ちょっと違う朝

 ザワザワと人の声。喧しくは無いが、なまじ他の音が無いせいで耳につく。ザカザカと足音。流石に揺れはしないが、往来がハッキリ伝わり煩わしい。

 まだ明けきらない空。西の尾根は藍色で、そよぐ風は冷たい。けれど、閉め切られた室内はどちらの影響もなく、ただ真っ暗でただ肌寒い。

 ザワザワザカザカ。

 眉根を寄せたシイナは、薄く目を開いて辺りを確認すると、俯せに向き直って、頭まで掛布の中に潜り込んだ。もぞもぞと丸まっていく。

 ガヤガヤドカドカ。

 ざわめきは最早、喧騒と呼べるほど。流石に寝続けるのは至難だろう。何かの卵のようだったシイナが、両手で上体を押し上げた。背中へ向けてするりと零れ落ちる掛布。着崩れ、前へ向けてだらりと広がった寝巻。その様はまるで、海中から巨大な生き物が現れる類の映画に出てきそうだ。


「んんっ……んふぅ。ふぁぁふぅ」


 大きく口を開けて、飲み込み切れなかった欠伸を吐きだす。効果音でもつければ立派な咆哮の出来上がり。口を閉じると、離れようとしない瞼を眉で引き上げようとする。マヌケな顔。倒れ込んでいく。敷布に顔落として万歳をすると、猫のするように背を伸ばした。ようやく目が覚めてきたらしい。

 のったりくったり立ち上がる。重さに任せて寝巻が床まで擦り落ちた。漏れ日で薄暗い部屋の中。とても人前には出られない格好のシイナは、干してあった服に顔をうずめ、静止した。

 部屋を埋め尽くすバニラとメントールの香り。その根源は想像に容易い。昨夜は遅かったから、生地の厚い外衣は干しただけ。だから乾いて、一層よく匂う。優に十秒は経ったあと、顔を上げたシイナは深くため息をついてから、身支度を始めた。

 

 宿の外には人が溢れていた。街路を埋め尽くすとまではいかないが、ずっと奥まで途切れることなく続いている。粗方みんな同じ方を向いているから、目的地を共有してるのかもしれない。華やかさは無く、むしろ陰鬱としている。

 玄関をくぐったままの姿勢で立ち尽くしていたシイナ。暫くは首から上だけを動かして様子を窺っていたけれど、流れに逆らって近づいてくる二人組みに気付くと目を見開いて一歩後ずさった。

 頭一つ分違う二人。そのうちの小さい方が肩掛けに背負っているのは長い棒。本人どころか、大きい方の背丈よりも長い。真っすぐな背筋から伸びた真っすぐな棒が、ブレることなく近づいてくる。

 お互いの顔が確認できるほどの距離。シイナは目を伏せて建物内へ引き下がり、そのまま壁の陰で背を預けた。息をひそめる。大きい方は気づいていないが、小さい方はシイナの様子を目で追っていた。その表情は険しいが、その顔立ちはまだ幼い。長い髪を後ろで束ねた女の子。

 ジャッジャという異様な音が遠ざかって行く。頭まで壁に預けたシイナは、トートバッグを抱きしめて天井を仰いでいた。西向き口しか持たない室内は、照明無しではぼんやりしている。染みや木目が作る僅かな陰影が、何かの形に見えてしまう。

 やがて溜息一つ、シイナが自立した。外に出るなり、右手を額にかざして目を細める。右に曲がれば近道。けれどシイナは左へ向かう。建物から伸びた短い影を渡りながら、人の流れにに沿うように。

 行き止まり、T字路、街外れの始まり。左へ折れる人波は、木々に埋もれるように建つ青白い石造りへ飲み込まれていた。それを右手に見送りながら、シイナは時計塔広場まで足を伸ばす。小休止。ずんぐりとした”塔”の、針は何方も十の上を指していた。バッグの持ち手を肩に掛け直し、シイナが再び歩き出す。真っ白な屋根に向かって。

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