切欠
左の建物が解放されているのに、躊躇いもせずルカは右の小屋へ向かって行った。そこは、彼らが”受付”と呼ぶ場所。普段は事務仕事をする人が詰めていて、ルカ達のような実働部隊は、呼ばれでもしない限り近づかない。そういった事情を今のシイナが知る筈もなく、ましてやルカがそうした理由に思い至れるわけがなかった。
昨日と違って、中は人で溢れている。大きな声も飛び交っていて、少しピリピリした空気。独りの時であったなら、恐らくシイナは回れ右をしていただろう。そんなザワザワとした部屋の隅っこに、ファティウスが居た。女性と何やら話し込んでいて、どちらかというと険悪そうだ。
「またか」
「また?」
「あいつ、女性と揉めんの多くてさ」
「ふぅん」
「はっきり言えばいいんだよ。婚約者居たからって」
「え?」
「ん? 地元に、あ」
時と場所と、相手と内容。その不適さに気付いたルカが言葉を切った。
「悪い、これ無し」
「うん」
「加入手続きだよな。ちょっと待っててくれ。今、カテさん呼んでくるから」
「うん、お願いします……誰?」
奥へと進んで行ったルカと入れ替わるようにして、ファティウスと話していた女性が近づいてきた。単にシイナが出入口付近に居たからの接近に過ぎない筈だが、女性からすると目障りだったらしい。わざわざ足を止め、あからさまな敵意を載せた視線で、タップリと下から上まで睨めあげた後、派手に溜息をついて立ち去っていった。
ジトーっとした目で女性の背中を見送ったシイナは、トートバッグを胸に抱えて、ルカが消えていった方へ向き直った。すると自然に、壁に背をもたれたファティウスが目に入る。腕を組んで黄昏ている様は、確かにトラブルが多そうだ。泳いでいた視線がシイナを見止めた。
目が合うとシイナが先行した。見つめたままで、首から上だけの小さな会釈を一つ。それに応じたファティウスは、口の端を引き上げて笑顔を返した。立ち姿と相まってキザったらしいが、不思議と絵になる。それきり何もしないまま、お互いがお互いを視界から外す。
人の出入りはそこそこに頻繁で、シイナは居心地が悪いようだった。呼びに行っただけにしては、ルカがなかなか帰ってこないのも一因だろう。顔を伏せバッグの表面を撫でながら周囲の様子を窺っていたが、とうとう移動し始めた。顔を上げた先の、この場に於いては唯一見知った顔の元へと、ツカツカと歩み寄っていく。
「お久しぶりです」
「うん、お久しぶり。ルカ遅いね」
「そうですか? 見てたんでしたら、声位かけてくれても」
「そういうのは苦手でね」
「そうですか」
一人よりはマシなのか、一人の方がマシなのか。おそらくそれぞれの見解は異なっているだろう。先に沈黙に耐えかねたのはファティウスの方だった。
「今日はどうしたんだい?」
「こちらでお世話になろうと思って」
「そう。うん、それがいいと思うよ」
「お金無いと帰れませんし」
「そうだね」
「ファティウスさんは、って聞いたらダメですか?」
「えっ?」
訝しげな顔。気にかかったのは、内容そのものか言い回しか。ただ、状況も併せて考えれば、シイナが何かに配慮しているのは明白で、思う所の有るファティウスにしてみれば、他の可能性には思い至れなかったのだろう。
「ルカから何か聞いた?」
「ちょっとだけ」
「そう」
思案顔。言う事を考えているのか、言い方を考えているのか。ただ、その態度そのものが、シイナにとっては答えだった。それが単なる興味なのか、それとも他の何かなのか、本人にも区別がついていないだろうが。
「僕は別に、行くところなんて無いよ」
「そうですか」
言葉では引き下がっても、目が如実に訴えている。それが催促だと理解できる程度には、ファティウスにも経験があって、けれど上手くやり過ごせる程、器用では無かったらしい。
「踏み出すつもりも無いけどね?」
「だから揉めるんだ」
くすくすと笑うシイナ。こういった話題に興味が無い訳がない。だから直接面と向かって、遠回しに言質を得た。
いちいち言葉尻を拾うだけでは、会話なんて成立しない。けれど理解と実践は別物で、分かっていた筈のファティウスは、上手い事シイナに釣り上げられてしまった。殆ど白状してしまったようなもの。
「はぁぁ」
ファティウスとしては、溜息をつくしかない。イエスともノーとも答えていないのに、まるっと悟られてしまったのだから。それが何処迄、どんな事迄なのか測りかねていても、確かめる事が出来ないのだから。
「しまったなぁ」
「何がですか?」
「いいや、こっちの話」
少し不機嫌そうな顔。すこし強くなった語気。それらを前にしても、シイナの表情は変わらず余所行き。それが余計にファティウスには鬱陶しかろう。土俵に上がられた瞬間でもある。
「やっぱりルカ遅いよ。見てきた方がいいんじゃない?」
挙句の果てにはルカを出汁にする。触れては欲しくない話題だと、触れられると上手く対処できない話題だと、またも白状したようなもの。つまり、置かれた状況と願望はこっちの方で、本人にもその自覚があるという事。
「そうですね。こっち、でしたよね」
分かっているだろうに、わざわざ胸の前で指さして、方向を確認するシイナ。相手の視線を追って待ち構えている。けれどそこまでだった。もはやファティウスはシイナの方を見ていない。
「うん。揉めるような話じゃ、ない筈なんだけど」
「分からないものですね?」
「いや、うん。はぁ、全く」
「どうかしました?」
「どうもしないさ。ほら、おませさんは行った行った」
「ふふっ」
ほくそ笑むという表現が丁度いい。妙に老け込んだ言い回しを聞いた、シイナの反応がそれだった。一方のファティウスは、まるで見えない壁が厳重に張り巡らせたかの様。少し悪ふざけが過ぎたようだ。
「お邪魔しました」
楽しそうなシイナの言葉に、ファティウスは返事をしなかった。
僅かに頬を上気させたシイナが奥へ進むと、そこより先は吊り下げられた布で塞がれていた。沢山の人影が映っている。沢山の声も聞こえて来る。何かの数が足りていないらしい。その怒号のようなものの中に、ルカの声があった。シイナがおずおずと問いかける。
「すいません。こちらに、ルカ、居ませんか?」
騒がしさにかき消されてしまいそうだった。ノックが出来れば、もう少し気楽だったろうに。唇を噛んで、推移を見守っている。もう一度問いかけようと口を開いた時、掛けが一つ大きくなった。たとえ弱々しくとも、呼ばれた当人にとっては十分だったようだ。布の切れ目からルカが顔だけを出してきた。
「悪い、待ったよな」
「それはいいの。ただ、申し訳ないっていうか、その、」
「カテさーん、さっき言ったやつ!」
お構いなしの叫び。もごもごと言い淀んでいたシイナが目を丸くして慌てる。
「いいよ、忙しいみたいだし。出直すから」
「そうしてくれる?」
背中越しに聞こえてきた声。咄嗟に振り返ったシイナと、声の主との視線がぶつかる。それは、お互いに見覚えのある顔。気まずい顔。
「昨日の、」
「あ、あはは。こんにちは」
言葉を失った女性を前にして、シイナが勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい、また、来ちゃいました」
「いや、来てくれたのは嬉しいんだよ? でも本当に忙しくて」
察し合い。辛そうな女性と余裕ありげなシイナ。一晩で状況が改善したとは、分かり様が無い者と、言葉にはし辛いから態度で伝えようとしている者、そんな雰囲気。そのどちらの気持ちも知り様が無いルカは、頼まれごとに結果を出そうと躍起になっていて、結果から回る。
「ぱぱっと登録だけ済ませちゃえばいいじゃないですか」
「そうもいかないだろ。ルールとかやり方とか、誰が説明するのさ」
「手伝でいいでしょうが。事務にしたって実務にしたって手が足らないんだし」
「訳も分からないまま放り出す気?」
「だから、誰かのサポートを」
「誰がやるんだ。こっちまでこんなん着てんだよ?」
「それこそ、荷物運びなりなんなり」
「あの、」
「みんな手一杯じゃない。怪我でもされちゃかなわないんだ」
「そんな冷たい言い方、」
「この子のためを思って」
「こいつだってガキじゃない」
「え、うん」
「そんな事は言ってない」
「じゃあ、なんですか」
「連れてけないだろ」
「だから、下準備だけ」
「あぁあぁ、あの!」
思いっきり絞り出した。ボリュームもさることながら、必死さが存分に反映されたよい絶叫だった。籠っていた二人の熱が一気に霧散する。
「私、出直しますね」
「いいのか?」
「えっ、だってほら、えっと、折角ならちゃんと教えて欲しいし?」
「またそれか。大丈夫なのか? 食費もないんだろ?」
「あっ、それは大丈夫、っていうか何ていうか。そうそう、ルカ、埋め合わせ」
「は?」
「用事が済んで落ち着いたら、お仕事教えて?」
「俺が? おま、シイナは、本当にそれでいいのか?」
「うん? ほら、埋め合わせ」
「それはそれで別にするよ」
ルカがチラっと女性の方を見た。ちょっと渋い顔。困惑とは少し違う風。
「ちゃんと食えてんだな?」
「うん。友達が助けてくれて、結構ちゃんと大丈夫」
「友達? まぁ、シイナがそう言うなら」
「生活するだけなら、本当に大丈夫だから」
「そうか」
「本当、ごめんね?」
それまで黙って聞いてた女性が、声を掛けてきた。その顔からは険しさが抜けていて、というよりむしろ嬉しそうで、シイナが僅かに混乱している。
「今度のは予定決まってるから。泣いても笑っても明後日で終わり」
「そう、ですか。それじゃ三日後にお邪魔しても?」
「うん。待ってるからね。ちゃんと話も通しておくから」
「えっ。あの、お忙しいなら、」
「ううん、中での事は大丈夫。そっちは任せておいて」
「はい、ありがとうございます?」
やけに積極的で、昨日のよそよそしさからは想像もつかない前のめり加減。これでシイナも、温度差が生む気まずさの両側を味わえたことになる。二人の視界の外で、眉を顰めたルカが溜息をついていた。
「それじゃ、明々後日」
「うん。待ってるからね。本当、待ってるから」
「あ、はは。ありがとうございます」
両手で握手。目を見開いたシイナは、愛想笑いを浮かべながら、解放された両手でバッグのフチを掴んだ。
「ルカ、えっと、この後は?」
「ん? あーごめん」
「そっか。じゃあ三日後、かな?」
「だな」
「じゃあ、またね?」
「ああ、またな」
去っていく小さな背中を見送った二人。満面の笑顔が、困り顔の肩を何度もたたいている。ルカは何事か説明しているが、女性は一向にお構いなし。スキップでも始めそうな足取りで、カーテンの向こうへ入っていく。残されたルカは頭を撫でつけながら、溜息をついていた。
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