第142話 別れ、そして出会うまで(後編)
-side 柏木奈々-
事故に遭った彼が再び登校を始めるまでには実に、二ヶ月もの期間を要した。
そして、その長い時間を私が心穏やかに過ごせるはずもなく。悶々とした心持ちで日々の教師生活を送る中で、私はとにかく色んなことを考えた。
次会った時はどういう風に声を掛けようか?
私のことを覚えていないのなら、初対面想定で話すべきかな?
そもそも、前みたいに私と話してくれるのかな?
……なんて、そんなことをどれだけ考えたとしても徒労に終わるだけだと分かっているのに。私はぐるぐるぐるぐると、頭の中でどうしようもない考え事を繰り返しながら、彼と再開するまでの日々を過ごした。
そして……長いようで。けれど、今思えばあっという間だったような気がする二ヶ月を経て。ついに私は彼と、再開のようであり、初対面でもあるような。奇妙な対面を迎えることとなった。
「......し、失礼します」
早朝、いつも通りの職員室。聞き慣れた声で、しかしこれまで見たこともないくらいに緊張した面持ちで、彼が扉から顔を覗かせた。
「おう、田島。来たか」
最初に掛ける言葉は、一生懸命考えたつもりだった。けれど口を衝いて出た言葉は結局、頑張って考えたどのセリフともかけ離れたものだった。
不安げな彼を見ていると、今必要なのは私の綺麗な言葉なんかじゃないと思えてきて。気づけば最低限の言葉と共に、私の足が職員室の入口へと向かっていたのだ。
独りでここまで来た彼に、少しでも早く声を掛けてあげなければいけない。
右も左も分からない彼を、私が導いてあげないといけない。
君の期待に恥じないように、今度こそ立派な教師にならないといけない。
──今までいっぱい助けてもらった分、これからは私が助けてあげるんだ!
彼の姿を見た瞬間。私の胸にはそんな思いが去来していたのだ。
二ヶ月頭を悩ませたことなんて嘘じゃないかと思えるくらいに、思考はクリアに澄んでいて。迷いなんてもう、吹っ切れていた。
「1年6組担任の柏木奈々だ。担当科目は国語。事故の事情はお母様から聞いている。大変だったな」
少し足早に駆け寄って、淡々と声を掛ける。以前と変わらないようで。しかしどこか落ち着きのない様子の彼の視線が、私の視線とぶつかった。
「私は駅伝部の副顧問だから実はお前とは以前に結構関わりがあってな」
そして、彼と目が合った瞬間。私の中の迷いは完全に消え去っていた。
記憶を失ったから以前の彼ではないだとか、私を覚えていないから接し方を変えなければならない、だとか。結局そんなものはどうでも良かったんだ。
きっと大切なのはこれからどうするのかということで。大事なのはこれからどうしたいのかという、私の意志で。
そして再開を果たした瞬間に、私の意志は固まっていた。
「私は駅伝部でなくなったお前にも以前と同じように接するつもりだ。これからよろしくな」
たとえ君が私のことを忘れてしまったとしても、そんなのは関係ない。生意気で、お調子者で……そして、誰よりも優しい君と。
私はただ以前と同じように、平穏な日々を過ごしたかっただけなんだ。
◆
「先生、どうしたんです? 急にボーっとしちゃって」
「……ああ、いや。別になんでもないぞ」
ぼうっとしていた意識を現実に引き戻す。私としたことが、少々物思いに耽り過ぎていたようだ。
……ふふ、ついつい昔のことを思い出しちゃったな。
「なんというか、珍しいこともあるものですね。いつもはキリッとしている先生がぼーっとしちゃうなんて」
相変わらず寒そうに身体を縮めながら、田島が言う。
「多分私は君が思うほどキリッとしていないし、立派でもないさ。そう見えるように、少しだけ頑張っているだけだ」
「ああ、確かに。先生って意外とドジなとこありますもんね」
「うるさい。君はいつも一言多いんだよ」
片や、ココアを手に持つ猫背の高校生。そしてもう片や、飲めもしないブラックコーヒーの処理に困る成人女性。冷静に考えると、とても修学旅行中とは思えない光景じゃないだろうか。
けれど過去に起きたことを思い返すと、この何気ない時間を私はとても愛おしく思ってしまう。記憶を失っても驚くくらいに変わっていない彼が隣に居るだけで、私は安心してしまうのだ。
「……」
「……」
初冬の京都。心地よい静寂の中を、冷たい風が吹き抜ける。
けれど、その風は屋上で涙したあの夏の日よりは、暖かく思えた。冬風が夏風より暖かいだなんておかしな話かもしれないけれど、私の頬はぽかぽかと暖かいのだ。
「なんか先生、さっきからニヤついてません?」
「ん? そうか? ふふ、そんなつもりはないんだが」
「ほら、今もちょっと笑いましたし。いや、表情が柔らかいのは良いことなんですけれども」
「だったら良いんじゃないのか?」
ふと、彼とは事故に遭ってからの付き合いの方が長いことに気づく。補習で話すことも多いし。会話には随分と慣れたものだ。以前はからかわれればすぐに顔を赤くしてしまっていたけれど、最近は軽くいなせるようにもなった。うんうん、成長成長。
「おーい! スタンプゲットしてきたアルー!!」
「ぜぇ……ぜぇ……ちょ、ちょっとリンさん……下り階段を走るのは……はぁ……はぁ……危ないでしょ……?」
田島との会話にひと段落つくと、スタンプスポットに向かっていた二人が階段を駆け下りてきた。リンは相変わらず猛ダッシュで、市村は息を切らしながらもなんとかリンの背中を追っている。私と田島ののんびりとした時間もこれで終わりかと思うと、少しだけ名残惜しくなった。
「ほらほら、危ないからゆっくり降りてきなさい」
気を引き締めなおし、教師としての監督立場を思い出しつつ。腰掛けていたベンチから立ち上がる。
「きゃっ!?」
立ち上がった……つもりだったけれど。何を踏んづけたわけでもないのに、私は足を滑らせてしまった。
ああ、視界が回転する。なんでこんなタイミングで体勢を崩しちゃったんだろう。これじゃあ田島が言った通りのドジ教師じゃない。私、多分このまま盛大にコケて笑いものにされるんだろうな……
──なんて、諦め半分で受け身を取ろうとした時だった。
「っと、危ねぇギリギリセーフ」
「……え?」
背中に当たったのは、硬い地面の感覚では無かった。視界に入ったのは、眩しい太陽では無かった。
「いやー、ナイスキャッチ俺。つーか先生ってメッチャ軽いんですね」
「え、えっと……ありがとう……」
背中に触れているのは、私を抱きかかえる二本の腕で。私の瞳に映ったのは……いつもと変わらない、まばゆい笑顔だった。
「いやー、隣に座ってて良かったっす。もう少し離れてたら助けられませんでした」
「……」
……ああ、そんな。なんで。どうして。今までは何をされても、こんな気持ちになることなんてなかったのに。どこまでいっても君は生徒で、子供だったはずなのに。
私の庇護対象で、私の恩人で、私の教え子だったはずなのに。
──どうして身体を抱きかかえてもらっただけで、私の胸はこんなに熱くなっているの……?
心の中でアラートが作動する。ダメだ。気づいてはいけない。気づいても何も良いことなんてない。今すぐ彼から離れて、何もかもを元通りにしなければいけない。そうしなければ、取り返しがつかないことになる。
そんな警報が、うるさいくらいに頭の中で鳴り響く。
「……ほら、ね? だから言ったでしょ?」
──ああ、でも、きっと。今更焦って取り乱したところで、それはあまりに遅すぎたのかもしれない。
「先生はドジだから、目が離せないんすよ」
その悪戯な笑顔を見た瞬間。私の鼓動は、もう言い訳ができないほどに速まっていたのだから。
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