船の上

 照りつける太陽と、吹き抜ける乾いた風。潮の香りに囲まれて、波に揺られる船が一隻。その甲板に、少女は一人、立っていた。右舷のへりで、右手を手すりに添えながら。先程から微動だにせず、この船の目的地である、その街の方をじっと見つめ続けている。

 左は黒く右は白い、見渡す限りをぐるりと囲む山脈の、その裾野。一面に広がる黄緑と深緑の点描画は、所々に赤茶や黄色の地肌を覗かせている。空の青と海の蒼に挟まれた光景は、鮮やか過ぎて目に厳しい。

 船が向きを変えた。港へは迂回するようにして回り込むようだ。左右をデルタに挟まれた湾内は、潮の流れが速いのだろう。移り行く景色を追って、少女は船首へ移動した。

 陸地が近づくにつれて、その街の輪郭が確かになってゆく。灰色を基調としたグラデーション。カラフルな背景の中にあっては、底だけ時間が止まって見える。少女がにこりと笑った。


「お嬢さん、もうすぐ港に着きますよ」


「……」


「お嬢さん?」


「……え、私?」


「はい。良い眺めでしょう」


「ええ、その、ごめんなさい、見入ってしまって」


「そうでしょう。何度も来ていますが、私もいまだに飽きません」


「そう、ですか」


 煌々としていた陽の光が、流れてきた厚い雲に遮られた。時化を予感させるような暗がりが、甲板の上に横たわる。海鳥の一羽も見当たらない。


「……ですがそろそろ、準備をされた方がよろしいかと。着いてからでは慌しい」


「準備ですか……あの。お気遣い、ありがとうございます」


「いえ、むしろ出過ぎた事を申しました。残り僅かですが、どうか最後までお楽しみください」


「はい」


 真黒なピーコートに身を包んだ男性は、悲しそうに微笑みながら踵を返した。真っ白な顎髭と頭髪は整っていて、ピンと張られた背筋から響く深いバリトンが後を引く。少女はその背中をじっと見送った。

 汽笛が鳴った。少女が振り返る。いつの間にか視界はその街で埋め尽くされていて、モノトーンだった街並みも実は彩に溢れていた事が見て取れた。

 落胆の色を浮かべた少女は、景色に背を向けて船内へと降りていく。

 中は既に往来が激しかった。タラップに続く広間には長い列が出来ている。はしゃぐ子供や微笑みあう男女。思い思いの格好をした人々はみな、大きなケースを引き摺っている。けれど遠巻きに眺める少女には手荷物一つない。行く先を一瞥し、無言で最後尾に加わる彼女を、周囲の誰も気に留めなかった。たった一人を除いて。


「お客様? 失礼ですが、清算はお済ですか?」


「え? ごめんなさい、私、」


「左様ですか。アクセスカードを拝見してもよろしいでしょうか?」


「カード?」


「ご乗船の際に発行させていただいたかと」


「えっとその、紛失、してしまって」


「承知しました。それでしたら、一旦カウンターまでご足労願えますでしょうか?」


「はい。ご迷惑をお掛けします」


「滅相もございません」


 いつの間にか、周囲から人の気配が無くなっていた。下船を待つ者どころか、船内を歩き回る者すら見当たらない。余程スムーズにはけたのか、それとも、ずいぶんと時間が経ったのか。

 フォーマルに身を包んだ女性の先導に、俯きながら従う少女。広間の周囲に沿った通路を半周回ってレセプションに至った。そこにも同じ装いの女性が居て、こちら側からあちら側へ言付けが送られる。どうやら、以降はカウンター向こう側が引き継ぐようだ。


「大変お待たせしました。お名前を頂戴してもよろしいでしょうか?」


「はい。えっと、シイナ、です」


「シイナ様、ですね。はい、二百五十銀と六銅になります」


「え? そんな、私持ち合わせなんて」


「左様でしたか。少々お待ちいただけますか?」


「はい」


 想定済みであったとばかりに、あっさりと対応した女性は胸元に手を添えた。誰かを呼び出しているらしい。傾けた首の動きに合わせて、肩まで届く黒髪がさらさらと流れる。

 シイナと名乗った少女は、こめかみに右手を添えた。そのまま自らの髪を摘まんで梳く。耳に掛かる程度で整えられた薄い栗色の髪は、ごわごわとしていて引くと撥ねる。ゆっくり四度弄び、うなじにむけて撫でおろした頃、先程の男性が向こう側に現れた。


「やはり貴女でしたか」


 淀みなく紡がれた言葉が反響する。静謐さの中にあっては、その声は重すぎた。シイナの顔には苦笑い。男性の顔には、先程と同じ色の微笑み。


「すいません、ご忠告いただいたのに、私」


「ままならないものですね」


「ままな、え?」


「では、お帰りの際にご一括でお支払いいただく、というのはいかがでしょうか?」


「え、いいんですか?」


「私共としましては、それで構いません」


「そんな。あ、じゃあこれ、これをお預けします」


「担保、ですか?」


「はい。こんなものしかなくて。全然足りないでしょうけど」


水琴のような儚い鈴の音と共に、差し出されたそれ。受け取った男性はしばらく、無言のままで見つめていた。シイナの手には大きかったが、男性の手には小さすぎる。


「いえ、過剰なほどです」


「そんな空っぽなのに?」


 男性の表情は変わらない。


「……お預かりします。またいずれ、此方に参ります。それまでにどうか、ご準備を」


「ご迷惑をお掛けします」


「滅相もありません。それよりどうか、良い旅を」


「はい」

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