肆 真実

 翌日、七月二十日、土曜日。

 八洲国内に在住する言技使いは任意で苑都に移り住む。何故かと言えば苑都の方が自由を保証されているからだ。言技使いが一歩でも苑都から出てしまった場合、その瞬間から24時間365日態勢で監視がつく。監視レベルは推定600万台も設置され一人あたり一日で平均300回は撮影されると悪名高い監視カメラに始まりスマホ等の通信や位置情報、銀行や税務署へのアクセス記録の調査、挙句の果てには面割りした公安捜査員が尾行する事もある。NSAのPRISMでも使ってんのか。

 最悪なのは、もし言技使いが言技を発現した場合は即刻射殺命令が出される事だ。発現した旨に関係なく、街中に砂の数ほど敷設されたセンサーがPT結界の高出力展開を感知した瞬間に言技使いは犯罪者にされてしまう。故に苑都の外側で発生した言技騒動の死亡率の大半は射殺であり、宛ら銃社会の如く。

 人々は求めたのだ、安全を保証する担保を。

 人々は安心のためにあらゆる自由を手放した。

 認証し、認証し、認証する。

 地下鉄に乗る時、路面電車に乗る時、スーパーやデパートに入る時。

 恐るべき言技使いから、無辜の市民を守るために。

 無差別殺傷事件や企業テロが従来通り刃物や爆発物やガソリン放火ではなく、言技によって行われる可能性を危惧したから。

 その脅威は7.19によって絵空事ではないと証明された。

 言技使いの攻撃が、旅客機でビルに突っ込まれるよりも、地下鉄で化学兵器を撒かれたりするよりも、遥かに危険だという事が。

 でも自殺的テロは防ぎようがない。例え監視管理社会が抑止効果を生んだとしても。それは苑都の十傑衆も同様だ。でも、そうしないと人々は安心しない。統計的に大した効果が無いと判明しても、見て見ぬ振りをする。自分が見たい物だけを見て、信じたい事だけを信じる。

 編纂された真実、無視された事実。

 何故いきなり三國谷がこんな物騒な事を思い返したか、それは家を出る前に文から言い聞かされたから。苑都から出るだなんて一言も言ってないのだが。

 ともあれ、まさかこのご時世にディストピアが形成されていたとは露知らず。1984年に異世界タイムスリップした訳ではないですよね。

 ところで、苑都の住人が「街へ行く」だの「街へ出る」だの言い出した場合の街とは、灰殻街という苑都条例第八条の大正建築保護法によって保護された地区を指す。

 一言で表わせば時代を百年ほど遡行した街である。東京駅みたいな建物が一杯あって、洋館と和館が一緒くたになって瀟洒な意匠が施されたバルコニーなんかもあったりと、なるほどハイカラである。

 九原駅南口バスターミナル近くにある冷房の効いた硝子張りの待合室の椅子に腰掛けているのが、三國谷万字である。

 母曰く、デート、なんだそうだ。

 あり得ない、そう思う。

 大正娘がそんな所業をするとは到底思えず、天地がひっくり返ってもあり得ないと断言出来る。大方、本当に言葉通り行きたい場所があるけど一人で行くには心許ないから自分を誘った。そう捉えるのが妥当だ。

 ――俺なんてキープ君が関の山だ。

 しかし何故よりにもよってこんな情勢下に外出するのやら。静観を決め込むとはいえ、例の男の動向が気掛かりだというのに。情報を漏らしてない以上、再度襲撃される事は無いと思いたいが果たして。男の能力が把握出来ぬ以上、迂闊な手は打てない。言技の内実も効果範囲も何一つ判明してないのが現状、八方塞がり後手に回るばかり。

 この街に巨大な災禍を齎すであろう男を捕らえる千載一遇のチャンスをみすみす逃した。だが脅迫に屈している自分に何が出来たのか。

 不穏な言葉を残しやがって。計画って何の事だ、翅を知ってるのは何故だ。もしや廃墟での骸骨襲撃も奴の仕業なのか。自分の無知を悔いるのは何度目だろう。早急に翅に打ち明けるべきだが、昨日の件を考えても何処から監視されてるか分かりゃしない、それこそ今だって。

「少年、お待たせ」

 自動ドアが開いて暑っ苦しい外気が入り込んで来たと思えば、そこには大正娘が立っていた。何故か自動ドアが開く瞬間に猫のようにびくっと身を竦ませたが。紫と白の矢絣模様の小袖に水泡が白く描かれた瑠璃色の女袴、こげ茶色の編み上げブーツといつも通りの格好である。ただ一点だけ、長い黒髪を纏めるリボンが山吹色ではなく洋菓子の包装紙のような物だった。

「行こっか」

「あ、ああ」

 大正娘は三國谷の留めた視線を気にした風もなく、踊るようにくるっと身を翻す。美形な頭蓋骨に沿い絹のように流れる髪が舞い、足の動きに少し遅れて袴が膨らみ靡く。独特のリズムを刻む足音は常のそれではなく、軽やかに楽器の如く歩道を叩き、かつかつと歩む度に歯切れよく響く。バスターミナル沿いの歩道で先を往く大正娘を背後から見れば、弾んだ歩調で時折リボンの結目が跳ねるように小さく動く。後ろ手に掌を組んでいる。日中の十時で曇天ではあるものの、むわっとした熱気に辟易する三國谷とは対照的に大正娘は何のそのな様子。

 そこで、大正娘が「あ」と漏らしぱっと振り返る。体を右へ左へひらひらと揺らしながら後ろ歩きのまま、覗き込むように上目遣いで、

「少年、ちゃんと写真機持ってきた?」

「……まあ。てか、やっぱり待ち合わせなんてする必要なかったんじゃねぇか?」

「えー、それだとすぺしゃる感がなくなっちゃうよ」

 ズボンのポケットからスマホを取り出し目配せすると、大正娘は意気込むように頷き、

「よし、撮りまくろう!」

 片手を突き上げ意気揚々とする大正娘と肩を竦める三國谷は、戦防隊のNBC偵察車や高機動車が車道を行き交い、輸送ヘリや偵察ヘリが飛び交う街へと繰り出したのだった。


       ⑨


 それにしても、この女は変だ。

 三國谷は今更ながらそう思わずにはいられない。

 だって、大正娘はあちこちをきょろきょろと見回している。それこそ周囲の何もかもが珍しくて仕方ないと言った様子で、落ち着きが無に等しい。事ある事にと云うか事が無くても頻繁に立ち止まり、あれは何これは何とエジソン状態で、まるで小学生だ。ショーウィンドウの中を覗いたり微妙に歪んだ大正硝子を眺めるだけならまだしも、すれ違う車とか電線や電柱の張り紙とか何にでも興味を示す。

 背後から観察していると、大正娘が悉く電線の真下を通らないようにしている事に気付いた。

「あのさ」

「何でこう電信柱が多いのかな、やんなっちゃう。……ん、何か言った?」

「……蛇や鳥じゃねぇからって、そこまで電線を警戒しなくてもいいだろ」

 ぴた。

 急に不動になったので危うくぶつかりそうになり訝しむ。大正娘はばっと振り返り、至って真面目な顔つきで、

「少年、電線の下は傘を差して歩かないと危ないんだよ。だけど私は今、傘を持ってないの」

「で?」

 出会った当初から変な奴だと思っているが、ここにきて妙な事を言い出した。

 果たして、大正娘は未だかつて見せた事のない真剣な眼差しを真正面から向け、芯の通った声で、

「電気が落ちてきて当たっちゃうから」

「……」

 間、

 堪らず嘲笑したら凄え睨まれた、何故だ。

「少年っ、ぼさっとしてないで早く行くよ! 一日なんてあっという間に終わっちゃうんだから」

 分かりやすく拗ねる大正娘は、自然と手を取りぐいっと引っ張る。もはや引き摺る勢いである。手を繋いだ瞬間少しドキっとしたのは不服である。

 男とは違う滑らかで柔く体温を伝える手にドギマギする三國谷をよそに、大正娘はずんずん進む。彼女にとっては些細な事らしい。彼女とは彼方の女と書く、女は常に向こう岸の存在だ。

「はい撮って」

「分かったから少しじっとしてろ、ピントがズレるだろうが」

 手を離し壁の前に立つ大正娘に対し、三國谷は距離を取る。いくらAF機能があると言ってもこう動かれてはピントが合わん。何度も手ぶれピンぼけしまくり、ようやく撮れたと思えばエフェクトを適用してしまい被写界深度が浅くなった。一応スマホの画面を大正娘に見せると、何気なく顔を寄せて来て戸惑う。ほんの数センチ隣から石鹸の香りがふわっと漂い、一々反応してしまう自分が盛りのついた猿のように思えて嫌気が差す。

「少年、下手くそだね」

「これはれっきとした技術だ、別に下手ではねーよ」

「いやでも背景ぼやけたら、この街に来た意味ないんだけど」

 自主制作映画などで割と見る撮影方法なのだが、どうやら大正娘は知らないようだ。まあ大正娘の物言いも一理あるし、今度はちゃんと撮る。引き画でフレーム内に大正娘と背後の赤煉瓦に白い花崗岩で建てられた辰野式建築物を収め、自動焦点を活かしつつぼんやりと朧げな被写体にピントを合わせ鮮明になったところで、ようやっとシャッターボタンを押す。

 パシャ。

「撮れた?」

 見せると今度は満足そうに頷き、たたっと駆け出す。ついて行く身にもなれよ、そう呆れつつスマホ片手に三國谷は後に続く。

 それから三國谷はカメラのフレーム越しに大正娘の姿を捉える。灰殻街とは擬洋風建築物もセットで撮ってナンボなので、恰も大正娘を風景の一部のように切り取る。そうこうしている内にどんどん三國谷も楽しくなってきて大正娘には内緒で何枚かわざと失敗させ、手持ちカメラで撮る愉しみに耽る。手ぶれピンぼけが生み出す臨場感ってやつ。

 コロニアル様式のベランダがある洋館。

 八角形の塔屋。

 内部は螺旋階段になっているらしい尖塔。

 凹凸に富んだ外壁やドーム状の屋根。

 内装がアール・ヌーヴォーの薫り漂う和洋折衷の建築物。

 外壁のみは当時のままで内部を改装するファサード保存化された建造物。

 外装や内装を変えずに耐震補強された免震レトロフィットの建物。

 法律と云うか条例と云うか、そういう風にされてるだけあって色々と策を講じ建物を残す努力をしているらしい。

 大正娘を追って観光旅行さながらに写真を撮っていると、近代和風建築の温泉街を通りがかり、大正娘の同族をちらほら見かけた。恐らく京都の舞妓さん的な感じなのだろう、この街では。もっとも京都で出歩いている舞妓さんの殆どは本物ではないらしいが、この街の大正ロマン風な服装もその類なのだろう。ハイカラですねってやつ。だから誰も大正娘の格好にツッコミを入れないのかと納得する。

 大方撮影したので終いにしよう。そう提案しようとした時、それなりの距離を歩いたのに軽い足取りの大正娘がくるりと身を翻し、あざとい目つきで、

「少年、お腹空かない? 空くよね、空け」

「脅迫かよ」

 ぐー。

 果たしてばっと腹を押さえたのは、大正娘。

 頬に紅を散らし、唇を噛み恨めしそうに睨む。

 どうするか、答えはとうに決まっていた。


       ⑨


 喫茶店だと思う。店名は海辺のカフェ、事故が起きる前までは洒落になっていただろう。扉を開けた拍子に呼び鈴が鳴り、店内に入ればジャズがBGMとして出迎える。情勢が情勢なので客は自分達だけで、後はカウンターに店主と思しき男性が一人いるだけ。

「いらっしゃい」

 マスターと呼びたくなる風貌の口髭を蓄えた壮年に会釈し、二人は奥の窓際テーブル席に向かい、彼女が袴を気にしてお尻の方を押さえながら着席したのが目に映える。お冷を持って来た店主に会釈しつつ、小洒落た薄いメニュー表を見る。

「ビフテキまであるのか……」

 ファミレスじゃあるまいし。まあ自分はカルボナーラを頼むが。

「私ビステキで。お酒も頼むけど、少年はどうする?」

「……」

 正面でぽかんと返答に窮する三國谷に気付き、「ん?」と小首を傾げる彼女。須らく昼間から飲酒しようとしている、未成年のくせに。キャラ作りが本格的過ぎるだろ。これが天然か。

 結果、お冷を飲みつつ懇切丁寧に法律を説明し事なき終えた。

 よもや、あんなに目を丸くして静聴されるとは思わなかった。そして共に烏龍茶を頼んだ。

 料理を待っている間、店主がカトラリーケースを置いてくれた。「蓄音機じゃないんですね」と呟く彼女に、店主は「骨董品ですから、中々手に入らないのですよ」と返す。

「ね、すまほって映画も撮れたりするの?」

「映画っつーか動画が撮れるな」

「じゃあ撮って」

 どうやら撮影にハマったようだ。店主から撮影の許可を貰い、ケースに立て掛け撮影開始。魚眼レンズを装着したカメラに彼女が映る。

 暫くして、船じみた皿に盛られたカルボナーラと洋風の丸い皿に盛り付けられたビフテキとライスを店主が持って来て「どうぞ」と机に並べる。三國谷は会釈し、彼女は「有難う御座います」と笑顔で礼を言う。彼女の場合は愛想笑いに見えないから不思議だ。

 彼女は癖なのか、髪を一房だけ耳に掛ける。その仕草に視線を誘導され、妙に色っぽく見えたのは目の錯覚だろう。だって今や彼女はご馳走を前にしたように爛々と瞳を輝かせ、フォークとナイフを握っているのだから。

 さて自分も食べるかと卵を絡めたパスタをフォークで巻き巻きしていると、

 カチャカチャカチャ。

 彼女がナイフで肉と格闘していた。肉汁が溢れる。右のフォークで牛肉を突き刺して固定し、左のナイフで切断を試みるが上手くいかず皿が耳障りな音を立てる。

「この小刀、切れない……」

「……じゃあ右手に持ってる物は?」

「熊手」

「ふ」

 素で小さく吹き出した。駄目だ笑う。

 むっと眉を寄せ睨まれるが構わず一頻り小笑いしてから、何とか笑いを噛み殺す。 

「貸してみ」

 彼女は素直に応じた。いつも今くらい殊勝だったら良いのに。

 手早く一口サイズにカットし、

「あーん」

「……」

 顔を突き出し目を瞑り雛鳥のように待ち構える彼女、黒い瞳が目蓋に隠れると、より一層あどけない顔に見える。おまけに間抜けな程ぽけっと口を開けている。

「自分で食え」

「……少年のいけず」

 彼女は膨れたが、肉を頬張れば機嫌を直した。カルボナーラを咀嚼し卵の甘みと胡椒の辛味に舌鼓を打つ三國谷は、ほっぺたが落ちそうと言わんばかりに肉を食す姿を眺め思う。

 久しぶりの外食で気が緩んだのかもしれない。

 ――こうしてれば可愛げがあるんだが。

 と、視線にはたと気付く彼女。

「ん、少年も食べる? 食べるよね、私にもそれ一口頂戴」

「食い意地張りやがって」

「そう言わずに、はいっ」

「ライスかよ。……それはしゃもじ?」

「ハー、ハッハッハ。ヒーッ、ヒッヒッヒ。匙よ、見れば分かる。しゃもじな訳ないでしょ、ばーか」

 意趣返しのつもりか、しかも大きな声で変な笑い方と共に。

 第一印象は楚々とした少女だったのに、今では明朗快活なお転婆って感じ。

 その様を、カウンターで読書をしている店主が祖父みたいに眺める。

 今度は三國谷が渋面をする番。

「嘘嘘、切り分けてくれたお礼に胡椒が濃いとこあげるから」

 三國谷を真似てフォークでぐるぐる巻きにしたカルボナーラを口にし、頬を緩めながら嚥下する彼女を正面から眺めつつ、三國谷は口中に広がるビフテキの歯応えと肉汁及び胡椒の味わいと匂いを愉しむ。

 窓から街路樹の木漏れ日が差し込む昼、葉っぱの形をした影が顔に差し、光と影の中で二人は食事をしたのだった。


       ⑨


 因みに代金は割り勘、何でも大正娘は母からお駄賃を貰っているらしい。

 昼食後、大正娘が切り出す。

「少年、ちょっと行きたいところがあるんだけど」

 何でも人探しを手伝って欲しい、というお願いだった。そんでもって本日の外出の本命はこっちで、観光みてえな撮影はおまけなんだと。だったら何で撮影を先にしたんだと思わずにはいられなかったが、既に乗りかかった船だ。こうなったらとことん付き合ってやろうと決めたものの、

「爺さん探すっつってもな……」

「お爺さんじゃなくて、知り合いのおじさん。そりゃ年齢的にはお年寄りだけどね」

 取り敢えずスマホで第二区都内にあるお年寄りが居そうな場所、要するに老人ホームを検索する。歩道のど真ん中で突っ立って、大正娘が前からスマホを覗き込み画面が影に埋もれる。

「うわ、結構あるんだね」

「言っとくが、必ず見つけられる保証はねぇぞ。民家に住んでる場合もあるだろうし、下手すりゃ入院してたりとか、最悪もう死、」

「それでも!」

 急に大声を出されたので面食らう。食い入るように顔を上げた大正娘はしかし、誤魔化すようにへらっとにやけ、

「せっかくだから会いたい……と思う」

「あ、そう。……てか、お前記憶思い出したのか?」

「え!? っうん、そう。ちょっとだけなんだけどね、うん少しだけ。その人の事、だけ」

 大正娘の声がみるみる内に小さくなり、最後は吐息と共に零す。目を伏せ、俯きがちの表情を三國谷は見た。何かに怯えるような、哀しみが仄かに滲む、そんな顔。

 何か言わなければならない、三國谷はそう思う。

 口を突いて出た言葉は、

「まあ、やるだけやってみるか」

「…………ありがと」

 ぽつりと声が落ちる。三國谷が初めて見るしおらしい姿だった。何一つ気の利いた言葉が思いつかなかった。何かこう忸怩たる思いに駆られ、三國谷は大正娘を素通りしながら、

「ほら、さっさと行くぞ」

 そっと尻目にすれば、大正娘が幼子のように後ろをついて来た。隣には並ばない。背後で鳴る足音を聞きながら、三國谷はふと空を仰ぐ。厚ぼったい雲の狭間に青空が見え、視界の隅っこをスカウトヘリの赤灯が滑るように移動していく。

 ――何に落ち込んでるんだ、俺は。分かんね。

 三國谷は柄にもなく後悔し、地図が表示されたスマホに視線を逃したのだった。


       ⑨


 もはや西日がビルに突き刺さる夕刻だった。

 結論から言って、件の爺を探し当てる事は出来なかった。爺の名は四十万茂、生まれは明治28年3月15日、西暦1895年生まれという事。没年は分からない。大正娘曰く祖父がお世話になった人らしい。

 そもそもこれっぽっちの人的情報で発見出来る訳がなかった。今でも苑都に住んでいるかも怪しく、この場合は親族を当てにするのも叶わん。しかも面倒事が一つあり、それは言い出しっぺの大正娘が老人ホームを尋ねて回る際に自分から聞き込みをしないというヘタレっぷりを発揮したのだ。そのせいで三國谷が口頭でホーム長に四十万茂さんについて訊く羽目になった。

 第二区九原市内に点在する老人ホームを何とか一通り当たってみたものの、惨敗。

 そんなこんなで、住宅街の路地をとぼとぼ歩く二人。夕暮れを背景に前に伸びている自分の影を見遣り、ほとほと疲れ果てて重いため息を吐く。もう足が痛い、途中で路線バスや路面電車を乗り継いだとはいえほぼ一日かけて歩きっぱなしで汗臭えし、何より徒労感がピークに達しそう。これ程カスリもしないと何やってんだろ俺という倦怠感にも襲われ、思わず欠伸を噛み殺す。

 ふと思い立つ。振り返る。未だ連れ立って歩こうとしない大正娘を認める。編み上げブーツを履いている。

「足、大丈夫か?」

「え? あ、うん。平気」

 そう言う割には明らかに疲弊している、というか三國谷の目に狂いがなければいっそ憔悴しているようにも思える。

「ごめんね。手間かけさせちゃって」

 三國谷の背後をキープする大正娘は事もなげに表情こそ綻んでいるが、その声からすっかり気が弱ってしまっているのが丸分かりだった。

 山吹色の夕日を背景に逆光の影に埋もれる顔は、それ故に仔細に窺えない。感情の機微を読み取ろうとするより早く、

「今日はありがと。もう気は済んだから」

「……本当に、それでいいのか?」

「うん」

 こくんと頷き、ブーツを硬質的に鳴らしながら歩み寄る。三國谷を素通りし、その横顔に一瞬だけ翳が差したのを目敏く見た。

 ――全然よくねぇじゃん。

 三國谷は妙な苛立ちに突き動かされるまま振り向き、

「おま」

「というかさ、そのお前って言うの止めてよ。私にはちゃんと雨音って名前があるんだけど」

 出掛かりを被され、しかも図星だったので押し黙る。半身だけ向き直り覗き込むようにじろりと見つめ不貞腐れる大正娘を前に、三國谷は目を泳がす。

 言外に踏み込むな、と線引されたような気がした。

 まあ所詮他人だし、そんなもんだろうと思う。

 と、そこですぐ傍に建つ一軒家の標識を見て、ええいままよと口走る。

「雨宮」

「はい?」

「だから、雨宮……でいいだろ」

「は?」

 目を丸くして口をぽかんと開けたまま素っ頓狂な声を上げた雨宮は、数秒ほど静止してからこれ見よがしに溜め息を吐く。甲斐性なしを見るような目つきで、

「もう、それでいいよ。これだから少年は」

 はっきり気色ばむ雨宮は、わざとらしく足音を大きく立て歩き出す。立ち尽くすのもそこそこに三國谷は後を追い、今度こそ隣に並ぶ。ちらと横目にすれば、唇を尖らせている。

 暫し無言で歩み、ふと、

「少年に呼んで欲しかったんだけどなー、名前」

 この女、素か。並の男だったらうっかり勘違いした後に先走って玉砕してるぞ、無論自分はイレギュラーだからそんな愚行は犯さないが。「何でだよ?」

「ん、だって私、自分の名前好きだから。雨音って良い響きじゃん」

 もはや既にその横顔には悲哀など微塵もなく、嬉しそうに頬を緩めている。そんな調子のまま二人は帰路に着いた。

 でも三國谷は知っている。この世には、声なき慟哭と呼ばれる物があるという事を。まるで昔の自分を見ているような、そんな気分。心の奥底で今でも時折じわじわと疼く心的外傷、殻の中にある魂の悲鳴――まあ洒落た錯覚だろうし、雨宮のそれは別種だろう。

 だけど。

 その日の夜、雨宮が風呂に入る瞬間を見計らいSNSでメッセージを送った。

『濡髪、今ちょっと時間大丈夫か? 折り入って頼みたい事があるんだが……』


       ⑨


 週明け、七月二十二日、月曜日。

 昨日は日曜日だった訳だが波乱万丈だった。居候だからと家事を手伝っていた大正娘がいきなり大泣きしたのだ。マジ泣きである。何でも「掃除や洗濯も機械がやってくれて、しかも炊事やお風呂の湯沸かしまで殆ど自動! このかっぷ麺なんてお湯を入れて三分待てばもう調理完了しちゃう! こんなの、私じゃなくても出来ちゃうじゃないですかぁ! 私頑張りますから捨てないで下さいー!」だそうだ。さしもの母も慰めるのに苦労していた。

 結局、「私、雨音ちゃんの作ったお萩食べたいなぁ。ね、万ちゃんもそうでしょ」で手打ちとなった。お萩は美味かった。

 閑話休題。

 三國谷と雨宮は登校早々に放送で呼び出しを食らい、昇降口で濡髪と別れ保健室に赴いていた。

 待ち構えていたのは、柳眉を逆立てる翅だった。

「三國谷と雨音君、登校早々に君らを招集した理由は無論分かるよな?」

 まさに蛇に睨まれた蛙である。三國谷は直立不動のまま、ビビって思わずしらばっくれる。

「遅刻はしてませんけど?」

「御託はよせ、しばくぞ」

「少年、大人しくお縄について」

 雨宮が真顔で何かほざいているが黙って受け流す。

 殺人光線を今にも撃ち出しそうな眼光に根負けし、情けなく白状する。

「言い訳をさせて下さい」

「却下だ。そもそも君には美縁が糸をつけていた、状況はおおよそ把握している。尾行もつけていたが、あいつらはもう絞ったからこの際どうでもいい。君のスマホのGPSも一秒間だけロストしただけ、小型カメラも盗聴器も総スカン。だから私の質問には正直に答えろ」

「少年、これ以上罪を重ねちゃ駄目だよ」

 雨宮が超真剣な顔で濡れ衣を着せてくるがシカトする。

 いつになく峻烈な雰囲気を発散しているのは、偏に未だ終わりが見えない治安維持出動における十傑衆第伍席としての責務故だろう。

 翅は足を組み換え、タイトスカートから生足を剥き出しにしている。つい目が引き寄せられそうになるが、手櫛で雑に整えた程度の前髪の下で目が据わり、飛ばされる針のような視線に串刺しにされているから煩悩なんて既に死に体。

「君が接触した桜冠不明殻式文法司は、やはり相当な手練のようだ。下校時の君の周辺でPT結界の高出力展開が確認された、だがその分析パターンは緑。竹冠による言技発現だった訳だが、これが何を意味するか理解出来るか?」

 早口でそう鋭く質問を投げつけられ、三國谷は存分に気圧されつつも答える。脳裏には、正気に戻った際に会った濡髪の姿が浮かぶ。

「……濡髪の分析パターンが緑、って事ですか」

「敵は彼のPT結界を利用し、自らのそれを偽装した可能性が高い。故に君につけた糸が反応しなかったとみている。前もって虱潰しに監視網をマッピングし街中のセンサーの抜け道を突いたとも言えるが、よもや乾闥婆の感知能力さえ欺くとはな。乙層通信塔もMagi clusterも連日フル稼働しているが、もし美縁が神経質に自分の感知情報を洗い出していなければ更に発覚が遅れていただろう。そもそも濡髪が言技《泥中の蓮》を『反転』発現させるなんて有り得んし、まさかそれで騙し切れるとは予想外だ。分析パターンはともかく、逃走の足跡は如何なる方法で抹消しているのか……。傷害事件に鑑みて、敵が複合殻式文法司である事はほぼ確実と言ってよかろう」

 混迷を極めた事態に対し、翅は目頭を押さえる。化粧気の無い顔で、乱れた髪の幾筋かが頬に掛かっている。大惨事が起きるやもしれぬ、ここ数日間の不安と緊張が翅を消耗させているようだった。

 敵は恐らく桜冠である三國谷と同じ桜冠不明の中邪で、これまた恐らく三國谷と同じ弐層帯、そう言いたいのだろうか。疑念が顔色に出て、それに対し翅は頭を振る。

「敵が何故わざわざ勘付かれるリスクを冒してまで君に接触してきたのか、その理由は今はひとまず置いておく。本当に問題なのは君だ――雨音君」

 唐突に名指しされた雨宮はびくっとする。ついでに三國谷も驚く。いや雨宮も呼ばれた以上何かあるのだろうとは思っていたが、この流れでその前振りはきつい。

 胸騒ぎがする。

 翅は眼光を些かも緩めず、一段と低い声で容赦なく詰問する。

「敵が分析パターンを偽装した直後、近辺で別のPT結界が検出された。しかも単一ではなく複数で、おまけに全く同じ座標からだ。ご丁寧にそのPT結界も巧妙に偽装されていた。おかげで苑都中のスパコンを並列化し解析する羽目になった、それでも結果が出るまで二日かかったが。幸い二種類とも分析パターン紅紫ではなかったがな。しかしこれはどういう事か、説明し給え」

 射竦められた雨宮は、無言。それは否定か、それとも。

 雨宮が弐層帯だとでも言いたげなそれだった。銀色の流体を顕現・操作するのが雨宮の言技である訳だが、それ以外にも発現可能な言技が別にあるのか。

 狼狽えたまま思わず割って入る。状況の急転に全くついて行けない。

「ちょっと待って下さい、話が見えて来ないんですけど。なんで雨宮が、」

「内殻器官が不活性な殻式文法司がPT結界を高出力展開する場合というのは、往々にして特殊なきっかけがある。何かしらの深層心理的な変化が起きた等がそうだ。雨音君、違うか」

 もはや質問ではなく確認だった。刃のような視線を投げられた雨宮は黙りこくったままで、翅と目を合わせたまま立ち竦む。瞬きもしない。が、三國谷は見た。後ろ手に持て余した掌を、ほんの微かに握り締めた瞬間を。

 翅が更に追い詰めようとし、

 三國谷が助け舟とも言えぬが取り敢えず何か声をかけようとした、

 その時だった。

 警報。

 校舎の部屋や廊下にいくつもあるスピーカーが、一斉に大音量の悲鳴を上げた。

 それは、例の男と相対した時に遠くから聞こえていたサイレンと全く同種のものだった。

 この場の全員がスピーカーを見上げるしかない。

 翅が舌打ちする。

「ふざけるなよ……!」

 椅子をひっくり返さん勢いで憤然と立ち上がり、気迫そのままに雨宮の方へ詰め寄り、

「ちょ、待」

 三國谷の咄嗟の制止虚しく、翅は、

 雨宮を素通りし、保健室の扉を思い切り引き開けた。扉が馬鹿でかい音を立て軋むのも気にせず、翅は頭をがりがりと掻いて枝毛が見える黒髪を振り乱し、

「確認する。君達は此処にいろ……!」

 般若も真っ青な横顔はすぐに視界から消え、荒々しい足音は遠ざかりやがて途絶える。ただでさえ寝不足のまま詰問状態でピリピリしていた翅の逆鱗に触れたのだ。

 サイレンは鳴り続ける。

 翅の剣幕を目の当たりにし、三國谷が度肝を抜かれたのも束の間、肩の力が抜け安堵のため息を漏らす。

 とにかく雨宮への追及は有耶無耶にされた。翅も立場があるとはいえ、いくらなんでも無理がある。状況証拠と推測だけで決めつけるのは質の悪い取り調べのようで焦った。

 サイレンは鳴り続ける。

 雨宮も肝が冷えただろう、ほんの少しだけ心配になって振り向き、

 そこには、恐怖があった。

 雨宮は顔面蒼白のまま無言でスピーカーを見上げ、唇が震えている。瞬間、雨宮は腰が抜けたようにへたり込む。目をこれでもかと見開き、只ひたすらにスピーカーを見ている。

 もしかして。

 思った。最悪の事態が起きたと思っているのかこいつは、と。

 三國谷は気付き、声を掛ける。

「大丈夫だ、」

 サイレンに掻き消されてしまわないように、大声を出す。

 たぶん間違いだぞ、そう言おうとした。

 雨宮の雰囲気が、がらりと変貌した。

 気付いた時には、三國谷は手を引かれて校庭に飛び出していた。跳ね起きた雨宮が問答無用で三國谷の手を掴み、有無を言わせぬ勢いで床を蹴り、校庭に面した戸口を力任せに引き開け、雨宮は来客用の緑色のスリッパを蹴飛ばすように脱ぎ捨て裸足のまま地面に踏み込み、三國谷は爪先が青色の上履きの靴底に土塊をくっつけながら引き摺られるように走る。

 サイレンは鳴り続ける。

 だだっ広いだけが取り柄の校庭を、朝焼けで浮き彫りになる二人の影が突っ切る。

「雨宮、おま、ちょっと待――」

 転ばないように懸命に足を動かすのが精一杯で、それより先の言葉は出ない。袴のくせに雨宮はそれを一切感じさせないような足取りで駆け、とんでもない速さでみるみる内に防空壕シェルターの威容が視界内で大きくなっていき、それこそあっという間に隔壁の前まで辿り着いてしまった。

 隔壁が手前にせり出して開き始めたのは、ほぼ同時だった。

 ようやく足を止めた途端に息切れで思わず片手を膝に突き喘ぐ三國谷をよそに、隔壁が滅茶苦茶に分厚い断面を晒した。

 居ても立ってもいられない風に雨宮は繋いだ手を更に強く握り、土と砂で汚れた足で内部に踏み入れる。

 それに連れられて三國谷は這いずるように立ち入れる。

 美縁が開けたのかと思ったのは一瞬で、すぐに違うと悟る。そこらじゅうの回転灯が黄色い光を振り撒き、警戒態勢である事を告げているから。

 突然、腹の底に響く重い震動が空気を震わせた。

 驚いて振り返れば、ぎりぎり人が通れる程の隙間があった重厚な隔壁が今やぴったりと閉まっていた。

 防空壕シェルターの中は相変わらず冷房が効き過ぎていた。走ったせいで汗を掻いた三國谷は寒気を感じてぶるりとし、いつまでも我関せずな雨宮はようやく固く握り締めた手を放し、だがお構いなしに歩を進める。

 ようやく三國谷は、

「……あのさ、これは間違いだぞ。さっさと先生の所に、」

 雨宮は答えない。歩みを止めず、振り返らず、沈黙を貫いたまま。

 黄色い回転灯の光を受ける小さな背中を見て、三國谷の胸中に得も言われぬ不安が押し寄せる。今の雨宮の後ろ姿は、出会ってからの数日間で目にしたどれとも毛色が違っている。

 物怖じしてるくせに、表面上は平静を取り繕って、

「お前、聞いてる――」

 が、言い終わるより早く唐突に雨宮が振り返った。三國谷が初めて見る無表情で、これまでずっと閉ざしていた口をついに開く。

 流れた声は酷く凍てついていた。

「少年、もう見えてるでしょ」

 そいつらは忽然と姿を現した。

 いつの間にか雨宮を挟み込む位置取りで、二人の人間が立っている。一人は見知った奴だ。鈍色のヘッドギアで顔を半分覆い、乾いた唇と痩せこけた頬を晒す、あの男。

 もう一人は初めて相見える奴だった。ぱっと見では年端もいかない童女に見える。真っ黒い長襦袢を羽織り、朱い高下駄を履いている。肩口で切り揃えた黒髪は濡れたように艶を放ち、細い四肢や矮躯はぞっとするほど白く、端正な面貌は幼気な少女にも、不思議に妖艶な小娘のようにも見える。

 そして、少女と目が合う。

 瞬間、少女の綺麗なぷっくりとした唇が細く裂ける。無邪気な微笑で、口元に鋭い八重歯が覗き、

 閃光。色は青。

 三國谷の体が木の葉の如く吹っ飛ぶ。宙で放物線を描いて飛んだ三國谷の視界が激動し、天井が見えると認識した次の瞬間には床がひやっとする速度で近づき、体が一回転したのだと理解した時にはどさっと落下していた。うつ伏せで床に打ち付けられ、堪らず肺腑から全ての空気が吐き出された。肋骨が折れたと思える程の激痛に悶え、息が出来ない。只ひたすらに足掻くだけで悲鳴すら上げられない。涙が滲む。口から唾液が垂れる。手負いの獣じみた呼吸が自分の物とはすぐには理解出来なかった。

「少年!」

 霞む視界に駆け寄る雨宮を捉え、彼女がすぐ傍に跪いて抱き起こしても動悸が不安定で吐き気がする。青褪める雨宮は憤然と視線を転じ、怒鳴る。三國谷が初めて見る、本気で怒っている雨宮の姿だった。

「約束と違うわ! 少年には手を出さないって言ったでしょ!」

 ヘッドギアの男はカメラアイを興味深そうに動かすだけで、無言を決め込む。事もなげに三國谷を無力化した少女は梟のように小首を傾げ、きょとんとする。

「異な事を言うな、小娘よ。妾は、そやつにちと挨拶をしただけじゃ。なんせ妾は初対面じゃからの、いくら小娘の手付きとはいえ挨拶くらいしてもよかろう」

 あくまで持論を展開するだけで悪びれず、まるで親からの叱責に対し言い訳を弄する子供のようである。

 ここに至り、覆面の男が天井隅から見ている集音マイク付き監視カメラを数秒かけて眺め、モニターの向こう側にいる人間へ向けて目で物を言うような沈黙を挟む。まるで「チクったら、分かるよな?」と言わんばかり。しかも徐に片手を掲げ、虚空で何かを掴むような仕草をした。そのポーズの意味を三國谷は知らない。

 そしてレンズをきゅっと窄め、隣の少女を見下ろし口火を切る。

「千代、長居は禁物だ。葵さんはいいとして、じきに侑芽先生が嗅ぎつけるだろう。己との約束は守って貰うぞ」

「分かっとる、口煩い男じゃて」

 露骨に顔を顰めて口をひん曲げる千代の意識が男の方に向いているのを確認し、どうにか気息を整えた三國谷は囁く。

「雨宮、説明してくれ」

 ちょっとした発声だけで胸が痛み、しかし咳き込みそうになるのをぐっと堪える。果たして雨宮は肩を貸す三國谷を一瞥し、だが唇を噤むだけで答えない。

 そこに、少女の声。

「何をこそこそ話しておる、無礼な奴じゃな。……もしや小娘、己の素性を明かしとらんのかや? これはまた恩知らずな、そやつのおかげで存在出来ているようなものさね。ま、韜晦するよう命じたのは他ならぬ妾じゃが。そうじゃ……」

 少女、千代はニタァと愉快そうに嗤う。悪い事を思いついたと言わんばかり。

「折角じゃ、そやつに教えてやろうかの。そこの小娘が如何にして妾から言技を盗んだか。癪じゃが、中々どうして見事な手際じゃったよ」

「やめて!」

 三國谷の至近から切迫した声が上がり、途方もなく広い防空壕シェルターの壁を反響する。雨宮は日頃の暢気さなど欠片もない、堪忍袋の緒が切れたように情け容赦なく千代を睨めつけている。

 だが、その程度で千代は一切怯まない。一喝なんて何のそのな態度で告げる。

「小僧、気になったろう? 何故、小娘がお主の前に現れたのか。何故、小娘がそのような姿をしているのか。何故、突如として記憶が戻ったのか」

「それ以上言わないで!」

 悲鳴のような怒声が響き渡った瞬間、青の媒介が閃く。雨宮の矢絣模様の小袖の袖や瑠璃色の袴の裾から銀色の流体が一斉に飛び出した。恐るべき速度で床を這うように発射された流体は狙い違わず千代に殺到し、その矮躯をありったけの力で吹っ飛ばすなり押さえつけるなりする――その刹那、

 青色の光が弾け、黄色の回転灯を反射する流動体は虚空の只中で飛沫となって四散した。残滓は床に飛び散り、たちどころに形を失い用をなさない。流体が展開された青の光に触れた瞬間、飛散したのだ。三國谷は自分の目を疑う、だが眼前で起こった事は紛れもない現実だった。宙に稲妻じみた輝きを残して消える光、PT結界がその証左である。

 驚愕に打ちのめされる二人に構わず、千代は芝居がかった口ぶりで真相を語る。

「答えはとうに知れておる。三國谷万字、お主が、小娘の観測者だからかや」

 観測者、その単語を瞠目する三國谷は呑み込めない。どういう意味なのか、まるで分からない。それでも、すぐ隣で雨宮が息を詰める気配だけは分かった。ひっつく雨宮の体温が急にがくっと下がった気がするが錯覚だろう、これは意味も分からず自分の背筋が凍ったせいだ。

 二人とも別の意味で愕然とする最中、調子づいた千代は尚も愉しそうに真実を明かす。

「妾と小娘は、さしづめ意識の住人でありんす。観測者の認識次第によって有り様の不確定性を狭め、妾達から妾へより近づかんとする存在だわいな。妾達は宿主となる観測者を見定め、取り憑き、時間をかけて観測者の無意識を漁りながら定着し、そして観測者が認識しやすい形――大抵は人型で姿を現す、こう言った工程だがや。妾と小娘は何処にでもおるし、何処にもおらん。存在が確定したが故に、妾は小娘と分離し確立した訳よ。ま、小娘が今のような姿をしておるのは偏に妾の認識に依るところが大きいがの。さて、小娘が何故お主の前に現れたかについてじゃが、」

「千代、そこから先はおれが伝える」

 これまで棒立ちで静観していた男が不意に口出しする。話の腰を折られた千代は殺す目つきで一睨みしたものの、「よかろ」と許して黙る。が、むくれた表情は露わにしたまま隠す気もない。

 男が弁じる。

「三國谷万字、貴様の前に雨音が現れたのは何故か。それは貴様が欲したからだ、運命の出逢いさ」

「……」

「厳密に言えば雨音を、というより他人を、だな。廃墟で目覚めた時、貴様はこう思った筈だ。一人は良い、だが寂しい、と。とはいえ潜在意識の事であるから無自覚だろうが」

 男の言う通り全く心当たりがない。ようやく体の痛みが収まり、三國谷は懐疑的な眼差しで男の動向を注視する。疑念を汲み取り、男はこう付け足す。

「そうだな……、集合的無意識と言えば分かるか」

 集合的無意識、ユングが提唱したやつか。全人類の意識は奥底でそれに繋がり、個人の潜在意識の更に奥には人類共通の共有意識があるという考え方。神話や民話が文化圏がまるで違う地域でも似た内容になるのもそのせい、とか。

 そういえば――三國谷の脳内で別々の点と点が線で繋がる。似た話にシェルドレイクの仮説なんてものがある。全個体には同種族を繋ぐ見えぬネットワークがあり、一個体の記憶は全体にリンクしているとか。記憶や経験は種ごとのサーバのような場所に保存され、脳は単なる受信機に過ぎず記憶喪失が回復するのもこれで説明がつく的な仮説。グリセリンの結晶化とか。形態形成場の理論。

 ――下層の形態形成情報層。

 濡髪の講釈が脳裏を過ぎる。PT結界、内殻器官、言技使い、言技。ワードが頭の中で連鎖していく。雨宮の横顔をちらりと見る。自分が認識しているから雨宮は雨宮として存在していられる。他者がいるから自分を認識出来る。自分がいるから他者を認識出来る。

 鏡像段階論。

 頭の中が何とか整理出来た。大体分かったが、しかし。

 その疑問を読んだかのような間を空け、男は続ける。

「貴様はこうも思った事はないか。典型的な大正時代の女学生の格好をした雨音の事を何故誰も必要以上に気にしないのか、と」

 確かに何度も思った。だがそれは大正建築保護法という法がある街の住人だからこそ不思議に思わない筈で――気付く。あれは自分の勘違いだというのか、本当は限られた人間にしか雨宮が認識出来ぬからツッコミを入れる奴がいなかった。つまり、

「そうだ、大多数の人間は雨音を認識出来ない。仮に貴様が雨音と会話をしていても、傍からすれば貴様が独り言を喋っていると認識される。もっとも内殻器官が不活性でも言技使いの素質がある者であれば、大抵は認識可能だがな。姿形が見えぬ場合でも、音、声くらいは拾えるか。意識の住人は観測されればされる程その実在性を高め、唯一無二の存在として確立する。とはいえ千代を大勢に観測させるのは、それなりに難航したが」

「よく言う、誰が手間をかけさせたかの」

 人間の主観による観測者効果によって存在証明を打ち立て、その上で言技発現する中邪、それが千代と雨音。まるで噂話に尾ひれがついて都市伝説化する事で本当に存在してしまう怪異みたいだ。怪異である上に桜冠のPT結界分析パターンを偽装出来る千代、たとえ傷害事件を起こそうが追跡困難な神出鬼没の存在。恐らく廃墟で黒い骸骨を出したのも千代だ。ならば男と出会った燃える街、あの空間に自分を引きずり込んだのもそうか。

 つまり千代の存在をより強固に確立させるために、傷害事件を起こした。より大勢の他者に観測させ、全力で言技発現出来るようにするために。

 なら逆に自分の身近な人間でも意識の住人――雨宮を認識出来ていなかった奴がいた可能性があるのか。それが誰であるか詮索するのは今はよそう。それよりも大事な事がある。

 男と千代に目を走らせ、率直に問う。

「お前達の目的は何だ? 何で俺と雨宮を引き合わせた? 俺達に何の用がある?」

「図に乗るなよ、小僧。妾はお主などにはこれっぽっちも興味ありんせん。ただ小娘から力を取り戻したいだけじゃ」

「千代」

 目くじらを立てた千代はしかし一言で窘められ、疎ましそうに鼻を鳴らす。

「己も貴様には用事はない。そもそも己達はもう既に話をつけている、そこの女と」

 跪いて肩を貸す雨宮の強張りが、未だ体に疼痛が残る三國谷には手に取るように分かった。窺うも雨宮は今度は目を合わせようとすらせず、だんまりを決め込む。弁解も何もしない。

 一体いつだ。そんなタイミングなど――男と初めて会ったあの時。確かに三國谷はその時雨宮が何処で何をしていたか知らない。しかも、その後すぐに雨宮は突拍子もなく記憶を回復させ付き合ってくれと頼んできた。男の脅迫に気を取られていたとはいえ迂闊だった、何か様子が変だと察していた筈なのに。

「雨音の記憶の封印を解除したのは千代だ。己達の計画のためにも元に戻って貰う必要があった。……雨音、そろそろ時間だ。此処では邪魔が入るし、いくら己でも千代を抑えるのは骨が折れる」

「ペテン師め、粋がりおって」

 なら先程の防空壕シェルターへ駆け込む一連の流れも嘘なのか、全部。欺瞞なのか。

 男と千代の言葉は、三國谷の耳から抜け落ちていく。何故ならば。

 二人を見つめる雨宮の瞳の中で、何かが決断された。

 雨宮はゆっくり肩を離し無言で立ち上がり、踏み出す。一瞥もくれない。

 その小さな背中が一歩、また一歩と遠のいていく。

 矢絣模様の小袖と瑠璃色の袴が、長い黒髪が、菓子の包装紙のリボンが、その全てがもう二度と目にする事が出来なくなる。そんな予感が胸中を掻き乱す。

 叫ぶ。

「お前、本当にそれでいいのか! 全部、一人で抱え込むつもりか!」

 我ながら情けない声だと思う、それでも。

 三國谷の知っている雨宮は暢気で、どこかズレてて、間抜けなくらい天真爛漫で、どうしようもなく不器用だ。本当は全然気が済んでないくせに、もういいよ、と言っちまうような奴だ。

 待ってくれ、

 熱っぽい思考に突き動かされ、立ち上がり、

 冗談のように高く宙を舞う。視界がぐるりと回転し、PT結界の一薙ぎで横殴りの凄まじい衝撃を感じた瞬間、青の光に思わず目を瞑る猶予さえ与えられず吹き飛ぶ。三國谷の視界で黄色の回転灯が幻想的に乱舞し、気づけば防空壕シェルターの壁に思い切り叩きつけられていた。転瞬、音が消える。背中を強かに打ち付け、一瞬だけ視野が暗転する。

「…………か…………っ!」

 音が戻る。再び碌な受け身も取れずどさりと床に落ち、またもや為す術なく伏臥する。熱いくらいの激痛が全身を苛み、言葉が出ない。床に触れている掌の感覚が遠く、そのくせ心臓の鼓動や息切れのような呼気は鮮明に感じ、聞こえる。

 それこそ雨宮のか細い悲鳴さえ聞き取れてしまう程。

 苦痛で滲む視界の只中で雨宮は眼光鋭く千代を睨み、

「やめておけ。君の言技《明鏡止水》による液鉄は確かに強力だが、所詮は特定の波長によって凝固させられた流体金属だ。君のそれは元は千代の言技だ、今は無断で借りているに過ぎん。故に、干渉するためのPT結界の波長を千代は把握している。攻撃を仕掛けても、先程のように幾兆のナノマシン群の結合を悉く破壊されるだけだ。これ以上計画を妨害するようであれば、己(おれ)も約束を反故にするぞ」

「……っ」

 詰み、だ。桜冠に王手を指され、痛烈な脅しを食らい、雨宮は歯噛みし、震える両の拳をぎゅっと耐えるように握り締め、胸に秘めた激情その全てを必死に押し殺したのだと思う。

 二人が踏み出す。雨宮を素通りし、三國谷を歯牙にもかけず、隔壁へ向かう。少し遅れて、雨宮はついに踵を返し後を追う。雨宮の砂と土に塗れた裸足が視界に残像のように映る。

 待ってくれ、

「……あ、……」

 今にも薄れそうになる意識を必死に繋ぎ止める。くたばってる場合ではない。

 どうにかしなければ。

 だが自分に何が出来る。

 全く歯がたたない。

 せめて時間稼ぎを。

 でも一矢報いる力すら無い。

 為す術無く無力に見ているだけ。

 千代が重厚な隔壁を物ともせず破壊する。青の発光が鉄扉を歪め、強引に変形させ無理矢理こじ開けた。PT結界――粒子に干渉し、重力波を発生させる――《重力子制御グラビトン》。重い石を落としたかのような重低音が轟き、室内を殷々と反響し耳を聾する。夏の朝が照らす外界へ二人は悠々と去る。

 雨宮は朝日が差し込む出口で立ち止まり、妙にゆっくりと振り向き、陽光が長い黒髪を滑り、袴の裾が静かに揺れ、健気な目つき――

 静寂、

 間。

 最後に、声と息遣いがやたら大きく耳に届く。

「じゃあね、少年」


 雨宮は、困ったように微笑った。

 ほんの少しだけ、声に泣きそうな揺らぎを乗せて。


 それから、どれだけ床に伏していたか。記憶が曖昧で体内時計も狂いっぱなし。

 ――くそ。くそ、くそ……くそ……っ!

 躰の奥底から燃え上がるような熱情の渦が逆巻き、激昂寸前。自責の念と自己への怒りが混ざり合い、それらを迸る熱いパトスに焚べ全身が発火したようだ。

 雑魚なくせに庇われた挙げ句、やり場のない感情の嵐を放出させず。こんな時まで皮肉屋を気取るのか。それまでの自分の言葉が、思想が今、三國谷の胸を抉る。

 馬鹿で惨めで愚かだった。

 三國谷は、つんのめるように駆け出す。もつれる足を懸命に動かし、もはや既に誰もいない出口から飛び出し、無我夢中で校庭を走り抜け校外の歩道に躍り出る。遠くから翅の呼び声が聞こえたような気がしたが構わず血眼でぐるりと見回し、往生際悪く瑠璃色の袴を探し、

 そして見た。

 空の彼方から銀色の雨が降り注いでいる。

 雲一つない快晴であるにも関わらず、東の空はにわか雨に見舞われている。陽光を浴びて銀の雫は煌々と瞬き、しかし地に落ちるより前に中空で霞のように消えていく。それを只ひたすらに繰り返している。

 銀雨はお前の涙なのか。

 例え思い込みだったとしても、三國谷はそう信じたかった。

 走る。

 とにかくがむしゃらに走って走って走った。東の空を仰ぎ、突然の異常気象に対しにわかに沸き立つ戦防隊の防衛官も出勤するサラリーマンもOLも遅刻ぎりぎりで急ぐ学生も、誰だろうが容赦なく突き飛ばして走った。背後から上がる怒声や悲鳴を気にも留めず、赤色になる歩行者用信号機と横断歩道に何度も行き当たり、その度に路地を突っ走って青信号で急発進する車に轢かれそうになりながら、クラクションを背後に死に物狂いで駆け抜けた。何度も躓き、何度か転倒しても構わず立ち上がり、何度も地面に突き擦りつけた膝や掌が鋭く痛もうと意に介さず、不審がった防衛官に幾度か疾走を邪魔されても全力全速で振り切り、足が悲鳴を上げ始め、心臓が暴れ、風邪をひいたみたいに喉が痛くなり、腕や足の振りが鈍く遅くなり、思うように前進出来なくなって、己の不甲斐なさに苛立ちと絶望で気が狂いそうになりながら、

 家電量販店の屋上越しに辛うじて見える銀の雨が、降り止もうとしている。

 ――止むな、

 止むな、止むな、止むな、止むな、止むな、止むな、止むな止むな止むな止むな止むな止むな!!

 心の中で、張り裂けるような声で絶叫する。

 降り止んだら最後、完全に見失う。追いかける手立てが、縋り付きたくなる一抹の希望が、完膚なきまでに潰えてしまう。

 三國谷は、もはや火を噴くような目つきで銀雨を、言技《明鏡止水》を睨んだ。

 自分でも驚く程全く前に進んでいない。車道を行き交う車やバイクが恨めしいほど早く三國谷を追い抜いていく。そのうち音が遠くなり、自分の息切れしか聞こえなくなり、空の一点で朝日を反射する銀だけが目に焼き付き、

 流体金属の最後の一粒が、朝空の只中で無慈悲な終焉を示す輝きを残し、

 その名を呼ぶ。

「雨音!!」

 既に空の何処にも銀はなく、何事もなくいつも通りの朝が戻ってきていた。歩道のど真ん中で息を弾ませ滝のような汗を流しながら立ち尽くす三國谷を、通行人が何だこいつという目つきで見ている。が、当の三國谷にとって衆目は路傍の石にも満たぬ些事に過ぎず、雑踏の只中で未だに東の空を望むしかない。近くの公園に停車する通信車周りが未確認な言技に色めき立ち、日常と非日常の板挟みになりながら何処を凝視しても無情にも銀色は見当たらない。

 待ってくれ、

 みっともない懇願だと自分でも思う。それでもと追い続けて、結果はこのザマ。

 何も出来なかった。むしろ護られた。

 三國谷の頭にタールのような絶望が満ちかけた時、

 ぷつん。

 突然、意識が朦朧と混濁し途切れた。

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