たゆたうボート

水戸楓

たゆたうボート

【ⅩⅤ】

 揺らめくカーテンのレースは、綺麗な影模様を床に描く。深く息を吸い込むと、微かな潮の香りがわたしを満たした。大きな窓から見える青空は雲ひとつなくて、太陽が偉そうに威張っている。今日は一日快晴だと、天気予報のお姉さんが嬉しそうに言っていたのを思い出した。ずっと家に居るわたしは、特に気にする必要もないけど。

 ゆったりとした音楽は、秒針の音を邪魔しない程度に部屋の中を漂う。わたしは名も知らない弦楽器の音に耳をすませて、この心地のいい時間に思いっきり身体を委ねた。おねえさんはボルドー色のソファに深く腰掛け、手をお腹の上で交差させながら目を閉じている。死んでいるみたいに綺麗なその姿は、昔見た「若き殉教者の娘」という絵を想わせた。その神聖な美しさが少し怖くて、口元に手をかざしてみる。長い睫毛がゆっくりと上がり、眩しそうに目を細めてこちらを見た。

「どうしたの」

「生きてるかなって思ったの」

「死んでた方がよかった?」

「ううん。生きててよかった」

 おねえさんは、それから一言二言発するとまた目を閉じてしまった。凹凸がはっきりしている顔に影がかかって、少し暑そうだ。カーテンを閉じて、部屋を暗くしてあげる。

 おねえさんが寝ている間に何をしようか。ご飯の下ごしらえに、掃除、洗濯。やることは沢山ある。考える。考える。……ふ~ん……、ふん、ふふふ~ん……。鼻歌がこぼれた。……んふふん。それは、曲名もアーティスト名も知らない、おねえさんがよく流している音楽だった。フフッ。そういう小さなことに、喜びを感じてしまう。



 しかし、二人で住むにはここは少し広すぎる。取り込んだ洗濯物を畳みながら、部屋を見渡した。昔から薄々思っていたんだけど、おねえさんはわたしが来る前に誰かと住んでいたのかな……。すると凄く孤独な気持ちになって、何でそんな気持ちになるのか分からなくて、苦しくなる。心に空いたいくつもの隙間から風が通り抜けていくみたいに、寂しくて、虚しくて、空っぽで。風が通る度に、その隙間をよりいっそう強く感じてしまう。何が怖いのか、自分でも分からないから対処もできない。この時間が一秒でも早く過ぎ去ってほしいと願いながら、ただ、小さくうずくまる。時々おねえさんを見て、おねえさんの高い鼻を見て、顔にかかるこげ茶の髪の毛をみて、呼吸に合わせて上下する胸をみて、安心する。

 そうしてゆっくり、目を閉じる。



 ──ところで、「ワカキジュンキョウシャノムスメ」なんて、何処で見たのだろう。


 ♢♢♢


 風が吹いた。私のために閉めてくれたのだろうカーテンの裾が、あわせて揺れた。風は音楽とともに部屋中をあてもなく彷徨い、もうひとつの窓から抜けていく。天気や気温に脅かされないこの部屋は、忙しなく動く社会とはかけ離れている。魚が泳ぎまわる海、その上で揺蕩たゆたう小さなボートみたいに、外とは別の時間が流れていた。窓を閉めてエアコンを稼働させる。風とはまた違った心地よさが身体を包んで、気持ちがいい。暦の上では秋が始まったけれど、まだ暑い日は続くみたいだ。

 家を出るまでまだ少し時間があるのを確認して、珈琲を一杯淹れた。濃い目のカフェインが、否が応でも目を覚まさせてくれる。


 リビングでは、取り込んでくれたのだろう洗濯物が白い小さな山をつくっていた。その横には、同じ高さで揃えられたタオルの塔が連なっている。小山の上で眠る姿に、思わず頬が緩んでしまった。途中で寝てしまったのか、手には畳みかけのシャツが握られている。

 君を眺めていると、その整った顔立ちに改めて感心する。長い睫毛、薔薇色の頬、もぎたての苺のような唇。横顔にはまだあどけなさが残りつつも、スッと通った鼻筋からは、大人びた雰囲気を感じさせている。この相反する魅力は、今の時期ならではのものだろう。どんどん魅力的になっていく君を見て、口の端が少し上がった。

 肩甲骨まである長い髪の毛を一房、すくう。若くて、艶のある、健康的な髪。手をゆっくり広げていくと、それは指の間からハラハラと落ちていった。広がった黒髪は、真っ白な雪山によく映える。


 飲み終わったマグカップを軽く洗い、棚に戻す。ちょうどいい時間だ。ジャケットを羽織り、シンプルな鞄を持った時、苦しそうな唸り声が聞こえてきた。嫌な夢でも見ているのだろうか、少し汗ばんだ額を拭うと、身体をこちらによじらせた。心配だが、もう出なければならない。

 音楽が止んだ。また最初から流そう。

 このが良い夢をみられるように、おまじないをかけて。


 ♢♢♢


 目が覚めると、ひとりだった。暗い。暗い部屋。かすかに見える、ソファ。机。観葉植物。テレビ。写真立て。はっきり聞こえる、秒針の音。私の呼吸音。

 ──×××××はどこ? 

 扉が開いた。部屋が急に明るくなって、眩しい。

「大丈夫?」と声をかけられたので、「ひとりはいや」と答えた。

 顔をあげると、心配そうに眉をひそめるおねえさんがいた。

「おねえさん」

「いるよ、ここに。大丈夫」

 上から抱きしめられて、少しくすぐったいような嬉しいような、温かいものがわたしの中に入ってくるようだった。おねえさんの髪の毛が鼻孔をくすぐる。わたしと同じシャンプーの香りと、おねえさんの香水が交わって、とても安心する。もう大丈夫。

「おねえさん」

「ごめんね。もっと早く帰れるようにするね」

 トントン、と背中を優しく叩いてくれる。一定ではないけど、優しいリズムで。

「……ううん、わたしもごめんね。おかえりなさい。お仕事おつかれさま」

 おねえさんは笑わない。深く苦しそうな顔をしている。わたしよりもずっと苦しそうに顔をしかめている。

「私はずっとそばにいるからね」

 また、困らせてしまった。 




【ⅩⅡ】

 おねえさんと食堂にきた。二階が住居、一階で商いをしている、よくある町の大衆食堂だ。おねえさんはここの料理が好きで、よくわたしを連れて行ってくれる。少し立て付けの悪い扉を横にひくと、ふくよかで優しそうなおばちゃんが声をかけてきた。おねえさんが人差し指と中指を立てると、奥の席に案内される。店内に居るのは、夫の愚痴を言いあう主婦の集まりと、甲子園の実況に一喜一憂しているおじさん達と、おねえさんとわたしだけだ。クーラーは故障中なようで、緑色の扇風機が熱風をかき回している。夏は始まったばかりなのに、大丈夫なのだろうか。

 いつも頼むものは決まっているので、席に座ってすぐおばちゃんを呼ぶ。料理を待つ間、二人を別つテーブルの上には沈黙が座り込むが、わたしはこの時間を苦だと思ったことはない。

 昨日よりも暑い今日、おねえさんの髪の毛は珍しくひとつに結ばれて、いつもは隠されている形のいい耳が、惜しげもなく曝されていた。顎を軽く乗せた両手の爪には、仕事の邪魔にならない程度のシンプルなネイルが施されている。その骨ばった長い指に、わたしはいつも見惚れてしまう。まだ焼けていない、瑞々しいほどに白い二の腕や、少し汗ばんだ鎖骨、肩から首にかけての曲線も綺麗で、それに──、

 あっ。

 視線をこちらに戻したおねえさんと目が合った。

 おねえさんはわたしから目を逸らさずに、口角をゆっくりと上げる。

「なあに」

 その蠱惑的な眼差しに、思わず視線を逸らしてしまった。

 夏の始まりを感じさせるおねえさんは、何だかいつもより艶っぽい。



 おねえさんはグリンピースが苦手だ。なのに、いつもオムライスを注文して、わたしの生姜焼きの横にグリンピースを積んでいく。オムライスを食べられて嬉しそうなおねえさんと、緑の山を前にため息をつくわたし。いつもの事だから慣れてしまったが、毎回こうだと辟易してしまう。

 前に一度、「グリンピース抜きで頼めばいいのに」と言ったら、「グリンピースのないチキンライスなんてつまらない。スプーンで中を開いた時、赤い背景に黄色と緑色のアクセントが無いなんて、考えるだけで虚しいよ」って、グリンピースをはじきながら言っていた。

 ──そういえばその後、「何でグリンピースが食べられないの」って聞いたら、おねえさん曰く、「昔は大好きだったけどね、ある時ふと、食べられなくなったんだ」らしい。「何で大好きだったものが食べられなくなっちゃうの」と尋ねたら、おねえさんは「さあ」と首を傾げてしまった。


 おねえさんと住んでいると、こういう事が何度かある。熱心にリピートしていたバンドの曲も、いつの間にか全く聴かなくなっていたり、冷蔵庫に入っている飲み物も、それまでずっと同じものが場所を占領していたのに、最近では全く違うものが我が物顔で鎮座していたり……。

 そんなおねえさんを見ていると、少しだけ怖くなってくる。執着しやすく飽きやすいおねえさんは、このグリンピースのように、いつかわたしも捨ててしまうのかもしれない。もしかしたら、前に住んでいた人も、その前に住んでいた人も、同じように捨てられたのではないか。わたしもその人たちと同じように、この緑の山の一部になってしまうのではないか。

 フォークでひとつひとつ食べていくと、どんどん崩れていって、そうして最後に消えていく。そんな様を見ていると、酷く臆病になってしまう。このまま、わたしも、消えてしまうのかな。



 美味しそうにオムライスを頬張り終えたおねえさんは、

「オムライスはさ」と、紙ナフキンで口まわりを拭きながら言った。

「オムライスだけは、昔から好きなんだよね」

「苦手なグリンピースを、わざわざ取り出して食べるほど好きなんだ」

 少しぶっきらぼうに返してしまった。

「それじゃあ、オムライスみたいに好きな人ができたら、わたし達みたいなグリンピースは、おねえさんというお皿から排除されちゃうんだね」なんて言えるわけがなく、下を向いてチマチマとグリンピースをつつく。

「あ、怒ってる? ごめんね。別に嫌いなわけじゃないんだよ」

 そう言うとおねえさんは、グリンピースを一粒スプーンにのせて、あむっと口にいれた。ほらね? っと言うような顔で咀嚼して、飲み込む。

「おいしい、よ?」

 その顔が可愛くて、可愛くて、思わず笑ってしまった。

 わたしの目の前におねえさんが居る。今はそれだけで充分だ。




【Ⅷ】

 古いレコーダーからは、知らない曲が流れている。

「ご飯を食べたら散歩に行こうか」

 音と音の隙間におねえさんの声が挟まった。

 おねえさんの声は色に例えるとパステルカラーだなと、ふと思った。雨上がりに見たアジサイの花や、前に見た映画のヒロインが着ていたドレス、そういう色をパステルカラーと言うんだって教えてくれた。優しい、凛と透きとおった綺麗な声。わたしの大好きな声。

「行く」

 キッチンから覗く顔に、思いっきり笑顔でそう返した。


 おねえさんはあまりご飯を作らない人だ。わたしはおねえさんの作る料理が好きなのに、普段はデリバリーか、何処かで買ってくるお惣菜ばかり。でも今日は珍しくミートソーススパゲッティを作ってくれた。きっと、さっき見ていたスパゲッティ特集の料理番組が良いきっかけになったんだ。嬉しい。

 おねえさんの手料理は相変わらずおいしくて、ついニコニコと食べちゃう。

 その姿を見たおねえさんは、

「あなたは警戒心が無いのね」って、不思議そうに言った。

「もしかしたら毒が入っているかもよ」と、いたずらっ子みたいな顔で続けるから、

「死ぬ前に食べるモノは、おねえさんの手料理って決めてるの」って、答える。

 すると楽しそうに笑いながら、わたしの頭をワシワシと撫でてきた。

 おねえさんは料理を食べずに、わたしが食べているのをじっと見ている。


 ♢♢♢


「おさんぽ、行かないの?」

 食器を洗っていると、背後から少し舌足らずな声が聞こえた。

「これが終わったらね」

 そう答えると、タッタッと何処かに行ってしまった。

 声が昔より近くから聞こえたことに驚く。子供の成長は早いなと、少し感慨深いものを感じた。あれからもう三年……、か。


「散歩はまた今度にしようか」

 ソファでくつろぐ背中に声をかける。返事がないかわりに、首が上下にガクンッと動いた。肩で切り揃えられた黒髪が揺れる。最初の頃に比べて大分髪の毛が伸びてきた。艶も出てきて、とても綺麗。

「本当によく似てる……」

 ソッと抱きかかえ、ベッドに移す。そのまま毛布をかけて、明かりを消した。目元にかかる柔らかい髪をそっと撫でて、白い額にキスをする。良い夢が見られるおまじないだと、昔、あの人が教えてくれた。

 私もそろそろ寝よう。小さな君におやすみを言い、扉を閉めた。


 ♢♢♢


 ながい夢をみた。とってもながくて、このままさめないんじゃないかってすごく怖くなる夢。

 しらない大人が三人と、黒いものがでてきた。最初にできた大人は、よく覚えてないけど、たしか男の人と女の人だった。わたしを見て、やさしくわらった。

 ここまではしあわせな夢だったのに、きゅうにまわりがくらくなった。泣きたかった、さけびたかった、でもそれをしたらダメって分かっていたから、しずかにしてた。ドアをあけてはいけない。ここから出てはいけない。声をだしてはいけない。なんかいも心のなかでくりかえした。

 せまくて暗いとこだった。すごい怖くて、ぬいぐるみのアーニャと、だいすきな絵がかいてある本をギュッとだきしめた。


 声が聞こえた。今まで聞いたことがないくらい、おおきくてつらそうな声。

 わたしは、ドアをほんの少しだけひらいた。まっくらな部屋なのに、よこになってるナニカと、そのとなりに立っているモノがはっきりとみえた。くろくて顔はよくみえなかった。でも、なんでだろう。こっちをみたようなきがした。



 めがさめると、ひとりだった。赤い。赤い部屋。かすかに見える、ソファ。机。よこになっているナニカ。たおれたテレビ。われたしゃしん立て。はっきり聞こえる、とけいの音。わたしのしんぞうの音。

 ──ママとパパはどこ?


 とびらがあいた。部屋がきゅうに明るくなって、まぶしい。

「大丈夫?」と声をかけられたので、「ひとりはいや」とこたえた。

 顔をあげると、しんぱいそうに眉をひそめるけいさつのひとがいた。


 わたしは、しつもんになにもこたえられなかった。




【Ⅴ】

「あ、えっと……」

「どうした、眠れない?」

 そう聞くと、君はコクンッと頷いた。

 浅い睡眠から目が覚めて、喉を潤しにベッドから出ようとしたときの事だった。

「そうか」

 君は困ったように俯いて、シーツを指に巻き付けている。何度も会ったことはあるけど、やはりまだ気を使われているのか。

「よし。じゃあおねえさんが、絵本を読んであげる」

「……おねえさんが?」

 少し警戒したような口調だ。もっと甘えてくれても良いんだけどな。そう思いながら、少し頭皮が見える頭を優しく撫でる。所々髪が抜けてしまっているのは、あの時のストレスからきているらしい。私はその髪を見る度に、酷く悲しい気持ちになる。あの人ゆずりの美しい髪の毛なのに、もったいない。



 絵本を読み終わると、眠たそうに目を瞬かせた。

 コクン、コクンッと頭を揺らしている。

「あのね……、おねがいがあるの」

「なに?」

「おでこにね、ちゅって……、してほしいの」

 思わず表情が凍り付いた。

「いいけど、どうして?」

「おまじない、いいゆめがみられる」

「誰かにしてもらったの?」

「……わかんない」

 悲しそうな顔でこちらを見上げる君を優しく抱きしめ、額にキスをした。目を細めて、くすぐったそうにおでこを触る。その頬には、うさぎの足跡のような可愛い笑窪が二つ浮かんでいる。

 目の前で両親が殺されたショックで、記憶が殆ど消えてしまったとお医者さんに言われた。その記憶の断片を思い出したのかと驚いたが、よかった、大丈夫そう。

「ねえ、おねえさんは、すきなひといた?」

「いたよ。昔だけどね」

「さっきのえほんの、おうじさまみたいなひと?」

「どうだろう。分からないな」

「いまはいないの?」

「そうだなぁ……。今は君が、私の可愛いお姫様だよ」

 おどけて抱きしめると、小さな口でキャッキャッと笑う。

 そうしていると、いつの間にか君は疲れて眠ってしまった。


 部屋を暗くして、私はキッチンに向かう。

 王子様。運命の人。唯一無二の人。どの言葉もあまりピンとこない。水を飲みながら考えるが、あの時の気持ちにふさわしい言葉は見つけられなかった。

 ベッドに戻った時には、鉛のような眠気が私を襲った。


 

 懐かしい夢を見た。とても懐かしい、幸せな夢だ。

 今思い返しても、〝あれ〟は人生最良の日だった。

 何もかもを手にする事ができた、あの日。

 愛を永遠のものへと昇華した、あの日。

 ゾクゾクとした震えはまだ止まらない。



 私は子供を引き取りたいと願い出た。



 君と再会して、目があった瞬間、私は思った。「これからこの娘を守っていくのは私なのか」って。ああ、可哀想に、君は酷く怯えていた。ウサギのぬいぐるみと、画集を胸に抱えて小さく震えている。私のこと覚えていない……、のかな。何度か会っているけれど、仕方ないか。距離はこれから少しずつ縮めていこう。

 ポール・ドラローシュの絵が好きなのはお母さんの影響だろう。博識な彼女から、私は沢山の事を教えてもらった。絵画はもちろん、キリスト教やギリシア神話、シェイクスピアの『ハムレット』に、ダンテの『神曲』……。

 夕陽が射す部屋、ひとつの本を……、ふたりで読んだ、あの柔らかい時間……。


 ──いけない。

 ゆっくりと思い出に耽っている場合では無かった。この子の手続きをしないといけないし、荒れた部屋も片付けないと。やることは沢山ある。

 抱きしめたくても、私のよごれた服でこの娘をけがしたくないから、代わりに優しくおでこを撫でて、軽くキスをした。

 おやすみ、愛した人の可愛い娘。良い夢が見られますように。



 あの人が出てきてくれた。聡明でとても優しい人。思い出すだけで微笑んでしまう、とろけるほど甘い日々。ベッドの上でしてくれた、あのおまじないは今でも忘れない。そして、もう一人の愛した人も出てきてくれた。なんて豪華なのだろう。



 悲しいさよならさえも、美しい思い出に変えてくれたあの人は結婚した。

 ──私の親戚と。

 ええ、多分あの人はこの関係を知らなかった。だってその相手は、今まで一度会ったキリの遠い親戚だったから。

 親も身近に頼れる人もいない彼女は、私がかつて愛した人と素敵な家庭を築いた。式をしていないのは、お金とその家庭事情を考慮してだと思う。



 聡明なあの人が選んだ相手を、気がつけば私も好きになってしまっていた。

 偶然を装って近づき、会話を重ねた。キチンとしているようで少し抜けていて、不器用だけど美味しいオムライスを作ってくれて……。

「好き」が「愛」に変わるまで、そう時間はかからなかった。

 何で知らなかったのだろう、こんなに素敵な人が自分の親戚に居たなんて。愛する人と血が繋がっている幸運を、神様に感謝したいくらいだった。



 二人の子供も見せてもらった。あの人とは、円満に別れた後も友達として交流が続いていたから、家によく招かれていた。

 本当に愛らしい子。私の好きな涼しげな目元、私の好きな形の唇、私の好きな耳、私の好きな鼻、眉、爪の形、そして可愛い笑窪。全てが「私の好き」で造られた女の子だった。



 二人の訃報を聞いた。何者かがマンションに侵入して、見るも無残な姿で殺されたという。一人は、私とのデートでよく使っていた〝黄色いハンカチ〟を、もう一人は、私と初めて出会ったときに穿いていた鮮やかな〝緑色の靴下〟を身に着けて、〝真っ赤な血〟の海に浮かんでいたらしい。ゾクゾクと身が震える思いだった。

 あの日、かつて愛した二人が、愛した姿で永遠となったのだから。



 こうして子供は一人、残された。



 あの人は駆け落ち同然で家を出てきて、その相手にも頼れる人はいない。

 遠い親戚とはいえ、血が繋がっていて、家族ぐるみで交流があったのは私だけだったから、代わりに育てる申し出はすんなり受理された。

 きっと、社会的地位の高さも考慮されたのだと思うけど、何が理由だったのかは興味がない。あの子を育てていける、その事実だけが私を動かしていた。


 それは断片的な夢だった。アルバムに入っている写真の位置を、子供がいたずらに入れ替えたような時系列で、海原を当てもなく揺蕩うボートのように不安定な夢。

 だが、何ものにも代え難い、素敵な思い出だ。



「おはよう」

「ん……、おはよう、おねえさん」

 クマのぬいぐるみを胸に抱いて、眠たそうにこちらを見上げる。

 久しぶりに画集を見たくなったが、残念ながらもうこの部屋には無い。


 目の前の幸せと、かつての幸せを同時に感じた朝。

 幸福に満ちた私が流れ着く先はきっと──、


嘆きのアケロン川」だろう。



〈了〉

                

                              

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たゆたうボート 水戸楓 @mito_kaede

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