雰囲気

 迷っていた。10分程歩いて辿り着いたのは、ソフィアと別れた場所。その間、何件かお店なのか住宅なのか分からない建物があったが、シイナはどこにも立ち寄っていない。似たような景色の中をぐるっと一周、回って来ただけ。再び歩き始めたシイナ。今度は最初の分かれ道を、左へ曲がった。

 代り映えのしない中を、ウネウネ歩く。流石に振出までは戻されないが、ここを歩くのは既に二度目。そしてやはり、何処にも立ち寄っていない。握りしめられた、持ち手の皺だけが増えていく。

 やがて突き当り、もしくは行き止まり。巡る通路の果てに、ついに看板を見つける。軒下ではみ出たその、板面に書かれた文字は読み取れないが、形は確かにセネカの宿で見たものだった。

 外観を眺める。左右の隙間を覗き込む。裏手へ回る道はない。窓にはカーテン。ウロウロしながらじっくり吟味する姿は、それ自体が不審。

 一通り確認を終えると、ようやく決心したのか、トートを胸の前に抱いた。そのまま扉に近づくと、左手でノックをし、またすぐトートを抱える。二度、三度と反応が無く、四度目にはしびれを切らせてノブに手を掛けた。ガチャっという音。出来た狭間に顔を覘かせ、室内の様子を窺ってから、全身を滑り込ませていった。


「ごめんください」


「ノックくらいおしよ」


「ひぃっ」


 無人に見えたそこで申し訳程度に発された呼びかけは、直ちに応えを得た。吸気をしくじったシイナが咽る。


「ごっ、はっ、ふぅ。ノック、したんですけど」


「あぁん? 呼び鈴でもつけるかねぇ」


 一段高くなった座敷に居たのは、セネカと似た印象の老人。声は中性的だが、背格好からしておそらく女性。真っ白な髪を纏め、胸元へ垂らしている。


「ごめんなさい、突然お邪魔して、」


「別に来たのが悪いなんて言っちゃいないさ」


「あ、はは。あの、ここってお店、」


「見りゃわかるだろう」


「あ、は。その、私、香料を探して、」


「そりゃそうだろう。で、何が欲しいんだい」


「バニラを」


「ほぉ」


 細い目が、より絞られて、もはやほとんど閉じている。


「珍しい。けど残念だね。この辺じゃ手に入らないよ」


「やっぱり」


「種さえありゃ、どうにでもしたんだがね」


「そうですか」


「まぁまちな。どうせ菓子でも焼く気だろう?」


「はい。えっと、マドレーヌ、」


「だったら、ほら、そこだ、その瓶の中。開けてみな」


 あごをしゃくる老婆の、仕草の先には同じ形の瓶がずらっと並んでいた。透明なガラス製の密閉瓶で、金具でぐっと押さえるタイプ。その中の一つ。茶色く萎び切ったサヤインゲンのようなもの。


「これ、」


「そっくりだろ。見た目だけじゃないよ」


「ほんとだ。有ったぁ」


「全くの別もんだがね」


「えっ」


「匂いはそのまんまだろう?」


「はい。でも、食べられ、」


「あったり前だろうが」


「それなら、」


「ただ別もんなりに厄介な所もあってね」


「あっ」


「大したこっちゃないさ。ちいとばかっし眠くなる。トケイソウなんかと同じだね。気が緩む」


「リラックスハーブ、って、」


「気取ってんじゃないよ。まぁそんなもんだがね。草臥れてる奴にゃてき面だよ」


「眠くなる……」


「茶請けにするなら、眠気覚ましも作っといてやんな」


「それって、えっと、おすすめとか、教えて、」


「擦れた子だねぇ。まぁいいさ。こっちの、それ、その山積み」


「わぁ」


「いい匂いだろう。今朝摘んだばかりだよ」


「メントール? ミント?」


「擬きだがね」


「食べられ、」


「当たり前だ。ウチを何だと思ってんだ。そのまま齧ってもいいし、茶にこしらえてもいい」


「そのまま……どんな味、」


「試すかい?」


「えっ。いえそんな、あぁ。あの、私今持ち合わせが無くて」


「はぁ?」


「支払いは後日にさせていただけませんか?」


「何を言い出すかと思えば、図々しい。あんた何処の子だい」


「どこ、というか、その、」


「余所者か」


「はい。今はセネカさんの、」


「あの人の?」


 人並に開かれた瞳で、老婆はシイナを値踏みした。つま先から頭の天辺迄をねめまわすと、やがて目を逸らし、一つ息を吐いた。


「ふんっ、いいさ、わかった、ひと房ずつ持って帰んな」


「ありがとうございます。次来た時に必ず、合わせてお支払いしますから」


「次、ね。けったいな子だよ、ほんと」

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