不思議
正に釣瓶落とし。モドキを手に入れ店を出た時は茜色だった空が、セネカの宿に着く頃には真っ暗になっていた。あのガス灯が一斉にシイナを捉える。
「嘘でしょ……」
全部で七組十四本。道が僅かにカーブしているから、ガス灯の間隔も左右で異なっている。だから一部のガス灯からは長い影が伸びていて、それがシイナに集まっていた。それだけ照らされても眩しくないのが、炎による照明の温かさ。
「きたきた、待ってたよぉ。ちゃんとお客居ないからっ」
「言い方……」
玄関から顔を出したカノンが全身で招いている。苦笑したシイナは早足で駆け寄った。光と影に彩られながら。
「バなんとか有った?」
「諦めちゃったかぁ」
「舌噛むんだもん。それで、どうよどうよ?」
「バニラは無かったんだけど、代わりになるものがあったよ。えっと」
わずかに透けた卯の花色の、サワサワとした和紙のような包み紙。トートバッグから取り出した、その中に包まれた萎びた”サヤ”をカノンへ向ける。
「はい、これ」
「甘っ! なにこれ、美味しい」
「匂いだけどね」
「そうなんだけど、もう美味しいっていうか、え、なにこれ」
「もう殆ど成功だね」
「だね。後は食べられれば何でもいい」
「そこまでかぁ」
昨夜のカノンは着けていなかったが、今の二人はきちっと調理の装い。頭に巻いた三角巾と体を覆うエプロン。カノンが使っているものは、セネカのものと違って割烹着タイプだった。掃除の時もそうだったが、今もやっぱり何処とはいわず隙間が空く。シイナは己の首を絞める勢いで、襟紐を固く絞った。
ミルが無いかと聞かれたカノンが、台車に載せて持ってきたのは立派な石臼。熱が入らない手段の中では、最も労力の掛からないものだが、それでもシイナは唖然としている。水桶すら持ち上がらなかった細腕では、肩幅よりも広い石を擦るなど到底出来ない。ここはカノンの出番だった。
「いい匂い。これ、」
「止めといた方が」
「このまま食べ、ってなんで分かった?」
「ちょっとだけね、私も思ってた」
「だよねぇ。火入れなきゃダメ?」
「分かんない。だから止めといた方がいいんじゃないかな」
「そっかぁ」
「試して、みる?」
「うくっ。我慢、する」
シイナしか読めないと言われた本。そこに書かれていた分量には、当然”バニラ粉末何グラム”などとは書いていない。文字通りシイナの匙加減。こういったものは足りない位から始めるのが丁度いい。
果たして、焼き上がった菓子は芳醇だった。甘い香りが調理場中に広がる。
「あ、ダメだ。もう幸せだ」
「大げさだよ」
「無理」
「カノン?」
作業机の脇で丸椅子に跨っていたカノンが突っ伏した。菓子もオーブンもほったらかして、駆け寄ったシイナが頬を打つ。けれどカノンは煙たそうに払うばかりで起きようとしない。
「ちょっと、嘘でしょ、カノン!」
「んんっ。んがっ」
「てき面って、これじゃ劇薬、目覚まし、生? ……お茶」
元から湯は沸かしてあった。薪のコンロは一度着火すれば早々消せない。だから煮込みに向いていて、普段はスープを仕込んでいるらしい。けれど今日は明日に備えて手順が変わっていた。その一環。カップにモドキの葉を千切って入れて湯を注ぐ。唇に当てて確かめながら水で割った。
「効くの? ほら、カノン」
「んごっ」
「すぅって、ね?」
「んふぅ。すおい、ひあぁへ」
「ふぅ……」
「なにおえ、ああひねえあ?」
「うわぁ」
『あと五分』とでも言いだしそうなトロンとした目と、痛々しいものを見た時のような同情の眼差し。
「これ飲める? 気を付けてね、熱くはないけど、咽ないように」
「はあい」
船を漕ぎながら、危なっかしい手つきでカップに口をつけるカノン。見守るシイナはハラハラと、といった様子。右手を背中に添え、布巾を持った左手がカップの傍で備える。妙に手慣れている。
カノンに芯が入った。効果は抜群だ。
「ミント、だっけ」
「かな。モドキらしいよ」
「なんで?」
「えっと、種が無い、だったかな」
「そいやミントティーないね」
「そうなんだ。そんなことより、大丈夫なの?」
「へ? うん、何か元気になった」
「何で⁉」
「さぁ? 良く寝たぁって感じ? 何だったのあれ」
「緊張をほぐすって言ってたけど。疲れてる人には効果てき面って」
「いやぁ、まぁね」
「何で喜ぶの」
「でもさ、ハーブってそんなバツンって効いたっけ?」
「モドキ、だから、とか」
「えっ、大丈夫なの、それ」
「わかんない。でも、私はふわっとしただけだったし」
「わからんね。まぁいいや、食べよ」
「何で⁉」
「そこに菓子があるからさっ」
「……」
「ごめん、その、面白いかなって」
「ううん、そうじゃなくて。その、怖くない?」
「寝たら起こして」
「それでいいの⁉ というか、この量、一人で食べるの?」
「あぁ、交代、で。それじゃいただき、」
「ちょっと……嘘でしょ」
止める間も無く食べ始めた。丸パンの頭が盛り上がって、噴火した山のような形になっているその先っぽを、トレイの上で小さく千切って口に入れる。お菓子は噛まない派らしい。
「――あぁ、大丈夫かも」
「さっきので疲れが抜けた、とか?」
気をよくしたらしく、ポンポンと放り込んでいく。しかし二つ目の山に手を掛けた所で動きが止まった
「やっぱだめ。幸、」
そのままの姿勢で頭だけが項垂れている。
「……カノン?」
「んんっ」
「喉、苦しくない?」
「んぅ」
たった二度目でもはや動じず。ぬるめのお茶をカノンの口許へ差し出す。
「はい、これ。すぅって」
「んふぅ。おへ、やはい」
「まず飲んで? お腹たぽたぽしてない? 大丈夫?」
カップを持ったまま頷くから、鼻の頭が液面に触れた。大きく跳ねるが目は虚ろなまま。シイナに拭われると、ごくごくと飲み干した。今回はまだ少し、ゆらゆらしている。
「――どうしよう」
「やっぱり、やめとこ?」
「ううん、食べる。美味しいし幸せだし元気になる」
「そっか」
「シイナも食べたら?」
問われたシイナは一転して深刻な顔に。視線の先には自らが作り出してしまったもの達。
「……そう、だよね。責任とらないと」
「いや、そんな、」
「あのね、カノン。もし私寝ちゃったらね」
「うん」
「その時見た事は、封印して」
深刻な面持ちが伝染した。
「……私何したの?」
「いくよ」
「待ってよ、私どうなってたの⁉」
カノンの問いには耳を貸さず、一番手前にあった山型に手を伸ばす。頭から丸かじり。一口目は遠慮がちに。二口目は残りの全て。
「――美味しい。ふわっとする」
「寝ないんだね」
「え、怒ってる?」
「別に」
「そう? なんだろう、相性? 過敏症とか」
「つまり?」
「カノンは、食べない方が」
「やだよ! 食べるよ? 寝ながらでも飲みながらでも!」
「あれ? どっちが効くんだろう」
「どっちって?」
「お茶とお菓子。まって、先にお茶淹れる」
甘い匂いと、スッとする匂いが拮抗して、正体を失った。良い香りではあるが、過ぎればむせ返る。当人たちは麻痺しているようだ。
「ふぅ。なんかもう、どっちがどっちか分からない」
「それは、しょうがないよ」
「でもいい。幸せ。ずっとふわふわしてる」
「これ、本当にハーブだよね」
「本当じゃないハーブがあるの?」
「えっ。ほら、その、なんて言えばいいの?」
「食べられるんだし、悪い感じしないし」
「そうなんだけど、だからこそ、」
「もぅ、心配性だなぁ。じゃあ、あれだ。イケニエ増やそう」
「言い方をね? もうっちょっと」
「私には効いてシイナちんにはそうでもないんだから、もう一人試せば多数決じゃん?」
「それはちょっと、」
「誰かいない? 年の近い子って、あんまりさぁ」
「年? うーん。近いかは分からないけど、今日ソフィアって人と、」
「ねぇそれ、でっかいお下げに派手なバレッタ?」
「バレッタ? ファシネーターじゃない?」
「そうそれ。むしろそれ。そっかぁ、奴かぁ」
「知り合い?」
「まぁ。でもいっか。あいつもあれで疲れてるだろうし。いい実験台だ」
「また、そうやって人聞きの悪い」
「あれ? まって、ねぇ、私、生だと平気だったよね?」
「生? あっ、粉の時? そういえばいい匂いって、ん?」
「ミントティーもお湯じゃん?」
「水で割ったけど。あ、加熱? やだもう。ほんとに実験じゃない」
「でしょぉ?」
「なんで嬉しそうなの」
「でも、今日はここまでにしよ? そろそろ準備する」
「あっごめん、私全然、」
「いいのいいの、元気になったし」
「経過観察、だね」
「何の?」
「あなたの」
「うそ。私ヤバいの?」
「食べたいのが我慢できないとか、そういう」
「いつもだけど」
「じゃあいいや」
「なんかちょっと投遣りじゃない? あっそうそう、これ」
カノンがポケットから取り出したのは土色をした金属片。つまり銅貨。穴無しの四角形は十銅貨。それが一枚。
「えっ、なに?」
「ケーキセット代」
「ダメだよ。材料費とか場所代とか」
「その辺引いても、これより高いと思うけど」
「そうなの?」
受け取るにも受け取らないにも、どちらも相応の理由が有って、それがフェアなトレードなのか、シイナには判断する基準がないようだ。貧すれば鈍する。今まさにそれで身動きが取れなくなっているのだから、余計に惑うだろう。その為の第三者、その為の立ち位置。
「やっぱり、自警団入る」
「どしたの、急に」
「お金のやり取りって難しい」
「あぁ」
「ありがとう。これ、いただくね。これで次回の材料を、」
「それはちょっと、厳しげ」
「次回の香料を買って、」
「頑張って!」
せめてと申し出たシイナをカノンは快く受け入れた。向かい合って座り、根菜の皮を剥く。雑用でもあり同時に肝でもあり。それがわかる程度にはシイナも心得があったようで、面持ちは真剣だ。その様を見ていたカノンの顔が引きつる。
茹でて出汁に浸けておけば、後は煮るなり焼くなり好きにできる。問題はその量で、二人掛かりですら未だ終わらず、先程からカノンは刃物仕事をシイナに任せて、自らは調理に専念している。それ程にシイナの作業は丁寧だった。
やがて一通りを終えると、二人は並んで食事をとった。相応に疲れているだろうに、弾んだ会話が途切れない。相変わらずのパスタとスープを前にして、サラダが欲しいとぼやくシイナと、お代を持って来いと切り捨てるカノン。美味しい匂いに包まれていた。
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