出没
扉の上から下までを、濡れた雑巾で真っすぐに拭き下ろす。それを端から端まで繰り返せば、水拭きの跡が綺麗に揃う。木目に沿わせれば猶の事見栄えがいい。けれどそれだけ、時間と労力の負担も大きい。特に体力の消耗は顕著で、伸びてしゃがんでを繰り返すのだから、足腰が悲鳴をあげる。道具の片づけまで終えたシイナの足取りは頼りなかった。腹から鳴り響くアラートも間隔を密にしている。さらに悪い事に、来た道が塞がれていた。押したり引いたり揺すったりしていたが、早々に諦めてよたよたと部屋へ戻っていった。
開け放たれたドア。ベッドの上に置き去りにされた、革張りの手帳と部屋の鍵。ひらけた窓からは、向いの建物がよく見える。満天の星空。
はっとした表情を浮かべ、ベッドに駆け寄る。
風がさらさらと舞っていた。この街では常に同じ向きへ吹いている。港にあって潮の香り。先程までは木々の芳り。そして今は、美味しそうな匂い。勢いよくがばっと顔を上げると、乱暴に鍵を取り出して部屋を出てゆくシイナ。目が据わっている。
自動のものなど何もない。やったらやりっぱなし、やらなければやらないっぱなし。鍵をかけ、ノブを回して施錠を確認すると、ふんっと息を吐いて左へ向き直り、はっと息を呑んだ。大きな通路が口を開けていた。そこは周囲と色の違う壁。けれど先程までは確かに木製のレリーフが埋まっていた場所。つまりそれが戸板だったことになる。
寒さを紛らわす時のように二の腕を摩りながら、一歩一歩確かめるようにして通路を進み始める。片開の細いキャビネットで埋め尽くされた壁。やはりそこだけ色の違う、解放された出入り口。突然の石畳と、背伸びせねば届かない位置にびっちり並んだ解放窓。その一つ一つに一々怯えながらも、何とか終端に辿り着く。行き止まりではあるが、閂がしてあるから外れるのだろう。ほっと息を吐いた。
「悪い悪い」
「ひぃぃっ!」
「な、なんだ、どうした⁉」
悲鳴を上げたシイナは、閂にもたれ掛ると、そのまま崩れて膝をついた。小刻みに震えている。俯いているから表情は窺えないが、声が湿っていた。
「大丈夫かい?」
「はい」
「どこか痛むのか?」
「いえ。大丈夫、です」
「遠慮するんじゃないよ?」
「はい。その、びっくりして」
「ん? ああ。そんなにかい?」
「すいません。お見苦しいものを」
「そんなのいいから、ほら」
「えっと?」
「支えてやるから、立ち上がって、足腰に喝入れな」
シイナの首より太い腕。頭よりも大きな掌。シイナは体ごとしがみ付いた。立ててはいるが、膝が笑っている。
「やっぱりあんた、肉薄いね」
「っ⁉」
自立した。もうすこしすれば歩けるだろう。
「そこに限らず、さ。大丈夫なのか? 少し骨ばってるだろう」
「えっと……あの、別に私、食事に困っていたとか、病み上がりだというのではなくて」
「そうかい? ならいいけどね。無理するんじゃないよ?」
「お気遣い、感謝します」
「ほんっと、堅っ苦しいね」
眉を
「重くないんですか?」
「あっははは」
問いには答えず、豪快に笑いを残して通路の半ばで姿を消した。と言っても、単に脇道へ逸れただけ。不思議なのは、閉じてしまえば板張りの壁の一部と化してしまう開き戸の方。
唖然とするシイナ。徐々に視線が落ちていく。足はもう、すっかり平気らしい。
「んんっ」
「ひっ」
「だろうと思った」
「なんで⁉」
「回り込んできたんだよ。入り口から」
「え? あ、はは、そうですよね」
キョロキョロと忙しい視線を横目に、腕組みをしたセネカがアゴで指し示す。
「あれも閂でね。カギにしたいんだが煩いのが居てさ」
「え? そう、そうですよね、カギの方が便利ですよね」
「だろう? だっていうのに、景観の統一がどうこうって」
「あ、あはは」
見事な愛想笑い。続いて逸らした視線の先、セネカの背後では、机が見事に整列していた。「最初の場所」、「食堂」、そのどちらとも違う印象。
「凄い」
「ん? いや、これがいつもなんだよ」
「料理長殿、ですか」
「兼給仕で、兼会計だね」
「それって全部じゃ」
「流石に混みゃ手伝うがね。普段はカノンに任せっきりさ」
「カノンさん、ですか」
「ん? あんたと幾らも変わらない筈だよ」
「えぇぇ。あ、そうだ、お聞きしたいことが」
「なんだい?」
「お風呂とトイレってどこにあるんでしょう?」
「トイレ? ああ、厠か。そうだねぇ……」
考え込むセネカ。訝しむシイナ。つい先程からずっと、まな板を包丁で叩いた時のような音がしている。トントントンと。
「どっちも客間の突き当りだ。水場は纏めてあるんだよ」
「入口は、壁、ですか?」
「何を訳の分からんことを」
「あ、はは。客室が並んでる通路の突き当り、ですね」
「だねぇ」
「わかりました。探してみます」
「探すようなもんじゃないと思うが。まぁいい、分からなければ手当たり次第に開けてみな」
「あ、はは」
「もういいかい?」
「はい、ありがとうございました」
立ち去るセネカは、やはり通路の半ばで消えた。見送ったシイナが辺りを探り始める。焦げ茶色の壁、その材を端から順にそっと手で押していく。長い通路の左右に、合わせて三つ、隙間の出来る箇所があった。見事な造りだが、開閉の管理が煩雑そうだ。
やがてぎゅぅっと、しばらくぶりの知らせが鳴った。トントントンと刻まれ続けるリズムに乗せて。
物珍しそうにあたりを見回していたシイナは、何かを断ち切るように勢いをつけて歩き出すと、そのまま食堂へ飛び込んで行った。
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