宿借り

 右に曲がるとすぐに、黄土色の壁が現れた。それが視界の奥まで続いている。入り口を求めて進むと、”酒”と無造作に一文字だけ書かれた立て看板がはみ出していた。そのすぐ後ろから伸びる脇道のような石畳。左右を等間隔に並ぶ街灯のようなものでかたどられている。天辺てっぺんに鎮座するガラス張りの箱の中には、赤銅色の盃を縦にしたような金属質。昔懐かしい懐中電灯の先によく似ている。けれど電球が無い。


「ガス灯?」


「ん?」


「あれ、電気は?」


「ああ、あれ? どうだろ、光るけど」


 丁度良く炎が灯った。手前から奥へ向けて一組ずつ順々に。二人の疑問に答えたかのようだ。けれど、まだ明るい空の下では、明かりの有無が感じられない。


「なんだ、そういう事」


「ん?」


「入口ってあれでしょ?」


「ああ」


「ふぅ……」


 おもむろに目を閉じたシイナは、胸に両手を当ててゆっくりと深呼吸を始めた。吸っては吐いてと四度繰り返し、「よし」と口の中で呟く。


「おかしいだろ、それ」


「なんで?」


「いやだって、部屋借りるだけだろ」


「だって、お金」


「それにしたって。え、何、踏み倒すのか?」


「あー。いやいや、そんな気無いけど」


「だったら普通にしとけよ。ほんと変わってんなぁ」


「うそ、変?」


「先行くぞぉ」


「ちょっと待ってよ。全然わかんないだから。教えてよ」


「はいはい、大丈夫ですよ大丈夫」


 二人の後を追う様にして、盃が向きを変えた。日が落ちてからなら粋な演出になっただろう。けれどまだまだ空は明るい。

 見上げる程に高い鴨居と、人一人分はあろうかという太い柱で囲まれた立派な出入口は、一枚板の引き戸だった。無遠慮に開け放ったルカを追って、シイナも建物に飲み込まれてゆく。

 そこにあったのは、外見の印象通りに広い空間。しかし四角いテーブルと背もたれの無い丸椅子が乱雑に放置されていて息苦しい。右手の壁には幾何学模様が刻まれた巨大な木製レリーフがはめ込まれていて、その周囲だけ色が違う。左手には椅子やら何やらが積み上げれ、正面には柱を挟んだ左右にカウターテーブルが据えられていた。それにしても、全く人気が無い。


「セネカさん!」


 慣れた手つきで道を作りながら進んだルカは、カウンターから身を乗り出して、奥へ向かって呼びかけた。黙ってあとを着いてきたシイナは、横に並ぶと、首だけ傾けて奥の様子を窺い始める。

 向こう側は意外に広く、小さな扉がいくつも並んだ棚が、壁沿いに並んでいる。左端には水場があって、右の奥には戸無しの出入り口が見えた。控室にでも繋がっているのだろう。

 すると果たして、がっしりとした女性がそこから姿を現した。白い三角巾を頭に巻いて、レモン色のチュニックエプロンを被っている。


「ご苦労さん。何だって?」


「今週中には、だそうです。あと俺らも取りに行く事になりそうで」


「それなら平気か。お代はどうする?」


「全部まとめてじゃないですかね」


「ああ、張り出すのか。うーん。じゃあ夕飯でも食べていくかい?」


「へ? ああ、俺の事は、あ、それなら」


 ルカが視線を動かすと、セネカと呼ばれた女性もその後を追った。二人から注目されたことに気付いたシイナが、慌てて二人の顔を見比べる。


「え?」


「こいつ、文無しの宿無しらしくて」


「ちょっと、」


「あっははは。何処で拾ってきた?」


「港の辺りで」


「あのっ」


「お嬢ちゃん、名前は?」


「あ、の、シイナ、と申します」


「畏まった子だねぇ」


「変わってますよねぇ」


「あんたも大概だろう」


「いや、もう結構慣れたでしょ?」


「あっははは」


 口をパクパクさせていたシイナは、会話の途切れたタイミングに合わせて体を前にのめらせた。


「突然すいません。でも、泊めて欲しいのも、お金が無いのも本当で」


「そうかい? ああ、そうだ。あたしはセネカ。ここの、女将、だったか?」


「いや、そこは断言してくださいよ」


「慣れなくてねぇ」


「あの、」


「ああ、悪い悪い。そうだねぇ、ルカが言うんだし、あたしも別に構やしないんだが、一応、ね」


「私、雑用でもなんでも」


「それもそうなんだけどねぇ。これ、持ってるかい?」


 セネカはエプロンの中から一冊の手帳のようなものを取り出して見せた。文庫本程の大きさで、表紙は革張。エプロンとお揃いの、檸檬色。


「いえ、初めて見ました」


「だろうねぇ。ちょっと待ってな」


 一度奥へ引っ込んだセネカは、大きな箱をもって帰ってきた。抱えてきたその中身を、シイナへ向かって示して見せる。


「どの色がいいんだい?」


「え?」


「好きな色を選びな」


 赤青黄色と色とりどり。みな、セネカのものと同じかたち。目を閉じて口を結ぶシイナ。迷っているのか悩んでいるのか、その両方か。やがて眼を開け、おずおずと手を伸ばした。


「えーっと、じゃぁ、これを」


 手に取ったのは、紫と白でムラ染めされた、光沢のある一冊。


「渋っ」


「そう?」


「何が渋いんだか。男共なんて黒ばっかりじゃないか」


「それはっ、いいじゃないですか」


「そうだよ。誰が何色選んだっていいんだ」


「あー、いや、別に茶化した訳じゃ、」


「それじゃ、開いてサインしといとくれ」


「あの、」


「ほい、ペン」


「あ、ありがとうございます。お借りします」


 中身は、一頁一つの透明なポケットページ。見返しは茶色で、裏表紙側の足元に枠があった。名を書き込むシイナ。そこには「シイナ」とだけカタカナで書かれていた。青いインクのサインは、やたらくっきりと彫り込まれている。


「さってと。それじゃあ掃除でもしてもらうか」


 その整った字面を見て満足げに頷いたセネカは、シイナからペンを回収するなり、そう宣言した。


「え、あのこれって、」


 指示されるままだったシイナの視線が、セネカと手帳の間を往復する。けれどセネカは意に介していない。


「泊まるんだろう?」


「はい、それは」


「じゃあ、しっかり頼んだよ。ついといで」


 返事を待たずに、セネカは踵を返して消えていった。目を丸くしているシイナは、慌てた様子で振り返り、帰ろうとしていたルカの服を掴む。


「何?」


「えっと、その……これ、いいのかな?」


「どれ?」


「いかがわしいやつ、じゃないよね?」


「いかがわしい? はぁ⁉ 何言っての」


「だって、そいう流れじゃない!」


「んな事言われても。え、詳しいの?」


「イメージ! イメージだけど」

 

 慌てふためくシイナ。耳が真赤に茹っている。


「つかそれ、セネカさんに失礼じゃね?」


「そうなんだけど。掃除って、普通にちゃんと掃除だよね?」


「当たり前だろ? 何いっ、んんっ」


 唐突に言葉を詰まらせ、不愉快そうに眉根を寄せるルカ。こちらは、おでこまで赤くなっていた。


「ふぅ。一応言っておくけど、そういうのは、そういうので別にあるから」


「ふぅん……詳しいの?」


「違っ、仕返しか?」


「ふふっ。ごめん」


「あんまり待たせんなよ」


「そうだね。ルカ?」


「なんだよ」


「ありがと」


「どういたしまして。ほら、行け行け」


 カウンターによじ登ったシイナが、ドスンという音と共に向こう側に消える。しばしの静寂。再び姿を現した後は、振り返ることなく一目散に出入り口へ飛び込んで行った。


「何してんだ」


 呆然と見送ったルカは視線を左に移す。細長いテーブルには移動用のが設けられていた。

 短い溜息と呆れ顔。頭を掻きながら振り返ったルカは、雑然とした室内をぐるりと見回してから、ゆっくりとその場を後にした。

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