弐 セカイ
その後、家路に着いた三國谷を待っていたのは衝撃の事実だった。
風呂で汗を流してから母に聞かされたのは、世界についての事である。
曰く、この世界には「言技」と呼ばれる異能が存在する。諺や故事、四字熟語をルーツとして発現する能力らしい。ここ苑劃都市はある種の学園都市として言技を使う者、殻式文法司が集い管轄している。それに加えニビョウカンという名の別種の言技使いもいるらしい。だが、それは正式名称で殻式文法司は専ら中邪と呼ばれるそうだ。
三國谷万字もまた中邪であるらしい。
「マジかよ」
「大マジよ、住民票にだって明記されてるんだから。覚えてないんでしょうけど」
どうやら母の中では自分は記憶喪失という事になっているらしい。三國谷としては事故った間に街並みや世界の常識が変わってしまっていて、訳が分からないのだが。
「本当に此処でしか寝られないんですか……」
隣で愕然と立ち尽くす大正娘の名は、雨音。十五才。
彼女の事なんざもっと分からない。彼女もまた記憶喪失とくれば、事故の女の子と同一人物かどうかの確認もままならない。そのくせ名前と年だけは一丁前に覚えてやがる。だが実際問題、母の中で三國谷は十五才ではなく十六才であり、高校一年ではなく二年であり、一年前から行方不明の中邪である。
帰宅後、母は誰かに電話を掛けていた。一年に渡り行方不明になっていたのだから祖父母、ましてや学校関係者だろうと思った。が、実際は一人だった。曰く
釈然としなかったが、もう疲労困憊だし、どうせ明日には分かるからと思って取り敢えずその案に従う事に決めた。
そして今、三國谷と大正娘は一階の和室にいた。目前には敷かれた二枚の布団があり、無論ぴったり隣同士である。初夜か。
「ごめんねー空き部屋ここしかなくってえ、万ちゃんの部屋はシングルだしぃ。安心して雨音ちゃん、そこのは童貞の中の童貞、ザ・ドウテイマンだから間違っても手を出して来ないわ」
何その特撮アニメみたいな呼称、誰もが知ってそう。
それを聞き、只でさえ風呂上がりで火照る大正娘が別の意味で赤面する。黒髪は湿り気を帯び、常より三割増しで艶艶と肩口から背中へ流れている。髪を束ねている常より少しだけ大人びて見え、おまけに首元の黒子が妙に色香を漂わせる。
「あ、当たり前です! そういうのはもっと、こう、段階を踏んでから何ですよ!?」
「何で俺がそうだって勝手に決めつけてんだよ……」
「ぼっちのくせに何言ってんのこの愚息、それにしても初夜みたいで良いわねドキドキしちゃう」
この親にしてこの子ありってか、酷い。
「ま、そういう事だからおやすみー」
大正娘、反論する暇さえ与えられずピシャリと閉められた襖を呆然と見つめる。が、そこからは早かった。ばっと奥側の布団に陣取り、その躍動で風呂上がりのリボンを掛けてない艶やかな長い黒髪が泳ぎ、部屋の隅から障子の付いたレトロでこじんまりとした衝立を持って来て、無理やり布団との間をこじ開けてどすんと置く。
「ここが国境だから! 境界線! 防衛線よ!」
「はい?」
突飛な言動に眉を寄せると、大正娘は畳み掛けるように、
「領土侵犯したら大声出すからね!」
何言ってんだこいつ。そんなに自衛隊初の防衛出動をさせたいのか。
「杞憂だ。そんな事したら怒るだろ、文が」
文は十四才の妹である。
「私だって怒るよ! 男女七歳にして席を同じゅうせず! とにかく、そういう事だから。おやすみっ」
言うが早いか、ぱっと布団に潜り込み背を向ける。もはや口を利かないようだ。こんもり盛り上がった布団を見下ろし、三國谷は途方に暮れて頬をぽりぽり掻き、
「電気消すぞ」
無言、即ち肯定である。
かち。
乳白色に水色を重ねた被せ硝子の照明が消え、視界が薄闇になった。完全なる闇ではない、襖の隙間から居間の光が細く差し込んでいるから。母も気を遣い静かにしてくれて、不思議な静寂だけがある。
敷き布団に寝転ぶ。目を瞑れば聴覚は無駄に鋭敏化される。そのせいで余計な音ばかり拾う。時計の長針がかちりと進む音、外で何かを追いかけているパトカーのサイレン、居間で流れるドキュメンタリー番組のバイオリン劇伴、ほんの数十センチ隣から微かに聞こえる女の子の息遣い。
沈黙。
ドラマティックもクソもない、現実の日常の中で寝そべる他愛もない就寝時の静けさだけが此処にある。
わざとらしく掛け布団に包まり、有り体に寝返りを打つ。眠る前というのはどうしようもなく色んな思考がぐるぐる回るもので、衝立の向こうに大正娘の気配を感じ、思う。
彼女はどう思っているのだろうか。何を考えているのだろうか。自分は別にそうでもないが、果たして名前と年しか思い出せない彼女は不安ではないのだろうか。
なんて思っている内に疲れがどっと溢れ、溶けるような微睡みに落ちていく。
「……少年」
夢現の耳で、大正娘の声を聞いた気がする。
「よく分かんない事ばっかりだけど、助けてくれて、ありがと」
⑨
一体どれほど昔の事だったか、ひぐらしの鳴く夏の夕だったと記憶している。
その女は齢十五もいかない程の、下手すれば年端もいかない童女のように見える奴だった。
そんなのが何の因果か、廓にいた。まだ遊女になるには早いと奇妙に思ったが、盛況ぶりを見て得心した。客が立て込んでいるため姉さん女郎の名代として居るのだろう。
しかしまあ、現在ではあり得ぬ事だが数年後にいざ水揚げされるとなれば、この女はさぞや可笑しな反応をするのだろう。そんな想像を掻き立てられるような女、それが第一印象だった。大方家族のために身売りしたと見受けられるが、はてさて。商家に拾われたものの旦那が借金を作って夜逃げし行き場を失くした果てに売り飛ばされた、なんて話も風の噂で小耳に挟んだ事もあるが、あの女はどちらであろうか。
ほんの少しだけ気分が高揚した。好奇心は何とやらを殺すとも言う。
川端にずらりと並んだ廓には呼び込みや嬌声が飛び交ってがやがやと猥雑の様相を呈し、夕闇が迫りし刻に合わせガスの街灯や提灯がぽつぽつと灯る中、着飾らされた女は籬(まがき)の向こうでかちんこちんに固まっていた。
中々どうして似合っているではないか。今はまだ客を取れんものの、元が良いのも相まって人目を引く。でも、なにせ愛想が無い。せめて愛想笑いでもしてればいいものを、女は生真面目に正座したまま禄に身動ぎもせず俯きじっとしている。
そして。
店の通りをある一団が通り掛かる。
どいつもこいつも若い奴等である。スーツに吊りバンドにネクタイ、髪は油で固めている。ロイド眼鏡を掛けた奴もいる。何処が良いだの彼処が良いだの談笑している。
が、その後ろを肩身が狭そうに歩く男がいる。一人だけあぶれて羽織袴である。
はてな、聞き耳を立てる。
何でもその男、旅館の跡取りらしく仕事に精を出すばかりで女っ気がちっとも無く、しかも見合いが来ても悉く首を斜めに振るばかりで煮え切らない。ついに業を煮やした友人達がこうして一丁気晴らしに色街に繰り出し、朴訥なその男を遊女に揉んで貰えば少しは好色漢になるだろうと気を利かせたらしい。にも関わらず、当の男はやはりと言うべきか乗り気ではないようで、頻りに目を泳がせ早く帰りたいと顔に書いてある。
ふと、目が合った。
男はぴたりと足を止め、女はびくりと目を伏せる。どうやら女も男を盗み見ていたらしく、よもや誰かの目に留まるとは露知らずと言わんばかりの反応だった。果たして男はじっと女を凝視し、やたら目を瞬かせる。
「仲介人、何やら笑わん娘がいるが」
ほう、事の成り行きを見届ける事に決めた。
先程のおっかなびっくりした様子はどこへやら、ぐいぐいと歩み寄る男。そのせいで女は終いには塞ぎ込むかのように俯き、男の興味が失せるのをひたすら待つ。
目を輝かせたのは妾だけではなく店先で声高に呼び込みをしていた仲介人も同じで、この機は逃せねえと流暢に女の身の上話を始める。これまでの女の人生などその目で見てきた訳でもなかろうに。有り体に同情を買ってたっぷり稼がせてやるかという魂胆が見え見えである。今はまだ見習いのちんちくりんだが育てばきっと兄さんのお眼鏡に適う上玉になると手慣れた様子で言葉巧みに印象付けようとするが、男は右耳から左耳に言葉が流れ落ちているような呆けた顔でずっと女を見ている。
さて、どうなる。
男は、言った。
「君、料理は出来るか?」
「え」
「料理は、作れるか?」
ぽかんとしたのは仲介人も同じである。立ち止まった男に気付き店先に集まった他の連中も何だどうしたついに春を買うかと、寄ってたかって行く末を見守っている。
女は、意表を突かれながらも訥々と答える。
「え……っと、でき、ます。一応、少しは」
「何が出来る?」
「ええと、そんなに大した物は……、お味噌汁とかよく食べる物なら大体……。あとは……牡丹餅、とか」
「掃除は? 洗濯は? 家事は出来るか?」
「は……はい」
ぼんやりとした顔から一転し、男は熟考する素振りなんて見せず決まり切った顔で仲介人に真正面から向き直る。
「仲介人、この娘を買う」
仲介人も男の友人達も一様にやっとかと嬉々とし、あれよあれよと話が進み――男がすっと掌を掲げ制する。
「いや、そうじゃなくて。買うんだ。僕がこの娘を雇う事にした」
まさか身請けとは。
言ったそばから男は目玉が飛び出る程の大金を出した。これから稼ぐであろう金額やそれまでの借金に祝い金など、いくら旅館の息子とはいえおいそれとあっさり叩ける額ではない。友人達はおろか仲介人まで目を皿のように見開き、だがそんな視線に晒されながらも男は淡々と手続きを済ませた。
女は、他人事のようにぼけっと眺めていた。
妾も含め誰もが狐につままれたような顔をするしかない。
やがて男は友人達に別れを告げ、この娘を家に案内するからと女の手を引いてその場を辞した。背後からの珍獣の目つきにも我関せず歩む男の背中を妾は追い、女は繋がれた手をぼーっと眺め幼子のように見上げる。
心ここに非ずという風に、
「……どうして、私を?」
男は歩を進めながら肩越しに、
「病で亡くなった妹に似ていてね」
⑨
夢を見たような気がする。内容は思い出せない。
阿呆みたいに深い眠りについていた三國谷の意識は、それを感じ取る。揺り籠じみた振動と、声。
両親は登校よりよっぽど早く出勤してしまうし、妹は言わずもがな。はて、何ぞ。
「少年、起きてよ。お母様が朝ご飯できたって」
聞き覚えのある声。
「男の人ってこんなに起きないものなの? やっぱり急所を狙った方がいいのかな?」
何やら不穏なワードを聞き取ったので、力づくで目蓋をこじ開ける。景色が酷くぼやけている。指をぴくりと動かす。腕を気怠げに持ち上げ、億劫げに目を擦る。寝ぼけ眼で滲む視界だが、歪んだ大正窓硝子から差し込む屈折した白い朝日だけがお構いなしに眠気をぶち抜く。
その光に包まれるように座り込んでいるのは、大正娘。
「やっと起きた。おはよ、早くしないと遅刻しちゃう」
「……んあ」
朝日が大正娘の背中に垂れる黒髪を滑り、三國谷の目を射る。それでようやく目覚め、もぞもぞと起き上がる内に大正娘はてきぱきと掛け布団を剥いで畳み始める。見れば、隣にあった布団は階段箪笥の前に畳んで置かれている。よほど好きなのか、寝間着の華やかな長襦袢から袴の大正スタイルに着替えていた。小袖を襷で縛っているのはそのためか、と今更ながら思う。旅館じゃあるまいし。
大正娘がぱたぱた動くものだから、時折乱れた袴から太腿がちらちらと見える。白磁のような足だ、つまり三國谷の眼球は磁気に引っ張られる次世代合金製の義眼だった。違うか、違うね。大正娘の足がエッなだけでした。
それにしても丈の短い袴だなと思う。袴という物はもっと長いと思っていたのだが、大正娘のそれは静止しても貝殻のような膝が見えそうな程短い。
「ほら、ぼさっとしてないでさっさと退いて。布団畳めないから」
「あ、ああ」
ひょいと立ち上がって避けると、手際よく布団を畳み終えた大正娘は三國谷を素通りしてリビングの椅子に座る。
モダンで瀟洒な椅子に座れば、机には麦飯と豚汁に漬物が添えられている。家の朝食はえらく質素になったと思いつつ、いや和食に変わっただけなんだけど、三國谷はのろのろ箸を手に取り、
「あ! ちゃんと頂きますしなきゃ」
すかさず注意され、おずおず合掌する。
「よし、私も頂きます」
犬じゃねぇんだから、なんて思ったものの正面の席でにこやかに笑む大正娘を見れば別にいいかとも思う。
そこで、麦茶を机に持ってきた母がにまにま笑う。
「何だか母と子みたいね、和むわー」
「こんな息子なんてこっちから願い下げですよー」
軽くあしらい、湯気を立てる麦飯を頬張る大正娘。
母が人数分のコップを配り終える。
「はい、マンジー星人」
「何だその、リゾート地としての植民地欲しさに地球侵略を企てて失敗する宇宙人みたいな名前は。俺が地味な奴だと揶揄してんのか」
「地味なところはお父さん譲りでしょ。私的には凶悪宇宙人と悪質宇宙人が好みだけど」
その時、階段から足音がしたと思えば居間に入ってきたのは文である。低血圧で寝癖を全く気にしないのは兄妹似た者同士である。寝起きでふらふらと隣の席に着き、ぼーっとしている。目元が赤いのは寝不足のせいだろうか。母と大正娘と三國谷と順番に見て、
「……」
無言で前に朝食を押しのけ、そのまま立ち上がり席を変える。三國谷と机を挟んで対角線上に座り直す。
「……頂きます」
きちんと合掌してから胡瓜の漬物をぼりぼり噛む。太腿が丸見えのショートパンツに薄紅色のキャミソール姿なのだが如何せん下着の紐が見えている、ズボラである。指摘しようか迷っていると、
「文ちゃん、肩」
母に言われ、剥き出しの肩をちらりと見て下着の紐を隠す。で、三國谷をちろりと睨む。への字口である。
この場で、台所でかちゃかちゃ片付けをする母とテレビのニュースキャスターの声と味噌汁を啜る音と大正娘の満足げな溜め息だけが三國谷の耳に馴染む。雨音さん、馴染むの早くないすか。コミュ力おばけかよ、あの割りと人見知りな文ですら特に気分を害してる様子が――ああ、どこぞの兄貴のせいで今朝どころか昨日から苛々してますね。何だよその兄貴、家のプリティでキュアっキュアなアスパワワ放出してる妹にストレス与えるとかマジぜってぇ許さねぇ。
環境音へと成り果てていた画面左端にBBLという局名がある報道番組の音が、今になって意識の上層へアクセスしてきた。
『お早う御座います。現在、午前七時を三分過ぎたところです。この時間は予定を変更致しまして、引き続き報道特別番組をお送りしております。
七月十九日、今日0時06分頃、第二区の東ブロック浪漫駅近くの浪漫館本通りで傷害事件が発生しました。事件発生からおよそ七時間経ちますが、現在も苑都防衛新法による第二級情報管制が解除されておらず、その詳細は未だ判明しておりません。現時点において容疑者は桜冠不明殻式文法司であり、単独犯であるという情報が入って来ておりますが、依然として逮捕には至っていない模様です。第二区塔庁は特設捜査本部を設置し、警備部が捜索範囲を拡げ、東ブロックを中心に捜索中との事です。では、現場の浪漫館本通りの近くにいる蒲田記者に中継で伝えて貰います。蒲田さん』
画面右上端にはテロップで、「浪漫駅近くで傷害事件、容疑者は未だ逃走」とある。画面下の中央には「浪漫館本通りで傷害事件」とある。
台所のシンクを叩く水道水の音が、食器を濯ぐ度に途切れる。
中継に切り替わる。
『はい。現場は、浪漫駅から北に150メートルほど離れた浪漫館本通りです。容疑者は、』
洗剤の泡を水で流し終えて仕上げに擦る時のイルカの鳴き声じみた音が、洗剤のCMばりにテンポ良く響く。
カメラを振り、アーケードの入り口に当たる場所を映す。
『あちらから言技によって閃光を放ち、男性二人を負傷させた後、えー、そのまま路地に逃げ込み、建物の屋上を渡って逃走した模様です。0時07分過ぎ頃、殻式文法司が三人交戦した、と事件を目撃していた方から通報がありました。容疑者は十歳前後の女児だったという未確認情報も入ってきておりますが、詳細は不明です。惨劇は僅か数秒程の出来事だったようです。そして、』
カメラをアップし、飲食店がひしめく煉瓦敷きの通りを映す。そこには立入禁止を示す黄色いテープが張られ、その手前で歩哨のように立つむくつけき男性警備官二名が目を光らせる。何より目を引くのは、赤褐色の路面に穿たれた数え切れない程の拳大の煤けた陥没と、地割れじみた細く長い断絶痕である。軒を連ねる某有名肉丼チェーン店の電飾看板は見るも無残に破砕して中の蛍光灯が剥き出しになり、半ばで裂けた電柱はその頭を向かいのビル三階の空きテナントに突っ込んだまま断線した電線を垂らしている。
洗った食器を乾燥機に入れるかちゃかちゃとした音が、はっきり耳に届く。
『ご覧頂けますでしょうか。未だ残る破壊の爪痕は事件の凄惨さを生々しく物語っています。第二区塔庁消防部によりますと、負傷した二名の男性殻式文法司は病院に搬送され、意識不明の重体との事です。以上、現場からでした』
中継が終わり、再び報道スタジオのニュースキャスターが映る。画面下の中央に「俚諺統括委員会委員長 緊急会見」の文字が出てきた。上方に表示される「BB-MDニュース 俚諺統括委員会が初の言技対策基本法の言技緊急事態の布告を宣言」が警告音と共に現況の深刻さを物語る。
『先程お伝えしました傷害事件に関して、1時すぎに行われました俚諺統括委員会の緊急会見の模様を再度お伝えします。テレビを視聴している方は可能な限り多くの方に声を掛け、放送をご覧になるようご協力をお願いします』
洗い終えた食器を全て乾燥機に仕舞い、スイッチを押すと静かな駆動音で唸りを上げる。
画面が切り替わる。
画面右隅には「バベルの塔」の文字。L字型ワイプの縦側には「桜冠不明殻式文法司警戒情報」、横側には「警戒情報 テレビやラジオ、各塔区から最新の情報を入手して下さい」。そして画面右上端には「傷害事件に関する緊急会見」とある。
会見室のワインレッドのカーテンを背後に登壇しているのは、一人の男性である。青い防災服を着た壮年の男性の前には報道陣が居並び、聞き耳を立てている。壇上の傍にはSPらしき男が二人立ち、重役と思しき防災服を着た人達が列席している。
『都民の皆様に、ご報告を致したいと思います。ぜひ、冷静にお聞きを頂きたいと思います。まず、本日発生した傷害事件に関して、ご報告致します。なお被疑者の物と思われるPT結界密度の詳細な数値等については、これは正確なものを専門家において発表をさせるよう致したいと思いますので、全体の大きな流れ、状況について、私の方からご説明をさせて頂きます』
メモ帳にペンを走らせ、膝上のノートPCに黙々と文字を打ち込んでいる記者ら。画面に四角ワイプとして映る女性の手話担当者は、会見の内容を粛々と翻訳している。
『事件発生時、第二区乙層通信塔が観測した被疑者の物と思われるPT結界の分析パターンは紅紫である、との報告を受けております。その後、専門家によりPB序列を参照し、登録されている全てのPT結界と照合した結果、既存の波長と一致しませんでした。よって先程委員会は、桜冠不明殻式文法司に関する緊急言技対策本部を設置致しました。
これにより都民皆様の安全に対して万全の対策を講じ、速やかな被疑者確保を実行するため、十分な検討を行った結果、もはや現在の第二区塔庁の警備力のみでは予測される最悪の事態に対応出来ないという判断に基づき、戦略防衛隊に対し治安維持出動命令を正式に発令しました。第二区全該当区域につきましては、これから発表する地図をご確認の上、都民の皆様には冷静に行動して頂きたいと思います』
そこで中継が終わり、L字型テロップはそのままにスタジオ画面下の中央に「言技対策基本法 言技緊急事態の布告を宣言」と「戦略防衛隊初の治安維持出動」の文字。
『飛流委員長の発表を受けて、現在配備が進んでいる部隊は戦略防衛隊――緊急即応連隊、外周部方面隊第2普通科連隊、同第2特科連隊、同第2戦車大隊、同第2通信大隊、第1から第4次対戦車ヘリコプター中隊。夜鷹教導団――同普通科教導連隊、同特科教導隊、同戦車教導隊、同偵察教導隊、以上になります。桜冠不明殻式文法司はその姿を街中に晦ませましたが、また何時、そして何処から現れるのか予測の出来ない状況が続いています』
区切り、
『繰り返しお伝えします。委員長公邸で緊急の会見が行われ、傷害事件の容疑者と目される逃亡中の桜冠不明殻式文法司に対し、初の言技対策基本法の言技緊急事態の布告を委員長が宣言。新設後初の戦略防衛隊による治安維持出動命令が発令されました。該当区域に指定されていない地域に住む住民の方も、これから不測の事態が起こる事が十分に考えられます。引き続き警戒して下さい』
そこで自身の分の朝食を机に持って来た母は、
「ここんところ物騒ねー」
「暢気すぎ。これってかなりやばい状況じゃないの」
文は母から三國谷へと視線を移す。
「何で忘れてんのよ、この愚……このクソ兄」
「おい今何で言い直した」
「っんぐ、ご馳走様でした。お母様、さっき言ってた事はどのくらい不都合なのでしょうか?」
飯を綺麗に平らげている。米粒一つとして残してない。合掌してから暢気に問う大正娘に対し、母は顎に人差し指を当て考え込む。暫し唸り、思案顔で、
「下手したら戦争起きちゃうかも、的な?」
「は? 戦争?」
「冗談、ですよね?」
テレビの中でニュースキャスターが何か言っている。「第二区にお住まいの住民の方は、地域の避難所や
戸惑う二人の嘘であって欲しいという視線を一身に受ける母は、しかしあっけらかんと告げる。
「万一の場合、家どころか第二区が丸ごと消滅しちゃうかもね。どうしましょ、ってやつ」
三國谷の分の味噌汁は、今でも湯気を立てている。
災厄は突然やって来る。
前触れなど始めから無い。
いつだってそうだ、今だって。
この日、日常は非日常になった。
⑨
日常が非日常に上書きされたのか、塗り潰されたのか。そもそも日常と非日常の境界線は何処にあるのだろうか、仮にあったとしてもそれは酷く曖昧でヘタクソが引いたみたいにぐねぐねで、須らく踏み躙られて容易く無かった物になるのか。
そんな詮無い事をずるずる黙考してしまう程、登校風景は三國谷の目には異様に見えた。
まるで最初からそこに存在していたかのようにしているのは、戦車。
「はー、凄いねえ。ね、少年。あれとあれは見た目が違うけど、やっぱり違うの?」
「右のが90式で、左のが10式だ。てか今の日本語おかしくね?」
「? 八洲語の間違いでしょ」
信号待ちをする二人はそう言葉を交わす。大正娘は誠に遺憾ながら華麗な容姿の大正浪漫な女学生、否が応でも人目を引く。何故か何人かの歩行者が三國谷の方を不審な目つきでチラ見したが。いやもっとヤバイ娘が隣にいるでしょうが。
三國谷は考えるのを止めた。世界はいとも容易く変貌してしまう物らしい。
たった一キロ。その程度の道のりで、日常と非日常が混ざり合っている。何十台もの基地ナンバーを付けた高機動車や偵察用オートバイを、数知れぬ防衛官達を、三國谷はその目でしかと見た。交通規制をしている警備官に何度も何度も通学路をコントロールされ、澄み渡る朝の上空を何機もの観測ヘリや多用途ヘリがローター音を轟かせながら飛んで行った。
朝焼けでくっきりと明暗の分かれた街並みの、陰日向と至る所に灰色と白の対テロ・市街戦用の幾何学迷彩柄がちらつく。指揮車の上部荷台に乗った警備官が笛を甲高く吹き交通統制をした事でがら空きの道路を、交差点で綺麗に右折したMCVが何台も通過していく。にも関わらず、三國谷と同じスーツっぽい制服を着た生徒らはチラ見するだけで流す。中にはスマホで写真を撮っている奴もいるが十中八九ミリオタだろう。クールビズのサラリーマンやOLは戦車になんて脇目も振らず会社へ急ぐ。
好奇の視線を飛ばすものの、それまでだ。対峙するはおろか、言葉を交わす事もない。日常への闖入者に戸惑っているのか。
そんな光景に違和感を覚えてしまう自分が可笑しいのだろうか。そして誰も女袴の少女にツッコまないのも、自分だけが変だという証左なのか。
やっとこさ校舎に入り、気付く。
「どの靴箱だっけ?」
「私が知るわけないじゃん」
一年ぶりに登校して二年生に昇級しているのもやはり可笑しい。記憶通りならまだ入学式すら始まってなかった筈だが。本当にどうしよう、続々と昇降口に入ってくる生徒らが大正娘をチラ見しているのだが。
そこに、ソプラノ声。
「万字?」
家族以外で呼び捨てにする他人などおらぬ筈だが、ついにヤキが回ったか。生徒達の疎らな雑踏の只中で振り返り、
「ホントに万字だ。おはよ。久しぶりだね、元気してた?」
男子生徒である。鞄を律儀に手に提げている。灰色がかった髪をしている。日本人離れした綺麗な青い瞳で見つめている。シカトするのも失礼なので返事をしておく。
「お、おう。元気元気、むしろ絶好調すぎてヤバイ。……で、誰?」
最後は小声で大正娘に耳打ちな感じで訊いてみた。
「だから私に聞かないでよ、私だって初対面なんだから」
「ばっかお前バカ。人がせっかくバレねぇように、」
「あー、やっぱり忘れちゃってるんだ。
たぶん男子なその生徒は寂しそうに微笑む。困るくらい可愛いので罪悪感が募る。だから大正娘をちろりと睨む。すると大正娘もムッと眉を寄せて睨み返す。冷戦じみた水面下での諍いをしていると、
「えっと、そっちの子が例の……」
「あ、私、雨音って言います。私も記憶喪失ってやつらしくて、えーっとお名前は……」
「ぼくは濡髪、濡髪華蓮だよ。よろしくね、雨音さん。万字も」
打って変わって人当たりの良さそうな笑みを見せる濡髪。と、ここに至り昇降口でタムロしている事に気付き、
「下駄箱はこっちだから。教室まで案内するよ」
「あ、ああ。頼む」
それから濡髪を先頭に二年の下駄箱で上履きに履き替え、大正娘はブーツを手に提げたまま来客用の緑スリッパで歩き、階段で二階まで上り、二年A組のプレートが掛かる教室に入った。須らく大正娘にバラバラのタイミングで視線が集まり――が、一緒にいる濡髪を認めると「何だ、そういう事か」とばかりに注目は霧散していった。再び雑談に戻っていく。
口々に囁かれる声は疑心と不安と虚栄に満ちていた。誰もがスマホ片手に「朝のニュース観た?」「観た。あれって結構ヤバくない?」「桜冠って一年前の事故起こしたヤツでしょ、今度は此処でって事?」「でもあれ自爆だから同じヤツじゃないって、心配しすぎだよ」「そうそう、委員会がテンパってるだけだって」「でも結界密度、平均より数値高いって」「デマが拡散されてんでしょ。あれよ、火事場泥棒」「それを言うなら愉快犯」「犯人は子供だーとか出回ってるくらいだしね、あり得ないでしょ」「そりゃ犯人が言技使ったんだし少しは密度高くなるでしょ、騒ぐ程の事じゃない」「悪いのは
穏やかじゃないですね。
窓際最後尾の手前の席で立ち止まり、
「あ、そうだ。万字、スマホ貸して」
頼まれたので素直に貸す。
濡髪は「アカウント変えた? でも家族のは入ってるし。んー、ま、いっか」と慣れた感じでSNSのIDを交換する。
「私はどうしたらいいかな?」
大正娘が所在なさげにしている。見兼ねた濡髪は自分の机に鞄を置きながら、
「大丈夫。たぶん、もうそろそろ先生も準備出来てると思うから」
「準備? 何のだ?」
手元に返って来たスマホの友達登録第一号を眺めながら訊く。
いきなりだった。
教室の角にいつも陣取っている校内放送用のスピーカーが「ぶつ」という咳払いのノイズを吐き、存外に歌謡曲みてえなメロディをたった二小節だけ流し、
「連絡する。二年A組の三國谷万字。至急保健室まで来てくれ、以上」
送れ、そう言いそうな程ぶっきら棒な声だった。
濡髪は見計らったかのように二人に向き直り、
「という事で、ぼくにちょっと付き合ってくれる?」
大正娘は首を傾げ、三國谷は思わず頷く。上目遣いでお願いされたらそりゃ付き合うでしょ、自分男ですから。まあ濡髪も男なんですが。
⑨
一階の端っこ、体育館へ続く渡り廊下の手前に保健室はある。まだHR前というのもあって遠くから学校の朝特有の快活で、それでいて気怠げな喧騒が微かに耳に届く。渡り廊下へ至る扉は開け放たれ、緩く吹き込む風のせいで「トイレットペーパーは一回十五センチまで!」の貼り紙がひらひらと注意喚起を促している。
濡髪は慣れたように保健室の扉を開け、
「翅先生、連れて来ましたよ」
未だ状況を把握しかねる二人がそれに続き、固まる。
カーテンで仕切られたベッドの傍に誰か立っている、影を見れば分かる。問題なのは聞こえてくる衣擦れの音であり、ブラウスのボタンを留める動きであり、ズボンを履く仕草であり、襟から髪を掻き上げる様である。
見えない方がエッとなる不思議。
そしてシャッとカーテンを開けたのは、三十路くらいの白衣の女性である。両手をポケットに突っ込み、漆黒の長髪を無造作に背中へ流している。朝日の逆光を静謐に背負い、伏せがちの瞳の下で泣きぼくろが倦怠感を匂わせる。
伏せていた切れ長の瞳で三人をじっと見つめ、気が抜けたように肩を竦める。
「ご苦労、朝から悪いな。で、君が雨音君か。三國谷のお母様から話は聞いている。色々と疑問はあるだろうが、生憎どこぞの阿呆が実力行使に出たのでな。時間が惜しい、ついて来たまえ」
早口でそう言い切った翅は校庭に面した扉をからからと開け、肩越しに一瞥を寄越す。
翅は黒いスリッパのまま、三國谷と濡髪は上履きのまま、大正娘は手に持ったブーツを履き直す。
毒々しい青空と地面を焦がす太陽が、底が抜けたような無限の夏で苑都を何処までも支配している。校舎内では環境音として埋もれていた蝉の声が、此処では劇伴並に大きく聞こえる。夏の日差しは何処にも影を作らず校庭を焼いて陽炎が踊っている。
朝焼けに照らされる校庭には須らく誰もおらず、だだっ広いという唯一の取り柄を惜しげもなく晒している。左手には古ぼけた体育館、そして向かう先にあるのは見るからに真新しいドーム状の建物。
朝独特の静けさの只中を、白衣を羽織った女性に先導されながら黒スーツっぽい服装の二人と女袴の一人が歩いている。四つの影が校庭を横切っていく。
大正娘が好奇心そのままに尋ねる。
「あれって何ですか? 丸っこいやつ」
「あれは苑劃都市第二区第四防空壕だ」
「半年前に出来上がったばかりなんだよ」
「マジで使うかもしんないから下見って事か?」
「それもある、しかし本題は別だがね」
程なくして
隣で「ほえー」と圧倒されている大正娘を横目に、翅は何人たりとも通さん感じの隔壁の傍のパネルに向かって、
「私だ、予定通りの奴等を連れて来た。開けてくれ」
三秒程の沈黙を挟み、四人を斜め上から監視カメラが認める。
「どうぞ。ラムネでいいですか?」
「それしかないだろう」
パネルから聞こえた声はふっとした微笑みを残し、巨大な隔壁がゆっくり開いていく。同時に内部の冷房が効いた空気を感じ、自然と背筋が伸びる。大正娘がぶるりとする。翅の白衣の裾が靡く。いざ踏み込んでみれば、
歩きながら濡髪は両手で二の腕を擦る。
東西南北に分かれた感じで部屋の三方には大きな扉があり、その内の北側へと床の矢印を辿って進む翅にくっついている濡髪という構図は、ただの先生と生徒には見えない。
空気を震わせる隔壁の作動音が何回も響き、その度に重厚な扉が開き、ある時点でがこんと重い音がして後は自重で勝手に開いていく。それを幾度となく繰り返し、やがて最奥部と思われる部屋に行き当たる。翅は天井がドーム状になった部屋の壁に近いハッチに膝を突き、床に設置されたドミノの駒程に小さい黄緑色の窓に親指を押し当てる。そして翅が数歩程後退った途端、
大正娘が「わ」と驚くのも無理はない。ハッチは左右へ鈍重に開き、地下へと続く階段が現れたからだ。連動して階段の壁の照明がぱっと点灯する。慣れた様子で降りて行く翅の後に一同はついて行く。
「掛行灯っ」
「ネオン街かよ」
「でも綺麗で良いよね、ぼくは好きだな」
おっ、そうだな。誰だよ不満垂れた奴、後で屋上な。
喋り声が響き渡り、大正娘が履く編み上げブーツの硬質な足音が一定のリズムで段数をカウントしていく。
屋号の書かれた掛行灯が灰色の壁を彩っている。そば屋や定食屋、挙句の果てには風俗店のボロいやつまである。無機質さが売りの階段が華麗さと毒々しさの間にあるようなネオンに照らされ、繁華街に来たような気分にさせられる。
「何でこう古めかしい照明とかが多いんだ?」
「それは苑都条例第八条の大正建築保護法のおかげだよ」
「何その素敵な響き!」
「そこでテンション上がんのかよ。でも古臭くねぇか?」
「苑都より外の街は無秩序だ、まるで景観という概念がない。建物も面白みに欠ける。だからこその第八条と言っても過言ではない」
それまで無言だった翅はそう堅く断言し、後に続く三國谷を尻目にする。なまじ美人なだけに眼力が半端ない、怖い。
やがて階段が途切れ、三國谷達の目前には両開きの鉄扉が立ち塞がる。翅が扉横の小窓に親指を押し当て、鉄扉が石床を削る音が重く響く。
むわっとした空気が頬に当たり、懐かしい匂いを嗅いだ気がした。開けた空間に三國谷と大正娘は面食らう。
和洋折衷である。
堅牢な
巨乳。
三國谷の顔面に当たり、むにゅと潰れた。訳が分からない、好ましい感触しか分からない。
ぶつかった当人は「すみません。待ちきれず、つい」と離れる。
妙齢の女性である。二十代前半程か、肩口にかかるウェーブの掛かったセミロングの黒髪が離れた拍子に揺れ、簾じみた前髪の隙間からどんよりした黒い瞳でまじまじと窺う。
と、隣で殺気。
大正娘が睨んでいる。
「助平」
大正娘はツンと顔を逸し、如何にも不機嫌そう。不可抗力だろ。
「
美縁は部屋奥の暖簾の向こうに引っ込む。でもまたすぐに出て来てその手にはお盆を持ち、ラムネの瓶を人数分乗せている。
鉄扉が自動で閉まったので四人は自然と部屋に入る。きちんとスリッパや上履きを脱ぎ、段差に沿って綺麗に並べる。案の定、大正娘は編み上げブーツを脱ぐのに苦戦している。そういえば大正時代の女学生もブーツは不便なので靴を履いている人もいたらしい。
翅がずけずけと机に歩み寄り須らく着席したものだから、残りの三人もそれに倣う。
翅はラムネ瓶を配り終えた美縁に一瞥をくれる。美縁は思い出したように引き出しがたくさんある薬箪笥の中からそれを取り出し、どんと机に置く。胸元に抱えるようにして持って来たので、肩から腋が露出した漆黒のワンピースに浮き上がるでかいやつに、ついこう、目を奪われてしまう。
それはそうと、諺辞典と四字熟語辞典である。
首を傾げる大正娘と眉を寄せる三國谷。正面の席から濡髪が少し身を乗り出して示す。
「雨音ちゃんと万字、ちょっと触ってみて。これで中邪やニビョウカンがどんな言技を保有してるか判定するんだ」
「言技って……私も? 少年だけじゃなくて?」
「ぐにょぐにょ動くやつ出しといてよく言うよ。むしろ俺の方が中邪じゃねぇだろ、あんなの出してねぇし」
「だからそれは覚えてないって言ってるじゃん、寝てたんだから」
「言技は必ずしも物理的な攻防に関するとは限らん、中には性格にしか作用しない系統もある。とかく時間がない、つべこべ言うな」
有無を言わせぬ翅の圧に二人はたじたじになり、渋々と触れる。大正娘は四字熟語辞典、三國谷は諺辞典に指先で触れ、
発光。
「わ」
「な」
困惑する二人なぞ知らんとばかりに仄かに発光し続ける二冊の辞典。辞典それ自体が青色の光を零し、ラムネ瓶をきらきらと透かす。その眩しさに残りの三人は目を細めたように思えるが、それは見当違いである。あれは芳しくない目つき。
念の為に二人はもう片方の本にも触れるが、これまた不思議な結果が出た。三國谷は諺と四字熟語辞典の両方で反応が出たが、大正娘は四字熟語辞典にだけ反応があった。
三人は堅苦しさ全開で、
「特定、出来てないね」
「これは早急に解明すべき事象だ。考えられるケースを挙げ給え」
「記憶喪失による言技の忘却、PT結界展開密度の低下が影響してるんじゃないかな?」
「あり得ん。仮にそうならば該当する言技が明記されている頁に近い部分だけが光る、辞典そのものは発光しない」
「あ、そっか」
「発光現象がある以上、自我絶対影響圏は微弱なPT結界を発信しています。やはり内殻器官の不活性化が妥当なところでは?」
早口の応酬である。その切れ目を大正娘は逃さず、おずおずと軽く手を上げる。
「あの、華蓮ちゃん。その、言ってる事がよく分かんないんだけど……」
はたと気付いて、濡髪。
「えっと、簡単に説明するとまず《PT結界》、これは中邪が無自覚に展開してる微弱な干渉波の事で、力場って言った方が分かりやすいかな。これを可視化レベルで自覚的に高出力展開して媒介にする事で、中邪は言技を発現させて現実に対し物理的に干渉してるんだ。自我絶対影響圏から言技という可能性を引っ張り出してる。若しくは下層の形態形成情報層からサルベージした元ネタをコピーして創った模造品を、中層の影響圏内で言技という情報エントロピー的な意味での情報に置き換えて、上層の物質層で出力してると言うべきかも。無意識下の把握不可能な影響圏内において、情報の中身それ自体は意味を成さない。そこで問題になるのは情報の量だけ、意味付けは後回しにするんだよ。だから、そのために意味を包括する諺と四字熟語が必要になるんだ」
力場――電磁場、重力場、核場の事か。
「じゃあニュースで言ってた未知のPT結界って云うのは、今までキャッチされた事のない干渉波ってやつか」
濡髪は頷く。
「もう一つ、《内殻器官》について話すね。人間の脳には進化・生存のニーズに応じて発生した性質のモジュールが幾つかあるんだ」
「進化? 生存? 何か話が大きくなってない?」
「それがPT結界の発信源って事か?」
ここまでの話の流れで質問したのだが、何故か濡髪は困惑顔で三國谷をまじまじと見つめる。
「いくら何でも察しが良すぎない? 本当に記憶喪失じゃないって事? だったら何で前の事を覚えてないんだろ」
独りでぶつぶつ疑惑の迷路を彷徨い始めた濡髪を見兼ね、一応フォローしておく。
「それについては俺も分かんねぇけど、ただ中学の頃はSF小説読んでたからな」
「なるほど、兎も角それらモジュールの中には今ではもうすっかり残念さと病的さの中間と位置づけられてるけど、今でもまだしつこく残ってる機能もあるんだ。異常発達した内殻器官の存在を提唱した学者も、完璧な言技使いが存在するならばその人は精神病院に居るだろうと言ってるから。ウォレン・サスマン曰く、人格の文化から性格の文化へ変容したという事だね。その機能が現代の文化的状況と競合して軋轢を生じさせてるんだけど、まあこの話はまた今度で」
「つまりそのモジュールの正体が内殻器官で、進化的に保存された基本的な性質か……」
「特定の生得的な性質を持つ者、それが言技使いです。進化・生存的優位性を示す人間の保持する気質の生物学的起源に関する器官、無論それ単一で人間の人格を形成している訳ではなく環境要因と共に相互作用が働いていますが――」
「講釈は終わったか、結論を急ぐぞ」
もはや脱線しかけていた話を翅がぶつ切りにし、正しい線路へとポイントを切り替える。
「では内殻器官の不活性化が原因だとして、そうなりますと万字君の認知機能に何らかの障碍が新たに発生していると考えられます」
「やっぱり少年って頭おかしいんだ」
「お前一回はっ倒すぞ」
「でも、もしそうだったらどうやって調べるの? 主観の問題を客観的に観測するなんて、今は専用の機材も無いし」
翅はこれみよがしに足を組み直し、上座から三國谷を見つめる。
「三國谷、君は中邪の事をどう思うかね?」
単刀直入である。ならばこちらも率直に答える。
「痛々しい、滑稽、稚拙、哀れ、愚か、幼稚、知能指数低い、低年齢向けポルノ御用達、頭ん中お花畑、まあ頭空っぽの方が夢詰め込めますから」
「少年……、そこまで自虐しなくても……」
「お前さっきからすげぇ失礼な事言ってるの気付いてるか? 流石にそこまで俺は自分に絶望もしちゃいねぇよ。むしろ希望しかねぇから分析して少しでも迷える子羊に光明をだな、ぼっちは伊達じゃねぇ」
「貴方もストレイシープの内の一人でしょう。そこまで中邪の特徴を論う事が出来るとは、やはり万字君も相変わらず立派な中邪ですね。因みに投影ってご存知ですか」
「そこのに対抗して皮肉言うの止めてくれません? 微妙に巧くて無駄に傷ついてるんですが」
翅は眼前で両手を組んで肘を突き、唸る。
「ふむ、やはり君は正真正銘の高二病患者だ。間違いない」
「少年、病気なんですか」
「おい疑問符を付けろ、確認の意を示すな」
「皆クズに決まっている、違いが分かる俺スゲー、というやつですね。はっきり言って嫌な奴です。非生産的で視野狭窄に陥っており、厭世的なくせに自殺する度胸もない臆病でルサンチマンに塗れた人間ですよ。猜疑心に満ちた閉鎖的な選民思想の持ち主。変に悟った雰囲気を出す割には宗教も哲学も心理学も分子生物学も解剖学も行動生態学も進化心理学も禄に知らず、一丁前にそれっぽい捻くれた論理を持ち出して同類を底なし沼に引き摺り込む。
「やべぇ、今度はストレートに嫌味を言ってきやがった。くそっ! 何も言えねぇ……!」
左耳に掛かる髪をふっと掻き上げ、下座から無表情で突き放した視線を送る美縁。
ここに至り、濡髪の抜けるように白い顔が初めて蒼白になる。
「そんな……! あんなに生粋の中邪だった万字が高二病……、やっぱり事故のせいで!」
「事故? 何それ」
そういえば。三國谷の脳裏にニュースの文言が反芻される。
「その事故って云うのが、桜冠不明殻式文法司が引き起こそうとしてる最悪の事態ですか?」
その一言で三人は押し黙る。濡髪に至ってはバツが悪そうに俯く。無言は即ち肯定だ。暖色の照明に照らされた室内はそれまでが嘘のように静まり返り、五人分の影を相変わらず机に落とす。二冊の辞典の光はとうに消えている。壁にかけられた振り子時計が八時を示して重低音を響かせ、鐘が左右に揺れて重い沈黙を破る。
鐘の音が止んだのを皮切りにラムネ瓶の口を掌で押し、ぷしゅっと開けて炭酸水をぐびぐびと一気に飲み干したのは翅である。目を丸くする四人の視線にも動じず、重々しく頷き、
「積もる話もあるだろうが、まずは一杯どうだ?」
先生なりに気を遣ったらしい。
四人とも目配せする。
「私も飲もっかな、せっかくのおもてなしだもん」
「そうだね、逆にこの部屋ちょっと暑いし」
「私は冷え性なので、これくらいが丁度良いのです」
続々とぷしゅぷしゅぷしゅぷしゅと鳴らし、三國谷も倣い一口呷る。舌をぴりぴりとした刺激が波打ち、スカッとした甘みが口中に広がり、喉をすっと落ちていく。ラムネ瓶の染み込むような冷たさが掌に馴染む。四人はひとまず一息つく。
こほん、翅がわざとらしく仕切り直す。
「桜冠不明殻式文法司爆轟事故、対外的には苑劃都市第一区爆轟事故」
そう口火を切る。翅の雰囲気はがらりと変貌し、三國谷と大正娘は固唾を呑む。机に落とされた翅の視線は今とは違う過去へ注がれ、俯きがちの表情は照明で出来た影に覆われ深く読み取れない。それでも散らした前髪の奥にある瞳は虚無を映し、視線をただ一点に固定している事は分かる。空っぽのラムネ瓶に真意が反射しているのだろうか、それは分からない。
「一年前の今日だな、日付が変わって間もない頃だった。桜冠不明殻式文法司の言技、PB序列は【桜之下】、内殻器官の解放による大爆発。それと連動して発生した水害、まさに地獄のような光景だった」
「苑劃都市の治安体制と防衛意識を揺さぶった大事故です。今日に至るまでの一年間、苑都中が振り回されました」
斜め前の席で大正娘が息を詰める。三國谷が視線を彷徨わせていると、目が合った濡髪が心を読んだように注釈を入れる。
曰く苑都第九区にある俚諺統括委員会の総本山たるバベルの塔、そこの《契約の箱》というデータベースに保存・管理されてる登録表こそPB序列であり、それに中邪とニビョウカンは個人情報として名を連ねる。警察の指紋採取みたいな物だ。松・竹・梅・桜に分かれ、更に上・中・下に細分化されたPB序列は三つの条件によって組分けされてる。内殻器官の活性化率を示す硬度、PT結界の展開量を示す密度、言技単体の脅威度、これらで松冠を頂点とした全1万5500位までの序列が付けられる。その中でも異質で凶器となるのが桜冠である。
その定義は、発現する当人にすら危害を及ぼす言技を指す。
7.19爆轟事故とは、桜冠不明殻式文法司の言技発現による自爆。
そして【桜之下】、松竹梅における上・中・下はそのまま上が最高位となる。が、桜冠に関しては「下」こそが最高位であり、つまり自身を死亡させる可能性を秘めた最も危険な中邪に与えられる最低最悪の
三國谷は母の言葉を想起させる。戦争、それは決して大袈裟な表現ではない。
「最終的な死者・行方不明者数は10万5895人、重軽傷者の数は5万6157人。無論、爆発だけではなく洪水による水害など諸々含めての総数だがね。1954年に創立された苑劃都市の歴史上、殻式文法司による未曽有の死亡事故だ」
「十まっ!?」
「そんなのもう災害じゃねぇか……」
大正娘と三國谷は、もはや愕然とする他ない。三國谷の脳裏に空と水面と廃墟の光景が思い浮かぶ。あれは人災によって発生した景色。
翅の言葉を引き継ぐ形で、濡髪も重々しく口を開く。
「だけど、それでも被害は最小限に留めたんだよ。桜冠不明殻式文法司ソドム、委員会が非公式に呼んでるコードネームなんだけど、ソドムが先の爆発時に放出したエネルギー量を影像力規制庁が推測した結果、爆砕推定規模はおよそ半径3キロ、平野だから地形による減殺も期待できなくて、本来なら第一区は焼失、隣接する第二区・第三区まで丸ごと巻き込んで被害人口は約90万人で、水害も含めれば凡そ111万人だったと言われてる」
「しかもⅢ度熱傷を負わせる熱放射半径ですから、皮下組織まで損傷させ壊死や炭化を伴い、治癒してもケロイドが残りかねない重傷です。よって結果的には第壱管区から第陸管区が全焼、中央ブロックは全壊、地下ブロックの損害は言わずもがな、第漆管区の三割以上が損壊。これはあくまで爆発のみの被害内訳ですが。で、爆発を吸収してそれだけの被害で済ませた最大の功労者が貴方という訳です」
「は?」
「少年が……」
四人に注視され、三國谷は居心地悪く尻を動かす。急にお鉢が回って来た。一体全体どんな点と点が線で繋がっているのか、てんで分からない。災害を個人で抑制出来る訳が、
言技、それは超常の力。不可能を可能にする内殻器官。
ようやく三國谷は思い知る。今この場で交わされている会話が如何に深刻で、荒唐無稽であるか。邪気眼系中二病、PT結界、殻式文法司。くだらない妄想とくだらない想像とくだらない空想のカオス、まるでファルスだ。
三國谷は皮肉げな笑みを口元に浮かべる。今すぐ哄笑したい気分だ。
頭の中のもう一人の自分が顔を出す。
――何が万一の事態だ、笑わせる。何が治安維持出動だ、大袈裟なんだよ。何が記憶喪失だ、頭に蛆でも湧いてんじゃねぇのか。今この目で見てる物が現実であると云う保証は何処にある、神様が保証してくれる訳じゃあるまい。それにお生憎様、俺は多神教なんだよクソッタレ。人間の主観なんて物はな、所詮は脳味噌が全てなんだよ。捉えてる現実なんざ本当に此処に存在してると思うのか。翅、濡髪、美縁、雨音。この時代錯誤な部屋だってそうだ、幻覚の可能性だってあるんだぞ。こいつらの方がまだ何一つとして分かっちゃいねぇんだ。こんな物は大方プラズマで説明がつくんだよ知らねぇのか。オカルトをキメてんじゃねぇ、いい加減現実を見ろって。中学の頃に考えてた脳内設定を垂れ流すな。止めだ止め、こんなもん夢オチだ。入学式に向けてチャリ漕いでた朝こそが
そうすりゃ、
「冷や汗を掻くな、みっともない。とはいえ、高二病だとすると厄介だな。……まあいい、目は口ほどに物を言う。そんなに信じられないならば見せてやろう」
そう言い切るよりも早く、翅は握り締めた両手の奥で眦を鋭くした。三國谷はその切れ長な瞳の奥に、青い光の爪痕を垣間見たような気がする。
喉がからからに乾いている現実を、強引に認識させられる。何の衒いもなく厳然たる事実を突き付けられた三國谷は逃げるように瞬きをし、目蓋の裏に――蝶。
視界が開ける。
青空。
遠くで煌々と輝く朝日。
ぽかぽかと浮かぶ幾多もの綿雲。
変化に富んだ稜線。
朝焼けを光の道が如く反射する水面。
朝日の中で一斉に方向を変える海鳥の群れ。
そして、視界の隅で鈍色に輝く鋼の翼端。
空を飛んでいる。
「何これ!?」
自分はまさに飛行しているというのに、大正娘の声はじかに聞こえる。という事は視覚だけが空を認識している筈だ、それも三國谷だけではなく大正娘も含めて。
「言技《胡蝶の夢》、翅先生の
濡髪の声も実際に耳を通して聞こえる。
「限定的な発現ではありますが、現状では十分でしょう。華蓮さん、思念伝達に関しては私の言技《行き摩りの宿世》で実現させているのですが」
美縁の平坦な口調もはっきり聞こえる。
「玉露苑、客だ。グラウンド・ゼロへの誘導を頼みたい」
そして頭の中に声が響いて来る。男の声。飛んでいる本人だ。これが美縁による言技発現の効果らしい。
『俺に死んで来いって言ってる感じですか』
「行動可能時間はこちらから追って勧告する」
『いや、』
「三國谷万字が帰還した」
『道理で
翼端が空気を切り裂き、旋回。身体は動いてないのに視界だけが急旋回している感覚は変な気分になる。明らかに慣れてない大正娘は案の定「うぅ、変な感じぃ」と呻く。鋼翼の表面を朝日がきらりと滑る。眩しいのに目を眇められないのは変な感じだ。高度は遠近感が狂ってよく分からない。
暫くして翅が知らせる。
「行動可能時間は残り十分」
『こんな事なら警邏ルート変えときゃ良かったぜ』
「何か言ったか」
『んにゃ別に。それより見えてきました』
ついに目的のポイントが玉露苑の視覚を通して見えてきた。
先程まで剥き出しになったビル躯体が水面から乱立していたが、このポイントまで来ると茫洋な海面には何も無く静かに凪いでいる。そして、そこに端っから存在していたように白き柱が聳えている。ソドムが造り出した空と水面の世界の中心には、真っ白い巨大な柱が爆心地として空へ果てしなく伸びている。直径一キロは下らないか。天と地を結ぶ柱は晴天の只中で白く映え、朝日を受けて白色の明度を上げ目に痛い。巨大過ぎるが故に遠近感がとっ散らかり余計でかく感じる、実際はかなり距離がある筈なのに。衛星軌道上からでも観測可能やもしれぬ、完全なる円柱と凪ぐ水面と綿雲の蒼天というレイアウトは世界の終焉を彷彿とさせる景色だ。
PT結界の為せる技か、ゆっくり旋回していく。
「真っ白だけど、雪とはちょっと違うね」
「まさか塩、か?」
「ご明察です。あれこそがソドムの成れの果て、塩の柱。ですが、その内部構造は32.8%が不鮮明で、その部分に『何か』があるのではないかと推測されていますが詳細は不明です」
神の言いつけを守らなかったが故の顛末、人間の愚かさの象徴。ソドムは塩の柱となって今でも彼処にいる。
「翅先生、
「問題ない。最近は空間放射線量にほぼ動きがない、0.5から0.8uSv付近で安定している」
「ねぇ少年、くうかんほうしゃせんりょーって何?」
嘘だろお前、発音がまるっきりお婆ちゃんだぞ。
「
「
「誰かのが弾けちゃったって感じ?」
「そうだよ、そのおかげで塩害を最小限に抑えられたんだ」
「15年前の南極蒸発事故による海水面上昇、爆轟のせいで防壁が崩壊した事によって第一区は大洪水に呑まれご覧の有様になりました。大火災の火消しには丁度良かったのですが、もはや住めない街です。結果的に爆発より洪水による海没被害の方が甚大だった訳ですが。ですが
きな臭くなってきやがった、三國谷はそう思う。明晰夢にしては出来過ぎているとも思う。が、それよりも。
「ちょっと気持ち悪いぃ」
「翅先生、雨音ちゃんがやばいです」
「む、では玉露園。十分以内に空域を離脱せよ、以上だ」
『そりゃ無――』
目前に和洋折衷の部屋が広がる。つい今しがたの光景が嘘のように、三國谷は相変わらず着席したままだ。視界の何処にも塩の柱など存在しない。気分が悪くなり仄かに顔を青褪めた大正娘の背中を優しく擦る対面の濡髪は、転じて神妙な顔を向ける。自分を目線で案じてくるので頷く。ともあれ、
「取り敢えず信じますけど、それが何だって言うんですか。まさか嘘じゃないと証明するために、あんなもんを見せたと? 爆発を抑圧したなんて云う事実を伝えて、俺にどうして欲しいんですか?」
そもそもここまでの会話が回りくどい、後暗い事実があると見て間違いない。三國谷がこの世で特に嫌いな物は二つある。痛々しい妄想と要領を得ない言論だ。
顔色が良くなり調子を取り戻した大正娘が窺う。
「少年、変だよ。怒ってる?」
「怒ってねぇよ」
自分でもびっくりするほど苛立ちに満ちた声だった。
怒ってはいない、動揺はしているが。我ながら無理もないと思う。なにせ訳も分からず廃墟で目覚め、大正娘に出会い、骸骨に追っかけ回され、ビルから落っこちて、銀の流体に導かれ、いつの間にか一年以上も時間軸が変わってるわ、言技なんていう奇天烈な設定が常識になってるわ、もはや大災害レベルの事故に自分が関わってるわでもうとっくにキャパシティオーバーだ。何処までが現実で、何処からが虚構なのかちっとも分からない。記憶が無いというのが、これほど恐ろしいとは夢にも思わなかった。記憶喪失なんてのは全くロマンチックも糞もない。憤慨で恐怖は払拭出来ない。
世界五分前仮説だなんて馬鹿馬鹿しい。
「三國谷、君は殻式文法司だ。今は高二病患者だが辞典接触検閲で不完全とはいえ陽性が出た以上、この事実は揺るぎない。そして君が保有していた言技は二つ、これを複合殻式弐層帯と呼称するが、その内の一つである《飛蛾の火に赴くが如し》はPB序列に【桜之上】として登録されている。その能力は発火だ、文字通り火達磨になる言技。もっとも今は鬼虫第一形態《第壱胚子硬殻》で点火不能と推測するがね」
しかし、翅はありふれた日常の再構築を許さない。記憶と現実の齟齬その全てを無かった事にはさせてくれない。目前にいる私こそが現実なのだと、泣きぼくろを添える眼光で三國谷の困惑も不安も憤慨も一緒くたにぶち抜き粉砕し、往生際悪く逃避する思考を捕捉し標本の虫の如く留める。もう逃げられない。目を背けてはならない。無理やり直視させられる、三國谷万字を中心として回る優しいセカイってやつを。
大正娘が何かに気付いたように腰を浮かし、食って掛かる。
「少年は犯人じゃありません! だって昨日私と一緒に、」
「無論それは分かっている、だがそれを信じない奴もいると云う話なのだ」
「また迦楼羅さんですか、私あの人嫌いです。十傑衆も一枚岩ではないとはいえ、いい加減にしてくれって感じよ」
無表情で怨嗟を吐き捨てる美縁。
三國谷と大正娘の疑な視線を受け、濡髪は説明する。十傑衆とは、苑都の最高機関たる俚諺統括委員会を統べる最高幹部達十人を指す。有事の際の制圧力と云う有用性を重視し任命される、選ばれし最強の松冠殻式文法司達。抑止力としての
今回の治安維持出動も多数決により出動派が多数派になってしまったが故に決定され、翅がどちら派であったかは言わずもがな。
「翅さんってそんなに偉い人なの!?」
「そうなんだよ、意外でしょ。あ、学校の皆には内緒にしてね」
「だからと言って、こき使うのは勘弁して欲しいのですが」
「君達は私を一体何だと思っているのかね」
眉間を指で摘み呆れる翅はすぐにその表情を吹き消し、三國谷を真剣な目つきで見つめる。
「三國谷、君の意思に関係なく事態は悪い方へ進行している。勘違いしないで欲しいが、十傑衆も委員会も桜冠不明殻式文法司爆轟事故の被害を最小限に留めた功績は高く評価しているし感謝もしている。だが、この事実は君がそれだけの力を持った桜冠複合殻式文法司であるという証左に他ならない。蛇の道は蛇さ。しかも君はおよそ一年間行方不明で、よりにもよって事件発生日の前日に帰還した。……苑都防衛新法による第二級情報管制で公表されてないが、負傷した二名の殻式文法司は戦防隊に所属する隊員だ」
7.19爆轟事故によりソドムの確保に当たった者や住民の救護と避難誘導任務に従事した者も数多く犠牲になり、それを教訓に選りすぐりの人員で改組し、新設されたのが戦略防衛隊である。犠牲者の中にはタカ派とされる第六席迦楼羅、穏健派とされる第伍席緊那羅たる翅の部下も含まれる。爆発や水害に巻き込まれ死亡した部下が大勢いる中で唯一生還したのが三國谷万字で、暗号名は鬼虫10、第伍席緊那羅管轄地上偵察疑神子部隊の第3小隊隊長を務めていたらしい。
「十代の餓鬼が小隊長なんて、あり得ないですよ……」
「年齢より才能を見るのが私の方針だ。君は特別だからな。後生畏るべし、さ」
美縁が三國谷越しに翅を横目にし、
「意識不明の重体にある二名は迦楼羅さん直属のラサーヤナ前哨狙撃部隊の元隊員、という話を小耳に挟んだのですが」
「誰から訊いた?」
「独自の情報源ですから、黙秘で」
素知らぬ顔でいけしゃあしゃあとラムネを口に含む美縁に対し、翅の頬がひくつく。間を取り持つように濡髪が、
「それって私情入ってたり、なんてします? 乾闥婆さんは、しょうがないね」
「あいつはクソ真面目な奴だからな。どちらにせよ、迦楼羅は犯人が戦防隊の部内構成に精通している奴だと踏んでいる。負傷者は火傷も負っているようだが、早とちりもいいところだ全く。そもそも不明だと言っとるだろうが、事故のショックで分析パターンが突然変異しただの抜かしやがって」
合点がいった。
「だから俺に辞典接触検閲させたんですか、念のために」
「どうせだから雨音君の言技も把握したかったのだが……、この結果は秘匿しておく。迦楼羅に利用されるのも癪だ。疑わしきは罰せず」
一段落ついたようにアナログ腕時計をちらりと確認した翅は、
「さて可及的速やかにやらねばならぬ用事は済んだ、君達はもう教室に戻っていいぞ。流石に一限目には間に合わんか。担当教諭には体調不良だと言っておけ、私も口裏を合わせる。急に呼び出して悪かったな」
そう言ったきり翅は席を立ち、枡貼りの障子を開け奥に消える。戸を閉める軽い音が話は終わらせる。残された四人の間に沈黙が流れ、ぐびっとラムネを飲み干した濡髪が切り替えるように起立し、
「それじゃあ行こっか」
「え、もういいの?」
「これ以上話をしても進展はありませんからね、翅姐さんも取り敢えず確認したかっただけみたいですし。ご心配なく、この第二区全域が翅姐さんの管轄なので、さしもの迦楼羅さんも手を出せませんよ」
にべもなく捲し立てた美縁は空になったラムネ瓶をからんからんとお盆に回収し、暖簾を潜って台所に篭もる。その様を三國谷はぼんやりと眺めていた。いつまでも着席したままの三國谷に気付き、出口へ向かう大正娘と濡髪は訝しげに振り返る。
「少年、どうしたの?」
「万字、行こ?」
回りくどい表現は嫌いだが、いざ真っ向から言われると受け止めたくないと心底思う。まさか情報量過多で状況を呑み込めない事があろうとは。いや、理解したくないだけか。そうした方が遥かに安心出来るから。
「いや、まあ……そうだな、行くか」
分厚い鉄扉がゆっくり自動で開き、三國谷と濡髪は上履きを履き、大正娘はブーツを履くのに難儀しつつ、先を行く二人に続こうと階段の一段目に足を掛けた瞬間、
「万字君」
振り向けば、片付けを終えた美縁が佇んでいる。掛行灯のきらびやかな照明の下で立ち止まる三國谷と、大正モダンの仄かに黄色い灯を背景に影を背負った漆黒の麗人は視線を交わす。
「貴方、本物の三國谷万字ですか?」
何を言ってるんだこの人は。
が、美縁は至って真面目な目つきで見つめている。こめかみに垂れる波打つ髪を指で左耳に流し、答えを待っている。でも、そう言われても、
「偽物とかいるんですか?」
「さぁ」
「さぁって……」
暫し互いに黙考、階段を上がって行く二人の足音が徐々に遠ざかっていく。諦めたように目を伏せた美縁は小声で何か呟き、
「すみません、引き止めてしまって。どうぞお帰りになって下さい。翅姐さんに付き合って頂いて、さぞ面倒くさかったでしょう」
「いや、まあ」
歯切れ悪く応え地下通路の出口へと上って行く三國谷を、美縁はその背中が見えなくなるまで何時までも見送っていた。
⑨
ネオンを伴う階段を暫く上がると、大正娘が待ちぼうけているのが見えた。佇む傍に濡髪の姿はない。綺羅びやかな照明の下で、紫と白の矢絣模様の小袖は淡い菫色に見える。地下通路特有の打放しの壁に深海じみた瑠璃色の女袴が対比され、濃い色彩として際立つ。
一人ぽつんと立つ大正娘は微睡むように穏やかな目を伏せ、きめ細やかな黒髪は電灯を受け濡羽色に光って見えた。腰の前で組んだ手は小さく細く白い。無言で佇む大正娘はどこか雪を思わせる涼しげな少女に見えた、ひんやりとする地下特有の錯覚だろうが。夏場の井戸水が冷たく感じるのと似てる、水温は冬場と同じなのに。
誰かに待って貰うのは不思議な心持ちだ、ぼっちは単独行動だから待たせるのに慣れてない。
何処までも響く足音に気付き、大正娘は長い睫毛を震わせ顔を上げる。向き直った拍子に背中を流れる長髪が残像のように揺れ、後頭部で髪を纏める山吹色のリボンが微かに動く。
開口一番、
「遅い。寝落ちしちゃうところだったじゃない」
立ったまま寝るのか、麒麟かよ。
「濡髪はどうしたんだ?」
構わず素通りすると、背後からブーツの硬質な足音を立てながら寄り添って来て、
「華蓮ちゃんは授業に少しでも出たいからってさ」
「別に待ってなくても良かったぞ」
「他にやる事ないし行く所もないし、別に少年のためじゃないから。ただの暇潰し」
――酷いツンデレを見た。戯言だな。
この女は能天気だから照れ隠しではないだろう。出会って二日しか経過してないのもあるが、どうも彼女がデレる姿を想像出来ない。いや、そもそも期待してないから別にどうでもいい。
暫く二人して無言で階段を上り、三人程なら並んで歩ける幅で出口が近付けば近付く程天井が低くなる空間に足音だけが響き渡る。
自分は沈黙を気にしないが、大正娘も気にした風でもないのは意外だった。この手の女は常に喋らないと死ぬ奴だと思ってたから。
ちらと隣を見れば、大正娘は数々の掛行灯を見上げ目を細めている。色とりどりの光を映す大きな瞳は、今や黒真珠のような虹彩をきらきらと輝かせている。
――黙ってれば、お淑やかで可憐な奴なんだがな。
三國谷は煩い奴が嫌いだ。だから大正娘に対しては好意どころか、むしろ鬼門だ。何かと馴れ馴れしいし、遠慮なく距離が近いし、裏表が分かりやすいから。
ふと思い立つ。単なる雑談だ、他意はない。歩を緩めぬまま、
「お前は思うところねぇの?」
「ん、何が?」
「お前だって記憶喪失だろ。今回の事件にしたって、部外者とは言えねぇだろうし」
うーんと唸り眉を寄せる大正娘。ややあって、何か閃いたように眉を上げた。三國谷をまじまじと凝視し、何故か絶対零度の目つきで、
「他人の心配する暇あったら自分の心配すれば。手前の面倒すら見れんくせに」
「……」
束の間の静寂に、大正娘は三國谷の中の何かを見たのだろう。自分で突き放したくせに掌を返すが如く焦燥の色を浮かべ、困惑顔になる。
「え、ごめん。今のは違う。少年だったらこう返すだろうなーって」
「急に物真似すんのか、微妙に上手くやるな。てか酷くね? そこまでひん曲がった性根してねぇよ」
「そうだよね、少年の性根は腐ってるもん」
「……」
「……おかしいな。まぞ? だから、こう言えば少年は喜ぶってお母様が言ってたのに。やっぱり粗大ごみっぽいね、の方が良かった?」
「……それでいいよ」
三國谷は考えるのを止めた。本当に碌でもない母だし、大正娘も天然なくらい真に受けやがった。打ち解けるの早過ぎだろ。
思考と気分を切り替える。思考は停止するのも肝要だ。
ともあれ、自分も今後の身の振り方を考えねば。無関係とは言い切れんし、事件のほとぼりが冷めるまでモブキャラには戻れんだろう。面倒は嫌いなのだが。襲撃の件も謎のままだし。
誰だって主人公に憧れる、自分にもそんな時期があった。が、それはデメリットを無視してるに過ぎない。億万長者になるための方策を練るのではなく、億万長者になったら何をしようかと夢を膨らませるのに似ている。メリットだけ夢見て、都合の悪い事を度外視した結果だ。リスクヘッジなんて禄に深慮してない、浅慮しか出来ぬ馬鹿の所業。
自分は馬鹿ではないと思う。ぼっちだから思索に割ける時間はたっぷりある。
「えい」
急に眉間を人差し指で小突かれ、目を白黒させる。たじろぎ立ち止まると、二段上から大正娘が見下ろす。悪戯めいた笑みを湛え、
「眉間に皺、寄ってるよ。難しい顔してたら疲れちゃうぜ、何なら癒やしてあげよっか。私は寛容だからね、少年のためなら一肌も二肌も脱いじゃうよ! 先輩だから!」
何に対する先輩なのか、もうこれ分かんねえな。えへん、と大正娘は薄い胸を逸らした。二肌も脱げる程発育良くねえだろ。
気遣ってるつもりなのか、こんな会話で。
不器用だな。
ともあれ、怒った顔をすると扁桃体が刺激され怒りを増幅させるのは有名な話。
自分は寛容だから乗ってやる、乗ってやった。
「脳科学的な相関性を知ってる……だと……! 嘘だろ……」
「あ、今馬鹿にしたでしょ。心外ね、私だって思慮深いんだから」
「明日は雨か」
「またそういう事言う! あり得ない事でも、言葉にしたら現実になっちゃうのよ」
「言霊かよ」
重くなり過ぎないようにするための取り留めもない会話が、いつまでも地下通路に響いていた。
⑨
同時刻。
鉄扉が自動で閉まり鈍い音がしたのを聞き届けてから、美縁は振り返らないまま質問を飛ばす。
「万字君が逃亡犯である、と本気でお考えですか」
「愚問だな。……糸は」
「付けました、抜かりありません。尾行の方はどうです?」
「手配した、念を入れるに越した事はないからな」
「それでは……アレとソレとコレも、ですか。私が言うのも何ですけどプライバシーもへったくれもありませんね」
「生憎、手段を選ぶ気はない。これが私の監督責任だからだ」
お気に入りの部屋を見渡す。諜報員へ監視任務に就くようにと無線で厳命を済ませ、カラフルな枡貼りの障子戸から出て来た翅と目を合わせる。
此処は地下ではあるが
机を素通りしベッドに腰掛けた美縁は枕をぎゅっと胸に抱えつつ、透けるような色合いの照明を見上げ鋭く目を細める。
翅は腕を組んだまま切れ長の目を伏せ、一段と低い声で続ける。自嘲じみた声が響く。
「敵は一年前、十万人以上の人間を死なせたのと似たような情勢下で、今度は戦防隊ひいては十傑衆がどんな防衛をするのか、今回の事件はそのシミュレーションの前座といったところか」
「まだ仕掛けてくると? 現時点でこの戦争に我々は既に敗北していますよ、戦略的な意味で。出動命令を引き出した時点で奴さん、街の何処かで勝利宣言でもしたのでは?」
美縁は一身上の都合で普段は苑劃都市第二区第四防空壕保安担当でありながら有事の際は十傑衆第伍席緊那羅管轄地上偵察疑神子部隊所属思念伝達通信員の端くれ、故に現今の戦防隊による治安維持出動が失策である事を見抜いている。
まず車輌やヘリ、戦車や装甲車の燃料の補給にかかるコスト。装輪式であるMCVはともかく、履帯式の戦車は路外機動が前提で燃費が悪い。おまけに輸送トラックや連絡車輌は運用的に出突っ張りだし、一番やばいのはヘリで航空燃料費なんて0がいくつ並ぶ事やら。そして、やはり最大の金食い虫になるのは人間だ。現在この街には第二区塔庁の警備部の警備官も引っくるめて述べ1万人近い人間が街頭に出張り待機しているが、そんな彼等の飯代が一日あたり一体いくらになる事か。
美縁の希望的観測を受け、しかし翅は押し殺した声で否定する。
「その程度で気が済むと思うか? 敵はこの苑都と戦争をしているんだぞ。制御下に置くのが至難とされる桜冠の言技を、
十傑衆として窮地に追いやられているのに、翅は仄暗い微笑を見せる。それは自暴自棄ではなく、敵の戦略を読んだが故の表情だ。
「ですが仮にそうだとして、私達に出来る事なんて高が知れているのでは? 敵の所在はおろか正体すら分からず、退くに退けず、ただ手をこまねいて見ているだけではジリ貧ですよ」
この戦争は敵が圧倒的に優勢である。秘密兵器とは秘密であるが故に強い、桜冠不明の中邪は「不明」故に言技を不可視とする。実体が分からないという事は、そこにいくらでも仮の脅威を当てはめられるという意味だ。こと戦争において存在を秘匿された者こそ悪魔的な威力を保有する。古今東西、透明人間や幽霊は恐怖の象徴だと相場が決まっている。情報は独占してこそ価値がある。
歯痒い思いで唇を噛む美縁を見兼ね、翅は妙案を提示する。
「だからこそ、さ。三國谷達を襲った黒い骸骨も一種の言技には違いないが、甲層通信塔が焼失した以上確たる証拠は何もない。襲撃時刻も場所も、見事に警邏の目を掻い潜っている。別人による同時多発的な襲撃の線もなくはないが、いくら何でも都合が良すぎる。同一犯による奇襲だとして、この程度で捜査を撹乱したつもりなのか。或いは別の目的を果たすために二人を狙ったのか……やはり何とも言えんな」
「情報不足ですね」
「いや、考えが至らないだけさ。推理の証拠は揃っている筈なんだ」
「だから万字君が……ですか。彼の言技は諺と四字熟語の弐層帯だと確定しました、これは不味い事実です。以前の彼は二つの諺のみで弐層帯でした。アリバイがあるとはいえ、これでは迦楼羅さんの願望通り言技が突然変異した事への裏付けを取っています」
「何故、諺と四字熟語双方の弐層帯という結果が出てしまったのか。無事帰還したは良いが、摩訶不思議な事例を引っ提げて来やがって。面倒だな」
翅は舌打ちする。
「雨音さんの言技も気になりますね、銀色の流動体として言技を発現させておきながら辞典接触検閲では特定不能。四字熟語オンリーだというのは分かりますが、その先がまだ……。言技発現が出来た以上、理論上では内殻器官が既に活性化している筈なのですが。そもそも彼女は何者なのか、元々は何処に居たのか、何故記憶喪失なのか……」
小難しそうに眉を顰める美縁は、枕を抱き締めたままベッドにごろんと横になる。静脈が透けて見えそうな程白く細い足を投げ出し、抱える枕を嗅ぎ「お日様の匂いがする」と呟き十指を這わせる。謎への解答が出せず足をもどかしそうに絡ませ、黒髪が頬に掛かるのを気にせず熟考する。対し壁に凭れ掛かる翅は手を叩き話を一旦打ち切る。「その先を調べるのも我々の仕事だが」と前置きし、
「何かある、それは分かる。その何かの正体がこの街で何をしでかそうとしているのか、これが分からない」
「現状としては逃亡犯の確保に全力を挙げつつ、事態の推移を見守り、急変した際にすぐ動けるよう戦防隊を配備しておく、まあそんなところですか。それこそ敵の思う壺ですよ。Tokyo Attackやnine elevenの前例もありますし、今度こそ黒船来航を契機に下手をすれば八洲政府が最後通牒を突きつける可能性も……。まさか……!」
恐るべき推測に瞠目した美縁は、枕を放ってがばっと上体を起こす。今まで押さえ付けられ柔らかく潰れていた双丘が張りのある形に戻り、ベアトップワンピースの胸元の皺もピンと伸び、その拍子に豊満なそれが微かに揺れる。
苑劃都市を戦後からやり直すのが目的なのか、このテロは。
この街が半世紀以上に渡って築き上げた歴史を、根こそぎ否定するつもりなのか。
特殊立法A-108――苑劃都市に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態に際して、苑劃都市の特例による法的保護の破棄及び指揮権の八洲政府への委譲に基づき、内閣総理大臣は自衛隊の全部又は一部の出動を命ずる事が出来る。
自衛隊でも事態を収束出来なければ最悪の場合は米軍の直接介入による事態の収拾と、それに引き続く占領・統治の可能性が浮上する。
絶望的な未来を幻視する美縁に、翅は安心させるように首を振る。
「そんなチャチな物だったら可愛げがあるがね、恐らく違う。その線でいけば第九区で自爆すればいい、わざわざ戦防隊に喧嘩を売らずにな。仮に数十万単位の第二区都民を人質に取ったとしたら、とっくの昔に犯行声明として政治的要求なりして来る筈だ。だが実際はもう既に戦防隊が出動する事態になっても、うんともすんとも言わない。手段と目的を一緒くたにしていると考えたいが、どうも胡散臭い。手段のためなら目的を選ばない奴とは、違う。敵がすぐ仕掛けて来ないのは第二波の確度を上げるために戦防隊の配置を把握する必要があるからなのか、全く別の『何か』を待っているからなのか。どちらにせよ遠大な計画だよ。少なくとも諸外国で頻発しているテロとは訳が違う、社会変革を望むタイプのテロリストでもない。何故よりにもよって第二区で事を起こしたのか……」
テロの標的には二種類しかない。一つはシンボル的な誰もが知っている象徴的な場所、もう一つは――
「職業柄、恨みっこ無しとはいきませんから。だとすると特定個人や第二区全体を標的にしている……。復讐、ですか。浅はかな逆恨み……私も翅姐さんも見に覚えがありすぎて参りますね」
「全くだ、ただこれだけは言える」
声すら吸収しそうな赤い絨毯の上で、翅と美縁は距離を隔て顔を見合わせる。
「内殻器官の不活性化にある、謎の襲撃者に追われたあの二人が鍵を握っている。三國谷の高二病発症による言技特定不能と原因不明の言技突然変異問題、雨音君の素性や言技の謎は懸念事項だ。その真相の究明こそが今出来る最大限の対処だ、最悪の事態を回避するためのな。故に僅かな可能性だが事が起きる前に敵を押さえる方法が一つだけある、対処フローの選択肢はシンプルさ。それも美縁、君にしか出来ぬ事だ」
言葉の意味を理解し、美縁は戦慄する。
この話題に誘導するために、翅は今まで会話の主導権を握っていたのだ。
彼に糸を付けたのは万一危険が迫った時にいち早く感知し救援出来るようにするためであり、あくまで彼が内殻器官を活性化させるまでの急拵えの防犯ベルであって、彼が中邪として覚醒すれば無用の長物。戦略や戦術や相性の良し悪しと云った前提条件を抜きに考えた場合、こと単純な戦闘能力において以前の彼は、一人一人が一騎当千の戦略級殻式文法司で構成された天才と最強の代名詞たる十傑衆、その一角を成す翅侑芽を遥かに凌駕する男だった。それこそ尋常の言技使いを圧倒的に上回り、普通科の装備は歯牙にも掛けず、対戦ヘリの機関砲や誘導弾を物ともせず、実演した事はないが恐らく機甲科や特科の兵器相手にすら切った張ったの大立ち回りを繰り広げ、戦闘機による航空攻撃でなければ太刀打ち出来ないレベルと推測される戦術級殻式文法司だった。
通り名は、
内殻器官が先天的に特異発達した無敵の鬼才。
PT結界による《
彼は十代前半の時点で既に部隊内で頭角を現していたし、美縁も翅を通じ以前から面識があった。
彼のように複数の言技を併せ持つ複合殻式は稀有であり、桜冠と松冠の弐層帯は世界中で三國谷万字ただ一人だけ。唯一無二の桜松弐層帯。そもそも鬼虫という秘匿名で呼称される中邪は他の言技使いとは戦闘能力に歴然たる開きがあるが、彼は危険な桜冠でありながら他の桜冠より運用性能が群を抜く。便宜上PB序列には松冠ではなく竹冠として登録されているが、それは政治的配慮だ。実態はPB序列17位の異端の中邪。
故に通信系の美縁も畑違いとはいえ羨望し信頼し恋焦がれた。せめて後方情報支援で彼をサポート出来れば良いと切望した。弛まぬ努力の甲斐あって彼と美縁は翅の優秀な部下になり、同時に二人は最高のパートナーになったと美縁は自負している。
それに立場がどうあれ、彼が男で自分が女なのだと実感する瞬間が確かにあった。男の肉体という物が、あんなにも熱くなる事を初めて教えてくれたのは彼なのだから。
内罰的なところ、可愛いところ、困っている人を迷わず助けるヒーローみたいなところ――恋慕する所は多い。
が、その情報と恋心は秘めておかなければ。前者に関しては言技の特性上、自尊心の肥大化は覚醒を阻害する可能性がある。鬼才と呼ばれ有頂天になられては困る、以前の彼であれば杞憂だが。後者については彼を動揺させるのは以ての外だし、雨音と関係が拗れるのも面倒だし、告白すれば自分の箍が外れちゃうから。
そんな彼を美縁や翅の言技で監視する手もあるが、流石に四六時中の連続発現は「糸」だけの美縁はともかく、翅に至っては公務もあり時間も身動きも思うように取れない。暫定的措置としての監視態勢なのに、翅は一歩先へ踏み込もうと、踏み外そうとしている。
三國谷を「餌」として泳がせよう、そう言っているのだ。美縁の糸に括り付けた
それが美縁には我慢ならなかった。7.19爆轟事故での経験が心的外傷となって行方不明になったのではないか。解離性健忘という可能性もあるのではないか。美縁はそう思って止まない。
なのに。
「っ、今の万字君では敵に対抗出来ません。あまりに危険過ぎます……!」
両手でベッドのシーツをきつく握り締め、悲痛げに抗弁する美縁。が。
「言技使いの不文律は自分の
「ソドムと紅の巨人が出現して以来、桜冠絡みの案件には有害鳥獣駆除協力要請を出せるようになりましたから……。それにしても動きが性急すぎますね。大方、駐日米大使館防衛という建前をほざいているのでしょう」
「戦後は続くよ、何処までも。苑都も例外ではない」
「傀儡を増やしたいだけでしょう、第二次大戦時の遺恨も絶賛継続中ですか。とはいえ既に言語で覇権を取っているのだから、それで満足すればいいのに」
「こちとら治安維持出動で手一杯だからな。その証拠に委員長と副委員長は公邸に缶詰状態。第参席夜叉と第四席阿修羅は、早朝から特別輸送ヘリでそれぞれ首相官邸と横田に直行さ」
「……では国連には、第八席が?」
「まさか。肩書だけの彼女をニューヨークまで出向させる訳ないだろ。そちらは第十席羅刹に任せた。……79年の事故さえなければ国連加盟国で発生した桜冠殻式文法司関連事案も国連決議で採択されず、それこそ安保理に対する報告なんざ電話一本で済んだんだがな」
国連加盟国の内117国が署名した国連桜冠協定に基づく多国籍軍の結成、その指揮下で政府も動いている。
「報告って……、実際は狡猾な外交手段でしょう。一年前と同様に委員長のパイプを通じて裏からフランス政府と交渉した訳ですか、原子力推進国だから桜冠に興味津々ですものね」
エネルギー関連の発電量において原子力と同等と目される影像力、その可能性を秘めているのは松冠と桜冠のみ。一年前仏国は彼の弐層帯の内、桜冠を伴い共進化的に発現する松冠に注目した。一年前なんて米国や仏国を始めとする各国の学術的調査団が第九国際空港に降り立ったせいで、ソドムと彼にまつわる採取データの偽造作業に工作部が四苦八苦したと美縁も情報筋から聞いた。
今回の桜冠たる逃亡犯も、研究ないし駆逐対象な訳だ。
79年の事故を起こした二人の桜冠、U・ドッグとU・キャッスルと同じように。推定30メガトンの核爆弾が二つも行方不明と同等の扱いで、人類の存在を覆す脅威だ。
そして彼の松冠は鬼束が手掛ける「月光」じみた宗教的なそれ。
松冠と桜冠、共鳴現象を発生し得る彼等の躰には新技術への糸口が無限に潜んでる。遺伝子治療、ワクチン、新薬、多岐に渡る程その細胞には宝が眠ってる。人類に無限の物理的可能性を示唆する祝福ないし福音への糸口。
三國谷に対する任務への不満を何とか静めた美縁は、両手の強張りを緩め揃えた五指でシーツの皺を優しく伸ばす。初めての夜に今座ってるこれとは違う寝台の上で、それまで味わった事のない疼くような感覚に耐えようと縋りつける物を求め掴もうとしたものの、綺麗に張ったシーツをしゅっと擦るばかりで、自ら乱したせいで出来てしまった深い皺を伸ばした時と似たような仕草。睦言を交わす片手間に自分を翻弄した彼の優しい手つきを真似して撫でた、あの時のように。
「それに引き換え、危機管理監は内通者の炙り出し中ですか。それで敵の動向を探れるかどうか……。どうせ蜥蜴の尻尾ですよ。相変わらず勤勉ですね、尊敬します」
「奴は禁欲的で敬虔なプロテスタントだからな」
「だから迦楼羅さんは、万字君の事を毛嫌いしているのですね」
「そう言う君も、奴に嫌悪感を抱いている」
「仕事だから、正しい行為だから、科学の発展のために、国家のために、大義のために、皆がそう言うから、そうやって今まで人類は一体どれだけの数の人間を殺害してきたか。戦い、奪い、妬み、盗み、犯してきた事か、到底数え切れません」
凡庸の悪。
「そんなきな臭い排他行為でも、立派な利他精神の表明だ。排他と愛他はコインの裏表さ。倫理と道徳で国一つを救える英雄の時代は半世紀以上前にもう終わっている、それこそ苑都一つとして守れやしない。我々は一年前にそれを痛感した……、もう二度と悲劇を繰り返す訳にはいかない」
思い詰めた表情で決然と鋼の意思を露見させる翅に、美縁は何も言えなかった。言える筈もなかった。故に腹を括り、威勢よく立ち上がる。対角線上の翅を力強く見据え、両手をお腹の上で行儀よく重ね、姿勢を正す。泥を被る覚悟、完了。
「了解しました。不肖、美縁葵。任務を遂行します」
「宜しく頼む、美縁葵思念伝達通信員」
公人として発案し実行される非公式な囮任務。機密保護案件。今この瞬間、俚諺統括委員会官房副長官危機管理担当/桜冠不明殻式文法司特設犯罪対策本部事務局長兼務の十傑衆第伍席緊那羅たる翅侑芽と、苑劃都市第二区第四防空壕保安担当/十傑衆第伍席緊那羅管轄地上偵察疑神子部隊所属思念伝達通信員兼務の美縁葵との間で、極秘任務の立案及び決行が宣言された。
二人の秘密会合は、血の如く赤い上質な絨毯に声という音として吸い込まれて消えた。
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