伍 恐怖

 それにしても、この女はどうしようもない奴だと思う。

 旅館の跡継ぎたる後見人の男に引き取られ早三ヶ月、暇を持て余した妾は暇潰しに女を昆虫のように観察し続けているのだが、この女ときたらヘマばかりやらかしている始末だ。どうやら仲居見習いの養子扱いらしいのだが、廊下や表や風呂の掃除にしろ、従業員の朝飯作りにしろ、布団の洗濯や干しにしろ、食器の準備や後片付けにしろ、そこそこ出来ちゃあいるが女将の眼鏡に適う訳ではないようで、叱られてばかりである。

 そして、今。

 昼下がり、女は土蔵の裏手に引っ込んでいた。亜麻色の襦袢に包まれた背に流れる黒髪は、今や塩漬けワカメの如くしおしおに萎びていた。泣きべそを掻き、でも目尻に涙を溜めたまま決して落涙はしない。誰も見ちゃいないのに、これじゃ何のためにこんな所に隠れるようにして膝を抱えているのか分かりゃしない。いや、妾からは丸見えなのだが女には認識出来てないので妾は数には数えん。

 足音。

 妾より少し遅れて女が気付き小さな身を縮こまらせたのと、童女が土蔵の陰からひょっこり顔を出したのはほぼ同時だった。おっかなびっくり目を細め望んだ女は、はたと気付き顔を背け涙を拭う。放心したまま児戯のような声を零す。

「紅緒ちゃん……?」

 童女、紅緒はとことこ歩み寄り膝を曲げてしゃがみ込み女と目線の高さを合わせ、その動きで身に纏う赤の襦袢に皺が寄る。立場が逆だろうと呆れる。紅緒は後ろ手に何か隠し持っているようで、女も察して小首を傾げる。女は何事かと一回考えるように斜め上を見て、やはり訳が分からず目線を戻す。

「何? どしたの?」

「雨ちゃん…………。えっとね、その、……はいっ」

 言葉を口の中でもごもごと転がし、頬を仄かに赤らめつつ勇気を振り絞り、えいっと両手を差し出した。見れば、掌の上に竹の皮で包んだ物がある。すぐにぴんと来た、握り飯だ。

 女は目をぱちくりとさせ、ぎこちなく唇だけで困ったような微笑を形作る。どんな顔をしたら良いか分からないと顔に書いてある。膝を抱える右手で左の肘をぎゅっと掴む。

「私に……?」

「おじさんがね、たぶんここにいるだろうから持って行ってあげなさいって……、言われた」

 女の瞳が瞬く。小さく唾を呑む。あまりの驚愕に瞳孔が開き、すかさず目を泳がせる。その拍子に滑り落ちた右手で今度は左の脹脛を掴まえる。二部式襦袢の裾から伸びる足を掴む手に女の感情が露見する。

 暫し、裏の林の葉擦れだけが涼やかに響く。

 思考が纏まったように視線を定め、囁くように問う。

「ね、紅緒ちゃん」

「?」

「もしかして茂さん、……おじさんはその事を秘密にしておいてとか言ってたんじゃないかなーって、雨ちゃんは思う訳です」

 紅緒は一言一句呑み込むように間を置き、くりんとした瞳を瞬かせ、ややあって意味を理解し、

 うっ。

 つぶらな瞳がぶわっと潤み、おさげに編んだ黒髪に縁取られた顔を梅干しのように歪める。馬鹿馬鹿しいほど泡を食った女は、意味不明な身振り手振りを交えつつ何とか擁護する。

「あ、えっと、大丈夫っ。雨ちゃんは黙っとくから心配しないで、ね? この事は紅緒ちゃんと雨ちゃんの秘密だからっ」

「……ほんと?」

 無言の首肯で激しく同意を示す女。何とか涙を引っ込めた紅緒が表情を和らげたのを間近に、女は年の割に慎ましい胸を撫で下ろす。意識の住人に成る前の妾より年上とは到底思えない。それから妙に間が空き、女は取り持つように、

「食べていい?」

「う、うん」

 紅緒がやたら慎重に包みを解くのを眺め、女は頬を緩ませる。お披露目になった握り飯を女は掴み、豪快に一口頬張る。一口で半分ほど食べ、品の無い女だと思う。味わうように何度も噛み、時間を掛け嚥下する。そして、にこりと笑う。瞳をほんの少しだけ濡らしながら、

「ちょっとしょっぱい……」

「っ紅緒はね、そんなにお塩つけなくていい、って言ったんだよ」

「まあ、おじさんは塩辛いの好きだもんねー。そのくせ牡丹餅大好きだし。別腹なのかな」

 二人は顔を見合わせ、可笑しくなって笑う。妾もあの男を思い浮かべ、確かに笑いの種にされそうな奴だと納得した。二人の密やかな笑い声は、葉擦れに紛れていく。

 これは、とある昼下がりの一幕。

 妾の元に女が訪れるのは、もう少しだけ先の事である。


       ⑨


 突然、がたんと大きな衝撃に襲われ飛び起きる。

 夢を見ていた。今度は内容をはっきり覚えている。いや、あれは夢ではなく千代の記憶だろうか。そしてそれを起点とし前に見た夢、否、記憶も一緒に思い出す。これも観測者の力なのか判然としない、でも思い出せて良かったと心から思う。

 雨音、その名を胸中でぽつりと呟く。噛み締めるように。

 そして霞んだ目を彷徨わせ、視界にいきなり濡髪の憂いを帯びた顔が現れ戸惑う。

「万字、大丈夫? 痛いとこない? 気分はどう?」

「……ああ。問題ない」

 ようやく意識がはっきりし、自分が凭れ掛かり寝ていたのは車の後部座席だと知る。車両の構造からして恐らく軽装甲機動車だと思われる。小さい窓の外は暗く、川面は月光を映し、遥か遠くの街は灯り一つ無く、にも関わらず夜闇の中でなお真っ黒い景観として前から後ろへあっという間に流れ去っていく。エンジンの騒音とタイヤの振動で眠気を粉々にされる。

「三國谷、状況は逼迫している。手短に話すぞ」

 運転する翅は説明した。三國谷が街中で倒れ眠り起きず仕方なく翅が身柄を預かった事、防空壕でのやり取りは監視カメラと集音マイクで把握し周知しこの場にいる全員が真相を知っている事、どのような軌跡を経て皆が此処に集ったか、三國谷へ簡潔に伝える。

 あれから丸一日近く経ち、日付が変わり現在は七月二十三日火曜日4時を過ぎた頃、三人を乗せた車輌は夜間の高架高速道路を疾走している。

「敵が乙層通信塔を占拠したのは今から20分前、同時に苑都全域に成虫原基ホメオミームが散布され、強力なECMによって戦防隊はてんやわんやの大騒ぎさ。敵が自爆ないし共鳴現象を起こす確率をMagia clusterが低く見積もっていたとはいえ、無様な醜態を晒したものだ。CBRNE防御なんざ一部の部隊を除き全く考慮していなかったからな、ガスマスクも防護服もまるで足りん。無線のみならず、共同溝を次々に爆破され第7、第8、第9直通回線と予備回線は軒並み不通、衛星回線は受信困難、非常回線と緊急回線と専用回線を組み合わせて持ち堪えているような状況だ。通信塔に到達するための橋梁や道路は千代の破壊工作で今や橋は河の底、道路は陥没している。回線と陸路の早期復旧の目処は立っていない。全く、馬鹿げた内殻硬度だ。通信及び突入経路が分断され、長期戦の様相を呈している」

 翅の早口で厳かな声音は、ついに事態が激動し始めた事を意味している。恐怖テロの引き金が引かれたのだ。

 そこに、脳内に声。

『現在、特別非常事態宣言発令中のため第二区全該当区域の全住民はシェルターに避難中、パニック発作誘発により要援護者が続出していますが何とか避難完了まで後六〇の予定との報告。成虫原基ホメオミームはΣ線だけでは無くあらゆる電磁波をしっちゃかめっちゃかに放出していますから電波妨害の解除手段を模索するよりは、あんな物騒な代物をばら撒いて籠城している張本人に強制的に回収させる方が現実的です』

 高周波から低周波まで様々な周波数帯の電波を伝播する、電磁場による超広域帯電波干渉。恐ろしく奇妙な電波障害を誘発させる物質。あまりにも常識から外れ過ぎていて現状では何も分からないという結論に至らしめるBC兵器。

 美縁が言技を発現させているようだ。無線が禄に使用不可な今において美縁は頼みの綱だ。

「美縁、迦楼羅はどうだ……」

『――、情報来ました。悪いニュースです。緊急措置として委員会の承認を事後に回し、害獣駆除を目的とした、十傑衆初の防衛出動が決定されました。委員長が超法規的な処置として武力行使命令を下したそうです』

「戦後初だね。翅先生、それって共鳴現象の危険があるんじゃ」

「無論だ。迦楼羅の事だ、流石に内殻硬度とPT結界展開量をARAS覚醒水準警戒域レベル7の限界値100%でセーブして言技を発現させるだろうが、敵がどう出るか……」

『それで敵が掌を返せば相乗効果で不本意に共鳴が起きてしまう危険性がありますし、共鳴の直撃を受ける第二区は帰還困難区域となる恐れがあります。7.19の二の舞ですね、今度の半減期はどれ程の長さになるか見当もつきません。――日の出以降、状況が打開出来なければその時は犠牲者もやむを得ないとし、速やかに第六席迦楼羅の言技《哀鳴啾啾》発現による一点集束長距離熱殻攻撃を開始するとの事。現在CBRNE防御完備の部隊は救護と避難誘導任務を開始、第七席乾闥婆から全ての思念伝達通信員に行災命が出ました。現在展開している全ての戦防隊員、警備官と消防官に向けて災派命令を伝達させているところです』

 タイムリミットは日が昇るまで、空が白む頃に戦術攻撃開始。

 要するに、敵と一緒にいるであろう雨音も巻き添えを食うという意味である。最初から乙層通信塔そのものを人質にするために占拠したとも言える。

 猶予はそう長くない、時は一刻を争う。

 性急に敵の親玉を自分達の手で直接押さえる事が最良な事態終息方法である。

 窓から夜空を仰げば、漆黒の中で瞬く星屑と共に極彩色の何かが微かに見える。いや、遥か遠くで炎上の光と黒煙を伴う人口密集地にも薄っすらと見える。第一区で水泡のように思えた、あの光。成虫原基ホメオミーム、真っ暗闇に綿雲の如く漂う光芒は異界めいて幻想的とも言える。

 そして、

 膝の上で両手を握り締め沈痛げな表情を晒すのは、濡髪である。押し殺した声で切実に問う。

「本当に、成虫原基ホメオミームなんですか……?」

「ああ、間違いない」

「だったら! だったら、今ここにいる万字は誰なんですか……!?」

 絞り出すような声に皆は一様に口を噤み、答えない。水を打ったような静寂の最中、エンジン音だけが車内を満たす。

 糾弾じみた質問にも動じず、翅はヘッドライトに照らされた直線道路を、中央にピラーが走り二分割されたフロントガラス越しに見据えながら尋ねる。

「三國谷、奴は君に何か言っていなかったか?」

 三國谷は即答する。

「人食い蛾」

 翅と濡髪がぴくりと反応を示す。思念越しに美縁の息を詰める微かな音も伝わって来たような気がする。三國谷は決定的な一言を告げる。

「侑芽先生によろしく、と言ってました」

 隣で鋭く詰められた気息を三國谷は聞き逃さなかった。それが何よりの証左だった。やはりそうか、もはや白鯨じみた諦念が胸中で漣の如く広がる。

 成虫原基ホメオミームは7.19爆轟事故の際に発生した共鳴によって生成された物質だ。つまり二人の松冠ないし桜冠の中邪が現場にいた事を意味する。一人は桜冠不明たるソドム、ならばもう一人は誰か。

 突如、ヘリのローター音が聞こえる。中空を飛ぶ戦防隊の対戦車攻撃回転翼機がこちらを追尾している。何故こんな所で匍匐飛行しているのかと不審がったのも束の間、

「だから私は出動に反対したんだ、あの馬鹿が」

 翅が悪態をついた瞬間、

 機体小翼の外側パイロンにそれぞれ1組19発、計38発搭載されたそれを、

 斉射。 

 2,75inロケット弾は高速で宙を飛翔し、LAVの前方100メートル先の高架高速道路に次々と着弾した。膨張するような爆炎が目に焼きつき、馬鹿でかい爆発音が空気を揺るがし耳を劈く。爆煙が巻き起こり、崩落した道路は大小様々な瓦礫へと成り果て、爆風に叩かれ波打つ川面に続々と落下し水柱を立て飛沫を飛ばす。

 戦防隊の中に敵の息がかかった部隊がいたら目も当てられない、それが翅の危惧だ。

「美縁、八神は?」

『既に高速艇で急行しています、間もなく現着との連絡。彼ならいつでも行けます』

 翅は一切ブレーキを踏まない。あっという間に轟々と煙るセメントダストの中へ躊躇なく突っ込む。

「今だ、やれ」

 窓硝子が黒の濃煙に包まれ一寸先も視認不能になり、四輪が路面から離れ車体は宙を飛び、重力に引かれ河に落ちるかと思われた。が。

 ぼふん。

 車体が嘘のように跳ねた。物凄い跳躍じみた高度まで跳ね上がり、全員の腰が浮き、塵と煙を引きながら雲のような爆煙を一息に突き破り、タイヤが路上に着地し事なき終える。否、衝撃で濡髪が胸元に倒れ込み三國谷は後頭部を窓に打ち付けた。星が散りそうな頭を辛うじて動かし、ミラーを覗けば、

 それが出現した風圧で爆煙が吹き飛ばされ、それは茶色と白の威容を晒していた。顔を上げたそいつと鏡越しに目が合う。 

 巨大なハムスターだった。

 原子間の距離を操作し巨大化させる言技だろうか。

 あんぐりと口を開ける三國谷を他所に、他の面子は口々に、

「《大山鳴動して鼠一匹》、凄いね」

『通信塔まで残り200、先遣隊は未だ交戦中』

「ああ、見えてる」

 前方で黒煙が立ち上り爆炎の花が咲き、発砲炎が夜闇を曝け出す。今に至り、何故この道だけが敵の手に落ちていなかったのか三國谷は察する。それにしても、この道路近辺にだけ成虫原基ホメオミームが撒かれてなくて僥倖だった。ガスマスクも防護服も手元にないから。どんどん距離を詰め、LAVは現場に突入――

 正面、遥か彼方で闇を打ち払う白光が閃く。

 すぐ手前、突如として路面が怒涛の勢いで隆起した。

 間に合わない、

 衝撃。

 青の閃光。

 派手に車体が乗り上げ、宙で一回転していく。全員の体が突き上げられるように浮き、目まぐるしく体をあちこちに激突させまくる。ありとあらゆる音がしっちゃかめっちゃっかに耳朶を叩く。どれほど時間が経過したか、目をこじ開ければ防弾硝子の向こうで路面が上に見える。車体がひっくり返り、自分が天井に寝そべっているからだと気付く。耳鳴りが酷い。鈍い痛覚が全身を軋ませる。と、胸元から呻き声が聞こえる。咄嗟に濡髪を抱き止めていたらしい。

 辛うじて音が戻って来る。

「濡髪、……大丈夫か?」

「う……ん。万字こそ、平気?」

「ああ、とにかく外に出るぞ」

 上体に乗っかる濡髪に退いてもらい、体を捻り何とかドアを開け這い出る。濡髪が脱出するのに手を貸し、状況を把握しようと見回し、

「伏せて!」

 濡髪に手を思い切り引かれ、蹲る勢いで頭を下げる。一秒としない内に三國谷の頭があった座標を火の玉が駆け抜け、一瞬だけ後頭部に輻射熱を感じ、後方で着弾し火柱を上げる。背中を熱風で煽られ冷や汗が垂れる。

 まるで戦場だった。否、戦場なのだ。

 先遣した戦防隊員は瓦礫の陰に隠れ、或いは横倒しになった車体を盾に言技を発現させていた。竜巻が渦巻き、河が忽然と水柱を高く立て路上の敵を呑み込んで川面に落下させ、火の玉が路面を跳ねて敵の足元で破裂し火の手が回り敵を牽制する。敵は焦げた移動式バリケードや輸送車のコンテナを盾にし、中には自動小銃を担う者や無反動砲を担ぐ奴も見受けられる。防弾シールド、防弾帽、防弾衣、大盤振る舞いだ。荒れ果てた高架高速道路の只中、敵味方双方において流血する負傷者を引き摺って物陰に退避する姿が生々しい。

「翅だ。直ちに攻撃中止、待機維持せよ。後はこちらが引き受ける」

『了解。攻撃中止、待機する』

『副長官、最上層階に敵一名と雨音さんを再確認したとの報告』

 弾かれたように仰ぐ。が、聳える馬鹿でかい巨塔の頂きは到底視認できず、赤色航空障害灯しか見えず歯噛みする。隣で濡髪が大丈夫だと頷き、それで自分がいかに苦虫を噛み潰したような表情をしていたか気付かされる。

 前転と横転を繰り返し道路端で腹を見せるLAVの陰に三人とも隠れ、突破の機会を窺う。

 その時、白光が眩く輝く。車体が影を刻んだのも数秒、顔を出して見遣り驚愕する。デカブツが出現していた。まるで巨大なヘドロの塊のような出で立ちをしている。体高は五メートル程で、夜の暗闇の中で目が黄色く発光している。細長い口吻、びっしり生えた乱杭歯、一見ワニに思えるがヘドロから足が五本も生えているし目が本来ついている位置以外にも四つある。見上げるほど巨大な、不細工な図画工作作品じみた解剖学が通用しない荒唐無稽で醜悪な姿である。

 あれは粘土で製作した化け物フィギュアを実体化させたのか。

「あれも言技なのか……」

「そうだけど……。あの白い光は、《AS境界線》……ニビョウカン」

 全く話が呑み込めない気配を悟ったのか、防弾衣を纏い戦闘用ヘルメットを被る濡髪が三國谷の肩越しに敵を覗き込みながら注釈を入れる。曰く正式名称は《外装型符号士》、殻式文法司とは違い言技を一度にたった二秒しか発現できない言技使いで、青のPT結界とは違う全ての波長を乱反射させたかの如き白のAS境界線を媒介とし、再度発現するのにインターバルを要する。一説では内殻器官の活性化率が50%までしか上げらない故に中と邪の間、「二秒間」しか言技を発現出来ないのではないかと言われ、その密度も同様である。二秒間しか発現出来ない故に必然的に即応性の高い言技となる。

 7.19爆轟事故以前は警備部に所属する人達もいたが、事故以後は改組による戦防隊新設のため人事刷新という体で一斉解雇された。スクラップアンドビルド。それでも職業斡旋を委員会が取り仕切り、食い扶持に困るというトラブルは回避されたらしい。が。

「此処でしか生きられない、此処でしか生きたくない」

 車体底部に背を預けながら、翅は独りごちる。その声には、同族嫌悪と共感の意が込められていたように思う。共感とは他者に寄り添う時の技術であり、態度だ。心の理論。汚れと埃に塗れる白い軍服に身を包む麗人の横顔は依然として剣呑とした雰囲気を醸しながらも、その目元は感傷を滲ませる。

 彼等の呪縛めいた妄執を斟酌出来る翅もまた、言技使いという意味で同類なのだ。もし彼等と同じ境遇に身を置いた場合、果たして自分は今の彼等とは違う存在に成れるだろうか。7.19という取り返しのつかない過去に取り憑かれた、幽鬼の集団の仲間入りをしないと断言出来るか。それは翅にも三國谷にも、誰にも分からない。ヒーローとサイコパスは同じ遺伝子の幹の小枝だから。

 全てのニビョウカンがそうという訳ではないが、少なくとも彼等にとって娑婆の生活は退屈だったのかもしれない。傭兵になるか、テロリストになるか、極端な二択。だが食いあぶれた訳でもないとすれば、この二解答しかない。時には戦闘を生業とする者達は総じてプライドが高く、絶対的な矜持を持っている。それを胸に秘め高い技術を持つ彼等も娑婆では世間を知らないチェリーボーイだ、戦場でのみ十全に発揮できる能力でしかない。そんな彼等の、ありのままの姿を正当に評価してくれる場所など端から相場が決まっている。彼等はある意味で出戻り組かもしれない、或いは解雇された事を逆恨みしている奴等。

 地鳴りのような轟音で三國谷の思考は中断される。視線の先で屹立していた巨体がついに蠕動し、ひび割れ波打つ路面を強引に踏み潰す。五本足が蠢動しセメントダストを巻き上げながら、殺気を孕む侵攻を開始。でかい図体に比して速度は遅いが戦防隊の防衛を物ともせず、立ち塞がる瓦礫や車体を一顧だにせず、瓦礫を飴細工の如くぶち砕き後退する戦防隊員もろとも車体を馬鹿げた突進で道路上から川面へ軽々と吹っ飛ばし、真っ先にこちらへ突撃して来る。

 敵は此処で一気に勝負をかけてきた。

『千代は発見出来ませんが、日の出まで時間がありません。強行突破を進言します』

 美縁に急かされるも三國谷は動けない。この期に及んで怖気づいたというのもある。だがそれよりも、自分に何が出来るのかがまるで分からない。千代にボロクソにやられた時だって言技発現出来ず、今みたいに傍観するしかなかった。このままでは二の舞、

 手を握られた。虚を突かれ振り向けば濡髪が一途に見返し、その瞳が覚悟を宿す。

「万字、雨音ちゃんをお願い。大丈夫、万字なら出来るよ。ぼくが保証する」

 そう言い、濡髪は宥めるように微笑む。

 そして、すぐ切り替えた。

 一息に飛び出す。濡髪は一切身を隠さず射線上に躍り出て、百メートル先の敵勢を決然と望む。未だ味方の言技で炎上し続ける路上の炎、散乱する瓦礫、ひしゃげて吹き曝しになっている大型トレーラー、それらの狭間に濡髪は立つ。

 直後にLAVから身を晒したのは、血相を変える翅。

「華蓮!」

 二人の間にどんな因縁があるのか、三國谷はまだ知らない。

 緊迫した叫声に対し、濡髪は肩越しに穏やかな微笑を見せる。

「問題ないよ、侑芽さん。今は、友達を助けるためだから」

 途端に発火炎が夜闇を払い除け銃声が轟く。が、それよりも数段早く濡髪の正面にPT結界が展開されていた。《重力子制御グラビトン》で銃弾が逸れ、路面を擦過し停電で切れた照明灯を割り砕く。翅の援護ではない、濡髪自身の内殻器官が齎すPT結界。ふと青のそれが解れるように宙で跳ね濡髪を掠めた。抜けるように白い頬が浅く切れ、一筋の流血が頬を伝う。指で拭い付着した血を見遣り、ぽつりと、

「後は頼んだよ。絶対に殺しちゃ駄目だからね」

 巨体が濡髪を轢殺せんと迫り、

 真っ赤な流動体。

【梅之上】言技《泥中の蓮》、反転。

【竹之中】裏面《朱に交われば赤くなる》、発現。

 巨体がばらばらに切り裂かれていた。

「寝起きの一発にしちゃあ粗悪じゃねぇか、ぶっ殺すぞ手前らッ!」

 巨体がどうと崩れる最中、濡髪とは思えぬ金切り声が上がる。目にも留まらぬ速度で閃く赤が斬ったのだと、今になって気付く。

 現れたのは濡髪である、だが相違点が二つある。一つは絶えず流動し続ける血液をチューブ状に固定し鞭の如く撓らせている点、もう一つは戦の気配を呑み相貌は熱を湛え獰猛な笑みを頬に刻んでいる点。

「久しぶりの娑婆だぁ、せいぜい愉しませてくれよ雑魚共!」

 唖然とする三國谷をよそに、敵は構わず銃撃。豹変した濡髪は不敵な表情を崩さぬまま片手で鞭を振るい、鋭い風切り音を伴って空を裂きまくる。速すぎて先端が見えず、残光のように映る赤色でしか鞭を認識出来ない。果たして赤き鞭は瀑布の如き弾雨に対し驚異的な動きで即応、斉射に晒されながら濡髪は泰然と前進して行く。止めどなく襲い掛かる銃弾を砕き、弾き、いなし、斬り続け、尋常ならざる見切りによって、惜しげもなく展開される弾幕にも関わらず全くの無傷だった。

「三國谷!」

 翅の叫声で我に返る。次々と鳴り響く銃声と同じくらいの数だけ響き渡る甲高い金属音の洪水に呑まれる道路を眼前にしながら三國谷は腰を抜かす暇さえ与えられず、すかさず早口で命令を聞かされる。

「いいか、右三十メートル先の路肩から飛び降りて下で交差している一般道から通信塔を目指せ。私が敵の注意を引きつける、その隙に、」

「いや、絶対に足が折れますよ」

 覗き込んでこそいないが、こんな構造の場合低く見積もっても五メートルは高低差がある筈だ。怪我をすれば元も子もない。

 想像しただけで肝を潰す三國谷の頭に防空壕シェルターでの苦い記憶が閃く。

 銃声は鳴り止まない。

 ぎゅっと目を瞑り、口を噤み歯噛みし、掌を握り締める。

 ――中二病を見下し、高二病を言い訳にして、虚構の言技から、非日常の現実から、ずっと目を逸し続けた結果がこのザマか。

 他人から逃げ、疑い、見下し、限りなく都合よく接してくれる他者だけを求める男、それが自分だ。

 善悪の価値観が違うのは当然なのにそれを許容せず、他人に感謝の気持ちすら示さず、「三國谷万字が努力の末に築き上げた人間関係」、それに伴うステイタスの高い人間に気に入られて「自分は特別な人間」と偽りの優越感に浸っていた。その関係にタダ乗りし甘んじていた。他人を許容しない自分はまるで「純白だ」と言わんばかりに。

 社交場の壁際に立ち、他者と積極的に交流する人達を受動的に傍観してるだけで自分から率先して話し掛けず誘わず、そのくせ後ろ指を指して欺瞞だ偽物だと論う。「こんな自分と話してくれる人などいる筈がない」と独裁的に決めつけ独善的に諦め、心の何処かで「運命の人」が介護的に手を差し伸べてくれる事を傲慢に待ちわびる。そのくせ自分は他人に都合よく期待し、不満な結果が出たら他人に責任転嫁し自分は悪くないと悍ましく醜い言い訳をする。これ以上惨めな思いをしたくないから、自分を今以上に嫌いになりたくないから。

 悪い他人、可哀想な俺。

 自分も、他人も、誰かの一方的な期待を満たすために生きてる訳ではないと云うのに。

 他人を知りたい、分かりたいなんて嘘っぱちだ。本当は自分の理解者が欲しいだけ、自分に無償の愛を捧げてくれる母親みたいな他人が欲しいだけ。そのくせ構って貰えたら鬱陶しく感じ、放置された途端に寂しいと浅ましく同情を買おうとする。

 所詮、高二病患者が無双出来る相手なんて天狗と無能と屑だけだ。

 自分より謙虚で有能で頭の切れる奴が相手では、自己犠牲精神旺盛な悲劇のアンチヒーローにすら成れない。サッカーの潰れ役みたいな奴にさえ成れない。

 皆のために罪を被り悪人になる決意もせず、ダークナイトに成る勇気も覚悟もないくせに、「やれやれ」が口癖の口だけは達者なトーシローだ。銃を突きつけられた状況でヘイトスピーチをして、それで勝てると本気で思ってるのか。笑わせる。

 斜に構えた態度なんざ、物理的な暴力の前では何の役にも立たない。

 丸腰で矢面に立っても、間違いなく撃ち殺される。

 それが「戦場」。

 ――俺は、嫌いだ。三才児のように只ひたすらに喚いてる、自分が。

 メランコリーな口唇依存型、口唇期と肛門期の間を彷徨う愚者。

 芯の抜けた声で軟弱な言葉をぽつぽつ漏らす、疎雨のように。

「俺は……駄目なんですよ。俺は、卑怯者なんです。臆病で、狡くて、弱虫で、無力で……」

「三國谷万字!!」

 名前。声。言葉。

 三國谷は顔を上げ、息を詰める。

 三國谷の肩を力強く掴み、鬼気迫る表情で翅は至近距離から真摯な目つきで睨む。その瞳に映る男の姿は、あまりにも情けなかった。

「君が何をしたいのか、何をするべきなのか、そして何のために此処にいるのか。自分で考えろ! きっと雨音君が、君を待っている筈だ」

「…………」

「三國谷、街が大変な事になっているんだぞ……。三國谷、分からんのか……」

「……」

「日の出を境にこの街は、高濃度汚染区域になるかもしれない。だからこそ私は、君に賭けている。私だけではない、華蓮も美縁も、自分達の命を君に託している。そのために危険を承知で集まった、だから今此処にいる。戦防隊が災派で出ている今、私達がテロを止めるしかないんだ。私達は、君は、この戦いに必ず勝利しなければならないんだ!」

「でも俺、」

「案ずるな、今の君になら弐層帯の言技を発現出来る筈さ。だから人喰い蛾は君の前に現れた。私も君を信頼している。――逃げるな、とは言わん。だが、後悔はするな」

 翅の瞳の中で、揺るぎなき意思が滾っている。

 これこそが、翅侑芽という苑都を牛耳る十傑衆第伍席にして、今現在テロの首謀者として眼前の黒き塔の最上層階で全てを見据えている男の元直属の上司である彼女の、最大級の叱咤だと思う。

 それを皮切りに、自分の想いを見つめ直す。己に問い直す。

 自分が何をしたいのか。 

 自分は何の為に此処にいるのか。

 自分に何が出来るのか。

 自分の、やるべき事。

 そして、朝日が輝く東の空で泣いていた彼女を思い出す。その一雫が消える寸前まで馬鹿みたいに走った自分を思い出す。

『じゃあね、少年』

 別れの言葉を想起する。

 馬鹿みたいな笑い声が脳裏で響き、お転婆な姿を鮮明に蘇らせ、綻んだ表情が克明に浮かび、黒い瞳がしかと心に焼き付く。

 高二病真っ盛りな中邪に必須の条件は何か、未だ眠る内殻器官を目覚めさせるために必要な物は何か、それは己に対する誓いだ。

 井の中の蛙、大海を知らず。されど、空の深さを知る。

 自分の言葉、言技、内殻器官、その意思に必ず最後まで殉じよう。

 血も流す。命も賭ける。セカイの中心で盛大にイキる。

 覚悟を、決めた。

 女の子を助けよう。

「行ってきます」

 たった一言、それだけで翅は全てを悟り深く頷いた。翅は堂々と立ち上がる。流れ弾に当たる危険を厭わず、三國谷のために道を作る。

「雨音君と共に必ず生きて戻れ、それが君の責任だ」

 地を蹴る。

 直後、宙に稲光りの如きPT結界が走り恰も道標となる。

【松之下】言技《胡蝶の夢》、発現。

 瞬間、三國谷の姿が数十人にも分身した。闇に沈む高架高速道路上に全く同じ出で立ちをした偽物が走り、本物の位置を悟らせぬよう敵の射線を一時的に撹乱する。局所的/限定的な視覚の乗っ取りによる幻影模型ファントムの創造、虚構の化身。

 距離を隔てた敵勢に動揺が広がり、芯を捉え損ねた銃弾が夢幻の塊を虚しく撃ち抜き残像は砕け、夥しい数で儚く飛び立つ鮮烈な青の蝶になる。生きた宝石、炎上する大型トレーラーの照り返しと月光を反射するモルフォ蝶。素早く不規則な大群飛行で敵味方の視界を等しく覆い尽くし攻防を妨げ、その隙に濡髪が踏み込み、美縁が思念で後押しする。

「俺の前で気ぃ抜いてんじゃねぇよクソが!」

『副長官の言技は五感の幻惑です、構わず進んで下さい!』

 放たれた110mm個人携帯対戦車弾を奇術の如く両断し真っ二つにされたそれの爆発を背に濡髪が一瞬で敵陣に肉薄し赤の嵐を巻き起こしたのと、三國谷が禄に落下地点も確認せずに臆さず高架から飛び降りたのは奇しくも同時だった。ぞっとする浮遊感に襲われながら風の唸りと共に意外なほど長い落下時間を経て、みるみる内に地面が近付き着地し、踏ん張りが効かず前のめりに転倒した。驚くべき事に大した痛みも怪我もなく、すぐ立ち上がり駆ける。

 敵との鉢合わせを留意しエレベーターは使わない、階段を登るしかない。

 塔の真下に走り込んだ三國谷は即決し、硬質な足音を立てながら必死に非常階段を登っていく。二段飛ばしで跳ねるように登り、登って、登った。懸命に駆け上り、手摺を掴みながら踊り場で速度を落とさず方向転換し、未だかつてない程の速度で三國谷は走る。

 息せき切って五階目の踊り場に差し掛かった時、エレベーターの扉が開き敵と思しき人影と目が合うが早いか、有無を言わさぬ勢いで飛びかかってきた。

 まずい。躱せない、

 三國谷の体は床に影を落とす、何故ならば背後で青の光が生まれたから。

 敵が纏めて吹っ飛ぶ。三國谷の脇すれすれを突き抜けたのは超高圧水流で、標的はひとたまりもなく手摺にぶち当たって溺れる虫のように足掻いたものの、水圧を少し弱めた上で顔面に水攻めされてしまえば沈黙するしかない。どさりと金属の床に伏し気絶した敵達に呆気に取られたのも束の間、背後から声。

「美縁の情報通りだな。此処はわたしに任せて早く行け」

 振り返らず礼を言い、再び全速力で急ぐ。前に前に回転させる足を決して緩めない。足に力を込め、足裏が熱く痛くなろうが構わない。コケないように力の限りに床を踏み締め、いつの間にか右手側には広大な夜景を一望できる。成虫原基ホメオミーム散布により避難指示を受けた人々が地下に逃げて空っぽになった街は、共同溝が崩落した事で停電し夜の底に沈んでいる。赤色航空障害灯と月光と炎上と点灯したままの車の光くらいしか光源の無い街は不気味の一言に尽きる。ひたすらに登り続け、どれだけ汗が吹き出そうが手摺で鉄臭くなった手は真逆なほど冷え切り、そのくせ体は燃えるように熱いが突風に煽られたら思わず身震いしてしまう。女の悲鳴のような風鳴りも時折どこか遠くから聞こえる爆発音もサイレンも何もかもが更に遠く遠くなり、もはや喘息じみた荒い息遣いと今にも破裂しそうな心臓の鼓動しか聞こえない。赤銅色の床がみるみる内に凹凸を失くし、真っ平らに見える。炎上も出動車両の赤灯も全て遠く、まるで電飾やミニチュアに思える。それ程までの高度を登っている自覚さえ朧げで、汗だくで目が霞む。

 それでも登る事は出来る。それさえ出来ればいい。


       ⑨

  

 同時刻、高架高速道路上は未だ戦闘の真っ只中。そして上空に緊急出動している第一区警邏隊警邏官たる玉露園と思念を接続リンクさせているのは、美縁。

 美縁は乾闥婆ほどではないにせよ、広域感知による索敵と情報支援を生業とする。成虫原基ホメオミームが散布されている現状において尋常の伝導媒介を不要とし、PT結界による思念伝達手段を持つ知覚拡張系の中邪は貴重であり、それに如何に成虫原基ホメオミームと言えどもこれだけの広域を完全に電波妨害するなんて芸当は不可能だ。無闇な広域周波数帯妨害は多数の周波数にバラけ過ぎるが故に、電波強度が弱体化する。故に今こうして乙層通信塔を中継点とし情報を伝達出来ている。

 ――思念伝達が未だ可能という事は555プロテクトは突破されず、アンテナも健在。でも、交信室を占拠されて第1から第4電子防壁全てをこじ開けられたのは痛手ね。

 第九区バベルの塔を住処とする乾闥婆の言技《蟻の這う迄知っている》弱体化のために乙層通信塔を占拠するとは、敵の迅速な戦略的優位の確保には目を見張るものがある。乾闥婆は基本的には美縁と同じく戦闘時は補佐として情報の共有を行うが、強硬手段として超並列内殻情報解析システムたるMagi clusterの演算補助を受けながら接続リンクした相手の思考を雁字搦めにし肉体の支配権を完膚なきまでに強奪する。脳のシナプスや電気信号や受容体レセプターすら意のままに操作しかねない御業じみた思念干渉だ。それこそ毛色は違うが知覚拡張系としては翅に匹敵するレベル。さしもの美縁でもそれ程の強烈な干渉は能力限界を凌駕し脳が保たない、故に乾闥婆は格が違う。

 だがそれも中継点たる乙層通信塔あってこそ。第三区の丙層通信塔を使う手もあるが、そもそも受信したPT結界を乙層通信塔で厳重に暗号化し超高出力化/超指向性送信する必要がある。そうでなければニビョウカンはともかく、彼や彼女は御し切れぬ。占拠されてしまった以上、乾闥婆は機械仕掛けの神デウスエクスマキナには成れない。美縁のように情報の橋渡し役で精一杯。

 まさに十傑衆についてよく知っている者だからこそ可能な綿密で用意周到な計画。

 剰え、

 ――翅姐さんが万全であれば、私の出る幕は無かったでしょうけど。いや、まさか彼はこのタイミングを狙って仕掛けた?

 刻々と推移する戦局を俯瞰しながら、胸中でそんな懐疑心が鎌首をもたげる。

 彼ならば、否、彼だからこそ立案可能な作戦。

 身内とは信頼しているが故に敵に回った瞬間、最大の脅威になる。

 如何なる事情があって彼はテロを引き起こしたのか。少なくとも美縁が知る彼はどんな精神状態であろうとも、それこそ自棄を起こしたとしても、こんな大勢の人々を巻き込む恐怖を容赦なくばら撒く男では断じてない。何が彼をこれ程までの凶行に駆り立てたのか。

 奇妙な悪意、この期に及んでそう断定する事を拒んでいる自分が酷く情けなかった。愚劣で虚しい身内贔屓。

 ひとまず錯綜した感情を胸の奥底に無理やり押し込め、雨音の無事を再度確認しようとし、

『美縁、千代が出やがった』

 上空で観測ヘリの如く周回飛行して「目」に成る玉露園からの報告で慌てふためく。

 ――先程まで確認不可だったのに! まさか参層帯!?

『いや大丈夫だ、問題ないらしい』 

 そこで、第二区乙層通信塔最上層階に足を踏み入れた者が一人。

 今にも卒倒しそうなほど息も絶え絶えな三國谷が、間に合った。


「少年……」

 汗を吸ってずしりと重くなった制服を上体に張り付けながら歩く三國谷を漫然と見つめているのは、幼子のように座り込んだ雨音。

 雨音から距離を置き佇むヘッドギアの男は、独り言のように呟く。

「もう良いのか、三國谷万字」

 白々しい、だが返してやろうと思う。それは三國谷にしか出来ない、自分だから出来る事。

「人食い蛾なんて、趣味悪いな」

「己は蛾だ、そして貴様は蛍だ。人の事は言えんだろ」

 ――螢か。まさしく夏の虫だな。

 自分でも不思議なくらい納得していると、雨音の口が戦慄いている事に気付く。どうやら目も良くなっているらしい、言技は何でもアリか。或いは自分が雨音の観測者故なのか。

 虚脱の表情で、毒気に当てられたように言葉を呑み、しかし零す。

「…………どうして来たの? 何のために私が……! 少年は、ちゃんと生きていられるのに。殺されずに済んだのに……そんなに死にたいの! 私と出会った時も、昨日だって、本当なら死んでたかもしれないんだよ! なのに何で……! 少年は被害者なんだよ、私の運命に巻き込まれただけなのに! 私……助けて欲しいなんて頼んでない!」

 哀切の色を帯びた声は、三國谷にはどこまでも虚勢に聞こえた。誰もが無言の中、意固地になって息巻く雨音の張り上げた声だけが響き渡る。雨音は、もはや仇敵とばかりに目を尖らせ込み上げる悲憤に肩を怒らせて、三國谷を睨めつけている。

 三國谷は天を仰ぐ。綺麗な半月が浮かんでいる。どうせ誓いを立てたんだ、臭い台詞の一つや二つほざいても良いだろう。

「お前はどうしたいんだ?」

 見返すと、雨音は目を見開く。瞬きさえ忘れ、息を呑む。冷たい床に広がる袴を両手で握り締め、弱々しく歪んだ口の端から情けない息が漏れる。座り込む彼女が殊更に小さく見えた。黒髪が細やかに揺れる。

 三國谷はカツンと一歩を踏み出す。まだ雨音は答えない。我慢するな。二歩、答えない。本音で喋れ。三歩、答えない。自分だって勝手に庇ってるんだ、なら勝手に助けても良いだろ。四歩、答えない。悲劇のヒロインらしく泣き言を言って、ヒーローの活躍を御膳立してくれ。五歩、

 独白のように、ぽつりと、声が落ちる。

「…………何処にもいないの」

 迷子のように頼りない声。一度漏らしてしまえば、後は堰を切ったように溢れる。唇を噛み締め、ついに吐露する。

「仲居の春夜さんも、板前の風間さんも、仲居頭の明美さんも、営繕の助六さんも、番頭の瓦さんも、女将さんも、紅緒ちゃんも、……茂さんも、もう何処にもいないのよ! 私しかいないの! 私だけ……!」

 その声は底知れぬ絶望感に凍りつき、掠れ、震えていた。

 目覚めた時、この時代に雨音を知っている人は一人もいなかった。雨音が知っている人は一人もいなかった。コスプレ等ではない、正真正銘の大正娘がずっと堪えていた言葉を吐き出している。吹き抜けの最上層階に一人の少女の声だけが響いていく。三國谷は立ち止まり、耳に沁み込ませるように聞いていた。

 が、性悪かもしれないが三國谷はようやく本音が聞けて安堵する。雨音と出会って早数日、初めて彼女の素顔を見たような気がする。

 想像を絶する無窮の孤独に震え怯えている一人の女の子に、どんな言葉を掛ければいいのか三國谷には分からない。ただ自分が引き出したい言葉がどんなフレーズなのかは分かる。

 喉を嗄らす絶叫で口元を引き攣らせ、押し潰されそうな寂寞の思いで顔をくしゃくしゃにする雨音は感情の丈をぶちまけ、やがて叫ぶのを止めた。嗄れた喉から忙しい吐息を何度も漏らし、爆発させた激情のまま袴を握り込んだ両手の指先は血の気が失せ白くなっている。

 意を決して、再び問う。 

「お前はどうしたいんだ?」

 星空を封じ込めたような瞳が真っ直ぐに三國谷を見つめる。幼子じみた視線と既に覚悟完了している視線が交錯し、絡み合い、答えを待つ。言葉は魔力だ、聞いた人を傷つける事も出来るし勇気づける事も出来る。そして異能力を発揮出来る、誰かを助けるために。

 暫し沈黙が続き、夜の風鳴りが全員の耳に滑り込み、そして喉の奥から絞り出るか細い泣き声が聞こえた。

「…………たい。……少年と、皆と、……もっと一緒にいたいよぉ」

 銀色の雨が降る。月光を浴びて幻想的に瞬き、夜空を舐め尽くす。その中の一滴が天井を突き抜け床で散り水音を立てた時、

「しにたくないよぉ」

 雨音は、子供のようにしゃくり上げている。

 何の衒いもなく、恥も外聞もなく、本心を曝け出し涙声で弱音を吐いている。

 意識の住人にとって「死」とは何か、誰からも認識されず存在できなくなる事か。言技を取り戻すとは何か、雨音は千代に取り込まれ同化するという事か。仮にそうなれば、それはもはや雨音という個人が消え失せ千代だけが残るという事か。三國谷は何も知らない。

 が、彼女の生きたいという意思は知っている。今はそれだけで十分。

 三國谷は息を吸う。

 決然と、宣言する。

「――分かった。俺が、必ず助ける」

 言葉が、雨音の胸を打つ。瞳に残っていた涙が目尻を流れ、頬を伝い落ちる。喉をひくつかせながら幼児のように口を半開きにして、涙の痕を濃く残す放心した表情のまま視線を片時も逸らさず三國谷を凝視している。

 銀色の雨が降り止む。

 助ける、とは簡単に言える言葉ではない。そこには絶対に失敗できないという責任が重く伸し掛かるから。それを重々承知していながら、三國谷は言った。言ってやった。

 邪気眼系中二病が何だってんだ。中邪が何だってんだ。目前で泣いている女の子を助けられるなら、そんな誹り上等だ受けて立ってやる。

「くっさ」

 ここに至り、ついに千代が痺れを切らした。心底蔑んだ目つきで三國谷と雨音に視線を滑らせ、わざとらしく溜め息を吐く。その幼い顔つきは嫌悪感で露骨に歪んでいる。

「無力なくせに格好つけて、恥ずかしくないのかや? 耳が腐るわ」

 朱い高下駄をからんと鳴らし、それを合図にPT結界の青が散る。戦闘態勢。三國谷を捉える眼光は冷え冷えと冴え、殺意を漲らせる。嗜虐的に歯を剥き、

「小僧、耳障りじゃ。死ね」

 千代が、消えた。

 転じて、衝撃に打ち抜かれた。

 三國谷の躰がくの字に折れ曲がり、驚愕に目を剥く。ほんの僅か両足が床を離れ躰が浮く。たたらを踏み、ぎりぎりで耐えて転倒を防ぐ。腹を押さえたまま振り返れば、千代は鉄骨を足場にして重力を無視したかのような体勢で、数ある鉄骨の内の一本に蜘蛛のようにへばりついている。

 それは突撃だった。PT結界が牙を剥く。短い黒髪をはためかせ飛ぶ千代の躰に驚異的な速度を与える青の力場、絶大的に活性化した内殻器官が発信する殻式文法司の基礎にして必殺のそれ。突撃、二度目の拳が胸元にぶち込まれる。肋骨が軋んだ音を聞いた気がする。衝撃のあまり仰け反り、押し飛ばされるように一歩大きく後退る。もはや風すら置き去りにせんばかりの速度の跳ね回る弾丸と化した千代は、一切の情け容赦なく三國谷を破壊せんとする。回避も防御も叶わぬ攻勢が始まった。千代は己の保有する破格の内殻器官と途方もない機動力と恐るべき破壊力の全てを速度と精度と高度に昇華させ、その爆発的暴力を惜しむ事なく解放した。

「そんな細末な小娘のために粋がるとは、愚かな。妾から言技を奪わねば表面意識にすら現れず、意思表明さえ出来ぬ脆弱な存在! 意識の泉に揺らぎが生じ小僧に観測されて尚、鏡面から零れ落ちた飛沫程度の実在性しか生み出せぬ矮小な娘さね!」

 衝突。横合いから頭をぶん殴られ、首をへし折られたと錯覚する。嫌な音を立ててこめかみが切れ、視界の左半分が血塗れで目も開けていられない。勢い良く血潮を撒き散らし赤銅色の床を真っ赤に染める。自分の血生臭さが鼻につき、三國谷の体は為す術無く泳ぎ、しかし倒れる事すら許されない。次が来る、

 鈍い音がした。足をやられた。何とか見える右目で確認すれば、右足が逆くの字に折れ曲がっている。膝を蹴撃で砕かれたのだと他人事のように思う。本来なら曲がる筈のない明後日の方向に関節が惨たらしくよじれて曲がり、泥のように崩折れた。流石に片足だけでは立つ事さえままならず、口中に溢れる粘ついた血を舌で捏ねくり回し吐き捨てた。

「少年!!」

 雨音の絹を裂くような悲痛な声は、矢継ぎ早に叩き込まれる拳と足で三國谷の耳には届かない。今度は右肩へ斜めに手刀を食らい、片足だけでは踏ん張りが効かず突き飛ばされるように倒れる。再び左側頭部を強かに打ち付け、左耳に血溜まりの水音が流れ込む。億劫げに左手一本を突き尻で重心を支えながら辛うじて体を起こして見れば、右の肩から二の腕にかけて肉が削げ落ち上腕骨が見えている。傍には肉と皮が転がっている。腕が千切れて落ちそう、糸の切れた操り人形みたいだとぼやけた頭で思う。右手は禄に動かせず、左手は絵筆でべったり塗りつけたような血痕で濡れそぼり、ぽたぽたと雫が滴り続ける。

「禄に知りもしない女の、悲劇的な最期のための茶番に付き合わされ、その果てに死ぬとは酷く滑稽じゃありゃせんか? ……哀しい小僧じゃ、冥土の土産に教えてやろうかの。その女は親を亡くし、運良く商家に拾われたものの借金を作った旦那が夜逃げし、娼館に身売りされ、ある若造の死んだ妹の代わりとして買われたのさ。じゃが、所詮は不幸の星の下に産まれ落ちた哀れな女じゃけえ。余所者が家族紛いの馴れ合いでのうのうと現世にのさばり、たかが一年もの間その男の妹を演じながら他人や自分を騙し、終いにゃあ男の病を治して欲しいと神頼みときた。勝手に神扱いされる妾はたまったもんじゃありんせん……!」 

 月を横切り三國谷に影を落とし、間髪を入れず突撃しまくる千代は、着地してもその場にコンマ以下秒も留まらず跳躍して別の壁へ。

 床だろうが柱だろうが天井だろうが関係なく、足場を陥没させながらありとあらゆる角度と高度から超高速で飛び掛かる千代は、躍動する度に速度を増していき既に人の目では追えず、空間を縦横無尽に貫く青の閃光として認識される。最上層階は上下左右ほぼ全てに及ぶ光の乱舞で今や突貫の巣となり、荒れ狂う風に雨音の黒髪が靡き、その動きからすれば只の案山子に等しい三國谷ただ一人相手に焦点を絞り過剰な戦闘能力を臨界値まで発揮している。

 とどのつまり、超高密度高圧縮したPT結界による単純明快な撲殺。

 もはや感覚は麻痺し、どれだけ殴打一蹴されたか数知れない。出血多量の場合は途轍もない寒気を感じると聞いた事があるが、奇妙な事に今はそれが無い。傷口から死の気配が這い寄り、視界の四隅に黒い紗がかかっていく。思わず嘔吐きそうになり、堪らず喀血。口から塊のような血を吐瀉する。内臓をやられた。

 満身創痍。

 死ぬ、そう思った。

 そして鉄柱を駆け上がり、躊躇なく蹴る。その躰を空中高くに躍らせPT結界を展開、重力で手品の如く目当ての天井に身を引き寄せ取り付き、照準。逆さまの体勢で両足を撓め、全身にありったけの力を溜め、それまでとは比較出来ぬ程桁違いの密度で練り上げたPT結界を足裏に集束させ、

「疾っ!!」

 眩く爆ぜた。闇を消し飛ばしながら加速と落下の勢いを加味し、彗星の如く急降下。もはや音の壁を縦一文字に突き破り、衝撃波を伴って急速の突撃を仕掛けた。三國谷の耳が殷々と響き渡る大音声を捉える頃には、もう――

 直撃だった。

 千代の青く光る拳は標的の背中を打ち据えただけでは飽き足らず、そのまま勢いを殺さず異常な力場で叩き潰し、皮膚も筋肉も血管も脊椎も神経も骨格も一切合切をぐちゃぐちゃに裂き砕き貫く。徹底的に体内まで喰らい付き臓器に至るまで捩じり上げるような破壊を齎し、夥しい量の鮮血が間欠泉の如く滅茶苦茶に噴き出し、胴をぶち抜き頑強な床を打ち、血の滝が跳ねる赤銅色の床が歪みひしゃげた。

 まだ終わらない。転瞬、力尽くで強引に押し留めた力の糸が解れ、電光がぎろりと覗く。躰はおろか床まで深々と食い込んだ拳が一際強く輝き、ついにPT結界が弾け、密着状態から極限まで圧縮/爆発的に解放された悪魔的な出力の電磁は完膚なきまでに体内を焼き尽くし、《重力子制御グラビトン》は駄目押しに肉体を完全に断絶せしめた。躰の内側にプラズマが生まれ、脳内出血を起こし神経が焼き切れ、熱傷により壊死した皮膚は血流が止まり、頭の天辺から爪先まで好き勝手にのたうち回った電撃は標的の眼窩から電光として噴き出した。


 千代は確実な手応えに鼻を鳴らし、鉄筋の床にめり込んだ拳を一気に抜いて無造作に血を払い、終わったと見て飛び退る。顔に掛かる筈の返り血は力場で逸した。

 吹き荒ぶ風鳴りが反響していく場において、誰も声を出さない。凄惨な光景を前に、絶望に塗り潰された雨音は絶句し凍りついた目つきで見つめるしかない。悲鳴も怒声も上げられない。血の池で事切れた、つい先程まで生きていたが今や肉塊でしかない、ぎりぎり人の原型を留めているそれは、雨音にとって混ぜ物の無い生の絶望そのもの。赤黒い血液が止めどなく溢れ、赤に塗れた腸が腹からぶち撒けられ野晒しになり、砕けた脊椎が見え、断面のみならず白い制服をぞっとする早さで血の色に染め上げる。雨音は、死を痛感させる光景をまざまざと見せつけられる。目を逸らす事も瞑る事も出来ず、言葉が、声が出ない。

 臨戦態勢時の強張りを緩めた千代は、冷徹な余憤が燻る瞳で死者を見遣る。そして怒気冷めやらぬ語調で喝破する。

「そして、児戯のように泣きじゃくりながら頭を垂らし、みっともなく額を地面に擦りつけ、矜持も糞もなく『何でもしますから』と懇願する始末。望み通り妾の同類にしてやったわ。実に空虚で惨めな生き様じゃろ? ああ、もう聞く耳を持たぬかの。この程度の女を妾が直々に処してやるというのに、邪魔しおってからに。小童如きが増長するからこうなる。……さて、」

 一切の興味を失くした千代は亡骸を横目に流し、憮然とした面持ちで身動きが取れない雨音に目をつける。

「続きといこうかの。抱きこそすれ叶わぬ事を希望と呼ぶ」

 千代は徐に右手を広げ虚空を掴み、そこに青の光芒が徐々に集束していく。《空間転移ジョウント》、千代の桜冠たる言技の一端に過ぎない。同時に一歩を踏み出す、その足取りは断頭台に向かう処刑人の如し。全く持って脅威に値しない標的に時間と手間を取られたが、十二分に修正は可能だ。お気に入りの黒襦袢が返り血で汚れたが予定通り言技を奪還し、完全体として計画を遂行するのみ。こと千代においては、今こそ作戦最終段階である。

 嵐の如き一方的な殺戮を経て嘘のように静まり返った最上層階に、千代の朱下駄が踏み鳴らす金属音だけが響く。千代は悠然と歩み寄りながら再び言技を発現しようと、

 これまで沈黙を守っていた男が、嗤う。

「何が可笑しいかよ?」

 眉を顰め、気付く。男の視線が千代の脇を抜け、その後方へ注がれている事に。

 青い光。

 火の粉が、散る。

 肉の焼ける臭いが、髪の毛が焦げる臭いが、する。

 肌が粟立つ。悪寒により鳥肌が立つのとは原理が違う。これは電磁、それも凄まじい電圧によって引き起こされた現象。PT結界――周囲の粒子に干渉し、荷電し電磁を生み出す――《電子制御エレキテル》、有り得ない。この場において言技を発現させようとしているのは千代だけの筈で、此処は既に制圧済みの戦域に過ぎず、そもそも千代以外に動く者はいない、

 空気がスパークし幾重にも耳障りな音を刻み、男のヘッドギアのカメラアイが電光を映す。千代の物では断じてない。

 背後。

 火を恐れる獣の如く振り返る。

 三國谷が、立っている。


 三者三様の視線を受けながら、五体満足の三國谷は生前と変わらぬ声色で男に代わり質問に答える。

「そりゃ可笑しいだろ、そんな偏見塗れの御託をぐちぐち聞かされる身にもなれよ」

 壊された筈の右足で感触を確かめるように爪先で床を小突き、血溜まりがぬらぬらと波打つ。肉を削がれ骨が露出していた筈の右肩をぐるぐる回して問題無しと確認、ブチ切れた筈の左のこめかみに左手で触れようとし血塗れな事に気付き汚れてない右手で触れ傷口の塞がり具合を知る。まだ血痕が乾いてないので左目が開けづらいし制服の上下は血液でぐっしょり濡れて血生臭いしズタボロに破けているが、まあいい。修復は十全で気分も悪くない。

 創造の前には破壊が必要だ。生と死は等価である。

 ――これが、俺の弐層帯。

 深呼吸し、気を引き締める。真っ向から千代を睨み、これまでの人生で類を見ない程のはっきりとした口調で否と唱える。

「空虚かどうかは俺達が決める。雨音の生き様は俺達が見届ける」

「……」

 間違ってもお前じゃない、言外にそう強く込めた。

 一度死んで生き返るという度を越したイキっぷりでドヤる三國谷の姿を、雨音は恍惚と息を呑み焦がれるように見詰めている。

 そんな二人の間を裂くようにPT結界が走る。千代の気配が沸き立つ。千代の小さな躰を中心として端から精密制御を放棄した粗雑な展開で電磁が鋭く爆ぜ、怒髪天を衝くように髪が逆立つ。あどけなさを残す目元は憎々しげに歪み、瞳の奥で狂奔的な敵愾心が燃えている。

「…………す、……ろす」

 うわ言のように呟く。隠す気など毛頭ない敵意を三國谷はひしひしと感じる。

 堪忍袋の緒はとうに切れていた。理性という名の軛を振り切り、狂的な衝動の赴くまま逆上。

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!」

 熱病にうなされるような癇癪声で呪詛じみた悪意を吐きまくり、

 ぎん、と最上層階に青の閃光が生まれた。

 もはや消えたと見紛う速度だった。その場には捻じくれた電磁の残滓だけが漂い、それが散るより遥かに速く千代は三國谷の背後を取っていた。

 人体の物理限界を超えた恰も躰そのものにPT結界を流し込み、只それだけで全身を管制/駆動させ電流それ自体になったとしか思えない速度域である。《電子制御エレキテル》。これも意識の住人でありながら中邪でもある千代だからこそ為せる技か、受肉せず観測者に依るヒトであって人ではない存在。無論、種を割る暇など絶無。尋常の論理の埒外で動く千代は、その身一つに一個の戦闘単位としてあり得ざる力を漲らせ、手/腕/肩の端から端まで過大なPT結界を伝播させ暴発寸前まで迸らせる。ぎりぎりと指を動かし、鉤爪の如き青を纏う五指が破滅的に眩く光る。ばりばり、と鼓膜を掻き乱すような電磁の雑音が響く。放電の時を待ちわびる電気エレキの気配――

 踏み込む。

 今までの躍動を凌駕する桁外れの疾走に青が鋭利な軌跡を引き、刹那に月光を滑らせた短い黒髪はそれ自体が切れ味を持っているかのように宙を流れ、もはや彼我の間合いは千代にとって至近距離であり、非の打ち所が無い理想的な速度の突撃だった。それは音と重力を引き剥がし天から電離層へ打ち上げられる、人の形をした昇雷。人間なら気付く前に死ぬ初速の、生身を一撃で血霧にする刺突じみた電撃は、言技発現のための媒介であるPT結界の発信源たる内殻器官を保持する頭部、即ち脳組織を狙い違わず一片残らず消滅させんとする。

 それが只の人間であったならば、確実に命中させられていた。

 が、そこにいるのは既に人間ではない。

 人の形をした虫。夏の夜に発光し、大量の人間を消し炭にした爆轟に晒されて生と死の能力を最大限に覚醒させた存在――その片割れ。

 火蛾ならぬ火垂。

 青の光を認識した瞬間、踏み込みの音が轟くより数段早く三國谷には視えていた。

 その言技は危険に飛び込む事で発現し、故に無闇な能力行使防止のため、危険が自己へ襲来した時のために予防線を張る。それはマフラー、色調は警告色たる黄色。それが千代から三國谷の頭を抜け伸びている様を、三國谷だけが視認していた。後頭部から額へ貫通している「未来の危険軌道」を、警告色を帯びた幻影のマフラーとして知覚し発火を予知する――それが桜冠殻式文法司たる三國谷万字の能力わざの予防線。

 いち早く軌道さえ視えていれば回避は容易い。

 果たして影のような低姿勢での突進は、閃きと同時に対象を射抜く落雷のような一撃を見舞う――筈だった。

 電光石火の刻に、好機を見極める。

 紫電一閃の突きを、紙一重で躱す。

 重心を落とし、屈む。両足で床を噛み、身を翻す。床を這うような低姿勢での旋転は千代を欺き、その両目は一瞬前まで三國谷の頭があった空間を睨み、攻守を切り替えた三國谷自身は映さない。回避と反撃に全集中力を傾け、全ての動作を最小限に留める。千代からすれば視界から消失したと錯覚する程の速度で攻勢を展開する三國谷の動きに無駄はあり得ず、腰を入れた旋回の勢いのまま拳を握り締める。

 赫々たる電光の五指で空を突き破った千代の懐で、三國谷は全身全霊を注いだ拳を振るう。

 三國谷は、迫る「危険」を回避し自ら頭上の「危険」に飛び込み、

 千代に削がれ千切れて落ちそうだった右を、

 ぶち込む。

 千代の死角から跳ね上がるように空気の唸りを伴いながら顔面に拳を振り抜き、完膚なきまでに吹っ飛ばす。まともに捉えた瞬間、危険と接触する手の甲から朱色の火の粉が散った。爆ぜるような一撃で、千代は人形のように宙を飛んだ。何度も床を跳ね返りながら何メートルも転がった末に支柱の鉄骨に思い切りぶち当たり、うつ伏せに倒れようやく止まる。呻き声すら漏らさない。

 ――咄嗟にPT結界を張ったか、でもまあ暫くは気絶してるだろ。

 顔面崩壊の心配はなさそうだ、敵とはいえ女子供に手を上げるのは気分の良いものではない。

 一瞬の交錯でケリを着けた三國谷は視線を転じ、ひとまず千代を意識外へ追いやる。まだ終わりではないから。

 静寂が戻った最上層階で、改めて三國谷は男と向き合う。すると損傷した右の手/腕/肩の筋肉が盛り上がって芋虫の如く撓り、沈静化し元に戻る。拳打の手応えを振り落とし、感触を確かめるように手首をスナップさせる。問題無い、復元完了。

 二人の間に夜風が吹き、三國谷の足元の血溜まりで波紋が生まれる。

 そして、男はついにヘッドギアを脱ぎ捨てた。そこらに放り捨てられたそれが硬質な音を大きく立て、残響が長く尾を引く。遠間の三國谷と近間の雨音は、ゆっくり瞳孔を開き諦念のまま目を細める。

 男が何者なのか、高が知れていた。

 左目元からこめかみにかけて皮膚が炭化したように白く、爪痕の如き模様を刻んでいる。肌は荒れ、唇はひび割れ、頬はこけて口に皺が寄っている。短く無造作な黒髪が揺れ、昏く蒼い目が三國谷を見返す。

 もう一人の三國谷万字が、そこにいる。

 驚く程の事はない。成虫原基ホメオミームが散布された事実を知った時点で予想は出来たし、その前提を踏まえれば何故この男が自分に接触してきたのか説明がつく。そもそも戦防隊や防空壕シェルターや十傑衆の仕組みと動向を熟知し、その上でこれ程までに手の込んだテロを起こせる男など容疑者候補として名前を挙げるには十分過ぎる理由になる。奇しくも迦楼羅による疑惑は邪推ではなかったという事になる、半分は正解と言ったところ。

 とはいえ何故同じ人間が二人もいるのか、テロの目的や動機は何なのか、顔の痕は火傷なのか、そもそも何故自分と雨音を引き合わせたのか。千代は戦防隊を呼び寄せるための布石か、二人の間には及びもつかない利害関係でも存在するのか。疑問は尽きない、問い質したい事などいくらでもある、だがそれは後回し。今はとにかくテロを収束させなければ、日の出は近い。街のため皆のため雨音のため自分のために、絶対にやり遂げてみせる。

 活路を開いてくれた人々の思いを一身に背負い、三國谷は毅然と要求する。

「今すぐ成虫原基ホメオミームを回収しろ、ニビョウカン達に投降するように言え。そしてお前もさっさと降参しろ、これでお前達の戦争は終わりだ」

「断る、と言ったら?」

 に、と男が微笑む。あからさまな挑発である、とても自分と同一人物とは思えない。が、その笑みには見覚えがある。

 ちらり、一瞬だけ雨音を見る。男を油断なく注視する横顔を認め、改めて決心する。今更だが雨音のおかげで内殻器官を活性化させられたようなものだ。一人で抱え込んでばかりの雨音が助けを求めてくれたという事実、それが言技の予防線を張るための決め手になったと思う。一度死んでしまった事も功を奏したと言える。高二病を卒業する、とは聞こえは良いが実際は只の開き直りである。中二病患者に返り咲いただけの事。ヒロインをエスコートする事でヒーローになる、我ながら現金な奴だと自嘲する。が、悪い気分ではない。

 だから、

 男を睨み返し、きっぱりと答える。れっきとした宣戦布告である。

「力尽くでお前達の計画を徹底的に潰す、それだけだ」

「大きく出たな、それでこそ罪の桜冠を戴く者と呼べる。いいだろう、止めてみろ。やれるものなら」

 この男は絶対に止まらない、そう確信させる声音だった。

 だからこそ絶対に止めてやる。

 不敵な笑みは自己の保有する戦力、戦略、戦術に対する揺るぎなき自信の表れか、それとも別の根拠から形作られたものか。益体もない詮索はよそう、この男を無力化すれば自ずと分かる事だ。

 あの燃える街で初めて遭遇した時、三國谷は男を恐ろしく冷たい気配を醸し出す感情を探れぬ意思を窺い知れない奴だと思った。だが、素顔を見ればそれが全くの見当違いだったと思い知らされる。

 男は――鬼虫10は死んだ目つきで三國谷を捉えて離さず、瞳孔に青を走らせ、熱を帯びる呼気を吐き出す。

「今の貴様は、戦闘に値する」

 声。

 一片の躊躇なく、一切の情け容赦なく、剣呑と告げた。その一言だけで場の雰囲気を一変させる。極彩色の成虫原基ホメオミームと白き星を抱いて燃ゆる夏夜の下、焦げんばかりの言の葉を用いて発露された意思を三國谷は真正面から突きつけられた。否が応でも認識させられる、この世の終わりじみた爆轟を抑圧させた恐るべき男と対峙している現実を。生ける伝説との闘いの火蓋が切って落とされる五秒前、虚構じみた能力を駆使して繰り広げられる現実が今、三國谷の眼前にある。今この時、言の端に刻まれた正真正銘、紅蓮の火蛾が滾る本気の戦意を見た。

 帯電じみた緊張が全身に満ちる。途端に起こる武者震いを押し殺す。迷いも恐れも決意も覚悟も全て呑み込み、強靭な意思へと束ねて言技に変換し放つのみ。

 正々堂々と踏み出す。

 瞬間、視界一杯にマフラーが張り巡らされ、行く手を阻む。色彩は、血の如き赤。警告ではなく危険を示すそれは、もはや予防線に非ず死線そのもの。千代を凌ぐ敵である証左に他ならず、これより先に生死の保証など塵ほどもなく、一度越えれば後戻りは出来ない。元より、そのつもりは微塵もない。

 赤と赤の狭間、その向こう側にいる雨音と目が合う。観測者三國谷と被観測者雨音の二人に、もはや言葉は不要。信頼の意を込めた首肯を交わす。目で語る、それだけで十分だった。二人の堅く結ばれた共生関係を前に、三國谷が自ら危険に飛び込んで燃え尽きる等あろう筈がない。互いの内殻器官を、言技を、それに端を発する意思を信じる。それが救う側/救われる側を双方共に経験した二人にとっての極意。

 二人の三國谷万字は鏡合わせのように右手を、左手を伸ばす。真紅の死線を掴み、引き千切る。

 双方のPT結界が真っ向からかち合い、打ち消し合う。

 果たして。

 危険、

 突破。

 蛍は複合殻式弐層帯製内殻器官を活性化させ、言技《飛んで火に入る夏の虫》、言技《一蓮托生》を熱殻融合/連鎖発現。

 蛾は複合殻式弐層帯製内殻器官を活性化させ、【桜之上】言技《飛蛾の火に赴くが如し》、【松之中】言技《死中に活を求む》を熱殻融合/連鎖発現。

 蛾の背部を起点に燃え上がった炎は知性を持つように蠢き、とぐろを巻き、膨張し変形。虚空で燃え盛るは、一抱え以上もある炎の鬼。暗闇に生物じみた鬼火が眼光としてぎらつく。喰らいつく。鬼の形相で瀑布の如く着地し、背後から蛾を呑んだ炎はアギトを閉じ、幾万の極細な糸へ物理法則度外視に細分化し躰を包み締め付ける。そして、

 迸った白熱炎の糸の軌跡に花弁じみた火の粉が舞い散り、その只中に蛾は立つ。夜を焼く深紅の炎を纏いし躰は、白。繭の如き躰を燃焼させながら、だが炭化せず。頭部に突き出た一対の角は、先走った触角か或いは鬼の角か。火達磨の奥で眼窩が黄色く、ぎら、と端から端まで毒々しく光る。

 同時に、蛍。爆発的に発火。火柱が吹き抜けの天井を突き破り、爆炎が夜天を衝いた時には既に黒くなった蛍は、だが生存する。夜を燃やす真紅の炎を帯びた躰は焼け爛れたようにくすみ、剥き出しの筋繊維じみて、崩落した礫が当たった傍から跡形もなく溶ける。死と再生を人智を超えた速度で絶えず繰り返す――アポトーシス、ネクローシスが複合的に螺旋の如く無限に続き、拮抗するように細胞再生が並外れたヘイフリック限界を超えるまで続く。炎の赤と蛹の黒を纏う蛍の眼窩と口腔だけが黄緑色に、ぎん、と発光するのに合わせ苛烈な熱波が発散され、熱風が荒れ狂い気流の乱れを描く。光すら呑み込む無骨な漆黒の触角に至るまで燃えている。

《第参盤式ヨウ化》、完了。 

 こうして二匹の虫は戦闘形態に移行した。

 矛盾の塊が、そこにいる。

 見守る雨音の瞳には、二匹の虫が立つ座標の空間が陽炎のように揺らぎ歪んで映り込んでいる。

 五感入出力系正常。

 外骨殻温度上昇中。

 PT結界高出力展開。

 弐層帯精度常態維持確認――

 戦闘機動、開始。

「行くぞ」

「来い」

 出掛かりは同時、高熱の蒸気を軌跡に細く引きながら踏み込む。

 人ならざる膂力で一瞬にして高速に至り、二つの赤き閃光が迫撃砲弾の如く夜闇を貫く。

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