プシュケ・イン・ザ・シェル

@kyugenshukyu9

序 解放/覚醒/或いは終わりの始まり

 彼は悪しき者を生かしておかれない、苦しむ者の為に裁きを行われる。

                           ヨブ記36章

                             ヱホバ


 七月十九日、0時。苑劃都市外周部第一区、中央ブロックを除く第壱から第漆管区。

 無差別破壊事件、勃発。

 0時4分、苑劃都市内周部第九区バベルの塔地下中央管制司令部は、騒然の坩堝と化していた。

「総員、第1種警戒態勢に移行せよ」

「先程、俚諺統括委員会が非常事態宣言を発令。第一区の塔庁に対するシャドウ・エバキュエーションを考えた避難処置の指示、大至急」

「第100番台までの全シェルターの隔壁を緊急開放、連動して避難該当区域の封鎖を順次開始」

「第捌から第拾参管区の民間人は、逐次各シェルターに避難中。完了まで、あと20の予定」

「第漆管区の住民避難が予定より五分遅延しています。第六、第七警備班は救護班と共に救護と避難誘導任務を優先して下さい!」

「第壱管区から第陸管区の避難経路はルート67と77を適用、可及的速やかな避難活動の実行を求む」

「中央ブロックの区民避難完了との報告を受けておりません、よって威力偵察は許可出来ません」

「第一区からの通信回路は、全て守秘回線に切り替えて下さい。以上」

「第七席乾闥婆が言技《蟻の這う迄知っている》発現中、感知情報をMaryに入力。作業を最優先」

「Magi clusterの稼働効率に問題なし。稼働限界まであと0.7、全冷却システムは最大出力にて運転中」

「Melchiorによる検証作業終了。《内殻器官》の活性化及び《PT結界》の高出力展開を再確認、目標を《殻式文法司》と断定」

「甲層通信塔、PT結界のパターン解析を開始。データは30秒単位で送信されます。Balthazarは受信したPT結界の密度を再計算、更新データを入力中」

「第弐管区実験場付近にて新たな火災発生――」

「目標のPT結界により電線共同溝が崩落。停電規模が尋常でなく拡大しています!」

「ルート67は通行規制、赤灯誘導による交通統制を急いで下さい!」

「現場には、辞典接触検閲による言技特定のコントロールを徹底させて下さい。目標を下手に刺激すると、被害が更に拡大する可能性があります」

「情報部より第1報連絡、立川の東部方面航空隊第1飛行隊が出動準備に入った模様」

「危機管理監からです、横須賀の米空母が緊急出港したそうです」

「第八席竜王直轄高機動消防救難隊、第1から第4救難小隊、各員AZ型纏鉄火鎧装着済み、第弐から第漆管区にて消火/救助活動の準備完了」

「ラサーヤナ前哨狙撃部隊第1小隊、PM式装備にて熾天橋方面に展開中。射撃準備態勢に移れ、以降は第六席迦楼羅の別命あるまで待機維持せよ」

「地上偵察疑神子部隊第3小隊、中央ブロックから前進中。包囲網の構築を続行」

「単独専行して追跡中の鬼虫10より、入電。目標は区内環状9号線を破断し、九球川を越え、東ブロックへ進攻中!」

「UH-60JX第一区塔庁ヘリ離発着場より間もなく離陸、現着後ヘリテレを伝送するように」

「第伍席緊那羅直轄航空近接支援部隊第2小隊、第二区より三分後に出動予定」

「伊種第3光学観測所より、入電。目標周辺の磁場に若干の変化を認む」

「伊種第3光学観測所へ返信。状況が不可測だ、直ちに精密測定を開始して下さい」


 その日は何処かで虫の鳴く、静かな夜になる筈だった。

 甲高い緊急避難警報が鳴り響く、見るも無残に破壊された街並みの夜、二人の殻式文法司が対峙していた。


 七月十九日、0時06分。苑劃都市外周部第一区、東ブロック。

 災害を彷彿とさせる、惨憺たる有様だった。

 目標の平均移動速度はおよそ時速13キロ程度だったが、その軌跡に齎した破壊は加減を知らない。周囲三六〇度、全方向において倒壊した建物を確認できる。噴き出すように宙を舞う火の粉が降りかかり、熱風が頬をぬるりと撫でる。今も何処かで高架道路が崩れ落ちた残響を聞いた。頑強なビル壁面はぼろぼろと無残に崩れ、内部の鉄骨が剥き出しになっている。あらゆる路地裏まで舐めるように延焼していく火炎がとぐろを巻き、夜が支配する空に黒煙が立ち上っている。路面が陥没すると同時に捩じれた電光が夜闇に爪痕を残しては消え、電線共同溝が崩落したのだと気付いた時にはもうグリッド状に起きた停電で街が暗闇に沈んでいた。光源は白い満月と、グリッドロック状態で路上に乗り捨てられた多数の車両を照らし出す火災と、車のライトと、ビル街の屋上で平時通りに灯る赤色航空障害灯のみ。

 万字は走った。追跡対象を刺激しない程度の速度で、適度な間隔を空け、目標が行き掛けの駄賃とばかりに高出力展開したPT結界で砕き撒き散らす無慮数千の大小様々なビル壁の礫を躱しつつ、追った。飛散する礫の只中において僅かに存在する、殆ど無傷で済む安全座標を瞬時に割り出し、間髪を入れず其処へ滑り込む事など万字にとっては造作もない。が、事態は深刻化の一途を辿るばかりだった。

 だから万字は単独専行の危険を厭わず、駆けた。全ての破壊の残骸を、住宅街で炎の照り返しを受ける白煙を、薙ぎ倒され硝子が酷く破砕している道路反射鏡を、くの字にへし折れた一時停止標識を、路面へ逆さまに突き刺さった電柱を、ひび割れを起こした路上でのたうち回る断線した電線を、目標が構わず縦断して嘘のように崩壊した民家を、落下し木っ端微塵に割れまくった大量の屋根瓦と横ざまに倒れた梁の下でぴくりともしない誰かを、羽毛のように呆気なく夜空に飛散していく無数のガラを、ひしゃげてぺしゃんこになった乗用車の下から見える誰かの足と靴を、目標の進攻ルート周辺に濛々と立ち込める土煙とセメントダストを、熱風に紛れる何かが焼け焦げた臭いを、高々と打ち上げられ線路の遮断器を容易く越え冗談のように宙を舞い路上で跳ねて歩道橋を潜り抜け火花を上げながら凄まじい勢いのまま滑り込んで行った電車を、目標のPT結界が直撃したそれら全ての破壊の残骸を切り抜けながら万字は走った。

 そして、ついに二人の殻式文法司は相対するに至った。

 異形の人型が、人の名こそ有れもはや人間と呼べるかも怪しく、故に名前のない怪物がそこにいる。

 白骨化したかのような白亜の躰が、猫背でひょろりと立っている。体表は乾涸びた地面さながらにひび割れている。手足は長く細い。背後に従えるのは、背中を貫通して湾曲した肋骨のような代物。数は十二。そこから柳のように垂れているのが、体内塩分が結晶化し背中から肉を突き破って出て来たような半透明の翼で、猛々しく燃える炎上の光を綺麗に透過している。翼はまるで雲母の薄片を積層したかの如き様相を呈し、端々に至るまで武骨さと鋭さの凶暴性を晒している。正面から見ると恰も薄い硝子を幾重にも背負っているかのようだ。その姿は天使か、悪魔か。

 鬼が出るか蛇が出るか、或いは既に鬼と蛇が対峙しているのか。

 ふらり、熱気に当てられたのか目標はたたらを踏む。立っているのさえやっとの様子である。まるで孵化したばかりの雛鳥のようだ。危険を感じない。虫の知らせである、それこそが万字の言技の予防線だから。彼我の距離は十メートル、コンクリートの残骸とアスファルトの瓦礫と傾いた信号機が二人を囲むように散らばり、砕け落ちた瓦礫を蹂躙する炎が二人の影をずたぼろの路面に投げかけている。それまでの追跡劇が茶番だったかのように二人の間合いは今やぞっとするほど静かだ。緊急避難警報もどこか遠く、異様なヒトを前にした万字は恰も対岸の火事を傍観するような気持ちになる。そんな筈はないのに、此処こそが鉄火の間なのに。

 ぎょろり、目標がこちらを見る。人間ならば目と眉が存在する位置は割れ目が横に入った孵化寸前の卵の如くばきばきと開き、内部は空っぽかと思いきや深淵の暗闇の奥で眼光が滲むように光り、ひたと見据えている。髪は一本もなく、顔は卵じみた丸みを残す面長で、耳殻と外鼻は無い。歪んだおちょぼ口を微かに開き、赤ん坊のような乳歯と舌が覗き、喘ぐような呼気を繰り返す。やがてぽつりと、

「タ、ス、ケ、ヱ」

 幼い女の子の声だった。

 気付けば一歩を踏み出していた、まさにその時だった。

 狙撃。

 虫の知らせはあくまで自身に及ぶ危険のみを察知するのであって、つまり「防衛圏」に侵入した危険対象だけに即刻対処できるという意味である。故に万字は、射撃系統の言技発現によって宙に絞るような炎の螺旋軌道を穿ち圏外座標を飛来した弾体が、標的の頭部を爆砕する様をただ眺める事しか出来なかった。四散する血液と肉片と脳髄と脳漿が放射状に地面を濡らし、棒きれのように立つ頭の無い骸の胸部が穿孔されたと思えるほど極端に深く窪んだのを見て、

 閃光。


 同時刻、七月十九日、0時06分42秒。鬼虫10と目標が会敵した瞬間の、苑劃都市内周部第九区バベルの塔地下中央管制司令部。

「甲層通信塔より、報告! 目標の体内に高エネルギー反応!」

「伊種第3光学観測所より、入電! 目標周辺に異常力場の発生を確認、重力場及び電磁場の異常増加を観測。PT結界展開密度180%に増幅! M.Gフィールドの発生を確認!」

「αΩ線の積線量が予想値の2倍を超えます!」

「Magia clusterも再確認、分析パターンは紅紫。繰り返す、分析パターンは紅紫。大規模な共鳴現象が発生する危険性大!」

「検出されたPT結界のPB序列との照合結果が出ました、既存のそれと一致しません! 目標は桜冠不明殻式文法司です!」

「Maryによる感知情報の検証処理、完了。内殻器官活性化率、400%に増大! A10神経のオートレセプター反応なし、抑制無効。器官解放の感有り! 目標のセロトニン産生効率が急激に悪化。コルチゾールの多量分泌を確認。前頭前皮質の活発化を確認なるも扁桃体の活動指数、極度に上昇。ARAS覚醒水準が想定限界超過、危険域に突入! レベル9に到達! 過剰覚醒抑止不能!」

 その瞬間だった、第六席迦楼羅がラサーヤナ前哨狙撃部隊第1小隊隊長に対し射撃命令を発したのは。

 そして、七月十九日、0時06分54秒。

 計算誤差を絶えず修正している光学観測システムが映す、管制の要である主モニターが白光に染まった。


 夜が、爆轟した。


 閃光と爆音と爆風と爆炎と衝撃波と電磁波と膨大な熱量によるプラズマ化を伴う嵐だった。

 音を置き去りにするプラズマを伴う爆発的な閃光が、第一区一帯を完膚なきまでに塗り潰した。否、もはや「火球」として夜闇を焼く。光に比して遅過ぎる時間差で轟いた爆音は大気を砕き、外周部の防壁を容易く越え、遥か彼方に広がる東の海が波打った。ほんの一瞬遅れて途轍もない速度の爆風があっという間もなく馬鹿げた広範囲にまで猛然と吹き荒れ、一斉に窓硝子を悉く割り、音速を優に超える速さで細かい破片が夥しい数で飛び散り、幹線道路や区画道路で超渋滞状態のまま放置されていた数多の車列をミニチュア模型の如く次々としっちゃかめっちゃかに吹っ飛ばす。徹底的に全てを呑み込む爆炎は、この世のものとは思えない破格の熱量と驚異的な速度と恐るべき破壊力で街を破壊する。火砕流もかくやな常軌を逸脱した勢いで高層ビル群にぶち当たって焼き尽くし、壁面や構造材は刹那に融解し、ビル街は無論のこと熾天橋や線路や大通りや路地裏に至るまで火の点く物全てを巻き込んで燃焼していく。プラズマ化の眩く輝く光と共に球状に途方もなく拡大していく爆発は、超高温の電磁熱線を放出しながら逃げ遅れた無慮数万の人々を無差別に襲う。

 もはや人間など炭化するしかない。爆心地にいた万字は、消し炭

 覚醒。

 

《第肆態ウ化/第伍覚醒シン化》、緊急変態完了。

 赤気爆発、血の色をした禍々しい赤気が瞬く間に全天へ及ぶ。

 直径一キロの長大な火柱が、大気を貪欲に喰らいながら天と地を縦一文字に突き抜けた。

 爆轟により発生した真空への吹き戻しは嵐の如き豪風となり、重い雨雲の如く宙に残る黒煙を含む一切合切のガラを爆心地へ滅茶苦茶に引き飛ばしていく。

 怒涛の勢いで押し寄せる衝撃波で渦を巻く火の海に屹立し、赤気を帯びる茫漠とした夜天を覆い尽くす四枚の巨大な翅を拡げ、一対の眼状紋がぎら、と睥睨し、五千度の膨張する莫大な熱源と化した身の丈四〇メートルはある紅の巨人が、形而下によって露出した胸部の真っ黒い外殻を鼓動させ、爆誕の悍ましい金切り声を上げて、そこにいる。


 低軌道を飛ぶ米国のSAR型偵察衛星は、八洲の苑劃都市外周部第一区に二種類の光を認めた。

 爆轟の光と、刹那の後に天地を繋ぐように立った紅の巨人が生やす翅の脈動する赤き光だ。

 爆轟による電波障害の沈静化を待ち、磁場カクハン率が66%まで減少した事を受け、ローター音を響かせながら十二分後にようやく空域に突入したUH-60JXが伝送した空撮には、停電で全く光源のない第捌から第拾参管区における暗闇の「黒」と、猛り狂う火災旋風の渦中に在る第壱から第陸管区による燃焼の「赤」「橙」と白熱化の「白」が凄絶なコントラストで映え、目標の軌跡に沿って未だ衰えを知らない第漆管区の炎上と、残留する白煙が風通しの良くなった東ブロック防壁から海側へ向かって絹じみた雲へと崩れ撹拌していく様子と、そこから流れ込む夥しい海水が尋常ならざる勢いで洪水としてあらゆる物を呑み込んでいく光景が映っていた。

 これが俗に云う、7.19爆轟事故である。

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