終 少年/少女/そして置いていかれた者たちは

 一ヶ月後。

 三國谷は地下施設に来ていた。度重なる取り調べの末にやっと千代が事件の全容をゲロったからだ。何処かの国がやってるみたいに拷問した訳ではないだろうが。三國谷も当事者である以上、事の真相を知る権利があるという翅からのお達しだ。夏休み終了まで残り一週間を切った頃である。

 である、のだが。

「で、何ですか? これ」

「実は委員長が君に会いたがっていたのだが、君も堅苦しい応接室は嫌だろう」

 だからと言ってドーム状の人工海水浴場に連れて来なくても。奥行き300メートル、幅100メートル、高さは30メートルを超える場所。大理石を砕いて作った長さ140メートルの人工ビーチと造波プールが眼前に広がる。

 故に三國谷は海パン一丁にさせられている訳で、それはつまり。

「此処でなら日焼けを気にしないでいられますね」

 三國谷の両脇を固める二人も水着である。翅は白のビキニを艶やかに着こなし、形の良い脹脛から腰まで続く脚線美とふくよかな胸を惜しげもなく披露している。引き締まった手足、程よく割れた腹筋は流石と言う他ない。対し美縁はビビットなブルーの水着を纏い、三國谷に向き直る拍子に驚く程くびれた腰のスカートが揺れ、絹織物じみたきめ細かな肌に映える。肉付きの良い腕と足は女性基準から見れば少し太っているように思えるだろうが、三國谷基準的には目に毒だ。

 三國谷は、微動だにする豊満な胸はおろか美縁からも目を逸らす。全身凶器だろ。

「言技の常時完全発現が可能になったので、様変わりしましたね」

 そうなのだ。細胞再生のせいか、相当に筋肉質になってしまった。あと【松之中】と診断された《一蓮托生》のような常時発現型の言技は虹彩をPT結界と同じ青色に変えてしまう副作用があり、濡髪が碧眼なのも梅冠の言技《泥中の蓮》が常に性格へ作用する言技だから。つまり三國谷も青目になってしまったのだ。

 水着で剥き出しになるマッチョな体格を間近にする美縁は、ふと「ちょっとすみません」と断りを入れ、造形を確かめるように細い指で三國谷の胸筋をなぞり腹筋を掌で撫でる。

「ん」

 窺うようにするものだから胸の谷間が強調され目のやり場に困るし、肌に触れる手が擽ったい。

「普通の人より心なしか弾力性に富んでいるような……」

「プラナリアも真っ青な再生能力だからね、流石だな」

 翅も背筋を撫で擦る。すると三國谷が赤面する。何だこの状況。

 閑話休題。

 三國谷と翅はビーチパラソルの下の椅子に座りテーブルを挟み向かい合う。美縁は言技で聞くからと一人離れてプールの水面でぷかぷかと漂う。

「さて」

 テーブルに両肘を突き口元を隠した翅は、切れ長の瞳に切迫した光を浮かべながら切り出す。

「――君は別の世界から来た三國谷万字、で合ってるな」

 三國谷は、元いた世界から所謂パラレルワールドに飛ばされた。別の次元から来た存在。道理で記憶と事実に齟齬がある訳だ。そもそも別人なのだから三國谷は記憶喪失ではなく、ただ知らなかっただけ。

 しかも、それは恣意的に引き起こされた現象である。

「千代の言技は《一簣を以て江河を障う》、PB序列は【桜之下】。弐層帯ではなかったらしい。量子レベルで物質を分解/再構築するという前例がない能力だ。千代はその力を使い君を量子にまで分解、塩の柱の未開部を時空の穴として利用し君をこの世界に引き寄せてから再構築した。内殻器官を理想通りにデザインし君に任意の言技を保有させた上で襲撃し、我々に君を監視させた」

『道理で雨音さんの言技が特定出来なかった訳です、なにせ自作自演だったのですから』

 あの時の段階では《明鏡止水》は千代の言技であり、雨音の物となったのは密会した後だったらしい。能力の譲渡が可能なのは元は一人だった千代と雨音だからこそ出来た事。翅と美縁の手で三國谷の言技発現を促進させるために、二人が狙われていると勘付かせようとして一芝居打ったのだ。三國谷がおいそれと内殻器官を活性化させまいと踏んで。せっかく完璧に新生させたのに言技発現出来なければ宝の持ち腐れだから。何よりこれが計画を完遂させる上での第一障害だった。

「ネクサス計画における英雄作戦第一号、か」

 三國谷万字を英雄に仕立て上げるための作戦、それが事件の真相である。

 三國谷を言技世界に召喚した事、千代が雨音を分離させた事、治安維持出動を誘発させた事、防空壕シェルターで作戦の建前を三國谷に説明した事、第二区でテロを起こした事その全てが三國谷万字を英雄に祭り上げるためのお膳立て。

 英雄という称号を蛾から蛍へ繋げるための計画。

 故に万字はどうしても三國谷と戦う必要があった。いつの世も武勇によって傑出した業績を残した者がそう呼ばれるから。

「今回の計画は千代の力なくして遂行不可能だった、どうしても神に程近い女が必要だった訳さ」

『彼女がU・キャッスルだと……。彼の国の素早い動きはこれが事由ですか』

「煮え湯を飲まされているからな。分析パターンを隠匿していたくせに知らぬ存ぜぬで通してきやがって、情報共有等があれば多角的なケース別の防衛隊運用計画を立案出来たんだが。もっとも、それすら作戦の内だったかもしれんがね。奴ならそれぐらい計算尽くだろう」

 万字による一年間の助走が生んだ計画と作戦。誰もが万字と千代の掌の上で踊らされた訳だ。千代もPT結界縛りで言技発現せずに戦闘していたのだから舐めプもいいところだ。そうなると蛍が蛾を相手取って辛勝したのも想定の範囲内か。

 三國谷は苦笑する。いや賭けだったに違いない。この程度の試練で敗北するような蛍であれば、この先生き残れない。いつだって戦わなければ生き残れないのだから。作戦成功確率は五分だったろう。

 そして万字は賭けに勝った、自らの死と共に。

「あいつは、瀕死の状態で戦っていたような気がします」

 だから三國谷を召喚した。どの道、家族や友人や知人を遺して死ぬと分かっていたから。成虫原基ホメオミームは世間には千代の模倣犯としての物的証拠だと公表され、真相を知らぬ人達に向けた変わり身は見事に達成された。千代が極一部のニビョウカン達や戦防隊員らを扇動し三國谷に濡れ衣を着せようとした、というシナリオ。故に三國谷万字は死んでない、自分が今ここにいるから。記憶喪失という事にしておけば別人だと見抜かれまい。

「三國谷さん」

 美縁の肉声に驚き、プールへ視線を転じる。波に打たれながら立つ美縁の艷やかな肌を水滴が弾かれるように滑り、優美な曲線を描く首筋を伝い鎖骨の窪みに一瞬だけ留まり、しっとりと白い膨らみへと至る。

 人工ビーチを隔て、二人は顔を見合わせる。

 触れ合う視線を先に解いたのは、美縁。感情の読めぬ透明な表情で一言だけ尋ねる。

「彼は、最期に何と言っていましたか?」

 三國谷は今でも鮮明に覚えている、あの遺言を。

 一言一句噛み締めるように告げる。 

「すまなかった、と」

「――そう、ですか」

 虚弱な声を漏らした瞬間、美縁の顔がくしゃりと歪んだ。だがそれも一瞬で、すぐに背を向ける。挙動の軌跡に散った水滴には、どんな感情が含まれていたのか。波間に揺れる美縁は迷子のように立ち尽くし、濡れた背中を晒し、震える吐息を零す。

「謝るくらいだったら……!」

 酷く切実な声がプールに虚しく響いた。

 万字と美縁がどういう関係だったのか、三國谷は知らない。

「私に向けても同じ事を?」

 目線を移せば、正面から見つめる翅の瞳には諦観だけがある。無言で相槌を返す。

 翅は数秒ほど黙った。

 止むに止まれぬ戦況だったとはいえ、奴を殺害したのは自分だ。躊躇うように見返す。三國谷の胸が詰まる。翅の顔に表情は無かった。ただ三國谷を見据え、ふっと力が抜ける。全体重を乗せて凭れ掛かった椅子が音を立て軋んだ。

「あいつとは、十年来の付き合いだった。……生きるための言技だ、決して逆ではない。そう教えた筈だったんだがな……」

 それ以上、翅は余計な事を言わなかった。奴がどのような男で、死期を悟った時にどのような選択を下すか分かっていたのかもしれない。

 物悲しい静寂が降りる。

 三國谷の耳にいつまでも漣が届いていた。


       ⑨


 同時刻。

 雨音と華蓮は第二区の病院に足を運んでいた。

「此処だよ」

 目の前には、最上階南東の個室の扉がある。

 雨音ちゃんに会わせたい人がいる、華蓮にそう言われたのはつい昨日の事。

 詳しい事情は自分には内緒という事らしい。不思議に思うが、いつまでも相手を待たせる訳にはいかないので扉をノックし引き開ける。

 そして視界に飛び込んだのは、ベッドで上体を起こした一人の老女。広い病室も窓の向こうの景色さえ、もはや雨音の意識から程遠い。皺だらけの柔和な顔立ちと滑らかな白髪と黒い瞳だけが目に入る。

 何故か酷く懐かしい感じがしたから。

 二人は無言で見つめ合い、壁際に控える華蓮の息遣いが聞こえる。

 やがて、お婆さんは泣き笑いを思わせる表情を浮かべた。

「雨ちゃん、本当にあの頃のままなんだねぇ」

 年老いて掠れた声で、その名を呼んだ。

「あ……」

 自分の事をそう呼んでいた人を、雨音は今でもはっきり覚えている。

 日高紅緒。四十万茂の妹、日高幸恵の娘。茂さんの姪っ子。

 不意に紅緒の目尻に涙が滲む。

「雨音ちゃん。茂伯父さんは、もう三十年前に、」

 その先の言葉を聞くより早く、雨音は思わず駆け寄っていた。リノリウムの床をブーツで蹴り、女袴の裾が翻り、感情の赴くまま抱きつく。臙脂色の作務衣に包まれる体は痩せこけ、年月の経過を感じさせる。ふわりと嗅いだ事のある体臭が匂い立ち鼻腔を擽る。同時に視界がぼやける。

 雨音の息が詰まり、喉が鳴って、そこで限界が訪れた。

「ありがとう。生きでてくれて、本当にぃ……っ」

 次から次へ溢れる涙を拭いもせず、紅緒の肩口にあられもなく顔を埋め、嗚咽を漏らしながら泣き続けた。

 ふと紅緒があやすように頭を撫でてくれた。

 随分と年上になってしまった今でも、紅緒はあの頃と同じように優しく気遣ってくれた。

 窓の外に広がる夏の青空は、暫く銀色の雨に見舞われていた。


       ⑨

 

 その後。

 寺院墓地にある四十万家の墓石の前で線香をあげ、手を合わせて冥福を祈る。

 三十年遅れの墓参り。

「遅くなってごめんね、茂さん」

 ――ありがとうございました。茂さんは今でも私の恩人です。

 瞑目し合掌しながら胸中で感謝を伝えた。

 遅めの登校日で制服姿の華蓮と大正娘姿の雨音は、連れ立って砂利道を歩く。嘘みたいに青い空、蝉の鳴き声、濃い陰影を刻み影の塊じみた林立する松、その只中でブーツがじゃりと足音を立てる。

 華蓮がふと切り出す。

「雨音ちゃん、万字を助けてくれてありがとう」

「え、いや私の方こそ助けて貰いっぱなしだよ」

「でも万字が《一蓮托生》を発現出来たのは雨音ちゃんのおかげなんでしょ」

 複数人で発現可能となる言技は《阿吽の呼吸》等があるらしいけど、それでも珍しいタイプらしい。よって雨音の虹彩も今や澄み渡る青に変わっている。

「でも、それだって千代が仕組んだ事だし。それに……華蓮ちゃん、本当にありがとね。色々お膳立てしてくれて、凄く嬉しかったよ。おかげで何か吹っ切れた気がする」

 優しい嘘ではない。泣きじゃくったおかげで色々な感情を整理出来た気がする。すっきりした表情でお礼を述べたのだが、何故か華蓮は曇り顔で唸る。二人して立ち止まり雨音が小首を傾げると、華蓮は急に明後日の方向へ合掌し「ごめん!」と叫ぶ。

 ちんぷんかんぷんだった。

「今回の事は美縁さんが手配してくれたおかげなんだけど」

「でもお願いしたのは華蓮ちゃんでしょ」

「そうなんだけど……実は事件が起きる前に万字から頼まれたんだ」

「少年が?」

 目を丸くする雨音を前に、華蓮は後ろ髪を引かれる感じで言い淀む。

「万字には口止めされてて……」

「どうして? 別に隠す事じゃないのに……」

 そこは華蓮も疑問だったらしく、暫く思案顔で唸ってから困ったように微笑む。

「別の世界の万字も、天の邪鬼な所は同じって事かもね」

 その行動の裏にどんな感情があったのか、雨音は彼に思いを馳せる。

 ――少年は、私の気持ちを察してくれてたんだ。

 もし誰か生きていたとしても見つけられない、そう諦めていたにも関わらず。

 少年は決して諦めなかった、自分と茂と紅緒の事を。

 雨音の脳裏に彼の言葉が反芻され、姿が表情が想起される。『本当にそれでいいのか?』『分かった。俺が、必ず助ける』『空虚かどうかは俺達が決める。雨音の生き様は俺達が見届ける』その想いに胸が高鳴り、

 その時、「  」に落ちる音がした。


       ⑨


 あの後、翅からIDタグを貰った三國谷は乙層通信塔跡地に訪れていた。規制線の前で警備員にIDを提示し、立入禁止のテープを潜り抜け立ち並ぶ仮囲いの安全鋼板の前で足を止める。日差しに炙られる鉄板に触れれば火傷しかねない。

 行き掛けに花屋で拵えた花束を置く。白い菊の花。それは三國谷の影に埋もれる。一粒の汗が顎を伝って熱い地面に落ち、黒い染みはすぐに乾いて消えた。

 自己満足だ。でも、せめて自分だけでも弔うべきだ。此処で一人の男が殺された、その事実を知っている数少ない生き証人なのだから。

 なんて、美談で済ませたい所だが。

「違うよな」

 翅と美縁の反応を見ると、置いていく人達を慮っての行動だと解釈してしまう。犯罪に手を染めたけど根は良い人だと捉えてしまう。

 だから三國谷は否定する、万字を。

 三國谷万字は、そんな大それた男ではない。故に思う。

 ――あいつは死の十字架を背負いきれなくて、罪と罰から逃げ出した弱くて狡い奴だ。

 サバイバーズ・ギルト。

 他殺に見せかけた自殺だったのではないか。

「浅はかだな……」

 いや、これは自分の現実逃避か。罪人相手とはいえ殺人を犯した現実から逃げたくて自殺だと思い込もうとしているのか。自分も奴と何も変わらない。

「絆……ネクサス。受け継がれる意思、か」

 思考と感情が懊悩と葛藤の底なし沼に沈みかけた刹那、

「黒髪の色褪せぬ間に、心のほのお消えぬ間に、今日はふたたび来ぬものを」

 振り返る。

 防災行政無線に使用されそうなメロディで歌い上げたのは、雨音。聞いた事のない歌詞だった、大正時代の歌だろうか。歌詞の意味など見当もつかない。

 白い日差しが生む陽炎の只中を歩く雨音は幻のように思える。時代錯誤な大正娘は、虚像でもあり実像でもある。紫と白の矢絣模様の小袖に水泡が白く描かれた瑠璃色の女袴とこげ茶色の編み上げブーツ、包装紙のリボン――それらは重ね合わせの存在だが、少なくとも観測者の三國谷にとっては後者である。

 砂地にブーツの足跡をつけながら歩み寄る雨音は、ふと三國谷を一瞥してから花束の前で立ち止まり瞑目し合掌する。涼しげな細い黒髪に縁取られた横顔を眺め、

 何か言わなければ、と三國谷は思う。

 雨音が目を開けた瞬間を見計らい、

「その、助かった」

 口を突いて出た言葉がそれだった。

 怪訝そうに眉を寄せる雨音。

 酷く言葉足らずだったのは、照れくさかったから。感謝し慣れてないのも考え物だ。

「再生が巧く出来たのはお前のおかげっていう側面もあったから、さ」

 面食らったように目を瞬かせた雨音は、しかし突っ慳貪に返す。

「別に。感謝されたくて発現させてる訳じゃないし、そもそも少年が行きあたりばったりで馬鹿正直に真正面から突っ込まなきゃ無理しなくて済んだのに。もう叫び過ぎて喉が潰れるかと思った」

 あの絶叫は幻聴ではなかったのか。てか殊勝に言えばこれである、なんだこの仕打ち。

 待てよ。前にもこんな会話をした覚えがある。つまり、

「そりゃ悪かったけどさ。ひょっとして今の……」

「そ。少年の真似ー、上手いでしょ」

 花が咲くような微笑みを湛え、嬉々とした声音でそう言った。

 雨音は心なしか舞い上がっているように見える。何か良い事でもあったのだろうか――思い至る。そういえば今日か、雨音が件の女性と数十年ぶりに再会したのは。そりゃ上機嫌にもなるか。

 今の時代でも彼女は決して独りではなかった。

 ――美縁さんと濡髪に礼を言わないとな。

 すると一転して、雨音は誂うように口角を上げる。

「悪いと思ってるなら、私のお願い聞いてくれる?」

「金目の物は持ってねぇぞ」

 カツアゲかよ。

 想定に反し、雨音は胸元をきゅっと握り込み、窺うように勇気を振り絞った表情で、

「名前で呼んで」

 虚を突かれた。紅潮した童顔を見ると、勘違いしてしまいそうになる。三國谷は誤魔化すように、

「何でそんな急に……」

「名前は、私を規定する物だから」

 観測されて初めて実在性を発揮する量子力学的存在、神に程近い千代の片割れである雨音にとって名前は特別な意味を持っている。客観的に我を我足らしめる言葉、固有名。

 気分を害したので呼び捨てを要求する、それは照れ隠しの口実なのかもしれない。

 こんなきっかけでもなければ、言えない事だったかもしれない。

 思い違いも甚だしい。

 それでも。

「雨音」

 言った。言ってやった。

 躊躇うように名前を呼んだ。

 果たして強張った顔は安堵したように和らぎ、心の底から嬉しそうに綻ぶ。可憐な桜色の唇が微笑を形作る。

「うん、少年」

「……お前は呼ばないんだな」

「何? 呼んで欲しいの? 可愛いとこあんじゃん」

「いや、やっぱいい」

「照れてる」

「やめろ、やめて下さい」

 つい自惚れてしまった。非モテにあるまじき愚行だ。

 間、

 にやける雨音は笑いを噛み殺し、

「呼び捨て頂戴しました」

 その場で踊るように身を翻した雨音は、てくてく歩く。浮き立つような足取りで女袴が揺れ、リボンで纏めた黒髪が華麗に靡く。

「正味な話、少年には感謝してるんだよ。私は、妾達はずっと鏡の世界にいたんだ。千代は集合的無意識の世界って呼んでたっけ。気が遠くなる程すごく広い世界で上も下もない、銀色の世界。あの世界で妾達は万能だった。だから水平線の向こうに誰かがいる事が分かっていても、寂しくなかった。退屈はしていたけど」

 五歩、そこで止まる。振り返った拍子に黒髪を鋭い陽光が滑り、浮かれて見開かれた青い瞳が見つめる。三國谷も見返す。誠実な視線を受け、目を逸らせない。共に《一蓮托生》で繋がる碧眼が見つめ合う。

「そんな時、初めて寂しさをくれた人に出会った。少年は、ただの孤独に価値を与えてくれたの」

「……買い被りだ。俺は運命を仕組まれた餓鬼に過ぎない。出会いにしたってお膳立てされたものだし、観測者って意味では別に俺じゃなくても良かった訳で……別にお前のためじゃ、」

「雨音」

「……雨音のためじゃねぇよ。自分のためにやっただけだ」

 嘘はついてないと思う。

 つれない態度にも関わらず、雨音は尚も目元を猫のように緩ませ頬にえくぼを浮かべる。

「それでも、傍にいて欲しい時にいてくれたから嬉しかった。大事なのは何処にいるかじゃなくて、傍に誰がいるかだから。それに私の気持ちは、計画の範疇じゃないもんね」

 真摯な目つきに射止められ、ぐうの音も出ない。いくら千代でも雨音の感情までは操作出来ない。人の心は度し難いから。

 雨音はそっと持ち上げた掌を胸に当て、蕾が綻ぶように柔和な表情を浮かべ、言葉を紡ぐ。

「不謹慎だけど、退屈凌ぎに千代が計画に乗ってくれて良かったと思ってる。そのおかげで、今こうして少年がいる世界と時代で私は生きていけるから」

 銀色の雨が降る。

 雫となって散る無数の液鉄は、言技《明鏡止水》は中天にある太陽を照り返し、果ても知れない青空の只中で光の雨のように降り注ぐ。

 とても綺麗な狐の嫁入りだった。

 光の乱舞を映す二人の瞳は爛々と輝く。

 同じ虹彩、同じ言技を共有する少年と少女は一蓮托生そのままに寄り添って生きていく。観測する者とされる者、相互作用が働いて化学反応を起こす。別々の原子が結合して分子となるように、二人もまた日常の中で変化していくのだろう。

 これから先は未知の領域だ。

 計画されてない未確定の未来だけがある。

 いつ万字と同じ末路を辿るか知れたものではない。万字がそうだったように臨界点を超える覚醒のタイミングなど調整出来ない。言技という突飛な能力が存在する異世界で生存し続けられるか、根拠も保証も何もない。

 それでも彼女との繋がりさえあれば何とかやっていける気がする、三國谷はまっさらな心でそう思った。

 そして、

 雨音は、屈託のない笑みを見せた。

「私を観つけてくれてありがとう、万字」

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プシュケ・イン・ザ・シェル @kyugenshukyu9

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