陸の上
空が広い。建物はみな背が低く、いくつか大きなものもあるが、それですら向こうにみえる山々とそう変わらない。悠々と流れる雲は細い筋になり、再び日差しが輝き始めた。足元を打つ波は力強く、跳ねた飛沫がコンクリートに斑模様を作っては消える。ひんやりとした風が心地いい。
汽笛が鳴った。白い跡を引きながら船が遠ざかっていく。振り返った視線の先には、デッキに佇むあの男性が居た。二度躊躇った後、シイナは控えめに手を振り始める。右の掌を、あごの横で、小さく。
すると男性もそれに応じたのか、何処からか取り出した黒いつばの真っ白い帽子を左右に揺り始めた。それを見とめたシイナの動きが大きくなる。腕は伸ばされ、片手は両手になり、果ては踵を浮かせながら。
やがて船が景色の一部になると、動きを止めたシイナは辺りをキョロキョロ見回してから、両手で頬を覆った。静まり返った港には、波の音だけが響いて居る。穏やかになった水面が、キラキラと光を返してきて眩しい。
やがて汗ばんだ額を甲で拭って、シイナは一人、歩き始めた。
「おい嬢ちゃん、そっちにゃ何もねぇぞ?」
いつしか掛けられた、唐突な野太い声にシイナの背が跳ねる。声の
「すみません。道がわからなくて」
「道理で見ねぇ顔だ。街に上がるにゃあっちだぜ」
男性が指し示したのはシイナが気が来た方。指の先まで太ましい手は、平までしっかり焦げていた。
「そうでしたか。ありがとうございます」
「なに。日もたけぇし、のぼせんなよ」
「気を付けます」
そそくさと踵を返したシイナが、何かに気付いて足を止めた。活力みなぎる男性の向こうに、小柄な人影がひとつ揺れている。
「あら?」
「ん?」
「あの、お子さん、ですか?」
「はぁ? ああ、あいつか」
底の抜けたバケツ越しに、こちらを覗いている彼。フードのついたポンチョを被って、てかてかした長靴を履いている。足を投げ出して座る様等、その仕草と併せて幼子としか思えない。
「帰んなかったのか」
「はい?」
「あん? ああ、俺の子じゃねぇよ? つうより、あっちのが年上なはずだ」
「なにかの冗談、ですか?」
「いや? なんなら俺がガキの頃からだから、何十年もあのままなんだよ」
「そんな、」
「そういう連中なんだよ。よくわかんねぇけどな」
「分からないんですか」
「喋んねぇかんな。船着くたびに紛れ込んできちゃぁ、ボケーっとしてやがるから、一々送り返してんだが、なんだかな」
「はぁ」
「おい、おめぇも! 日陰こい日陰。のびちまうぞ?」
男性の呼びかけに応じたのか、バケツを下ろした幼子にしか見えない彼。メトロノームのように頭を振りながら、シイナへ向き直り笑いながら手を振って寄越した。
つられたシイナも笑顔を返す。右手を小さく振りながら、左手で胸元を握りしめて。
「フアンって呼んでんだ」
「ふあん?」
「ちょいちょい見かけるだろうが気にすんな。害はねぇしな」
「はい」
「まぁあれだ。ちょっとくれぇアンニュイなのも、スパイスにゃ丁度いいだろう?」
「え? ……んっ、ふふふ」
「あぁん?」
噴出したシイナを見て、男性が顔をゆがめる。その頬はやはり焦げていた。
「えぇい。おら、行くぞ!」
小さな彼を怒鳴りつけ、後ろを向く大きな男性。背中越しに右手を振っている。
「じゃあな。良い旅を」
「え、」
「ん?」
「いえ、その。ありがとうございます。さようなら」
「おぅよ」
連れ立つ二人は、やはり親子にしか見えない。見送るシイナは、何かを思いついたように手を伸ばす。けれどそれきり、一言を発する事も無く指先を丸めて引っ込めてしまった。一人残されたシイナの肌を風が撫でる。デコボコした二人の姿は、もう見えなくなってしまった。
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