壱 邂逅
入学ぼっちは辛いぞ、と聞いた事がある。
それに、新生活にわくわくしていたのもある。
登校初日の朝、入学式より一時間も早く家を出て行ったのが三國谷万字である。
まだ肌寒い七時頃だった。朝日を受け街が陰影を刻む中、心なしペダルを強く踏み込んで自転車を走らせていた。車が道路を行き交い、制服を着て自転車を漕いでいるのは三國谷だけで、だから反対側の歩道で犬の散歩をしている女の子が印象に残っていた。
唐突だった、女の子の手からリードが離れて犬が道路に飛び出したのは。そこに折悪しく金持ってそうなリムジンが来たのも突然で、気付けば無我夢中で突っ込んでいた。朝空に響くタイヤの摩擦音と、追突の衝撃及び激痛と、犬の名を叫ぶ女の子の声が重なった。
死ぬ、と思った。
からからと車輪を空回しする倒れた自転車の向こうから女の子が駆け寄って来たのを最後に、三國谷の意識は途絶えた。
脳裏に流れる、
走馬灯。
「ただヤりたいだけのくせに媚び売ってさぁ、マジキモい」
「は? イジられ役じゃなきゃ、あんたみたいな気の弱い男に絡む訳ないじゃん。無害なフリして急にエロい目で見てくるとか、本当に気持ち悪い」
――こんな時くらい良い思い出見たかったな。
『私は、誰? 妾達は、私になりたい。だから、私に私を教えてよ』
覚醒、もとい無意識の底からくぐもって聞こえてきたような声で目覚めた。
「……知らない天井だ」
いや本当に知らない天井がそこにはあった。打放しのコンクリートで、寒気さえ感じさせる。上体を起こして見回し驚く。ひび割れた天井は今にも崩れそう。床はひんやりと冷たく、突いた手には砂埃の感触がある。鉄骨が組んであるだけで外壁が無く吹き曝しになっているそこから生温い風が吹き込む。立体駐車場かと思ったが違う。
徐に立ち上がって覚束ない足取りでそこに歩いて行く。淵に立った三國谷は見上げ、強烈な陽光に目を眇め咄嗟に手で庇う。抜けるような青空には、でかい入道雲が我が物顔で浮かんでいる。
「……夏だな」
何がどうしてこうなった。
ちんぷんかんぷんのまま目線を下げ、硬直。
眼下には水面の煌めきがある。見渡す限りの水平線は茫洋にどこまでも広がり、陽光が乱舞する水面から生えるようにビルが点在し、電柱が消波用のテトラポッドのように連なって頭を出している。水面は幻想的に凪ぎ、潮の匂いはしない。
「……何だこれ」
ビルに吹き込む細やかな風鳴りしか聞こえない世界で、三國谷の声だけが落ちる。
「あ……鞄、は無いか。スマホは……」
ズボンのポケットから取り出し、手で日差しを遮りながら起動させようとしてバッテリー切れだと気付く。
「暑ぃ、歩くか」
三國谷は歩く、自分が今どのような場所でどんな状況に身を置いているのかを知るために。
網目状にひび割れ崩落待ったなしの床、天井から小腸のように垂れ下がっている電線、錆びついた火災報知器のベル、階段は手摺もステップもそこかしこが抜け落ちている有様だったが何とか上る。
「世界で一人だけになったみたいだ……」
なんて。
歩を進める。
幾つもの通路を行き、幾つもの角を折れ、幾つもの階段を上っていく。奇妙なほどの静寂に、三國谷の硬質な足音と床のガラス片を踏み潰すぱりぱりとした乾いた音だけが小さく響く。やはり此処は廃墟で、やはり此処には自分しかいないらしい。吹き曝し室内と陽光が容赦なく照りつける室外の明暗差も相まって異界じみている。
明暗差で辺りは薄暗く、当然のように誰の姿もなく、崩落する音だか風鳴りだか分からない遠くの音が意外な程はっきりと耳に届くこの状況は、
「……悪くはねぇか」
見通す限り誰もいない苔むした小道を一人さすらう孤独感に似たものを感じる。
ノスタルジックな感慨に囚われながら角を曲がった三國谷は、故に不意を突かれた。
無人の空っぽな廃墟に、他人がいた。
女の子だった。
眼前に広がる空間は元は大広間だったのか今まで見てきたどの部屋よりもだだっぴろく、鉄骨の太い柱だけが何本も天井と床を貫いている。視線が釘付けになったそこの天井だけが屋上までぶち抜かれ、白い陽光が降り注いでいる。斜めに射し込む光の斜面が室内の薄暗さを際立たせ、女の子は光を一身に浴びている。体が浮遊しているように見えるのは、袖や下衣の裾を円錐状の銀色の塊が貫通して恰もピンで縫い止められた標本のようになっているからだ。和服を着ている。袴を履いている。編み上げブーツを履いている。直射日光を浴びているのに無防備な寝顔を見せている。
気付けば歩み寄っていた。じっと見つめ、
突如、銀色の塊が原型を失う。どろりと袖や裾を抜けたかと思えば、虚空で零れた水を逆回しするような動きを見せ、あっという間に袖や裾といった隙間へ流れ込んで消えた。
支えを失くした女の子が、落ちる。
「うお!」
すかさず両腕で受け止め、
「軽っ!」
びっくりするほど軽かった。華奢で小柄だが、しかし見た目と比しても軽すぎる。抱えた女の子は眉一つ動かさず、安らかな寝息を立てる。射し込む光が少女の髪を滑り、宙に漂う埃を輝かせる。緩く吹き込む熱気の風が、女の子の垂れた長い黒髪を靡かせる。仄かな石鹸の香りが鼻をくすぐる。
紫と白の矢絣模様の小袖、瑠璃色の女袴、焦げ茶色のブーツ、山吹色のリボン。幼気で楚々とした卵型の顔立ちは鷹揚な微笑を湛えそうで、くっきりした眉の下で目蓋を閉じ虹彩は窺え知れず、小ぶりな鼻と色の薄い唇は嫋やかな気品を醸し出し、まさに撫子のそれ。
閉鎖空間じみた真夏の廃墟の、荒れ果てた吹き曝しの大広間で、見知らぬ女の子を抱え、白き陽の光に照らされながら、
幽霊か幻か白昼夢か。
とはいえ、
「どうしたもんか……おーい、大丈夫かー」
反応なし。三國谷の間延びした声だけが他に誰もいないすっからかんの廃墟に木霊していく。そろそろキツイのだが、腕に伝わる柔さとか手を擽る黒髪の感触とか体温とかが。
災厄は突然やって来る。
前兆など始めから無い。
一度瞬きをした直後、
コンクリートの床が、黒一色に染まっていた。
「は?」
あまりにも驚愕な事態に出くわして、三國谷はただ突っ立っているだけ。
真っ黒な床がタールの如くぬぷっと揺蕩い、ずずっと多数の影の塊がせり上がっていく。変形していく影は立ち上がり、三國谷と女の子を一斉に見た。頭蓋骨と胸骨と背骨と骨盤が印象的な、黒炭じみた光沢の無い漆黒を骨格とした骸骨の群れが、そこにいる。
心臓が早鐘を打ち、喉が強張り、焦げた臭いが鼻につき、視界が過度に明瞭になっていく感覚。
瞬間、頭の中にいるもう一人の自分が闘争‐逃走反応のスイッチを切り替えた。
逃走。
まっしぐらに骸骨の反対方向へ駆け出す。あっという間に仕切りの無いフロアを飛び出す。些かも減速しないまま無我夢中で左へ折れ、廊下を一目散に逃げる。階下は恐らく浸水している、上に逃げるしかない。角に差し掛かり――気付く。女の子をお姫様抱っこしているせいで足元が見えない、だがこの先は階段。惜しくも速度を緩め、曲がる直前で女の子を背負う。不気味なほど軽いから、手提げにしていた鞄を背負う要領でイケた。宙を泳ぐ女の子の長い黒髪の隙間からほんの一瞬だけ横目で窺い、戦慄。炭化したような骸骨の群れが床と内壁と天井を伝い迫って来る。
「筋肉ねぇくせに何で走れんだよ!」
階段を二段飛ばしで駆け上がる。抜けたステップに躓きかけた時は心臓が縮み上がった。崩落して大きな穴が開いている踊り場を目前にして、覚悟。思い切り壁を蹴り、強引に方向転換した。着地の際、踵が穴に落ちかけて今度こそ死ぬかと思った。再び走り出す。尻目にすると、何体かの骸骨がそのまま雪崩の如く穴に落っこちた。からからと骨の鳴る音が洪水となって三國谷を追い立てる。他の骸骨達が蜘蛛のように壁や天井を這い追って来る。死に物狂いで階段を上り、上って、上った。踏み込む度に女の子の黒髪が跳ね、頬を掠める。扉が無く枠だけ残るそこを通り屋上へ飛び出す。空気を焼く太陽と毒々しい程の青空が視界一杯に広がり、熱気がぶわっと息せき切る喉を痛めつける。懸命に足を動かし続けた三國谷は屋上の端で立ち止まり、息も絶え絶えに振り返る。
どんな質量をしているのか、枠に詰めかけた骸骨の群れがそのままの勢いで壁ごとぶっ壊した。崩壊音を残し、吹っ飛ぶように散乱した瓦礫を踏み潰しながら続々と屋上へ出て来る。その数は先程見た時より鼠算式に増殖しているようだ。階下から次々と仲間を足場にして殺到する奴等まで含めれば骸骨は無慮数百へと増加している。
歯をかたかた鳴らし、歯軋り音はてんでばらばら。そのくせ一体たりとも三國谷から視線を外さず、ある者は二足で、ある者は四つん這いで、ある者は腰を曲げてにじり寄って来る。
緊張感が胃液に溶けて腹を重くする。頭に重油のような絶望が満ちる。立ち止まっているのに鼓動は今でも駆け足を続けている。膝が笑い、喉はひりつき、呼吸は荒く、大量の汗が額に浮かんで眉をなぞり頬を伝って顎に垂れ、
「悪いな、甲斐性なしで」
未だに背中で暢気な寝顔を晒している女の子に向け、独り言のように零す。
ふと思い出す。
首を曲げ、肩口に寄りかかる女の子の顔を覗く。あどけない表情が、事故当時の記憶の中の女の子とぴったり重なった。
「あの時の……!」
彼我の距離が五メートルまで縮まり、夏の熱気を孕んだ一陣の風が女の子の黒髪を踊らせ、それが三國谷の頬を撫で、その拍子で顎に滴る汗の粒がとうとう落ちコンクリートに爆ぜ水音を立てた時にはもう――小袖の袖や女袴の裾から溢れ出した銀色の流動体が屋上の床を隙間なく埋め尽くしていた。
炸裂。
幾百幾千の夥しい数で飛び出た極細の針が、海栗の如く爆ぜた。先端が毛先ほどしかない流動性を持ったそれは、銀の水面から剣山さながらに展開し、そこから更に鋭利な棘を四方八方に伸ばし、ありとあらゆる角度から一切の情け容赦なく骸骨どもを貫いていた。漆黒の骨格が派手に砕かれ無残に飛び散る。液体たる銀の水面から突出した針だけが、凝固し固体と化している。
が、格子状に串刺しにされてぼろ屑のようになった骸骨らはそれでも呻き声のように歯をかち鳴らす。全身をくまなく貫通されてなお藻掻く。
地震。
突発的にして局地的で驚異的な震動が廃墟を襲う。
その時、ついにガタが来た屋上の一角が崩れた。
足元が揺れたと思ったのも束の間、次の瞬間には既に三國谷と女の子は一抱え以上もある大きなコンクリートの塊と共に落下していた。どうしようもなく身を投げ出す。
空中。足場が無く、重力に引かれる。
刹那のぞっとする浮遊感の後に、空と水面が逆転して視界が煌めく青で埋まった。耳元で激烈な風圧が唸り、吹き荒ぶ風に全身を洗われる。
足場だった一角は鋭い風切り音を刻みながら二人より速く落下し、その巨大質量で凪ぐ水面を割り砕いた。
真っ逆さまに落ちる三國谷は恐ろしい速度で近づく水面を見て、目前で黒髪を風に煽られながら落ちる女の子を認め、
「くっ!」
精一杯手を伸ばし、
屋上を覆い尽くしていた銀色の流体が、幾筋もの滝を逆回しするかのような信じ難い動きで空中へ躍り出た。宙を泳ぐ姿は生物めいて、身を捻る龍のようだ。二人の落下点を読んだような軌道に長く広く太く展開した銀光は狙い違わず二人を受け止めるやいなや、遥か遠間の水面に一角を覗かせる水没した建物の屋上へ接地する。
滑り台もかくやな物凄い速度で流されていく二人。流体に仰臥しながら滑る三國谷の視界一杯に蒼天と入道雲が映り、前を滑る女の子を認めてから首を後ろに捻り、
屋上で銀の針から逃れた骸骨どもが性懲りもなく追い縋り、どす黒い瀑布の如く屋上から雪崩れ落ちて行くのと、その内の一体が流体に取り付いたのは同時だった。
流れに身を任せ伏臥する骸骨が後方から三國谷に迫り、目と鼻の先で黒炭な顔貌を突き出し、嗤う。
まずい。
そう思った矢先、銀光が閃く。精妙に骸骨の頭蓋を下から上へ貫通し、三國谷はほんの数十センチ先から空気が絞られる音を聞いた。やがて水面から突き出た屋上の角へ投げ出されるように滑り終えた三國谷は振り返る。追い縋った一体がゴミ屑もかくやに流体から振り落とされて水中に没した姿を見た。空を衝いた水柱が飛沫となって散る頃には、宙を駆る流体は集合して女の子の袴に吸い込まれて消えた。
氷山の一角じみたそこで横たわる女の子を見下ろし、それから廃ビルを見上げる。が、屋上には何もなかった。骸骨の大群は影も形もなく、しかし端の崩れた屋上と未だレーダー波のように水面を渡る波紋が幻覚ではなかった事を示している。何より、
「だりぃ……」
急に重い疲労感に襲われてへなへなと座り込む。日に炙られるわ喉は乾くわ足に乳酸が溜まってるわで、これが夢なら疲れ損だ。そこで思い立つ。もたもたと足場を探し、のろのろと斜面を下り水面に手を差し込む。上層の水だから陽を受けて少し生温い。
ぺろ。
指を舐めてみるが塩っぱくはない。とはいえ、ビルや電柱が水没しているのだ。でも見た目にはあまり汚れているようには見えない。
「すっ」
息を吸い込み水面に顔をつける。途端、水音。瞬時に汗が流れ、一気に顔が冷えて気持ちがいい。瞬く間に音が遠くなる。モザイクのような視界には水没した街並みが映り、陽は光の筋として水底まで照らし、生物らしき影は認められない。水深十メートルはある。顔を上げ滴る水を拭いもせず、黙考。
「……しゃあねぇな」
結果、両手で掬いごくごく飲む。すぐ吐き出す。酷く不味い、とても飲めたものではない。が、何とか我慢して嚥下しそれを五回繰り返し、ぜえぜえと喘ぐ。ずっと遠くで緩くカーブした水平線の煌めきを眺め、自分達がいた廃墟を見上げる。恐らく三十メートルはある。
「どうすっかなー……」
三六〇度の水平線、白い太陽と眩い水面、巨大な入道雲と青空、水没した廃墟群、風鳴り程度しか音が立たない静寂の世界。日差しは鋭く、喉が乾いていたせいもあり水は飲めない事もなく、未だ汗臭い。五感全てで体感している以上、やはり現実なのだろう。
「ん?」
突いた両手に違和感を覚え、見つめる。手を上げると、触れていた場所から極彩色のきらきらした泡沫のような粒子が舞い上がった。
「何だこれ?」
言うが早いか、臭いを嗅ぐ。無臭。舌を出す。無味。触ってみる。水中でぶくぶくする泡のような感触、此処は水中ではないのに。
「あいつ、そろそろ起きたかな」
斜面からずり落ちないよう慎重に上り、頂上から少し下った所でぐにゃりと歪んでいる落下防止柵に身を預け寝ている女の子を見る。
「これで起きねぇとか、やっぱ変だ」
三國谷の愚痴が聞こえたのか、三國谷の影の中に寝転がる女の子は眉を顰め「ん」と呻く。
しゃがみ込んで耳をそばだてる。やがて、
「――、お腹、すいた」
「は?」
脱力した。
それっきり女の子はうんともすんとも言わない。頭を抱えていると、またもや女の子の小袖と袴から音もなく銀の流体が出た。まるで何かを探すように虚空を右往左往した流体は、ぴたりと狙いを定めて十メートル程離れた水面に突っ込んで盛大に飛沫を上げた。
「何やってんだあいつ」
が、思い至る。どうやら暗礁じみた建物を足場に橋を架けたらしい。次々と新たな足場を見つけては橋を架けていく流体を尻目に、三國谷は名も知らぬ女の子を背負う。その拍子に黒髪が頬を擽り、勢い余って桜色の唇が首筋に触れ思わず固まる。まるでキスするみたいに口がくっついている。穏やかな寝息が聞こえる。
――胸は無いが、唇はやばい。
此処が何処かも分からないし、何故此処にいるのかも分からないし、女の子が果たして事故の時と同一人物かも分からないし、流体と女の子の関係性も不明なまま、襲って来た骸骨どもの正体も分からず終い。それでも。
「行くしかねぇか」
たった一人で自分を鼓舞し、三國谷は流体の橋へと一歩を踏み出した。青空と水平線の狭間で陽炎が揺らめき、強烈な陽光を鋭く反射する銀色のアーチが道標となる世界を三國谷は往く。
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