逃走

 顔面と腹部の一部が毟り喰われている死体。そこから湧いて出た‘新種‘と思われる昆虫。


 この光景を見て、春樹は何をすべきか分からず、立ち尽くしていた。その時、突然携帯が鳴った。電話をかけてきたのは、聡だった。


「おい、春樹!聞こえているか!?」


「あ、あぁ。なんとかね。」


「そうか、良かった・・・春樹、今から1時間ほど前、例の‘新種‘が一斉に巣から飛び立ったそうだ。日本各地で数多くの死傷者が出ている。早く安全で、食料の備蓄があって、最低でも2ヶ月は暮らせる場所に避難しなさい。」


「ちょっと待ってくれよ。なんだっていきなりそんな事、避難だって?そんな大袈裟な、大災害でもあるまいし・・・」


「春樹、聞きなさい。今までも‘新種‘による被害は度々あったが、今回は訳が違うんだ。たった1匹でも3時間で犬の死体を骨に変える昆虫が、あの巨大な巣の中で凄まじい速度で増殖して、一斉に放たれたんだぞ。これはもう、れっきとした大災害なんだ。数日のうちに交通機関や報道機関が停滞する。もうしばらくは、今までのような日常生活には送れないだろう。」


「そんな・・・」


「とにかく、この騒ぎが収まるまで安全な場所にいなさい。分かったな。」


 そう言って聡は電話を切った。この時点では、春樹は事の重大さをまだ理解していなかった。


 安全な場所とは何処なのだろうか?そう考えた春樹は取り敢えず、大型ショッピングセンターを目指した。いつか見た映画で、人々が怪物から身を守るべくショッピングセンターに立て籠もっていたのを思い出した。ここから一番近い所だと、車で1時間近くかかる距離にあるようだ。春樹はぼちぼちと歩きだした。


 見慣れた街を歩く春樹。だが、街の雰囲気は、いつもと違っていた。‘新種‘が一斉に飛び立ったことが報道され、街を歩く人々は警戒心を強めていた。不穏な空気の中、春樹は足早に歩いていた。


 その時だった。


「おい、何だよあれ!」


 一人の男が、上を指差して叫んだ。春樹はその声に驚き、空を見上げた・・・


 空を飛んでいる‘新種‘の大群が、こちらに迫って来るのが見えた。


 春樹は走り出した。街は阿鼻叫喚の巷となった。道行く人々は皆、‘新種‘の大群から逃げ出していた。よくあるパニック映画の冒頭を思わせる光景が広がっていた。咄嗟に春樹は近くの駅に駆け込んだ。幸い、電車はまだ動いていた。急いでICカードを改札にタッチさせ、一番早く到着した電車に乗り込んだ。春樹はホッと一息ついた。これが目的地行きの電車なのかどうか、春樹は考えていなかった。安全だと思われる場所へ逃げるのが精一杯だった。果たして電車の中は、安全だったのだろうか・・・?


 結論を言うと、そうではなかった。


 突然、電車内に女性の悲鳴が響き渡った。見ると、その女性の足元に、‘新種‘が数匹噛り付いていた。電車という閉鎖された空間の中に、‘新種‘が入り込んでしまっていた。当然、電車内は大混乱だった。春樹は別の車両へ逃げた。しかし、そこでもパニックが起きていた。


 春樹は見せつけられた。‘新種‘の恐るべき力を・・・


 1匹の‘新種‘が、子供の腕から、悲鳴を上げる口へと這い上がって、口から体内に侵入した。声帯を食い破られたのだろうか、甲高い子供の悲鳴がおどろおどろしくなり、声を上げる度に子供は吐血した。しばらくすると、子供がパタリと動かなくなって、その腹のあたりを突き破って、‘新種‘が再び血塗られた恐ろしい姿で現れた。子供だけではない。サラリーマンや老人、春樹と歳が同じくらいの学生達が、‘新種‘の餌食になった。電車内はたちまち地獄絵図と化した。


 なんとか生き延びた春樹は、電車を降りて駅の外へ出た。パニック状態の中、タクシー乗り場に1台のタクシーが停まっているのを見つけた。すかさず春樹はタクシーに飛び乗ろうとした。その時。


「すみません、僕も、乗せて下さい!」


 春樹の他に、タクシーに乗り込んだ青年がいた。髪が長く、眼鏡で、痩せていた。青年は何か大きな荷物を抱えていた。見るからにオタクだな、と春樹は思った。


「どちらまで行かれますか?」


 運転手は訊ねた。


「取り敢えず、安全な場所まで。」


 春樹とオタク青年を乗せて、タクシーは走り出した。後部座席には小さなテレビが付いていた。ほとんどの局が今回の‘新種‘大量発生事件を報道していた。すると、オタク青年がチャンネルを7にした。テレビ画面からアナウンサーは消え、代わりにオタク青年が見ていそうな、日常系アニメが映った。


「ほ、ほら、7チャンネルがこうやってアニメ流してる間は大丈夫だから・・・」


 オタク青年の渾身のジョークだった。春樹がぷっと吹き出しそうになった時、テレビ画面からアニメは消え、真面目そうなアナウンサーが映った。





「・・・番組の途中ですが、ここで臨時ニュースをお伝えします・・・」




 車内が静まり返った。

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