参 交錯
放課後。
横断歩道を前に二人は足を止め、小さい影は隣の大きな影に埋もれて一つになる。青信号で車道を行き交う車のエンジン音が二人の沈黙を際立たせ、ふと思い立ってスマホのワンセグを立ち上げる。
案の定だった。
『――鎌倉です、苑都高速計劃サービスエリアから中継でお伝えします。ご覧頂けますでしょうか、大変な渋滞です。第三・第四区へ疎開する車の大渋滞が発生しています。現在時刻は私の時計で十七時四十五分ですが、中継のためにこちらに到着した十五時頃から、車の列は全く動いておりません。車を捨てて徒歩で脱出を図る人々が後を絶たず、戦防隊は放置された車の撤去に追われています。つい先程も、急病人を搬送しようとした戦防隊の車両を人々が取り囲み、渋滞の解消を求めて激しく詰め寄る光景が見られ――』
空撮映像に切り替わる。高速道路は夥しい数の車両で溢れ返り、その車列はカメラを何処までパンアップさせても途切れない。
車道を走る乗用車とトラックがそれぞれ停車し、LEDの歩行者用信号機が青に切り替わる。横断歩道を渡ろうとスマホをポケットに仕舞いかけ、右の靴紐が解けているのに気付く。
「持っとこうか?」
「ああ、悪い」
一旦スマホを大正娘に渡し、しゃがみ込んで靴紐を蝶々結びにする。肩に引っ掛けた鞄がずり落ちそうになって、ぐっとかけ直す。結び終えて立ち上がり様に、
「ありが――」
硬直。
世界が、変貌していた。
暑い。熱風と輻射熱のせいだ。
目に焼き付くのは炎の色と、変わり果てた街の姿。
耳鳴りのようなサイレンが聞こえる。
焦げ臭い。
全て燃えていた。
「何だ、これ……!」
息を呑み、思わず咳き込む。辺りは何処を見ても黒煙や白煙が立ち込め、地を這うように炎が延焼している。炎が目に痛いくらい明るく見えるのは、空が宵闇の黒に取って代わっているからだ。三國谷はいつの間にか夜間の瓦礫の山に囲まれていた。
その山の向こうから一際大きな火の粉が噴き出し、夜闇に紅を散らす。
だから気付いた。
瓦礫山の頂点に、人が一人立っている。
燃える街において不自然な立ち姿で、それこそ三國谷と同じくらい場違いだった。炎の逆光を背負い影の塊のようになっているそいつは、無言。表情も何も、驚愕に打ちのめされた三國谷の目には捉えられなかった。
地に根を生やしたように立ち尽くす三國谷を前に、そいつはゆっくりと振り向く。堪らず足元の瓦礫が小さく崩れ、拳大の礫が斜面へぽろぽろ落ちていく。瓦礫山から折れて煤けた電柱が生えるように突き出て、電線をだらしなく垂らしている。
そして、跳躍。
目にも留まらぬ速さとあり得ない高度で空中に躍り出た。足元の瓦礫が衝撃で弾け飛ぶように四散した。夜の宙の只中で光の巨人の如く旋転し、三國谷から程よく距離を置いた前方に着地した。
そいつの「仮面」と目が合った。
そいつは顔の上半分を機械仕掛けのヘッドギアで覆い、素顔を隠している。鼻から上を完全に覆い尽くし、こちらを見据える目は人のそれではなく無機質なカメラアイ。漆黒の外套を羽織り、何一つ素性が知れない。
砕けた路面に開いた穴に水溜りが出来ていて、そこに三國谷と謎の男が逆さまに映り込み、水面が揺蕩う度に映る姿も蜃気楼の如く揺らめく。周囲三六〇度、夜風に煽られ盛大に火の粉を飛ばす火災と崩れ砕けてうず高く積もった瓦礫の狭間で、三國谷と謎の男は無言で対峙している。
何処かでサイレンが鳴っている。
沈黙を先に破ったのは、三國谷。
「……お前は一体、誰」
速攻。
言い切るより数段早く、男が踏み込む。少なからず液状化した路面を踏み砕き、飛散した破片が地面に落ちる頃にはもう三國谷の懐に飛び込んでいた。
拳。
容赦なく振り上げ、顎を正確に狙う。骨を粉砕するはおろか頭ごと吹っ飛ばす勢いのアッパーが高速で迫り三國谷は一発で仕留められる――筈だった。
強烈な拳打は、豪快に空を切る。
三國谷はものの見事に躱していた。三歩ほど後退している。動いた拍子に鞄が肩から落ちた。驚愕のあまり瞠目したのは果たして、回避してのけた三國谷の方だった。体が勝手に動いたような気がした、それ以上の事は何も分からない。そもそも何故この男は急に、
それより先の思考は強制的に中断される。
追撃。
男は回避されたと察するやいなや、すかさず間合いを詰める。機械の目が睨む。振り切った左手を戻しながら、空いた右を鋭く突き出す。矢のように飛んだ正拳突きはしかし、またしても風切り音を虚しく刻むのみ。
二度目の回避だった。最早まぐれではない。何故こんな事が出来るのか、その原因を突き止めるのは叶わない。男の猛攻が始まった。推理する暇すら与えられず、三國谷はぞっとするスピードで殺到する連撃を必死に躱し続ける。
周囲で苛烈に燃える炎の光が、虚空を穿ち続ける拳の速度を影として地面に映し物語る。片や慌ただしく、片や冷徹なほど素早く隙なく攻め立てる。汗の飛沫が散る。もはや輻射熱によるものなのか冷や汗なのかすら考える余裕も時間もない。息も絶え絶え。心拍数が急上昇していく嫌な感覚に追い立てられるようにして、三國谷は瞬き一つせず目を見開く。血眼で男の動きを追う。あわやというタイミングで躱した八手目の右拳が宙を突き、耳元で空気が唸る。一瞬だけ気が散り、隙。九手目の左拳を躱しきれず、肩口を擦過し刺すような痛みが走って堪らず体勢を崩す。
その機を逃す男ではない。間髪を入れず踏ん張り、力を込める。
左側によろけた三國谷の頭が下がり、総毛立つ。膝蹴りがぶち込まれる、
こけた。
額をぶっ飛ばされて視界を無理やり上向きにされたのかと思ったが、違う。飛散する汗の玉が火の粉を反射して血飛沫に見えた。ぼろぼろにひび割れた真っ黒いアスファルトに開いた穴に引っかかり足を踏み外した瞬間と、男が膝蹴りをお見舞いしたのは奇跡的に同時だった。すんでのところで危うく命拾いした三國谷だったが、為す術なく尻餅をついて後ろ手に両手を突き、掌を擦る痛みを感じつつ何とか仰臥は避けたものの、
致命的な隙だった。
膝を打ち上げた姿勢の男、三國谷からして脹脛越しに見えたヘッドギアのカメラアイが冷酷に照準する。
やられる。
そして、跳躍。
たった一跳びで馬鹿げた高度の放物線の頂点で宙返りし、傾いだ信号機を飛び越え、難なく距離を取って当たり前のように着地した。
そして男は、またしても無言。ただ突っ立っているだけなのに気配が全く読めず、何を仕出かすか分からない恐ろしさを感じる。夜闇を照らす炎の照り返しを受け、ヘッドギアが鈍色に輝く。
ひとまず攻勢に一区切りついたと思考しつつ、三國谷は油断なく立ち上がる。尻餅をついたせいでズボンが濡れて尻が冷たく、咄嗟に突いた掌がひりひりと痛い。視線こそ寄越せないが間違いなく擦り剥いている。ここに至り、ようやく三國谷は背中や胸元に脂汗をびっしょり掻いている現実に気付く。否、これは現実なのか虚構なのか。動悸が早く、まるで短距離を走り切った直後のように呼吸が不規則だ。
炎上で木材か何かがぱちぱちと弾ける音だけが、二人の沈黙を埋める。視線を交錯させるが、カメラアイのレンズは鏡のように見つめ返すだけ。
束の間、
男の唇が動く。
「よもや既に《第弐多肢型限定フ化》していたとは。……いや、貴様の場合は少肢型、と呼ぶべきか。どちらにせよ《第参盤式ヨウ化》するのも時間の問題だな。しかし貴様の事だ、おいそれと素直に内殻器官を活性化させるとは思わんが、それでも予測計算を凌駕する自己変態力だ。千代のリークも存外当てにならんな。だが、少なくとも計画に支障はない、か。全ては毒蛾のプログラム通りに」
男は、嗤う。
カメラアイがつぶさに観察するが如く窄まる。口を挟ませる隙間すら作らず、低く芯の通った声で饒舌に語る。
「三國谷万字、流石と言っておこう。やはり
三國谷は、煙に巻くような独り言にふと生まれた切れ目にすかさず滑り込む。
「お前が、桜冠不明殻式文法司なのか?」
果たして。
真意の読めない間、
「肯定だ、しかし否定でもある。何れ分かるさ、何れな」
含みを持たせた口ぶりではぐらかし、男は爪先で路面の裂け目を軽く突く。
瞬間、二人の間合いをでたらめに横切る亀裂から炎が噴き上がった。凄まじく巨大な炎の幕で男が見えなくなり、突然の熱風と輻射熱で三國谷は思わず両腕で顔を庇う。髪が煽られ、じりじりと後退ってしまう程に体が熱くなる。傾いだ信号機が炎に呑まれ、焼け落ちて大きな音を立てる。
両腕の隙間から見える滝じみた炎の幕の向こうから男の声がする。
「情報には対価が付きものだ。貴様の言技情報とトレードして、己達の蓄積情報を貴様に渡す。それを第三者に流しても構わんが……、良い事を教えてやろう。隠匿すべき事実をチクって許されるのは、小学生までだ」
突如、炎の幕が壁の如く倒れ込む。瀑布さながらの物凄い勢いで三國谷の頭上に流れ落ち、視界一杯を熱量の赤が埋め尽くし、悲鳴を上げる間も無く、
「侑芽先生によろしくと、人喰い蛾が言っていたぞ」
「はっ……!」
目を開ける。
そこには白線と黒い路面の縞模様の横断歩道があった。歩行者用信号機は青く、点滅すらしていない。西日が遠間のビルの窓に鋭く反射している。車道には排気音を響かせるトラックとアイドリングストップで静かな乗用車が停車し、赤信号が青に変わるのを待ちぼうけている。
――俺は確か炎に、
「少年、早く渡ろうよ」
びくっとした。喉だって我知らずひくついた。ばっと見れば、大正娘が奇妙そうに見上げていた。
「何? どしたの?」
「……俺、さ。今どのくらい此処にいた?」
「ん? どのくらいって……靴紐を結んでから? 一秒くらいじゃない? 少年、変なの。あ、変なのはいつもか」
軽くdisる大正娘に対抗する余裕もなく、先に横断歩道を渡る小さな背中をぼんやりと眺める事しか出来ない。ふと思い出して掌を見る。掠り傷一つとして無く、火傷もない。シャツもズボンも汗でずぶ濡れではない。すぐ傍に鞄が落ちている。取り敢えず拾って肩に掛け直す。どれだけ体を検めても先程の痕跡は一切見当たらず途方に暮れる。
今のあれは幻だったのだろうか、だとするとあの男も架空の人物なのか。
何一つとして分からない。そうこうしている内に信号は赤に変わり、車道を車が行き交う。向こうの歩道で大正娘が「何やってんだあいつ」という顔をしている。一体全体何がどうしてこうなった。混乱する頭で何とか現状の自分を俯瞰しようとし、
「万字!」
見遣ると、そこには濡髪がいて手を上げていた。下校途中で会うとは奇遇だ。とことこ駆け寄り、小首を傾げ上目遣いをする。
「……何かあったの?」
鋭い。八の字を寄せて訊く濡髪を前にして悩む。濡髪は翅や美縁とも面識がある、ならば今あった現象の解明について協力を仰げるかもしれない。あれは間違いなく言技発現だろう。が、そこで三國谷は自ら待ったをかける。脳裏に男の言葉が流れたからだ。
あの男が最後に言った言葉はどう考えても脅し文句である。外部に漏らせば危害を加えられる可能性がある。自分や十傑衆として腕が立つであろう翅はともかく、濡髪や美縁に危険が及ぶのはまずい。ハッタリの場合もなくはないが――炎の幕。
三國谷はぎこちなく濡髪の頭を撫で、きょとんとする様を見つめながら、
「まぁ最近になって色々あったからな、心配してくれてありがとな」
「……っ、うん。困った事があったら何でも遠慮なく言ってね、たぶん力になれると思うから」
意気込むように胸の前で両手ガッツポーズを決める濡髪、そこはかとなく頬が紅潮している。容易に誤魔化せたがチョロ過ぎて心配になってくる、護らねば(騎士感)。
結局、三國谷は火事場の一件を秘匿すると決めた。危機感を持たねばならぬとは思うが、今のところは静観する。時期を見て翅に密告出来れば良いのだが。人任せだが仕方ない、そう言えば日本勢アニメスタッフが海外勢と協力してオリジナルアニメを製作した時に中高生が世界を救う話をすると「ティーンは学校に行っている筈だろ?」と不思議がられたという話がある。要するに、そういう事だ。
歩行者用信号が再び青に変わり、今度こそ二人して横断歩道を渡る。すると、待っていた大正娘が何やら頑なに佇んで動かない。今は自分の事で手一杯だというのに、この大正娘ときたら。仕方なく声をかける。
「何やってんだお前……」
濡髪と二人して訝しげに見守る中、三國谷を見上げる大正娘の瞳の中で決意が漲った。ずいっと片手を差し出し、預かっていたスマホを示しながら、
「少年。明日、ちょっと付き合って欲しいんだけど」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます