静かな朝

 ギラギラと眩しい光。ベッタリとした暗い空。

 雨は降っていないのに、足元はびしょびしょで、薄くなった靴底はツルツル滑る。

 道の端を歩いているのに、すれ違う人は皆、大げさにこちらを避けていった。

 痛みには慣れたと思っていたが、ただただ辛抱強くなっていただけ。

 気付いてしまうと、もう戻れない。

 昼間のように明るい場所。目的地まではあと少し。


 セネカの宿に備え付けられているベッドは、四つ足の台に敷布を載せただけの簡素なもの。ピロークッションと併せてフカフカしているから、寝心地は良い筈。けれど囲いが無い点は心許ない。


「んがっ」


 ゴロンゴロンと続けて寝返りをうったシイナは、勢いよく仰向けに転がり落ちた。ドタンという大きな音。腹から絞り出された低いうめき声。背中から着地していたから、後頭部もしたたかに打ったのだろう。頭を抱えて、右へ左へ身をよじっている。

 腰から下には掛布が巻き付き、胸から上は寝巻がはだけていて、その姿はまるで、麗しい人魚にも見える。バタバタとのたうち回っている辺り、おかに揚げられた水生生物そのもの。

 苦痛から解放されたのか、それとも単に慣れたのか、しかめっ面のシイナは纏わりついている掛布と格闘し始めた。横になったま、ズボンを脱ぎ捨てるように藻掻く。横着するから余計面倒になる典型例。ようやく解放されると、横腹を掻きながら立ち上がって着替えを手に取った。

 サラサラとした薄布のみならず、昨夜は厚手の外衣も湯で揉まれた。にも拘らず、部屋には相変わらずバニラとミントの香り。カビや生乾きの匂いがしないのは、気候のお陰だろう。開け放たれた窓から廊下へ抜ける風は、一晩中吹いていたから。

 何かを悟った様な表情で溜息をつきながら、シイナは衣服を胸に抱えて湯浴みへ向かって出て行った。空っぽの部屋で、バッグの持ち手が風に揺れている。


 宿から出ると黒かった。元々灰色の道と灰色の壁に囲まれたグレースケールの街並みだったが、今日はやたらと明度が低い。静けさは来た日と同じ、人通りの多さは昨日と同じ、けれどその服装がみな黒づくめ。右から左へ流れていく墨色の列が奥の方で滞っている。

 左へ行けば最短経路。けれどシイナは右へ曲がった。海側の道を歩いて、役場の正面を通り抜ける。時計塔広場に着いた時には、針はどちらも何方の十の下を指していた。誰かを訪うには程よい時間だろう。坂だとは信じられない坂道を上り始める。その背後からだった。


「あ、え、っと、んんっ」

――いい天気ですね!


 ビクッと小さく跳ねて振り返るシイナ。


「……ルカ? おはよう」


 知った顔と認めた途端に落ち着いた態度。変わり身の早さに、むしろルカの方が訝し気。


「ああ、うん。おはよう」


「用事じゃなかったの? もう済んだ?」


「いや、全然。今、補給中で」


「そっか。大変だね」


 体ごと向き直ったシイナへ、組んだ手のひらを頭にのせたルカが歩み寄る。二人の影が並行する。


「そっちこそ、平気だったか?」


「何が?」


「何が、って。生活とか」


「何それ」


 噴出したシイナを見て、ルカは渋い顔。西の空を仰ぎながら、落ち着いたのを見計らって、躊躇いがちに切り出した。


「そういや、さ」


「なに?」


「この前言ったやつ」


「この前?」


 そっぽを向いているルカの顔をしげしげと見つめるシイナ。通った鼻筋。長い睫毛。


「ごめん、なんだっけ?」


「はぁぁ」


 首を傾げると光の当たり方が変わって、彫りの深さが際立った。ゲンナリとした表情でも様になっている。


「埋め合わせ、な」


「あっ。え、でも、終わってないんでしょ?」


「まぁ。でも今、手空いてるから」


「そんな悪いよ」


「えっ、いや、」


「そっか。んんっ」


 わざとらしい咳払いに真っすぐな視線。たじろいでいたルカが、尚一層狼狽えるのもお構いなし。


「やっつけじゃ嫌だな。全部終わってからちゃんとして欲しい」


 絶句。静寂。真正面から陽光を浴びて、ルカの鼻頭が焼けていく。


「くそぅ」


「ねぇ、どこか行こうとしてたんじゃないの?」


「え? あぁ、まぁ、セネカさんとこに」


「……そっか。じゃあ私、こっちだから」


「は? いやだから。ああ、もう」


「えっと」


「おま、シイナ呼びに行こうとしてたんだよ」


 空白。沈黙。今日の日差しはやけに強くて、肌がチリチリと熱かった。二人とも火照っている。


「それ……あ、埋め合わせ?」


「はぁ? はぁぁ、敵わねぇ」


「そんな言い方……」


「そうそう、埋め合わせ。時間のある内に済ませたかったんだけどな」


「そんな嫌々なら、別に」


「いいや、しっかり時間取って、キッチリやるから覚悟しろ」


「それはそれで、なんか嫌なんだけど」


「言い出したのはシイナだからな」


「えぇぇ。あっ。じゃあ今、時間あるの?」


「だから、手空いてんだって」


「そっか。んー、んぅー……」


 眉間の皺。引き絞られた唇。その表情の深刻さは、悩んでいるというよりは耐えているようで、ルカが不審がる。


「どうした?」


 その言葉が切欠になった。目を開けたシイナは、ルカをじっと見据えると、両手を合わせて拝み始め、その姿勢のまま、叫ぶ。


「ごめんなさい!」


「は?」


 開いた口。ハの字眉。ルカのお顔が忙しい。それと同じくらいシイナの動きも忙しない。拝んだ指先を鼻の頭にくっつけながら、片目だけ開けて上目遣い。


「でもお願い。ちょっと一緒に来て欲しい」


「それだけ? 何で謝った?」


「それは、あ、はは」


「何やらされんの?」


「そんな、変な事じゃ、ない、と思う」


「こえぇって。ハッキリしてくれよ」


「えっとね、その、ちょっとだけ、口添えを」


「それだけ? だったら、なんで謝った?」


「あ、はは」


 言われてみればそうかもしれない坂をゆく二人。登りきらない陽射しに向かって歩くと、眩しさよりも心地よさが先に立った。たとえそよ風であっても、逆らうとなれば多少は抵抗となるようで、二人の足取りは心持ゆっくりしている。

 交わらない視線。重ならない影。葉擦れの音がさわさわと聞こえる。


「用事ってどんなのか、聞いてもいい?」


 足元を確かめながら進むシイナが、ぽつりと呟いた。


「ああ」


 空の青さを眺めながら進むルカが、ぼやっと答える。


「最初は、救援。今は護送」


「え、それって、」


「護送ったって、本職が居るからな。俺らはただの荷物運び」


 背丈よりも長い棒。ジャッジャと金属質に鳴る何か。明らかに周囲から浮いていた、恐ろし気な雰囲気の二人


「本職、ね」


「明日の朝一で出発するから、今は獣除けとかの準備をしてる」


「それ、えと、なんだっけ」


「ん?」


「そうだ、図書館」


「は?」


「えっとね、図書館行った時に、シセロさんって人に会って」


「ああ、うん」


「道は綺麗だけど、獣が出るって」


「だな。小さいのなら香で済んだんだけどさ。でかいのが出ると、な……」


「そう、なんだ」


「滅多な事じゃないんだけどさ」


 ルカはあまりは言葉を飾らず、それをそれとして率直に表現する傾向がある。だからこそ応答が速いが、そのせいで意味が曖昧になる時が多かった。ルカ中心の言葉達は、彼の視点に沿わなければ正しい形が見えない。けれど今は、それが丁度良い。何が起きていたのか。ルカが何をしていたのか。当たらずとも遠からずで済ますことが出来たから。


「明日からは何処に行くの?」


「うん? フロスティーナってとこ。水葬殿がある」


「すいそう?」


「川に流して弔うんだよ」


「弔う。ああ、水葬。えっ、」


「あそこだけ、山の向こう側の海に繋がってるんだと」


「そっか。お葬式だったんだ」


「ん?」


「人がたくさん、居たから」


「ああ、そうだな」


「ルカの知ってる人?」


「話した事はある」


「そうなんだ。お悔やみ申し上げます」


「ご丁寧にどうも」


 途切れ。無言。気まずさ。もう見えている目的地。このお散歩も残りわずか。


「だからさ、俺、暇なんだよ」


「そうやって悪ぶるんだから」


「は、はぁ⁉ お前、」


「またぁ」


「えっ。はぁぁ、悪かったよ」


 思わず解いてしまった両手を下ろしながら、再び空を見上げた。雲一つない快晴。


「ほら、ああいうのって、身内が一番だろ」


「うん。そうだね」


「いい人だったよ」


「そっか」


 終点。T字路。ゴール。シイナが一歩前に出て、敷地の手前で振り返る。


「じゃあ、暇なルカさん。どーんとお願いします」


「まぁ、いいけどさ」


 苦笑混じりに答え、先立って敷居を越えるルカ。その歩みには迷いが無くて、あっという間に距離が開く。駆け寄るシイナは楽しそうだった。

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