示していた。

 実際に、今このときも動揺する頭に対して、心臓は平時通りの脈拍を刻み、心を落ち着かせているのだから。

 それでも翡翠の理性は、それを否定するべく言葉を紡ぎだしていた。

 

 「そんなことありえませんよ。現実的じゃない……」

 

 「……残念だけど、世の中には俺たちの知ってる現実から外れたことがある。

  ディープワン……あの魚人たちや、この鎧のように。

  おじいちゃんの研究の中には、魔術を使ったとしか思えないものがあるとも言われている」

 

 そこまで言うと、暁は翡翠に対して向き直り、深く頭を下げた。

 

 「……俺のおじいちゃんがすまなかった」

 

 沈黙が下りる。しばらくの後、翡翠は言った。

 

 「……頭を上げてください。

  事情はわかりませんが、おじいさんはともかく、暁さんが悪いわけじゃないでしょう?」

 

 「……すまない」

 

 「私は、これからどうなってしまうんでしょうか……?」

 

 翡翠の疑問に、運転席の楓が答えた。

 

 「抑制されるのは極めて強い感情だけで、日常生活を送るだけなら問題ないはずだよ。

  そもそも感情抑制機能自体、御堂仁も意図してつけた機能ではなかったようだね。

  患者の生活のためにも、施術後に調整を行う必要がある、と本人も言っていたそうだ」

 

 「なら、調整を受ければ……」

 

 「残念ながら、御堂仁が亡くなったので、調整できる人間はもういないんだ……」

 

 車内に沈黙が下りる。だが、その沈黙を破るものがいた。

 

 「だが、俺たちにもできることがある。

  あんたを狙うディープワンたち、あいつらは全て俺たちが倒してみせる」

 

 「……あそこにいたので、全部じゃなかったんですか」

 

 「ああ、あそこは支部の一つに過ぎない。

  だけど、やつらの情報は今でも調べていて、近々決着をつける予定だ」

 

 そう言って、暁はもう一度深く翡翠に頭を下げた。

 

 「頼む。あんたを助けさせてくれ」

 

 翡翠は暁を見つめると、小さくため息をついた。

 

 「暁さん。あんたじゃなくて、私の名前は翡翠です」

 

 「あ、ああ、すまない」

 

 「それから質問なんですけど、私の体って、恋が出来るんでしょうか?

  あれも激しい感情だと思うんですが」

 

 「どうだろう……いや、本当にすまない!」

 

 慌てる暁の様子を見て、翡翠はくすくすと笑った。

 

 「まあ、今後の人生でわかることでしょうけど……万一の時は、責任取ってくださいね」

 

 「ええっ……!?」

 

 「もう、女の子にむかって、ええっとは何ですか」

 

 それに、と翡翠は続けた。

 

 「暁さん。あなたが助けに来た時、私はあなたに怯えていてもおかしくなかった。

  だけど、そうならずにあなたの手を取ることができた。

  それがこの心臓の力なら、そんなに頭を下げないでください」

 

 「……ありがとう」

 

 翡翠の微笑みを受けて、もう一度暁は頭を下げた。

 

 

 *

 

 しばらく無言のまま車に揺られていた翡翠と暁だったが、ぽつりと翡翠が口を開いた。

 

 「それにしても、狙われる覚悟はしていましたが、まさかこんなことになるなんて……」

 

 「……他にトラブルでもあったのか?」

 

 気遣うような暁の言葉に、翡翠は何事もないかのように答えた。

 

 「まあなんといいますが、私の家はお金持ちでして。

  病弱だった私は当主であるおじい様に溺愛されています。

  ……それが治療を受けて、いつ死んでもおかしくなかった小娘がすっかり元気になってしまったもので、まあ色々ありまして」

 

 「ああ……」

 

 なんと言っていいか困っている暁に、翡翠はくすくすと笑いながら続けた。

 

 「お気になさらず。

  そういうわけで、おじい様が、うるさい連中は黙らせておくから、その間静養ということで海外にでもいってなさいとおっしゃいまして。

  それで先日まで海外にいたんです。

  ……まあ、静養といっても、学生なので、ただでさえ病気で遅れがちだった勉強を取り戻すために色々と課題をやっていました。

  あまり静養できた気はしませんね」

 

 翡翠の言葉を聞いて、暁はわずかに黙った後、口を開いた。

 

 「学生か。……学校なんて、随分行ってないな」

 

 その言葉を聞いて、無言で暁を見つめた後、翡翠はゆっくりと口を開いた。

 

 「……暁さん、あまり学校を休んでいると、留年しますよ」

 

 「今関係ないだろ、それ!?」

 

 「そもそも、暁さんってお幾つなんですか? ちなみに私は……」

 

 お互いに年齢を言い合った結果、翡翠の方が暁より一つ下だとわかった。

 

 「あーあ、このままだと留年してしまって、暁さんが私と同学年になってしまいますね」

 

 「ぐふっ……。いいんだよ、おじいちゃんが亡くなってからそれどころじゃないし!

  もう、学校なんて……」

 

 「暁、それは違う」

 

 これまで黙って二人の話を聞いていた、運転席の楓が口を開いた。

 

 「君はもう世界の真実を知ってしまった。引き返せはしないし、今の君に帰る場所はないとも前にいった。

  ……それでも将来はどうなるかわからない。

  日常の日だまりとの間を行き来する生き方もあるんだ。諦めちゃいけない」

 

 「師匠……」

 

 「ディープワンの一件が片付けば君の身辺も落ち着くだろうしね。

  そのときにゆっくり考えてみるといい」

 

 「……はい」

 

 暁が黙ってしまったことを確認すると、楓は口にはせず、頭の中でだけ会話の続きを言葉にした。

 もっとも、私の日だまりはもうなくなってしまったけどね、と。

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