妖しさ
今度はしっかり上り坂。それも大分急勾配。息を切らすほどでは無くても、歩みが随分ゆっくりになり、吹き下ろしてくる風は、そよ風であってすら抵抗に思えてくる。そんな顔をしたシイナは、上り切った先に果たして茶色い壁を目にした。
レンガ積みの平屋。迫出た踊り場と浅い階段は、いかにも公共の施設といった
「すいません、どなたかいらっしゃいませんか?」
登った先の扉を、くぐった先の段は下りずに、その場でシイナは呼びかけた。オレンジ色の明かりで照らされた木目の室内。階段の目の前にはL字型の長机。左側にはI字型の長机と椅子。その向こうにはおそらく本棚。距離が開く程ぼんやりしていて、視界の先は薄暗い。
シイナの声が十分に染み渡った後、さらにじっくりと余韻に浸ってから、ようやく応えが来た。
「おや、初めての方ですね」
棚の間から現れた人影は、重ねた長衣を引き摺っていた。左右に分けた長髪を揺らす姿は一見すると女性のようだが、声は間違いなく男性のもの。透き通った声質は耳触りに柔らかく、広い室内に反響しては、何か荘厳なものを連想させた。
「ようこそ、迷える子羊よ」
「……あ。突然すいません、道をお尋ねしたいのですが」
「ええ、どうぞ」
「ありがとうございます。図書館って、どちらでしょう?」
「ここですよ」
「……そ、そうですよね。何言ってるんだろう、私。すいません、この辺りまだ、慣れなくて」
「いえいえ」
「職員の方、ですよね」
「はい。司書を任されております、シセロと申します。お見知りおきを」
「……シイナ、と申します。えっと、返却を頼まれたんですが。知人、から」
「承りました。こちらで、少々お待ちください」
「はい」
シセロと名乗った男性は、一旦奥へ引っ込んだ。シイナの口が塞がらない。頬が弛緩して、唇が脱力している。再び現れた時、男性はL時の向こうに居た。駆け降りるシイナを待ってから、ゆっくりと口を開く。
「お待たせしました」
「いえ、こちらこそ。えっと、これなんですが」
「ああ、カノンさんの」
「分かるんですか⁉」
「はい。記録してありますから」
「……ですよね。あ、はは」
視線を落とせば、そこには開かれた雑記帳の様なものが一つ。本を受け取ったシセロは、そのままの流れでペンを走らせ始めた。スラスラと綴られる記号はアルファベットに似ている。
しばらく黙って見ていたシイナは、やがて眉根を寄せた。
「あの、まだ掛かりますか?」
「これですか? ええ、当分は。ああ、御用でしたら、先に承りますよ」
「はい?」
「おや、私の早合点でしたか」
「返却をお願いしたはずですが」
「はい。受け取らせていただきました」
「えっと、今されているのは?」
「これは、ライフワーク、といった所でしょうか」
「そうですか」
大げさな深呼吸。眉間に刻まれた深い皺。あからさまな意思表示を前にしても、シセロの笑顔が崩れない。もう一度、今度は浅くため息をつくシイナ。
「お邪魔しました」
返事を待たずに振り向き、段を上る。いつも以上に丁寧な足取り。音を立てないようにしているのが見て取れる。
「ああ、折角ですから、」
ノブに掛けられた手が止まった。回せば開く。開けば出られる。けれどシイナはそれをしなかった。じっとドアノブを見つめている。
「手に取られてみてはいかがですか? ふらりと立ち寄った先で、はたと目についたものを」
背中へ向けられた問いかけに、ドアへ向かって返事をする。
「失礼ですが、司書さんって占いとかされてません?」
「好きですよ、星でも、数でも」
「そういうの、間に合ってますから」
「そうですか」
それでもノブは回らない。
「……持ち歩くの、大変なんで」
「よろしければ、手提げもお貸しできますよ」
「お金、無いんで」
「お代は必要ありません。手提げも、ご返却の際にお持ちいただければ」
「私、住民じゃないんですけど」
「住民? よく解りませんが、お貸しするのに条件はございませんよ。お名前をいただくだけです」
「ここ、なんなんですか?」
シイナがやっとシセロを見た。視線が交わると、シセロは口許を綻ばせてから、目を瞑った。ゆったりと首を傾ける姿は、何かを思い出している様にも見える。
「図書館、と。そう呼ばれています」
「司書さんは、」
「シセロ、とお呼びください」
「……」
「……」
「シセロさん、は、」
「はい」
「どう思ってるんですか?」
今度は俯くシセロ。目を閉じたまま顔を伏せられては、黙祷をささげているのかとしか思えない。やがてゆっくりと視線を上げると、真ん中にシイナをおさめた。見据えられた側は、むしろ見入っている。
「知る、という事は苦しみの始まりです。知らない相手を憎むことも、知らない相手の為に悲しむことも無いでしょう?」
滔々とした語りは説教のようで、やけに耳へとこびり付いた。
「だから消してしまいたかった。それも無理なら上書いて。そうやってずっと探しているんです。ここは宛ら、残骸置き場ですね」
「残骸、って」
「私の役には立ってくれませんでした。けれど貴女の力にはなってくれるやもしれません。私と貴方は違うのだから」
「本、ですよね?」
「本ですね」
シイナの体は、完全に中へ向いている。迷う仕草もどこまで本気なものなのか、わざわざ表に出しているあたり疑わしい。
「もうちょっとだけ、お邪魔します」
「はい。私はずっと、ここに居りますので」
「わかりました」
段を踏む足が自然な音を立てる。L字の向こうへは一瞥もくれず、光の届ききっていない場所へ進んで行った。棚と棚の間は窓から差す日も遮られていて、本当に薄暗い。ぼんやりとした視界は、もやでもかかっているのかと錯覚するほどに。
退屈そうな顔で歩いていたシイナは、部屋の端、壁と本棚で切り取られた向こう見て、動きを止めた。それは縦板張りの壁。木目と継ぎ目に隠された隙間。押すと広がる。だからだろう、体重をかけてしまった。
「えっ」
何の抵抗も無かったその先は、一段低くなっていて、踏み外したシイナは、そのまま前へと倒れる。打ち付ける音、崩れる音、そして、
「いっつぅぅ」
呻く声。
盛大な報せは部屋中に響いただろうに、シセロの反応は聞こえてこない。吸い込んだ埃に咽ながら起き上がると、すぐ横に転がっている柱の様なものを見つめたまま血の気を失った。
持ち上がるものだけを持ち上げて、復元を進めていくシイナ。残すは散らばっている本達。手当たり次第に積み上げていくと、膝まで届く山が四つ出来た時、それだけサイズの違う大きな一冊に出くわした。百科事典か、はたまた図鑑か。擦れやスクラッチに年季を感じる装丁。たっぷりと吟味したシイナは、それを脇にのけて作業を再開した。
「――すいません、この本なんですが」
「はい。おや、良く見つけましたね」
「落ちてきた、と言いますか」
「それはまた運命的な。ですが私が驚いたのは、あの扉の方でして」
「やっぱりあれって、普通じゃないんですね」
「付かぬ事を伺いますが、セネカ、もしくはウィウスという名前に聞き覚えは、」
「はい。セネカさんの宿のお世話になっています」
「なるほど。苦労されたでしょう」
「え。あ、はは。もしかして、鍵がお嫌いだったりします?」
「鍵ですか? ……ああ、そんな話まで」
「やっぱり」
「いえ、それはウィウスの事です。彼は建築家なんですが、拘りが強くて」
「景観の統一、とか」
「口癖の一つですね」
取り留めの無い話。他人事な距離。けれど確かに友好的で。
「そうだ、シセロさん、この本って」
「そうですね。あそこに入ってしまったからには、」
「え、」
「本当に、運命だったのでしょうね」
「はぁ」
「読めないのですよ、誰も」
「え、だってこれ」
「あれは、そういう、扱いに困ったものを押しやっている場所でして」
「あ、あぁ、そう、だったんですね」
「時に、中は確認されましたか?」
「はい、それは」
「でしたら、お断りする理由はございませんね」
「はい?」
「おや、お持ち帰りになるのでは?」
「はい。それは、そうなんですが」
「ではこちらに、お名前と本の題名をいただけますか?」
「あっ、私、この文字、読み書きできなくて」
「そうでしたか。でしたら代筆させていただきましょうか?」
「お願いします」
ペンの軌跡が描き出す記号は、やはりアルファベット似ている。続いて示された空白に、シイナは自分の名前を書き込んだ。漢字で四文字。
「ああ、そうでした。こちらもご一緒にどうぞ」
そう言って差し出されたのは、ほんのりと橙色に染めらたトートバッグ。縦横に走る皺が山の稜線の様なデコボコを生み出している。言葉を失うシイナ。
「お気に召しませんか?」
「えっ、あ、いえ。これ、リネンですよね?」
「ええ」
「好きなんです、これ」
「そうでしたか。それは良かった」
「でもこれ、」
「時に、市場へはもう、おいでになりましたか?」
「いえ、まだですけど」
「きっとお気に召すものが沢山ありますよ。もちろん、そちらを買い取って戴いても構いませんし」
「あ、はは」
「ここからずっと西へ行った所に、織物の盛んな町がありまして。その亜麻布もそこで織られたものなんです。仕立てはここですが」
「亜麻布。亜麻の花って可愛いんですよね」
「そういえば、そろそろ開花の頃ですね」
「いいなぁ」
「もし行かれるのでしたら、巡礼団に混じられた方がよろしいかと」
「巡礼、団?」
「はい。道は整備されていますが、獣が出ますし。旅慣れた方と一緒の方が何かと安全でしょう」
「なるほど」
「そろそろ帰ってくる頃ですが。んぅ、詳しくは詰め所でお尋ねください」
「つめしょ? あの、場所はどのあたりに」
「これは失敬。そうですね、地理的には、ここの真裏なんですが、道が通っていないので、ぐるっと大回りしていただいて」
「大回り、って、時計塔の前ですか?」
「時計塔? ああ、はい、その道ですね。それにしても、まだ塔と呼ばれていたとは」
「ずんぐりしてますよね」
「ええ、まったく」
ふとした切れ目。往々にして、それは何かの切欠になる。この場に於いてはシイナに気付きを促した。
「あ。ごめんなさい、私、すっかり長居してしまって」
「いえいえ、こちらこそ、お話しできて楽しかったですよ」
「そう言っていただけると」
「ああ、そうだ。これをお持ちください」
シセロが取り出したのは金属の板。先がわかれた涙型。今度は緑色。
「これって、」
「しっかり綴じておいてくださいね」
「はい。これって、何なんでしょう」
「お近づきの印です」
「お近づきですか」
「はい、仲良しです。古くは異邦者に対する信認の証だったようですが、今はもう形骸化していますので、友好の挨拶、程度に受け取っていただければ」
「それは、無くすわけには行きませんねっ」
「ははは。ただ、一部では元々の使われ方が残っています。例えば町長殿の信頼符は、重要な施設への入場許可証になりまして」
「なるほど……」
「だというのに、彼女は。気に入ってしまえばポンポンと、」
「お知り合い、ですか」
「おっと、失礼しました。そうですね、昔馴染みとでもいいましょうか」
「いいですね、そういうの」
ふとした切れ目。この場に於いては。
「あ。いけない、今度こそお暇します」
「そうですか。それでは、またお会いする日まで。貴女の旅路が良いものでありますように」
「ありがとうございます」
軽やかな足取りが、甲高い音を立てた。駆け上がったシイナは、勢いよくドアを開ける。外へ出ると振り返り、一度お辞儀をしてから去っていった。
独りになると、シセロの顔から表情が抜け落ちた。貸出帳に目を落とす。シイナの書いた名前。それを人差し指でなぞった。呼吸で上下する胸だけが、時間の流れに沿っている。
やがてパタリと頁を閉じると、右手に携えて暗がりへ去る。残された無人の部屋で、オレンジ色の明かりが消えた。
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