第6.5話 七緒

 彼女が目覚めたとき、そこは病院のベッドの上だった。

 

 「あ、え……私、どうしてここに……」

 

 広く高級そうな個室。部屋の中に他の患者の姿はない。

 ふわふわして、自分がどうしてここにいるのかわからない。

 もう一度寝なおしそうになるが、腕に刺さった点滴の針の違和感が、かろうじて意識を現実に繋ぎ止めてくれた。

 事情を把握しようと、手の届くところにあったナースコールのボタンを押す。

 その後、女性看護師が駆け付けるのはすぐだった。

 

 「自分の名前は言えますか? 頭痛などありませんか……?」

 

 「名前、名前……来栖、七緒……。

  そうだ。私、どうしてここに……」

 

 名前を思い出したことが引き金になり、病院に運ばれる前の最後の記憶が脳裏に蘇ってきた。

 七緒はそのとき、自宅で魔道書の研究をしていた。


 七緒の用いる魔術は、自らの意識を変性させ。世界の法則にアクセスしそれを行使すること。

 力ある情報である魔導書の解読は、魔術のインスト―ル作業であり、耐えきれないものは発狂する危険のあるものだ。


 研究は最初は順調だった。だが、次第に手が止まらなくなり、魔道書から目が離せなくなった。

 夜が明けるまでぶっ通しで研究を続け、習得しようとした呪文に逆に乗っ取られた。

 それは召喚呪文だった。ここではない世界、ここではない時間から異形の怪物を呼び出す呪文。

 呪文は七緒の精神を逆に乗っ取り、七緒の魔力で怪物をこの世に実体化させようとしていた。

 だが間一髪で、緊急用の記憶消去呪文で召喚呪文の記憶を消し去り、呪文の暴走を食い止めたのだ。

 その結果として、昏倒して病院に運ばれることになったのだ。

 

 「あー……久しぶりにやっちゃったわね……」

 

 七緒を専門分野で失敗した自己嫌悪が襲った。

 とはいえ、記憶消去呪文の副作用で頭がぼうっとしてしまい、

 その自己嫌悪もぼんやりしたものになっているのは幸いなのだろうか。

 

 「無理をなさらないでください。すぐに雨霧様がいらっしゃいます」

 

 そう言って、女性看護師は出ていった。

 そして七緒は、ぼうっとしたまま虚空を見つめ続けていたが、

 ふと気がつくと翡翠がベッドの横に座っていた。

 

 「あ、翡翠……」

 

 「はい。翡翠です。……大丈夫ですか、話せますか?」

 

 「あー、うん……ごめん。そこの水取って」

 

 翡翠から水をカップに注いでもらい、ゆっくりと時間をかけて飲み干した。

 少しずつ、頭がはっきりとしてくる。

 

 「ごめん、しくじった……」

 

 「……緊急性はありますか?」

 

 「ない、はず。呪文の暴走が阻止できてなかったらまず召喚者の私が襲われて死んでるだろうし。

  ……私をここまで運んでくれたのって翡翠?」

 

 「運んだというか、見つけました。

  七緒さんが学校を無断でお休みされて、連絡もつかなかったので

  暁さんと自宅を訪ねたところ、七緒さんが意識を失って床に転がっていたので、

  ヒヒイロカネの息のかかった病院に運びました」

 

 「そう。ありがと。つまりは呪文の習得ミスよ。

  やっぱり怪物の召喚は向いてないわ。使役するだけならぎりぎりいけなくもないんだけど……」

 

 「……魔道書が危険なものという知識はありましたが、研究の実態を見たことはありませんでした。

  本当に、大丈夫なんですか?」

  

 「これくらい、人間がやつらと戦うなら必要経費よ。

  翡翠、あんたから魔道書を使わせてもらってるおかげで、私は戦う力を得ることができる。

  あんたは間違ったことをしてない」

  

 「でも七緒さん、三日もずっと意識を失っていたんですよ……?」

 

 「そんなにか……。ごめん、心配かけたわね」

 

 「私のことはいいんです。……七緒さん、今回苦手な分野に手を出して失敗したんですよね。

  どうしてそんな危険なことを?」

  

 「……最近、力不足を感じて、苦手なことを克服して殻を破らないとと思って……」

 

 「それは……いえ、なんでもありません……」

 

 翡翠も思い至ったのだろう。

 七緒の脳裏に自らが殺めた友の姿が蘇る。

 引きずるな、だが忘れてはいけない。救えなかった人のことを。

 自らに七緒はそう言い聞かせた。

 

 そんな七緒を見つめて、静かに翡翠は口を開いた。

 

 「七緒さんに前から聞きたいことがあったんです。

  なんで七緒さんは、やつらと戦おうとするんですか……?

  世界のためとは聞きました。立派な理由だし、それで十分かもしれません。

  ……でも、もっと深い理由があるんじゃないですか?」

 

 「……それは、雇い主としての質問?」

 

 「いいえ、お友達としてのです」

 

 「……ごめん。まだ疲れてるみたい」

 

 七緒は目をつむり、ため息をついた。

 

 「ちょっと長い話になるけど……」

 

 「かまいません」

 

 ゆっくりと七緒は話しはじめた。

 

 「……もう調べはついてると思うけど、私はやつらと戦う組織に所属していて、

  私の父さんがそこのまとめ役だった。

  組織といっても個人の集まりでちゃんとしたものじゃないけど。

  それで、素質があったから子供のころから魔術の勉強もしていたの」

 

 「それは……」

 

 「勘違いしないで。素質がある人間が何も学ばないでいると、

  見るべきでないものを知らずに見ちゃうこともあるから。

  戦うかどうかの選択は中学卒業まで待ってくれて、ちゃんと選ばせてくれた。

  私も自分の意思で選んだ。そこに後悔はないわ」

  

 「なんで、選んだんですか?」

 

 「……私、昔から親しい友達少なかったのよね。

  普通の子どもは本当のことを、世界がどれだけ恐ろしいかを何も知らないし、

  私も自分たちの事情に巻き込まないようにと遠ざけてた。

  仲良くしてくれたのは同じ組織の仲間たち。

  相手は大人だったから構ってくれてたと言う方がいいけど。

  ……みんないい人たちだった。

  わけがわからないものを知って、誰にも信じてもらえなくて、

  それでもみんなのために戦おうって、危険な道を歩むことを決めた人たちだった」

  

 「それで、その人たちのためになろうと……?」

 

 「それだけじゃない。

  やつらを知ってしまった以上逃げることはできないし、やつらはどこにでもいる。

  私は、私のために戦うことを選んだの。

  もちろん、仲間と一緒に戦えることは嬉しかった。

  あの人たちの力になりたかった。

  ……でも、もうみんないなくなっちゃった。

  だから、私があの人たちの、父さんの分まで戦わないと……」

 

 「……七緒さん」

 

 暖かい感触に七緒ははっとする。

 翡翠に両の手を優しく包み込まれていた。

 

 「……ごめん」

 

 「いいんです。たまには弱音だってはいてください」

 

 お友達ですからと、優しく笑って翡翠は言った。

 

 

 *

 

 「……あー、今になってすごく恥ずかしいこと言った気がする」

 

 「気にしないでください。私は気にしません」

 

 「私が気にするの!」

 

 しれっとした顔の翡翠に、七緒は枕に顔をうずめてじたばたした。

 

 「そういえば七緒さん。前から聞こうと思ってたんですけど、

  今の身分って偽装なわけですけど、年齢もごまかしてたりするんですか?

  年上だったら、同級生を先輩って呼ばなきゃいけないんですか?」

  

 「呼ばなくていいから!

  年齢についてはノーコメント。

  ……でも今の偽装身分と大きく変わらないわよ。

  誕生日の月日とかは魔術的に重要だから偽情報だけど」

  

 「そんな、サプライズでお誕生パーティーを予定してたのに、偽装!?」

 

 「しなくていいから! 子供じゃないんだし……」

 

 「ふふっ……。

  ……ところで七緒さん。こちらが調べた情報によれば、

  七緒さんのお母様は十年ほど前に組織を離れて……」

  

 「翡翠」

 

 冷たい声。

 今までのふざけた空気はもはやどこにもなかった。

 

 「母さんの話はしないで。……仲が悪いのよ」

 

 「……ごめんなさい」

 

 「ううん。私も感情的になった。……こっちからも翡翠に聞いていい?

  なんであんたは戦うって決めたの?」

 

 「正直に言うと、一番は世界を守るなんて理想ではなく、自衛ですね。

  ……詳しい話はまだできませんが、昔やつらに狙われたことがありまして。

  そのとき暁さんが助けてくれて、狙ってきたやつらを壊滅させてくれたんですが、またいつ狙われるかわからないので」


 軽蔑しましたかと聞く翡翠に対して、七緒は首を横に振った。

 

 「正直でいいわ。自分のために戦うことは大事よ」


 「……それに、暁さんを一人で戦わせるわけにはいきませんでした。

  放っておけなかったんです。

 

 「……なんだ、そっちが一番の理由なんじゃない」

 

 ばれましたかとはにかむ翡翠に、七緒は微笑み返した。

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