陸 灼熱
初手、正面会敵。
先に仕掛けたのは、蛾。
突進の勢いを乗せ右足を振り抜き、刈り取るような朱色の弧を描き頭を狙う。が、初動の段階で危険軌道を視た蛍はすんでのところで躱す。頭上を掠める豪速の脚を潜り抜け、互いの火の粉が拡散し、胴体に拳を放
「ッ!」
たず引っ込め飛び退る。一呼吸分遅れて旋転からの左回し蹴りが空を裂き、次いで鋭い足払いから逃れた拍子に重心が崩れ尻餅をついたと同時に蛾が宙で前転し、踵落としが蛍の股間数センチ前で炸裂した。直撃を外しながら縦にぶち込まれた踵は火花を伴いぎん、と甲高い金属音を響かせ床を凹ませた。体勢を立て直すが素早く左肩へ蹴りを入れられ、物凄い衝撃を受け流しつつ身を翻すが、小細工なしに正面から中段へもう一発食らう。慣性に従い蹴飛ばされつつ転倒せぬよう堪えれば、蛾は身を捻り宙で側転、先読みした蛍はすかさず前転。蛾は空中で曲芸じみた回転蹴りを繰り出し、その真下を蛍は転がり距離を取る。
火の粉を撒き散らしながら、この間僅か二秒。
躰がより一層赤熱化する程思考が回転し、徐々に加速していく感覚がある。双眸の奥でゆっくり熱が膨張する知覚がある。際限のない思考速度、その閾値に導く事が火虫を司る二匹が点火と併用する固有機能である。全ては危険を読むために。
初撃を只の一撃で終わらせず、次の一手に繋げる所業。蛾にとっては当然の連撃だが、蛍にとっては辛うじて致命打を躱せる速度と威力を内包し再生がなければ今ので肋骨の一本や二本やられたままだろう。双方その身に鎧う白と黒は虫殻と呼ぶに値する硬度で、それ自体が攻守において脅威足り得る。
そして互いに予知めいた先読みが可能な戦闘とは、人間の限界反射速度を超えた0.1秒以下に勝機を見出す絶技である。互いの戦術も、それを行使するタイミングも、狙いも角度も位置も距離も攻防避の速度も全て完璧に読んだ上で致命の一撃を叩き込む。死と再生を孕む火虫を斃すにはこの手しかない。
――無力化なんて無謀すぎるだろ。
一瞬だけ慄然とする蛍。が、刹那の間は蛾にとって欠伸が出る程の隙である。
攻勢展開。
火達磨が真一文字に闇を疾走り、急速接近。撃鉄を落とすように距離を詰めた。蛍が構えを取るより断然速く、目にも留まらぬ肉弾戦が幕を開けた。踏み込む度に足元から小さく火の手が上がり、焦げた足跡が壊滅的な熱量を物語る。蛍は本能的に危険軌道を逆算、矢継ぎ早に殺到する紅の死線を認識、回避不能と見切れば命中の予測点を識別、予断を許す戦況ながら決して気は緩めずこちらも直接照準、これらを一秒にも満たぬ内に一挙に行いながら瞬時の間隙を突かんとする。
迎撃。
一手、矢の如く引き絞った右拳をいなし、間髪を入れず胴に吸い込まれるような左の蹴撃を肘で弾き、迫る右の拳打を顎を反らす動きだけで躱し、蛾が雨あられと見舞う打撃を徹底的に捌く。
二手、斜め下から撃ち抜かんばかりに放たれた上段への左足刀を紙一重で回避し、副次的に舞い散る熱の軌跡を鋭く引きながら懐に体当たりを仕掛け、派手に吹っ飛ばす。
三手、慣性に従い火花を伴いながら床を滑走するように転がった蛾は事も無げに跳ね起き、蛍へ一気に肉薄し下段を蹴るが巧みに腕で受け止められる。蛍はお返しに抉り込むようなフックを叩き込む、
肘打ち。
鼻っ面に殺人的速度の鋭角な肘が爆ぜ、蛍は大きく仰け反り吹っ飛ばされた。火柱でぶち抜いた天井の穴から星空が見えた。顎を引き前方を見据える最中、その視界を紅いマフラーが分割する。追討ちが来る。浮いた躰をそのままに衝撃を殺さず宙で後転し、接地際を狙いどてっ腹に喰らわせんと突き込まれた前蹴りを咄嗟の旋回で流し、蛾の足裏が豪快に掠め、脇腹から出た血飛沫の如き火の粉と火花を置き去りにしながら水月に渾身の膝蹴りをぶち込む。
そのまま上体を抱き込むように掴んで容赦なく床に叩き付けようと、
蛾が信じ難い動きを見せる。破格の外殻硬度とは思えぬ柔軟性を発揮し、躰を捻り拘束を蛇のようにすり抜ける。一分の隙すら見せぬ靭やかな躍動で芸術じみた側転を一回、連続して二回バク転を繰り返し蛍の間合いから外れた。着地の衝撃で盛大にぢりん、と火花が散る。
どう足掻いても回避は完璧に成功しないが、浅手だ。ダメージが着実に躰を蝕んでいるのは事実にしても、再生で間に合わせる。問題なのは攻防だ、だが今も加速度的に思考速度が上昇し先読みの精度も上々。躰もその速度に追随出来ている。蛾の攻速度が今まで通りならば――
「攻焔殻、伊号起動」
突如、蛾が不穏な一言を発した。
打つか防ぐか、超高速で選択が跋扈する思考領域において、コンマ以下秒だけ迷う。
度し難い程の隙だった。
直後、蛾の足元に炎が発生する。噴射、
加速。
範囲を絞った火炎によって足を動かさぬまま瞬く間に最高速に至り、床を焦がしながら躰その物を砲弾とする勢いで滑るように疾駆した。炯々と妖しく閃く眼光が残像を刻みながら迫り、
視界一杯に広がる蛾の右手を見た。
先読み。掌が顔面を狙う。速い。が、見切った。
躱、
見えなかった。
火砲の直撃にも匹敵する激甚な衝撃を受けた時には既に後頭部を床に思い切り打ち付けられていた。殷々と耳を劈く衝突音が響き渡り、蛍の脳内にコマ落としの記憶が閃く。直前に開いた掌が見えたと同時に光が爆発的に広がり、その頃にはもう顔を掴まれていた。加速した知覚でなければ視認不可能な電撃的速度域の、肘から火を噴射し掌打を劇的に急加速させる戦技――
床に激突した上体と比して、ようやくと思える時間差で床と垂直にL字に上がった脚が床に落ちた。遅すぎると思われるタイミングで踵が硬質な音を立てる。
そして、握撃。
べきべきべき、という殻と頭蓋骨が罅割れる音が骨伝導で聞こえて脳内に跳ね回る。それは直接的な攻撃というより、ある事象を誘発させる術。
火虫は危険に直面すればする程より一層能力値を上げていく。つまり火力が格段に跳ね上がる。
蛹が極度に高熱化し、激しく燃焼しない代わりに恐ろしい程高温の熾火がゆらめく。途端、躰が沈み込んでいくのを察知した。藻掻くが顔を握り締める万力のような手は緩まず、ものの数秒で正気を疑う温度に達し、
一溜りもなく床を飴細工の如く溶解させ、人の形の穴を穿つ。
落下。
「少ね――」
雨音の声を聞くより遥かに速く重力に引かれ落ちた。ばらばら降り注ぐ溶けた鉄の雫を追い抜き、組まれた数多の鉄骨の狭間をあっという間もなく貫き、闇の只中で照りつけるように燃える二匹は照明弾の如き眩い輝きを放つ。
夜明け前の一日で最も暗い闇の中で赤色航空障害灯しか光源のない鉄塔、その骨組みを縫うように朱の発光体が火の粉を蛍火のように散らしながら重力加速度的に落ちる。
蛍の視界が熱量の光で塗り潰されたのも束の間、蛾が存分に怪力を振るう。布を振り回すような動作ながら風切り音を刻み、容易くぶん回して人型の物体にするものとは思えぬ動きで蛍を投げ飛ばした。甲高い風鳴りが後を引き、
骨組みを抜けた。
闇色の宙に放り出された。一気に視界が開ける。横飛びで回転する視野に剥き出しになった月、星、雲、
天高く身を躍らせるのは、蛍。寄る辺がない故に空は自由だった。星屑に彩られた高空の只中で一点だけ、点火した焼夷弾の如き別格の熱源として存在する虫。
ぞっとする高度の空中で放物線の頂点に達し自由落下を始めるまで残り二秒、あまりにも遠くジオラマに思える地面に激突すれば間違いなく死ぬ。狂おしい程の焦燥に駆られる。が、急激な加熱に伴い更に思考が速まり、ほんの一秒後。
即応。
――奴に出来る技なら、俺にも出来る筈だ。
絶望的な慣性を活かし強風に晒されながら宙返り、冗談のように遠い乙層通信塔を認めつつ光点じみた蛾をビーコンとして捉える。ついに慣性より重力が勝り、浮遊感が消え落下軌道に入る。死の危険性が高まる事で鉄さえ溶かすありったけの火力を惜しげもなく増加させ、
蛍が、射った。
背部からの噴射。蛾を凌駕する炎の撃発だ。もはや一発の曳光弾と化した蛍は高空を矢の如く一直線に飛来し、空気に大穴が開き凄まじい音が轟く。夜空を横切る弾道に彗星にも似た青白い炎の穂を鮮烈に残し、蛍は月も星も覆い隠す程の途轍もない光を散らす。瞬間的に音速を超え、音と衝撃波を振り切り一条の光のラインとなって彼我の距離を刹那に消し飛ばす。寸分違わず骨組みを難なく抜け、減速を知らぬまま蛾に突貫――
「攻焔殻、呂号始動」
ぎゅるッ、と蛾の体躯が火の渦と化した。
得体の知れない力を溜めるように背を丸め、抱くように腕を畳む。
十字に組まれた鉄骨の上で硬直し、突風に煽られ炎の穂先を揺らしながら火の粉を線香花火のように散らし、黄色の眼は虎視眈々と光を強めた。
狩人の如く飛び掛かる蛍に向け、躰の隅々まで力を漲らせた蛾が撃つ。
全方位射撃。
火球と呼ぶにはあまりに鋭利で、毒毛と呼ぶに相応しい雲霞が夜を幾筋にも裂く。出鱈目に撒き散らされた弾幕は面制圧じみた密度で空間を舐め尽くし、周囲三六〇度の骨組みに当たる度に甲高い大音響を立て着弾点に煙と焦げ跡を残し、一帯は音の荒波に呑まれる。回避の予測点すら塞ぐ斉射である。
直撃を避ける事、それが最優先事項だ。一発でも射抜かれたら最後、瞬き一度にも満たぬ一瞬の隙で撃滅されるに違いない。
が、蛍には寸前に射線が視えていた。
転瞬、蛍は弾かれたように尋常ならざる速度と精度で動く。
蛾も蛍も今まで噴射口を足や肘や背に限定していたが、今や蛍は全身の至る所から焔という推力をがむしゃらに連続で放ち立体的な三次元機動へ果敢に挑む。
四方八方に伸びる死線の隙間に、
飛び込む。
四射と八射の間を、掻い潜りる。
十六射と三十二射の間を、切り抜ける。
六十四射と百二十八射の間で、光のように翻る。
嘘のような機動力によって、二千倍に加速し粘つく主観でなければ見出だせぬ極小の穴目掛けて飛んだ。外科手術のように正確無比な擬似飛行、立て続けに上下左右へ押し飛ばされるように水平移動する様は《
一本の鉄骨の上に着地、綱渡りじみた姿勢のまま外殻に幾筋も刻まれた擦過傷を修復。隙を見せぬだけで精一杯だった。こうしている間にも蛾と蛍の足元は煤けていく。
対し、全弾回避された蛾は無言。闇を隔て対峙する二匹は高所の風圧に晒されて尚その身の燃焼は衰えず。蛍は些かも油断せず見据え、
――どうも痛覚が変だ。掠り傷があるくせに戦闘に支障が出る程の痛みを感じない。そもそも燃えてるのに熱くない。
笛の音みたいな夜風が場を支配し、やがて、
読心したように、蛾。
「痛覚マスキングだ。痛みを知りながら、痛みを感じないようにする。脳にあるライルの島を始めとした様々なモジュールに覆いをする。特定の神経伝達物質を放出させてな。危険を無力化するために、排除するために。桜冠の抱える幾多の罪の一つさ。大罪に関する情報は全て此処に格納されている、死と新生を司る大脳皮質の襞に」
そう言って蛾はこめかみを指で軽く突く。そこには心があり、魂があり、内殻器官がある。
その仕草に一瞬だけ注意を引かれ、
赤、危険反応。身の毛がよだつ。面や点では利かない、知覚範囲を丸ごと埋め尽くす程の縦横無尽に走る死線は既に絡まり塊その物だった。ピンポイントに決定打を与えられぬのならば場所ごと制圧してしまえばいい、同じ能力を持ち先達である蛾はそれをよく知っていた。
心底から戦慄する。
火力と再生に物を言わせた捨て身の爆撃。
動く。そうはさせない。砲火めいた噴射は蛍を最高速に導き、
「攻焔殻、波号発動」
膨大な熱が波紋のように場を満たし、ついに圧縮した力の軛を解く。
自爆。
視界を焼き切らんばかりに周囲は真昼の如く照らし出され、人の鼓膜ならば破れる程の大音響が弾けた。
⑨
光。
轟音。
「え」
横たわる千代を警戒しつつ彼等が落ちた穴に駆け寄り、光と音を捉えながら何とか戦闘の推移を追っていた雨音はびくっと身を竦ませた。あまりの音量と光量に耳が遠くなり、視界が真っ白になった。訳が分からない。
二人が落下してからまだ十数秒しか経ってないのに。
衝撃のあまり後ろに倒れ込み、黒い靄の掛かった視界のまま床に手を突いて起き上がり、音を拾い、
「わ」
また転んだ。床に顔から落ちた。顔を上げ見回し気付く。床がどんどん傾いていく。背後を見遣り、悲鳴を漏らし頭を下げる。一瞬前に頭があった位置をヘッドギアが過ぎ去り、怯む暇もなくそこら中から金属質の音が鳴り響く。
塔の倒壊が始まり、
備える間もなく空に放り出された。
ぐるんと反転した視界一杯に大小様々な鉄板や鉄骨が映り、雨音から見て上に、つまり地面に真っ逆さまに次々と続々と落下する。黒煙と影に塗られた構造物の残骸が一帯を埋め、耳元で風の唸り声を聞き、黒髪と袴を踊らせる雨音は落下物の隙間越しに黒襦袢の影を捉え、
「危ない!」
考えるより先にPT結界を高出力展開していた。稲妻のようなPT結界が夥しい数の金属へ瞬く間に伝わり、遥か前方の千代を捕捉した。反射電磁波から地形や距離を算出するのは二人に分離する前に千代が使った方法で、雨音は即興でやってのけた。両手を伸ばし、袖口で照準。
記憶が戻った時、雨音の液鉄の射程距離は最大二五〇メートルだと教わった。
言技《明鏡止水》、発現。
月光でちかりと瞬く銀の流体が空を貫き、膨大な鉄塊を足場に跳ね返りながら縫うように最短ルートを抜け、反響音を置き去りにしながら伸びて宙を逆さまに落ちる千代の体に巻き付いて凝固、雨音は空と地が逆転したまま凧のように絡め取る。それから銀の球体に変形させ千代を包み、卵のようにして巻き取る。落ちる残骸を吹っ飛ばしながら一直線に引き戻し、模型みたいだった駐車場が実物大に迫っている事に今更気付き、
雨音は慌てて目前の銀卵に自分を取り込ませた。やがて、
衝突。
きっかり一分後。
「うりゃ!」
天を衝くイメージで展開した。幾多の鉄片を押し飛ばす手応えを感じ、銀卵の一部分だけ結合を解く。開けた穴からひょこっと顔を出し、三六〇度見渡す。
見るも無残な有様だ。辺り一面かつて塔だった残骸で地面を覆い尽くし、ゴミ捨て場のよう。銀卵の周囲は放射状に鉄塊やら瓦礫やらが片付けられており、無意識の内に海栗の如く液鉄を伸ばしていたようだ。地面に突き刺さる鉄骨、近くに転がる瓦礫の狭間から折れたアンテナが出て未だに電波を中継しようとしている。見上げれば、やたら開けた視界に半ばから折れた鉄塔が映る。
誰もが退避したのだろう。銃声も届かず、風鳴りさえ聞こえる静寂が降りた場には雨音と千代しかいない――
火柱が突き抜けた。場所は二箇所。幾重にも重なった鋼材の重量など問題にせず空高く吹っ飛ばし、意外な程の間を置いて落ち残響が尾を引く中、燃え滾る二人が姿を現す。
不気味に立つ蛾も目を引くが、何より衰え知らずの戦意が漲った立ち姿で黄緑の眼に熾火のような気迫を込める蛍が雨音の瞳に焼きつく。
その時、陽光が差す。日差しは二人を分かち、徐々に光の帯を幅広に拡大させ夜の帳を押し退け、日の下に彼等の威容を曝け出す。朝日の斜面に晒されて尚、二人の纏う炎は眩い光源だ。
いつの間にか東の空は白み、雲がはっきり見える。
日の出だ。
⑨
そこから先の二十八秒間は、何処のどの記録にも残らない。
熾烈を極める肉弾戦の終結を知るのは、肉眼で目撃した雨音ただ一人だけ。
爆発に巻き込まれ限界に達した鉄骨が、今になって落下した音を聞いた。
それが契機だった。
攻焔殻、呂号始動。
射出態勢に移行したのは同時、恐るべき速度で発射したタイミングも同時。弾幕、いや「毛」幕を張る。相殺に次ぐ相殺。二匹の間合いを埋めるように撃ち、空気を貫く音を伴い連射された毒毛の先端がかち合い、互いに軌道を逸らされ宙を舞った。
射線を読める同士だからこそ可能な精密射撃。
それらの残響を聞き届けぬ内に二匹は躍動する。
崩落で巻き上がった砂煙に高熱の蒸気が混じり、相対する二匹は身を沈め全力で踏み込む。加速姿勢。攻焔殻、伊号起動。脚部点火。脹脛が爆発したように思えた。一発で音速の壁をぶち破る。足元の礫を溶かし蹴立て、罅割れ波打つ路面に亀裂が走り、銃声宛らの足音を立てた。砂埃が撹拌され、発火の熱風でセメントダストが渦を巻き空に散る。殆ど零の時間差で生じた衝撃波で何もかも吹き飛ばす。
互いに残像すら刻む程の馬鹿げた相対速度で間合いを詰め、速度と質量の爆弾と化した蛾は左拳を、蛍は右拳を振りかぶり――肘が爆ぜた。
焔の猛威を乗せた踏み込みに合わせる
が、双方は鏡写しの如く首を傾ける動きのみで回避。ほんの一瞬だけ遅れ燻る火の粉混じりの風圧が白と黒の頬に吹き散り、それを認識した頃にはもう蛾と蛍は全速全開で伸び切った腕を引き戻して空いた右を、左を巌の如く握り締め、
振り絞るように第二撃。
踏ん張る。黄と黄緑の眼がぎらりと耀く。もはや虫だけを視界に収める超至近距離。PT結界高出力展開/
二匹の虫が一瞬長い影と火の穂を引き、
大爆発と聞き間違うばかりの噴射音が響き、
寸毫の差だった。
殴り飛ばされたのは、蛾。
地面を抉りながら土塊を削り飛ばし、濛々たる土煙を巻き起こしながら瓦礫も鉄屑も巻き添えにしつつ何十メートルも転がった。轟と鳴る地響きが収束すれば、後には土の臭いと静寂が残る。
朝日が土埃を透かす。
腕を振り抜いた姿勢で固まる蛍は、遠間の雨音を確認してから構えを解く。
どんな要素が影響して趨勢を決めたのか、蛍はまだ知らない。
――これで終わり、か?
蛍は、土煙の向こうに伏しているだろう蛾を窺いながら思う。これを激闘の幕引きと解釈したいが、しかし。
虫の知らせだったかもしれない。
突然、天空を漂う
その真下にいるのは、蛾。
瀑布。滝口に至った光の物体群は輝く一筋の奔流として流れ落ちる。極彩色の粒子は土煙を裂きながら蛾に降り注ぎ、神秘的な光景を前に蛍は息を呑み、
「後は頼んだぞ、千代」
危険を知る。凄絶な風景の先で蠢くのは、死滅的脅威。
閃光、遅れて轟音。
土煙の幕の向こうに黄色い複眼の光が浮かび上がり、
羽撃く。
翅を拡げた。
中空に忽然と飛び上がったのは、巨大な毒蛾。
純白の柔毛に覆われた華奢な躰、極彩色の翅、櫛状の触角、三対の脚、渦巻状の口吻。体長は百メートル以上、最大限に拡げた翅の翼長は二百メートルを超える。
翅は朝日を遮り、眼状紋が全てを睥睨する。滞空し羽撃く度に起こる風圧で直下の粉塵や瓦礫を吹き飛ばし、その地点から壁と見紛う程の煙が巻き上がり周囲に散る。蛾の影に埋もれる蛍は地を踏み締め耐える。雨音は銀卵に引っ込み嵐が過ぎるのを待つ。が、無情にも銀卵は呆気なく宙を舞い川に着水した。半端ない風圧は市街地の端から端まで轟音と共に吹き抜け、電線が揺れ電柱の張り紙が飛び、川面が荒く波打つ。
直上から風圧の煽りを受ける蛍を見下ろすのは、毒蛾。
死線。宙で湾曲してからの直線軌道。蛍を真上から狙う攻撃。
緊急回避のため攻焔殻伊号、起動――
巨大蛾の触角が伸長し地面に突き立つ方が一段速かった。
楔の如く垂直に突き刺さった触角は地面を捲り上げ、木っ端の蛍を衝撃で空高く打ち上げる。蛍の高速で転ずる視界に無数の土塊が散る。
黄色の複眼が狙い、もう片方の触角が照準を定め、
突き飛ばす。
戦艦の横腹をもぶち抜かん触角の加速と質量に抗う術はなかった。
触角は軌道上の高層ビル群を破砕し穿つ。鉄筋の壁に抵抗なく滑り込み、途方も無い運動エネルギーを衝撃波へ変え片手間のように徹底的破壊を齎す。爆薬や誘導弾でもなければ微動だにしない筈の建物は障害物にもならず、千枚通しで突いた紙のように次々と容易く貫通されていく。
その刺突は無数の壁を抜いても減速せず十ブロック先まで蹂躙し、蛍を水没した第一区の廃ビルに縫い止めてようやく止まる。
⑨
「第肆態ウ化、原型形態だと……!」
上空で偵察する玉露園からの報告を受け、早々に退避していたのが功を奏した。先のロケット弾により崩落した地点まで後退しても尚、羽撃きの突風で翅の黒髪が靡く。
低空で留まりながら蛍を小石のように押し飛ばした毒蛾を見上げ、呻く。
原型形態は身体細胞を急速に変形させ変態する能力。鬼虫ナンバー内でも本来は十傑衆しか使えぬ強硬手段である、曰く付きの形態変化。無論、十傑衆以外の中邪が運用する等あり得ない。なのに。
「本気で殺るつもりか」
時間切れで気絶した華蓮を横転したLAVの陰に寝かせ、翅は迅速に動く。翅と同様に後退した近くの通信車から無線機を借り、
「美縁、状況は」
「全該当地区の避難完了を確認しました。ですが、Σ線汚染者の中に昏倒し意識不明に陥った方が相当数いる模様です。しかも殆どは外装型符号士らしく……先程、呂種第2光学観測所がM.Gフィールドの発生を確認したとの報告」
「っ、奴の狙いはこれか」
通信妨害は副産物でしかなく、本命はこれだ。
「美縁、玉露園に伝達。奴を捜索させろ、PT結界を一点に固定させる核になっている筈だ」
「了解。――副長官、司令部から前方指揮所に射撃許可が出たとの事。攻撃が始まります」
その時、東から太陽を背に爆音を響かせながらへの字編隊を組む対戦車ヘリ中隊が飛来した。約1200メートル距離を取りながら毒蛾の後方に回り込んで滞空し機関砲が首を擡げる。威力偵察としてコブラが20ミリ砲を撃発させた。砲身が回転し、発砲炎が弾け、ありったけの空薬莢が落ちる。
瞬間、毒蛾の白い毛が逆立つ。
六秒間隔での滞空射撃が正確に毒蛾を狙う。橙色の弾道を描く曳光弾が続々と着弾するも、密集する毛先に跳弾し火花が散るだけ。第一、第二波攻撃を行う四機小隊が撃っては外に回るを繰り返す。しかし目標健在。
次いでアパッチの30ミリ砲が連続射撃を開始。20ミリより大きい筒音が轟く。排煙がローターの風に叩かれ横ではなく下に落ちる。高層マンションを避け上昇しながら第三波展開射撃を続けるが、羽撃く翅を狙うも貫通はおろか弾かれるばかり。見た目に比して翅の硬度は予想以上で傷一つ付かない。
もはや武器の無制限使用に踏み切るしかない。
ついに扇状に編隊を組み直した対戦車ヘリ中隊は照準を付け、攻撃方法を切り替える。発射準備完了。発射用意、
発射。
十四機の対戦車ヘリがTOWとヘルファイアを全弾発射したのと、毒蛾が無数の鳥の囁きにも似たスパーク音を伴うPT結界を高出力展開したのは同時。
粒子反転・充填・集束。PT結界――粒子に干渉し、《
毒蛾の巨体を覆い隠すように無慮数百の光弾が生まれ、白く空を染め上げながら鱗粉の如き空中機雷として誘導弾を迎撃する。光弾に触れたそばから誘導弾全弾が連鎖するように次々と爆散し、巻き起こる爆煙を翅で撹拌する毒蛾は我関せず蛍のいる方角だけを複眼で見ている。
不意に毒蛾がびくりと痙攣した。腹部が裂け体液を撒き散らし、そこから銀卵を産み落とす。地に落ちた銀卵は体液塗れでありながら堅牢そうに朝日を反射し、縦に亀裂が走り殻をぱきぱきと割りながら中から這い出たのは、
超巨大な胎児。
全高は三十メートルを超え、全長は百メートル以上もある。デメキンのように突き出た目は真っ黒で、左目は眼窩から今にも零れそうだ。目を引くのは躰で、皮膚は透明で丸見えの体内に水をたっぷり内包し水泡が浮いて弾けるを繰り返す。ずんぐりむっくりした躰の中にある様々な臓器がはっきり見え生々しい。驚くべき事に自重を支えている。
蛾の言技だけでこんな奇天烈な事は出来ない。
億劫そうに手を突き四つん這いになった胎児は、きょろきょろと見回し、
啼いた。赤子の声を低く加工したような断末魔じみた声で高層ビル群の窓硝子が振動する。
M.Gフィールドの影響か、翅のみならず誰もがそれを聞いた。
『何で俺達が』『命懸けで仕事をしたのに』『同僚を失った』『それでも都民のために』『私も亡くした』『それなのに』『私達だけが解雇』『二秒だけの役立たずだから』『贖罪の羊なのか』『俺にだってまだ有用性が』『いつもそうだ』『皆そう言う』『全て桜冠のせいよ』
特科大隊の間接射撃を伝えるFDC通信員の無線を翅が傍受したのは、その時だった。
「弾着10秒……8……7……6……5……4……3……弾着、今!」
自走榴弾砲群により仰角に群射された弾丸が高い放物線を描いて雨あられと胎児に降り注ぎ、直撃する寸前に爆発。目を瞠る程の爆炎と爆音が胎児を包み、容赦のない衝撃と破片が襲う。
全弾命中。
爆煙が晴れると、そこには頭の無い首なし胎児がいる。両手両膝で瓦礫を潰したまま動かず――だらしなく伸びるへその緒が割れた銀卵内部に繋がっている事に翅は気付く。
胎児の躰が泡立つ。皮膚が波打ち、透明な体内で心臓が鼓動し、沸騰したように気泡が上る。無残な首元から始まる逆回しの如き頭部再生は数秒で事足りた。頭が甦った。
胎児は毒蛾が産み落とした卵から新生した生物。
つまり。
「アンビリカルコードを狙え! 再生を無力化しろ!」
美縁を経由し前方指揮所に電話回線を繋いだ翅が指示する。滞空する対戦車ヘリがロケット弾を斉射、弾着の衝撃が続け様に地面で炸裂し爆破。半ばから断線したへその緒が宙を舞う。
堪らず胎児が啼く。侵攻を開始。広域道路をよちよち歩きで移動するが、その前進は局地的な地震そのもの。両手足を蠕動させ地響きを立てながら瓦礫を粉砕し、道路を強引に踏み潰し、街灯も郵便ポストも公衆電話ボックスもバス停も街路樹も信号機も歩道橋も電柱も何もかも巻き込みながら低層住宅街を踏み越える。放置され渋滞した車列を振り回す頭で掻き分け、防犯ブザーが鳴る車は吹っ飛んで建物に突き刺さり、歩行の震動で民家の屋根の瓦が音を立てて滑り、直進した先にあるのは第一区の廃ビル。そこに今も蛍がいる。
途端、車道から土手を下り突入したMCVを含む戦車小隊が超信地旋回してから河川敷を疾走する。間一髪で間に合わせた10式戦車群が河川を挟んで胎児と並走し、砲塔を回転させ砲身を向け砲火と共に行進間射撃する。地を踏み均し、履帯で砂利を蹴飛ばす。MCVの105mmライフル砲が続々と火を噴く。次々に発砲し直接射撃によって撃滅せんとするも、砲声を伴い発射された対榴弾に見舞われる胎児は構わず滅茶苦茶な進撃を続ける。爆炎の花が咲き乱れる中で被弾し、再生不能により躰から液体を溢れさせつつも黒煙を突き抜け爆走する胎児は、ついに第一区へ到達した。
躰ごと廃ビルに寄り掛かり、窓硝子を悉く割りながらよじ登る。堪らず支柱が折れ、屋上に頭を乗せた瞬間に限界を迎え倒壊した。ビルは押し潰されるように海中に没し、派手な水飛沫が上がる。
体高の半分まで海水に浸かる胎児は、嗤う。水遊びをする赤子の如く。
蛍は生死不明。
遥か彼方まで立ち上る侵攻軌道の白と黒と茶の煙を望み、翅は平静に呟く。
「美縁、玉露園に繋げ。状況を報告させろ」
「はい」
間、
『こちらファルコン1、第二目標、表皮に損傷を確認。鬼虫10は』
途切れ、翅が催促する寸前、
『海中に熱源反応。噴出、来ます!』
同時に大音響、土煙越しに噴き上がる水蒸気煙が見えた。瞬間的に気化した水が膨張し水面が爆ぜ、破裂音と衝撃が空気を震わせた。水蒸気爆発、それは水中に百度を超える体温の生物がいる事を意味する。
規格外の高温に至る虫が、いる。
⑨
暗礁みたいな瓦礫に這い上がった蛍は寝そべり、朝空を見上げる。攻焔殻波号発動で胎児を爆砕したは良いが、今やすっかり発火不能だ。
黒い殻に覆われた人型の辺りは真っ白な水蒸気に包まれ、蒸発を免れ雨となって降る水に濡れながら、木っ端微塵に水没した廃墟の壁面に仰臥している。
再生限界が来てインターバルに入ったのやもしれぬ。焼死は回避出来たが休んでもいられない。まだ毒蛾が残っている。
その時、蛍が影に埋もれる。視界を横切り、宙返りしてから降下する鋼の翼を持つ者を見た。
「頭部に核を発見したが、こんな高度まで上昇して策はあんのか?」
空に被さる雲より上へ飛翔した直後、片手を繋ぎ宙ぶらりんになる蛍は宙を縦一文字に貫く死線を視た。一瞬後、黒い物体が二つ上空五千メートルから落下していく。
爆装するF-2戦闘機のパイロンから投下されたJDAMである。
空爆。
精密にレーザー誘導された爆弾はしかし、毒蛾が瞬時に馬鹿げた長さまで伸長させた二本の触角により精確に射抜かれ空中で爆発しただけで終わる。爆音と爆風で二人が錐揉み回転しそうになる中、毒蛾は半ばで折れた触角を晒し、化け物じみた甲高い悲鳴を上げる。
眼下には何処までも続く市街地が広がり、東には聳える塩の柱と青々とした山々、その先には黒々とした太平洋が望める。果てしない青空の只中にぽつんと留まる二人は、夏の鋭い朝日を浴びる。
蛍は一も二もなく答える。
「たぶん、この高さじゃないと抜けませんから」
全幅三メートルの人工翼を広げ、
恐らく毒蛾の外皮硬度は蛹ほどではない。空爆を阻止したのが良い例だ。もし堅牢であれば迎撃するまでもない筈、触角を対空兵装としたのは直撃を受けると不味いから。
希望的観測だと思う。が、朝になった以上いつ迦楼羅の射撃が開始されるか分かったものではない。抜けるかどうか、限界を超え焼死するかどうかは己の虫殻と新生能力を信じる他ない。
「そうかい。化けて出て来んなよ」
その時、この高度からでも巨大に見える毒蛾の周囲に数え切れぬ光弾が生まれた。対空迎撃態勢である。
「それじゃ」
空中で宙返りした玉露園は遠心力を乗せた勢いのまま蛍を振り回し、
「行って来い!」
落下、
発火。
ぼ。
位置エネルギーを運動エネルギーに変換する蛍は、己を爆弾とした急降下爆撃を実行。
上空で暴れ狂う乱気流に晒され翻る赤いマフラーを幾度となく突き千切りながら、死線と火を纏う蛍が落ちていく。
同時に毒蛾を起点とし何十閃もの圧縮された光子が炸裂する。一閃、二閃、四閃、八閃、十六、三十二、六十四に百二十八に二百五十六に五百十二と弾数を増加させ、ついに一瞬で一万六千閃という夥しい数の対空光撃として射程圏内を喰い尽くす。射出時の莫大な光量でビルは濃い陰影を刻み、無反動で放たれるそれは人型目標に比して過剰なまでに巨大な弾丸として刹那に天を貫き、降下する蛍に対し常軌を逸する相対速度で迫る。
三六〇度全方位に何物も存在せぬ無限の蒼穹を穿つ蛍は、全てを加速した知覚で見る。
だが足りない。もっと加速しろ。
神経を研ぎ澄ませ、全ての機を見逃すな。
一秒を一秒だと思うな。時間は伸ばせない、だが無限に分割出来る。
殺人的な落下及び発火による死線に揉みくちゃにされる蛍は、それでも視た。
そして、「そこ」に没入した。
蛍の眼は全天を見る複眼と化し、太陽光をレンズフレアとして知覚する。光の広がる瞬間を認識する。
脳が、神経が、時が、灼熱する。
悟る。
――最遅こそ、最速。
八千分の一秒へ、至る。
一万六千発の光速弾の内一万二千が罠で三千が牽制で残り全てが必中でありその内弾雨の通らない穴が一箇所あり【火焔帯燃焼率上昇】仰角九〇度の直上に向かって噴射【温度上昇】死域に誘い込まれた【摂氏千二百度】光の嵐の抜け道を探す【千五百度】左は罠右も罠その奥も罠その更に奥も罠【ARAS覚醒水準レベル7到達】隙間さえ布石で回避不能【二千度】空間を縦一文字の雷霆が貫く【左腕中破】亜光速の一撃が行き掛けの駄賃に外殻表面を掠めながら毒蛾を狙い【左腕殻剥離】毒蛾は海老反りになり翅で前方の空間を打ち全速後退【左手掌表皮損傷】荷電粒子砲は射手たる迦楼羅の位置から見下ろしても点に等しい放射点のコンクリートもその下の鉄筋も一切合切融解させるも命中せず【左手掌真皮損傷】だが回避で光弾の射線が乱れ牽制の七十五閃と七十六閃の間に針の穴じみた活路を見出す【左手掌皮下組織損傷】飛び込み潜り抜け無数の一閃を【左腕神経断線】紙一重で躱す【頭蓋前部亀裂発生】蛍の複眼が焼き切れ《
しかし、蛾が一枚も二枚も上手だった。
毒蛾の頭部が裂け、そいつが顔を出す。
上半身だけの白炭じみた巨人が、そこにいる。
消し炭の巨人は、刹那に全天を埋める白く巨きい翅を拡げた。
一対の眼状紋がぎょろり、と眼前の蛍を見た。
直観する。
これこそが蛾の最終防衛手段であり、最強の攻撃手段。
第伍覚醒シン化した蛾の、切り札。
手の内が読めない。打撃か射撃か。射程は、範囲は、何も分からない。四方数千メートルに及ぶ知覚範囲に舞い散る全ての火の粉を零コンマ以下秒の内に誤差一桁以内で数えられる最中、間に合わない――一秒が永遠に感じられる刻の中で、埋め難い戦闘経験の差が命運を分かつ、
「――いっっけぇぇぇぇえええええぇぇえええぇええぇええっ!!」
聞こえる筈がない、だけど確かに聞こえた。
雨音の声。
最大戦速。
左右いっぱいに拡げた翅の端から端まで光子を充填し、眼状紋に収束させ、この世の何物も置き去りにする神速照射を敢行。
蛍を呑み込む、極太の
単独で行う十字砲火。
交差する光線が蛍に命中
――絶対に止めてやる、この男を。
しなかった。
巨人の眉間を突き破り、等身大の蛾を捉え、内部を掘削し、
PT結界の
光が、音が、五感が、声が、言葉が、流れ込んで来る。
目に焼きつく火災、知覚する輻射熱、ぬるりとした血が点々と散る罅割れた路面、目の前で「熱い」とうわ言を繰り返す女子の声が耳にこびりついている。這うよりも遅い速度で歩き――頼むから「消えてくれよ……」覚醒が早すぎた。もはや俺は発火を制御出来ていない。火達磨になり地面で狂ったように転げ回る女性の断末魔をはっきり覚えている。空の深い藍色、炎の照り返しで鮮明に見える白煙、火元の俺では救助も不可能、それでも。いとも容易く人体を潰す程の瓦礫を片手で持ち上げひっくり返す。生存者を探す。立ち込めるセメントダストと黒煙。熱風と爆発音。通りの向こうで濁流が車両や船舶を押し流し、橋桁を破砕した。今度こそ、今度こそ、お願いだ、間に合って――瓦礫の隙間から突き出る煤けた手は、力尽きて硬直している。まるで神に救済を乞うかのように。どの道、俺の燃える手では誰の手も掴めやしない。生きた手も、死んだ手すら。五分としない内に息も命も尽きる此処は地獄。
さっきまで生命だった物が辺り一面に転がる。
日常が破壊された日。誰もが脈絡のない暴力を意識した日。たくさんの人々が呆気なく死んだ日。
時が飛ぶ。
トリアージの色。黒と赤ばかり。「既に消防艇及び情報収集のヘリが出動しています」「鬼虫10が放出した
美縁の泣き顔「本当に良かった、本当に……」母の泣き声「生きでてくれで良かったよぉ」翅の言葉「帰還報告を聞けて何よりだ」濡髪「皆を守ってくれてありがとう」文「再生が早くて良かったじゃない」
良かった。
良かった。
良かった。
どこがどう良かったのか、俺にはさっぱり分からない。
災害関連死者数、3577人。内訳は、十傑衆第伍席緊那羅管轄地上偵察疑神子部隊第3小隊長鬼虫10が物質化及び放射化、拡散させたPT結界物質「
俺は誰かの、いつかきっとを奪ってしまった。
3577+α、彼等には家族も友人も同僚も恋人だっていた。
一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計上の数字に過ぎない――一人一人の名前や半生や功績を知らない限りは。
過去と決別する事は出来ない。
今も目蓋の裏に地獄を描ける。
誰かに言われた言葉が今でも耳に残っている。
「貴方は伝説の英雄だ」
戦争や紛争、これは全てビジネス。一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が殺人を神聖化する。
慟哭。
抜けた。
紙切れの如く巨人の背中を貫き、毒蛾の腹部を経由し突き出て、もつれ合いながら墜落した。
大地に叩き付け、地割れのような亀裂が走り、濛々たる土煙に黄緑色の複眼だけがぼんやりと浮かぶ。黄色の眼光はとうに消えた。
地面に穿たれた巨大なクレーターの中心に、二人の男がいる。
蛾と蛍の力による擾乱で、墜落点のあらゆる物は破壊され地面は木っ端微塵に砕かれ周辺一帯で熱と砂煙が渦を巻き大穴を作っていた。
半身の黒殻が砕け露出した肌に熱風の流れを感じる蛍は、右の複眼と左の肉眼で一人の蛾を見下ろしている。蛾の白殻は無数の欠片となって散らばり、素顔を晒し地に躰を投げ出して指先すらぴくりともしない。半分だけ蛹化が解けた三國谷と炭化しそうな万字、二人とも既にぼろ屑のような有様だ。
ここに至り、抜け殻となった毒蛾が滞空できず地面に落下した音を聞いた。
勝利の感慨は消え、怒りも悲しみもない。後には虚しさだけが残る。
「矢張り、強いな」
「……俺もいつか、そうなるのか?」
万字は力ない笑みを返すだけ。
「一つ、伝言を頼まれてくれないか」
もはや全身の至る所が消し炭と化した万字は、掠れた声を絞り出す。
「侑芽先生と濡髪と葵さんに、すまなかった、と」
一拍置き、
「父さんが、母さんが、文が事件のあらましを知ったら悲しむだろうか?」
「当たり前だ」
「……そうか。…………そうかぁ」
独り言のように呟き、炭化した顔を引き攣らせ、すっと目を細める。
どうするべきか、二人は答えを知っている。
どちらかが死に、どちらかが生きる。
万字は満足そうに溜め息を零し、澄み渡る青空のような晴れ晴れとした表情を浮かべ、日差しの斜面の中で、
「俺は、桜冠だけが知る地獄を見てきた。爆発の吹き戻しで花びらのように舞い散る瓦礫、熱線によって石段に残る死の人影、そんな事象も時間と共にやがて消える。羽化した蚕の成虫のように。……時間切れか、俺も鬼籍に入る時が来た。――さらばだ、三國谷万字」
静かに目を閉じる。
逝く時、複眼ではない人間の目蓋の裏に何を見たのか。
そして、
存外に軽い音を立て崩れた万字は、灰となりて朝空へ何処までも舞い飛んでいく。
蛾の飛行に似つかわしくない、風に巻かれる優雅なそれ。
白い灰が空に帰っていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます