第12話 死闘
暁が空鬼と戦闘に入ったのと同時刻。
それまでの数時間、じっと目をつむり、精神を集中させていた七緒は、その集中を解いた。
額の汗を拭いながら、傍にいる翡翠に話しかける。
「……空鬼の制御が解けたわ。暁と戦闘に入ったようね。
所詮は付け焼刃の不向きな呪文。戦闘に入れば制御はできない。
……暁が負けたら、制御を失った空鬼は命令を下した私と、それから一緒にいる翡翠、あんたを狙ってくる……」
七緒と一緒に、別荘の緊急避難用の一室に避難していた翡翠は、七緒の言葉を遮った。
「大丈夫です。暁さんを信じましょう。
あの人はいつだって、勝って帰ってきました……だから、大丈夫です」
「そうね。……ま、暁が負けても、私が倒しちゃうけどね」
七緒は肩をすくめると、万一暁が負けた場合に備え、これまでの術の行使で消耗した体力と精神力を補おうと、準備していた栄養ドリンク数本を一気に飲み干した。
そして、翡翠が暁の勝利を願い、七緒が緊張とともに待機することしばらく。
「……空鬼の反応がなくなった。暁がやったみたいね」
「そうですか! やっ……ああぁぁぁぁぁぁぁ……っ!?」
その瞬間、七緒と翡翠は悲鳴を上げながら絨毯の上を転げまわった。
彼女たちにはわからないことだったが、それは虚空から触手が現れ、異質で強大な精神波を垂れ流した瞬間だった。
出現地から数キロメートル離れた彼女たちにも、容赦なく精神波は襲い掛かった。
*
同時刻。
暁は触手によって打ち上げられ、木の葉のように宙を舞っていた。
しかし、それだけの衝撃を受けても暁の精神は精神波による蹂躙から回復できず、苦痛とともになす術もなく狂乱していることしかできなかった。
しかし、主が行動不能になったその状況で、黎明は独自の判断で動いていた。
暁はそれどころではなく認識できなかったが、黎明のモニターに自動的に文字が表示される。
『非常事態と判断。
装着者の精神について、薬剤単独での対処は不可能。
バックアップから意識の上書きによる復帰を行う。。
同時に電気ショックとともに許容量上限の薬剤投与。
開始』
暁の体が空中でビクンと跳ね上がる。
直後にただ吹き飛ばされていた状態から姿勢の制御を開始。
右手首からワイヤーを射出し、振り切った状態の巨大な触手に巻きつける。
そしてワイヤーを巻き上げることで急速に接近する。
「オラァ!」
拳が触手にめりこむ。
だが、触手は不快な弾力とともに、暁の体ごと拳を跳ね返した。
暁もそれには逆らわず、ワイヤーを解いて離脱。
投与された薬物によって過剰に強化された知覚で状況を確認する。
敵は数十メートルはあろうかという巨大な触手。
だが触手一本でしかない。
本体の姿はなく、虚空から触手だけが浮き出しているのだ。
そしてその触手一本に森の木々は薙ぎ払われ、無惨な土肌をさらしている。
暁は戦慄した。触手一本でこの被害、そしてこの精神波、もしや太平洋の……。
いや、そうではなくてもただのバケモノではなく、邪神であることは間違いない。
なんとしてもここで止めなければ。
人間には神と戦うことはできないかもしれない。だが、祖父の作った黎明があれば……。
「何が神だ。たかが触手の一本くらい……!」
暁の言葉を無視して、再度触手が薙ぎ払われる。
森を抉りながらのその一撃を、残った木々を足場にして、三角飛びで空高く跳躍。かろうじて回避する。
そして再度ワイヤーを射出し、触手に取り付く。
「狙うなら、ここだ……!」
ぬらぬらした触手の上を疾走し、その根元まで駆け上がる。
虚空から突き出た触手の根元は動きが少ない。
左手首からのワイヤーを巻きつけ、体をしっかりと固定する。
そして右腕で、渾身の力を込めての貫手。
触手の外皮を貫き、肉にまで突き刺さる一撃。
触手が悶え、傷口から青色をした体液を噴水のように噴き出す。
そして体液を浴びた周囲の木々が溶け落ちる。
人間なら一滴浴びただけで全身が溶解……いや、別の生き物に変わってしまうそれも、しかし黎明の装甲には通用しない。
「くらい、やがれぇ……!」
右腕を触手の中に突き入れた状態で、右手首から先端を射出したワイヤーから最大出力での電力放射。
再度触手が身悶える。
触手から振り落とされないように必死にしがみつきながら、暁は電撃を流し続けた。
神といえど、触手一本での不完全な顕現。
強い衝撃を与え続ければ……。暁が願いを込めて攻撃を続けるそのときだった。
虚空の向こうから視線を感じた。
視線だけ。
それも直接見られたわけではない。
だが暁の精神はひとたまりもなく再度狂乱に襲われた。
神の視線に人間が耐えられるはずがない。
だが、暁がまとうのも人を超える鎧、黎明。
暁に再度の薬物投与を行う。
理性を崩壊させながら、暁は狂気と恐怖だけで、悲鳴を上げながら触手にしがみつき、電撃を流し続ける。
触手から体液が吹き出し、木々を薙ぎ払いながらのたうちまわった。
だが、黎明はともかく、装着者の暁には限界があった。
限界を超えた薬物投与に意識が薄れ、触手の上から跳ね飛ばされる。
ゴミのように吹き飛ばされ、地面に落ちる暁。
そしてその上に振り上げられた巨大な触手の影が落ちる。
触手が振り下ろされようとしたそのとき……幻のようにそれは消え去った。
肉片や体液の一滴も残さずに。ただ破壊の痕跡が残っているだけだ。
時間にすればたいしたものではなかったのだろう。
だが暁の体はぼろきれのように転がり、もはや動くこともできなかった。
*
時間は少し巻き戻る。
神の精神波に蹂躙された翡翠は、悲鳴を上げ狂乱するしかできなかった。
だがそんな翡翠の精神に関わらず、その心臓は一定のリズムを刻み続ける。
今が日常かのように。何事もなかったかのように。
そして翡翠の精神は肉体の制御下に置かれることで、強制的に均衡を取り戻した。
「……っ」
頭が痛い。吐き気がする。だが動くことはできる。
翡翠は部屋を見回し、状況の把握に務める。外
からは轟音が聞こえ、窓の外はもやのようなもので曇って見えない。
そして傍にいた七緒は丸まってぶるぶると震えている。とても動ける状態ではない。
「一体何が……暁さんは無事でしょうか。
いえ、今は私たちのことを考えないと……」
今二人がいる部屋は拠点として立てこもれるようにできているが、あくまで人間を想定したものだ。
人間相手なら十分だが、やつらを相手にしては心もとない。
「……とはいえ、何もせずに諦めることはできませんね。
暁さんはきっと今も戦っているでしょうから」
翡翠は小さな体で力の抜けた七緒の体を引きずり、部屋の隅、カーテンの影に隠れようとした。
それは気休めですらない。
だがそれしかできない以上、やれることをやるしかなかった。
しかしそのとき、部屋のドアが音を立てて内側へと吹き飛んだ。
「……!?」
そこに立っていたのは、拳銃を持ち、レザースーツの上からロングコートに身を包んだ黒髪の女性だった。
その顔はわからない。真っ白な仮面に覆われていたのだから。
だが、翡翠にとって今の問題はそれどころではない。
レザースーツの女性は施錠された扉を生身の蹴りで吹き飛ばしていた。
この部屋は人間相手には十分な防御を施されている。人間の脚力でそんなことができるなどありえない。
翡翠の混乱を無視して、その女性は言った。
「雨霧翡翠。神の精神波を受けたこの状況で活動できるとは、
やはり予想は正しかったようだ」
「あなた、何者ですか……」
震えを押し殺した翡翠の声に、女はククッと笑った。
「君は私のことを知っているはずだよ」
「えっ……」
「だけど残念。話はここまでだ」
女は銃を構えた。とっさに翡翠は七緒に覆いかぶさるが、それに構わず、女は引き金を二度引いた。
銃声が響く。
「!?」
次の瞬間、翡翠と七緒の姿が消える。
後に残されたのは、ヘアピンと腕時計。
そして女が動揺から立ち直る暇もなく、右腕から血飛沫が上がり、銃を床に取り落とした。
女が攻撃の元を見ると、そこには荒い息を吐きながら、風の刃を放った七緒の姿があった。
「私の目の前で、この子に危害を加えさせるわけにはいかないのよ。
来なさい、返り討ちにしてあげる……!」
震える手を仮面の女に向ける七緒。
だが、女は七緒に向かうことなく後ろに下がった。
「どういうつもり……?」
「どうやら時間切れみたいだ。
実験はできたし、命は預けておくよ」
気がつけば、外の轟音もやんでおり、いつの間にか翡翠と七緒の頭痛もやわらいでいた。
「生き残っていたら暁によろしく言っておいて。
まあ、あれでも私の弟子だから、しぶとく生き残ってるだろうけどね」
「……待ちなさい!?」
だが女はそれに答えず、ロングコートの内側から手榴弾を取り外すと、二人の方に放り投げた。
地面に転がった手榴弾から、猛烈な勢いで煙が噴き出す。
七緒は咳き込みながらも風の刃を放つが、手ごたえはなく、
相手は逃げ去ってしまっていた。
*
事件の被害は甚大。
周辺数十キロメートルの住人が重度のパニックを起こし、複数が病院に搬送された。
そして日本全域で、感受性の高いものたちが奇妙な夢を見ることになった。
ありえない角度をした石造りの異常な建築物の奥底で眠る、怪物……いや、神の姿を。
大いなるクトゥルフを。
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