時間の忘れモノ。



 ――――青山くんだ。


 自分を見つめる私の視線に気づいたのか、こっちを見た青山くんと一瞬目が合った気がしたが、彼は何も言わず自分のデスクへ座った。


 向こうは私に気付いていないのかもしれない。青山くんは相変わらずかっこいいけれど、私は自然の摂理に抗わず、きっちり7才歳をとり、普通のアラサーになっているもんな。


 『はぁ』小さい溜息を吐いていると、


 「あ、あの先生かっこいい」


 近くにいた朝倉先生の視線が、明らかに青山くんの方を向いているのに気が付いた。


 朝倉先生の声が教頭先生にも聞こえたのか、


 「青山先生はダメですよー。生徒にたちには秘密ですが、音楽担当の桜井先生とお付き合いしてますから」


 教頭先生がいたずらっぽく人差指を口に当てながら、私たちの方にやってきた。


 そんな教頭先生の言葉に、後ろの方で女性がクスクス笑っていた。多分、あの人が『桜井先生』なのだろう。優しそうで、とても綺麗な人だなぁ。


 「結婚してないですよね? じゃあ問題ないじゃないですか」


 教頭先生の忠告に、強気に返す朝倉先生。若い上に容姿の整った人間に、怖いものなどないらしい。しかし朝倉先生、どうか波風立てないで下さい。


 「それはそうと、今日の夜、3人の歓迎会をしようと思っているのですが、何かご予定ありましたか?」


 どれがどうなのか分からないが、流石教頭先生。さざ波さえ立つ前にアッサリ話題を変えた。そんな教頭先生に、


 「3人共大丈夫です!!」


 安田が私にも朝倉先生にも、何も確認することなく即答した。


 「安田…勝手すぎ」


 やはり安田は私のツボだった。社会人1年目で張り切る安田の姿が、微笑ましくて面白くて『クックッ』と笑う私の横では、朝倉先生が戦闘態勢に入っていて、飲み会で青山くんを落とす気満々の気迫が漂っていた。


 朝倉先生の様子に『歓迎会、平和に終われるだろうか』と若干の不安を感じていると


 「なんで呼び捨てなんすかー。てゆーか名前、まだ聞いてなかったですよね?」


 安田が口を尖らせながら私の隣にやってきた。


 「あ、ごめんね。なんかキャラ的に呼び捨てでいいかなぁと…。私、年上だし。私は高村サヤ子といいます。保健室教員です。去年まで看護師してました」


 そんな安田と朝倉先生に、ようやく自己紹介をすると、


 「呼び捨てでいいですよ。サヤ子センセ♪」


 安田が私に人懐っこい笑顔を向けた。


 「なんで名前の方なの」


 つられて笑いながら安田に突っ込むと、


 「呼びやすいからー」


 と、安田が無邪気に笑った。 


 安田…かわいいから許す。私からしたら、ついこの前まで大学生だった安田は子どもみたいなもので、可愛さ余って何でも許してしまいそうだ。


 みんなと仲良くなりたいな。楽しくなるといいなぁ、新しい仕事。




 夜になり、教頭先生御用達の居酒屋で歓迎会を開いてもらった。


 青山くんは桜井先生と朝倉先生に挟まれて座っていて、私はすっかり懐かれてしまった安田の隣に、青山くんたちと向かい合う形で座った。


 『サヤ子センセ、サヤ子センセ』と積極的に話しかけてくれる安田が可愛くて、嬉しくて、席についても尚じゃれ合う私たちに、


 「元々お知り合いだったんですか?」


 桜井先生が不思議そうに尋ねてきた。


 「今日初めて会ったんだよねー、サヤ子センセ」


 安田が『仲良しでーす』と言いながら無理矢理私と肩を組む。


 何この若いノリ、恥ずかしい。


 「青山先生と桜井先生は付き合ってどのくらいなんですか?」


 今度は安田が桜井先生に質問を返す。朝倉先生も身を乗り出して聞こうとしていた。


 「3年になるかな。翔太がこの学校に来て暫くしてから付き合ったから」


 嬉しそうに話す桜井先生の隣で、青山くんは何も言わずにビールを飲んでいた。


 …つまらないのかな、青山くん。本当は私たちの歓迎会なんかしてないで、桜井先生とデートとかしたいのかもな。


 申し訳なさを感じつつも、何だかんだ歓迎会は楽しめた。


 3時間飲み放題コースで存分に呑んで、歓迎会はお開きに。


 「サヤ子センセはどっち方向?」


 お店を出ても、安田は私の隣にいた。


 「私はN町だからあっちー」


 お酒が入り、ほろ酔い気味のダラっとした指で、ザックリとした方角を大雑把に差すと、


 「サヤ子センセもN町? 俺もー。考える事一緒だねー。学校から近からず遠からずの所選んだでしょー」


 『じゃあ、一緒に帰ろ』と安田が私の腕を引いた。


 「俺もN町」


 割って入った声に、急速に酔いが覚める。声の主は青山くんだったから。


 まさか青山くんまでN町在住だったとは…。


 「あの、桜井先生と朝倉先生はどちらにお住まいなんですか?」


 青山くんは到底私と一緒になど帰りたくもないだろうと、『じゃあ、3人で帰りましょう』とは言わず、話を逸らす。違う話をしている間に、バラけて帰る言い訳を考えようと桜井先生と朝倉先生に話を振ると、


 「「R町」」


 さらにまさかのR町被り。


 2人だけで帰すのに一抹の不安が過る。


 でもそうだ!! 2人の為に気を利かせよう。そうすれば、青山くんと一緒に帰らずに済むではないか!!


 「青山先生、桜井先生は彼女さんですし、女性だけで帰すのは危険ですから送ってさしあげてはいかがでしょうか」


 私の提案に、朝倉先生が小さくガッツポーズをしたのが見えた。


 桜井先生ごめんなさい。でもきっと、朝倉先生の事は青山くんが上手くあしらってくれるはずです。と、桜井先生に懺悔の念を送っていると、


 「また2人に挟まれろって? 3時間耐え抜いたのに?」


 頭上から青山くんの不機嫌な呟きが聞こえてきた。私に向けた、わざと私にだけ聞こえる音量で喋る青山くん。


 昔は相当の女たらしだったくせに、今は改心したのだろう。本命がいる場で自分に擦り寄る朝倉先生をあまり良く思っていないのか、青山くんにとってさっきのあの3時間は地獄だったらしい。


 声色で私に苛立っている事は明らかな青山くんの顔を見上げる勇気はなく、『どうしよう』と視線で安田に助けを求めようとした時、


 「安田、お前が送れ」


 青山くんの口から絶望的な言葉が。


 ヤバイ。それだと青山くんと2人で帰らないといけなくなる。


 焦る私の腕に、


 「俺は、サヤ子センセと帰るので」


 安田が絡みついてきた。


 うん!! 一緒に帰ろう安田!! ここぞとばかりに安田にピッタリくっつくと、


 「先輩命令。早く行け」


 青山くんが私と安田を引き剥がした。


 青山くんは、余計な事をしてしまった私の事を見逃してはくれないらしい。


 「うー。じゃあ、また明日ね。サヤ子センセ」


 私なんかと一緒に帰りたがってくれる安田が、淋しそうに私の頭を撫でた。


 「また明日ね」


 安田があまりにかわいいので、私も安田の頭を撫でようとしたが、届かない。


 爪先立ちになりながら手を伸ばしていると、安田が膝を曲げてかがんだ。


 「サヤ子センセも撫でて」


 「弟にしたい」


 安田の頭をわしわし撫でる。


 「サヤ子先生、行きますよ」


 青山くんがなかなか帰ろうとしない私の手を引いた。



 青山くんまで名前の方で呼ぶんだ。


 こんな小さな事にドキドキしてしまう自分に呆れてしまう。青山くんには彼女さんがいるのに。それ以前に、私に好意など微塵もない事を、痛い程に知っているはずなのに。


 つい出てしまいそうになる溜息を飲み込む私の腕を、早く帰りたいのか、青山くんがグイグイ引っ張って歩き出すから、


 「失礼しますね!! 気を付けて帰って下さいね!!」


 私たちとは別な方向に帰る3人に挨拶をして立ち去ろうとした時、不満そうに私を睨む朝倉先生と目が合った。


 違うのに。私は朝倉先生のライバルじゃないのに。青山くんに嫌われている私が、恋敵として同じ土俵に上がれるわけがないのに。あなたの敵は桜井先生でしょうよ。てか、彼女持ちの男を狙うなよ、朝倉先生!!


 心の中で盛大に突っ込みながら、青山くんに引きずられるままバス停に向かった。



 2人きりになってしまった。


 バス停に着くと、運の悪い事にバスは出たばかりで、次のバスが来るまで10分待ちだった。


 10分間、どんな会話をすれば良いのだろう。間がもたない。


 何を話そうか悩んでいると、


 「久しぶりだね、サヤ子。7年ぶり? 元気だった?」


 青山くんの方から喋りかけてくれた。


 「…気付いていたんですね。7年前とは見た目が変わってしまいましたし、気付かれてないと思っていました。なんか、そっけなかったですし」


 青山くんに、自分の存在が忘れられていなかった事が嬉しかった。


 「まぁ、瑠美の手前、一応ね。サヤ子が入って来る事、事前に知ってたよ、俺。新しく入って来る教師の履歴書見てたから」


 『ビックリした』と青山くんが笑った。


 …瑠美。あぁ、桜井先生の事か。


 「…大事にされているんですね。桜井先生の事」


 昔、大切にしてもらえなかったどころか、嫌がられていた自分を思い出し、胸がチクつく。


 「…過ちは繰り返しちゃダメっしょ」


 苦笑いを浮かべる青山くんの過去にどんな失敗があったのかは分からないけれど、きっと『お前も昔みたいなストーカー行為するなよな』という意味も込められているのだろう。


 …ストーカー行為。


 「あの…ご、ごめんなさい!!」


 勢いよく頭を下げ、腰を90度に折り曲げる。


 「何が?」


 突然謝る私に青山が首を傾げる。


 「本当に知らなかったんです。青山先生があの学校にいる事も、N町に住んでるって事も。調べたわけでもなんでもなくて、本当に偶然で、本当にストーカーみたいな事は一切していないんです。本当なんです!!」


 誤解を解こうと、言い訳の様な弁解を一気に吐き出すと、


 「別に疑ってない」


 青山くんは、頭を下げたままの私の両肩を掴むと、私の上半身を起こした。


 悲しそうな顔をした青山くんと目が合って、本音は違うんだろうなと、申し訳なくなった。


 大学時代、青山くんはずっと、私をうっとおしく思いながらも、直接私には言わないでいてくれた。正直、間接的に知る方が辛かったけど。今もきっと、私に気を遣ってくれたのだろう。


 「私も同じ過ちは2度としませんから。約束しますから」


 青山くんに安心して欲しくて強く宣言するも、青山くんは更に悲しげな目をした。あぁ、前科者の私の言う事に信用なんてあるわけないんだなと、情けなくなった。



 「安田とサヤ子、べったりだな」


 落ち込む私に配慮してか、青山くんが急に話題を変えた。


 「かわいいですよね、安田。ちょっとバカで、面白くて、人懐っこくて。最初からあんなに距離が近いと、私も距離取らなくて良いのかなぁって思って話し易い。あんな弟欲しかったなぁ」


 そのまま話題に乗っかり、青山くんに同意を求めるも、


 「向こうは姉さんとは思ってないんじゃん?」


 青山くんの共感は得られず。


 「母さんってこと?」


 『私が母さんなら、青山くんだって父さんですよ』と思ったが、言わなかった。冗談を言ったつもりでも、相手にそのニュアンスが伝わらなかった場合、この空気を悪化させてしまう可能性があるから。リスクは回避。


 「相変わらず人の気持ちが分からん女だよなー、サヤ子は」


 青山くんが呆れたような顔をした。


 私は今、何か無神経な発言をしてしまったのだろうか。青山くんの言っている事の意味が分からない。 

 

 「…ごめんなさい」


 分からないから謝るしかない。


 「違うって。何も悪い事してないのに謝るなって。こっちが困る」


 謝ったところで、結局青山くんは困るらしい。


 もう、どうしたら良いのか分からない。


 困惑していると、助け船の様にバスがやって来た。


 終バスに近い時間帯のバスだった為、あまり人は乗っておらず、一番後ろのシートを2人で広々と座る事が出来た。


 お酒とバスの揺れが、眠気を誘う。勝手に瞼が落ちてくる。


 頭部は勝手に左右に揺れ、何度か往復すると、何かに頭を押さえつけられた。


 薄ら目を開けると、


 「サヤ子、窓に激突するぞ。着いたら起こしてやるから、肩貸すよ」


 青山くんが私の頭を保護していて、そのまま私の頭を自分の肩に引き寄せた。


 青山くんとの近さに、半開きだった目は全開に。


 「う、うとうとしてしまってすみません。大丈夫です。起きてます。ありがとうございます」


 ビックリしすぎて後ずさると、


 「…そんなに嫌?」


 女に避けられるなんて経験をした事がないのだろう。青山くんは少しショックを受けている様だった。


 「いえ。『桜井先生の手前、一応』そういう事はしない方が良いと思います」


 大学時代のチャラさが今尚ほんのり残る青山くんに、さっきの青山くんの言葉を引用しながら苦言を呈すると、


 「…サヤ子はいっつも間違ってるけど、いつでも正しいね」


 青山くんはわけの分からない事を言って、流れる窓の外の景色に視線を移した。


 窓に映る青山くんの顔は、何故か少し淋しそうだった。



 アパートの最寄のバス停に着き、バスを降りると、


 「サヤ子、どっち方向?」


 青山くんも私に続いて降りてきた。どうやら青山くんと住んでいる場所が結構近いらしい。


 「あっち…ですけど」


 まさかね。と思いながらアパートの方角を指さすと、


 「一緒だ」


 青山くんから『まさかね』な返事が。本当に青山くんもこっちなの? ますます私、ストーカーっぽい。


 「本当に青山先生の住所、知らなかったんです。調べたりとか、本当にしてないのに…近くに引っ越して来てしまって本当にすみません」


 さっき言った『偶然』が嘘臭く思われそうで、言い訳がましく再度言ってみると、


 「しつこいよ、サヤ子」


 やはりそんな言い訳は通用せず、青山くんのキツイ一言にビクっと肩が震えた。


 「…ご…めんな…さい…」


 謝る声も震える。


 「サヤ子、俺の事怖がらないで。サヤ子はどう思ってるか分かんないけど、俺はまたサヤ子に会えて嬉しかった。本当に」


 青山くんが、距離を置いて歩こうとする私にぐっと近づいた。


 青山くんは、また気を遣って嘘を吐いてくれているのかもしれない。でも、


 「私もです。また会う事が出来て嬉しいです」


 青山くんの優しさに、泣きそうになった。 


 涙を零さぬ様に、星空を見上げるふりをしながら歩いた。



 「私のアパートここなので」


 無事に泣く事もなく、アパートに到着。青山くんに軽く会釈をすると、


 「俺はさっき通り過ぎた茶色いマンションの5階。近いから何かあったらいつでも言って。じゃあ、おやすみ」


 青山くんは私の頭をポンポンと撫で、軽く手を振るとクルっと身体の向きを変えて今来た道を戻って行った。


 …さっき通り過ぎた??


 青山くん、わざわざ送ってくれたんだ。


 「お…送ってくれて、ありがとうございました!! おやすみなさい!!」


 少し離れてしまった青山くんに大きな声でお礼を言うと、


 「声デカイから。近所迷惑。風邪引くから早く部屋入れって」


 青山くんは振り返って困り顔で笑うと、もう一度軽く手を振ってくれた。


 私も青山くんに手を振り返し、青山くんの後ろ姿を暫く眺めて部屋に入った。

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