第141話 別れ、そして出会うまで(前編)
-side 柏木奈々-
記憶喪失というものは決しておとぎ話などではなく、この世界のどこかで起きている現象だ。
しかし私たちは心のどこかで、それをフィクションであるかのように捉えがちな部分もあるのかもしれない。
まさか自分の身には起こるまい、と。誰かがそんな目に遭うことはあるかもしれないけれど、自分には関係ないだろう、と。
どこか他人事で、絵空事のようで。実際、そう考えるのは何らおかしいことではないのだと思う。
『亮は……記憶を失ってしまったんです』
──だから一年前、彼の母から電話を受けた時。私の頭は一瞬にして、真っ白になってしまったのだろう。
「……」
『……』
その日の職員室は、いつも通り慌ただしかった。けれど受話器を持つ自分だけがなんだか急に、唐突に、世界から置いていかれたような感覚になって。
私は、ただただ無言を貫くことしかできなかった。
『あの、柏木先生?』
「……あ、ああ、すみません。取り乱しました」
ぼうっとした意識をなんとか取り戻し、どうにか返事を捻り出す。
『い、いえ、こちらこそすみません。できるだけ先生が驚かないように切り出そうとは思ったのですが、どうしても唐突にお伝えすることしかできなくて……』
「いえいえ、そう……ですよね。どう伝えればいいか、なんて分かりませんよね……」
『あの、今は私も取り乱していて、多くを伝えることはできないんですが……退院後も学校には行かせるつもりで。だから難しいことかもしれませんが、今後とも亮のことをどうかよろしくお願いします、と……それだけは伝えておきたくて……』
「は、はい、もちろんです。お子様のことは今後も責任をもって預からせていただきます」
互いに、声を震わせて。きっと私たちは互いに手探りで、言葉を選んでいた。
互いに感情は吐露せず、最低限の言葉だけを交換して。ぽっかりと心に穴が空いたような感覚を残したまま、私は彼のお母様との通話を終えることとなった。
◆
「えっと、何が起きたんだっけ……?」
気づけば私は、屋上に来ていた。彼との思い出の場所を、無意識の内に訪れていたのだ。
「……」
真夏だというのに、頬に当たる風は冷たくて。ミンミンとうるさいセミの鳴き声は直接私の鼓膜を殴ってきているようで。なんだかひどく嫌な感覚になる。普段は爽やかな夏の風物詩が、まるで今は私の心をかき乱す泥になっているみたいだ。
ふと、屋上の入口扉を眺めてみる。
【これ良かったらどうぞ。さっき俺が購買部で買ってきたパンっす】
──パンを右手にニコリと微笑む彼を思い出した。
なんとなしに、青空を見上げてみる。
【はは、やっぱり思った通りだ。先生ってめちゃくちゃ美人さんじゃないですか】
──悪戯に白い歯を見せて、私をからかう彼のことを思い出した。
ふぅっと息を吐いて、目を閉じてみる。
【これからもよろしくお願いします! 奈々ちゃん先生!!】
──まばゆい笑顔で、こちらに手を差し伸べる彼を思い出した。
再び目を開けて、誰も居ない私の隣を眺めてみる。
「……ああ……ああ……!」
──気づけば私の頬には、涙が伝っていた。
……ああ、きっと私は。心のどこかで、私は。ずっと続くと思っていたんだ。
彼の成長を見守る日々が。時々生意気な彼に『やめなさい』と、叱っていられる日々が。
卒業まで当たり前のように続くのだと、私は信じて疑っていなかった。
「っ……! ぐすっ……ううっ……!」
感情に任せて泣きわめくわけではない。けれど、溢れる涙は止まらない。
彼が私を忘れてしまったという事実が胸をしめつけているようで、ただただ心が痛くて。失ってその大事さに初めて気づいた、だなんて、決してそんなわけではないのだけれど。
「ああ、そうか。私は──」
──自分が思っていた以上に、彼に救われていた。
その事実に気づいてしまった私は、とめどなく流れる涙を、どうやっても抑えることできなかった。
「ぐすっ……い、いけない……そろそろ教室に行かなくちゃ……」
どれほどの時間泣いていただろうか。そう考えて腕時計に目をやると、針は既にホームルームの五分前を差していた。
「こ、こんなんじゃだめよね……田島のためにも、これから私がしっかりしなくちゃ……」
心を切り替えられたといえば、嘘になる。けれど私はスーツの袖で涙を拭き、震えて言うことをきかない足を、無理やり奮い立たせた。
私が知っている彼は、もう居ない。それは悲しい。簡単に切り替えることなんて、できるはずがない。
──でも、その事実はもう変えられない。
だったら私は、私にできることをやるしかないと思った。彼のために、無力な私でもやれることはないか、と。そう考えた。
そして……きっと私にできることなんて、1つしかなくて。
【先生はもっと自信を持っていいんです。先生は絶対良い教師になれます。俺が保証します】
──彼がそう信じてくれたように“良い教師”として、再び彼を迎え入れること。それが唯一私にできる、彼への恩返しなんだ、と。そう思った。
「フゥー……」
夏の青空を見上げて、深呼吸。風が静かに吹き抜けた。
少し眩しいけれど、涙を乾かしたくて。顔いっぱいに日光を浴びた。
【俺たちは先生のことが大好きだからですよ】
もう一度だけ彼の笑顔を思い出す。
「ああ。私も君たちが大好きだよ」
誰も居ない屋上で一人。私は虚空に向けて、誰に聞かれるでもない言葉をつぶやいた。
……ああ、そして最後に、きっと。私は彼ともう一度出会うために、この言葉を口に出しておかないといけないのだろう。
「──ありがとう。そして、さようなら」
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