ひとの心とおもいの扉

それから私たちは5分ほど歩いた。

鳴りやまない木目の床に白い壁が続き、目がチカチカと疲労を知らせてくる。

白石さんは歩き始めてすぐ、後ろにいる私に指示を出してくれていた。



「できる限り話をしながら進もう。怪異はこうやって何もない空間に閉じ込めて人間や動物の精神をむしばむやり方が多いんだ。幸い2人で行動しているからな、話を続けて正気を保ちながら進むべきだろう」

「わかりました」



怪異に巻き込まれてもう数時間は経っている。

恐怖を感じる不思議な体験ばかりで、正直私は気疲れしていた。

ひとりきりで巻き込まれたら、そろそろ気が狂ってもおかしくないだろう。


一方、白石さんはこの部屋に入ったときから疲れを感じさせない。

常にやるべきことを整理してくれるし、私の様子を気遣ってくれている。



「さすが白石さんですね」

「何がだ?」

「警察局の方はこういう事件の解決が役目ですから、慣れてらっしゃるなと思いまして」



……気の落ち込みは多少、あったけれども。



「そうだな……部署ごとに扱う事件の種類は違うが、怪異や妖異相手の事件は少なくない」



ちらりとこちらを向いていた白石さんは、手のひらを自分の隣に向ける。

互いを視界に入れたい意図だと気づいた私は、後ろから彼の隣へ並んだ。



「四課は違法品の取り締まりが中心と聞いています。ものによっては呪いや怪異が封じられているときもあるとか……」

「その通りだ。もともとは他課の事件で手に入った違法品、危険物の分析と補完も彼らの役割だったんだが、その解析力を闇市や闇オークションの摘発に活かしているんだよ」

「前身は管理部署だったのですね」

「ああ。その捜査の役割を提言して旗振りしたのは、当時の四課課長……雫だったわけだ」



笑みがこぼれる姿に思わずこちらの口角も上がる。

不思議な話だ。結局私たちは今関さんに繋がってしまうなんて。



「捜査の権限を与えられてからの功績は多かったよ。最初は俺や加羅河からかわが裏で手伝っていたが、自力で動き出すのは想像以上に早くてな。彼女は素晴らしいんだ。信頼を集めながら自身の深い知識で真実を暴き、現場を特定したと思ったら数人であっという間に……はは、少し饒舌になってしまった」



饒舌よりも饒舌です。白石さん。

そんなことを本人には言えず、実際に出てきた私の声はくすくすとしたものだった。



「功績といえば、7係もなかなか良い結果を残しているようだが?」

「え?そうですか?」

「ああ、警察局の上層部、課長の我々にも時々うわさが流れてくるよ」

「え、いったいどんな…?」



灯ちゃんが依頼人に殴りかかってしまった話かな、それともカケルくんの根も葉もない話?

今関さんが仮名課長を振り回してこっそり反省文書かされていた話は私しか知らないと思うんだけど……。


はらはらして言葉を待つと、白石さんは微笑んだ。



「悪いものではないから安心してほしい。厳しい案件でもしっかり対応していることも聞こえてくるが、なんといっても2係との喧嘩だな」

「け、喧嘩……」



数か月前に起きたあの件だろう。

雷鳴の瀬くんたちを巻き込んで閉じ込められ、そのせいで7係が巻き込まれたあの事件。

2係はとっくに謹慎が終わっているが、もともと過度な活動が目に余っていたこともあり最近も静かにしているらしい。

雷鳴も同じく過激な動きを自重している様子だと、冬の寒さが強まってきたころ、忍者の彼がカケルくんのいない間にこっそりと教えに来てくれた。



「華王院局長が直接関わった事件だからな、特殊警察局で大きな話題になった」

「課内のいざこざなんて……お恥ずかしい限りです……」

「内輪もめは確かによくないが、できれば……次は局長を抑えてくれたら助かるな」

「局長ですか?」



ふいっと白石さんが視線を外に投げた。

理由を知りたいと言わんばかりに見つめると、硬い表情が弱まり、困った顔をされた。



「『御年70歳の江戸っ子気質があるお転婆、若い時から喧嘩があれば喜んで飛び入り参加し散々暴れて場をめちゃくちゃにするのが大好きでな……そんなところも愛らしくて良いと思わないか?』」

「はい?」

「と、耳にタコができるくらい我々の局長に言われていたから、戦々恐々という意味で話題になったんだ。武力を用いた治安維持は警察の役目とはいえ……すさまじい符術で暴れまわる老体の女性をどう抑えろというんだ……」

「ああ……ええと、特殊警察局の……片桐局長、でしたっけ?」



特殊警察局の片桐局長は特殊治安局の華王院局長と夫婦だ。

とても仲の良いことで有名だが、実は離婚している。


つい10年前、華王院家当主をしていた弟が急病で亡くなってしまい、継承権を持つ孫は生まれたばかりで、彼が成人するまで空席になってしまう事態となった。

大貴族の1家である華王院家の当主を何年も空けるわけにはいかず、彼女が再度当主の座に就くため婚姻を解消したという。



「そうだ。今は事実婚だが仲睦まじいのは変わらずらしい。片桐局長は我々のような部下と交流することを好んでくださるのはいいんだが、いかんせん妻の自慢話が長い……」

「ふふっ」



そう言われると、ふと、頭の片隅に残っている記憶が呼び起こされた。

灯ちゃんが現場から撤収作業をしているときに、仮名課長と華王院局長が警察局がうんぬんという話を聞いたとか。

出動していないはずなのになんでだろう……と言っていたけれど、あれは片桐局長のことだったのかもしれない。

さしずめ、


『片桐局長が心配して警察局にも迷惑かけてしまいます、危険な現場に顔を出してはいけません!』

『こんな楽しい喧嘩を静観なんてできるか!』


というところだろうか。

仮名課長、難儀である。たぶん今関さんも。



「思えばこれも想いの形なのだろうな」

「想い……ですか?」

「ああ、俺は雫の傍におらずとも彼女が健やかであればそれで良い、片桐局長は想い合う相手と戸籍上の関係を持てずとも良い。同じ想いでも形は様々ということだな」

「そう、ですね」



思わず『自分だったら?』と考えてしまい、答えが詰まってしまった。


一般的に、多くの縁視は『未来』や『希望』という言葉を避ける傾向がある。

治ることはなく、向き合うには過酷である故に、重い言葉と受け止めているからだ。


私だって気持ちはわかる。

そのような言葉は、明日が来ると信じられる人間だけが言えるのだ。とは誰が言ったのか。



縁視に既婚者はかなり少なく、全体の1%と言われている。

その理由は、『愛情』も未来や希望と同類と捉え、避ける人が多いからだ。


愛情は出会いによって生まれ、日々の積み重ねで育まれ、死ぬまで心と共に生きるもの。

私たちにとってその温かさは、いつか突然消える恐怖と、取り残される相手への罪悪感で冷え切った残滓になってしまう。



それでも優しい記憶たちが私の頭の中をぐるぐると蝕んでくる。

なんだが目が回ってしまいそうになってきた。

だめだ、今は妖異に飲まれているのだから、しっかりしないと!



「吉川さん、見てくれ」

「え?」


「扉だ」



木目の床から目線を上げれば、茶色い姿が視界に入った。


大きい。

原木をそのまま加工したような柱が左右に立ち、黒い屋根は雨風を凌げるほどずっしりと被さっている。

細かい目の年輪が散らばる扉には黒い金属で装飾されていて、とても廊下にあっていい身なりではない。

どこかの重要文化財かと思えるほどの重厚な扉に、白石さんは頭を抱えた。



「門……といってもいいと思うが、これは俺にも心当たりがあるぞ」

「…………」



そうでしょうね。

私だって、心当たりがある。



「雪園家の本家の門だ。その、君も、わかるか?」

「はい、間違いないと思います」



もう10年見ていなかったのに、こんなところで再会するとは。

そしてこの門が現れたことで、もう1つ推測できることがある。



「この先は、きっと私の記憶ですね」

「あ、ああ、そうだな」



沈黙。

白石さんの時は先行きが読めないままだったからよかったものの、今回は確実に私の記憶を見ることになる。

しかも、雪園家。

彼は気まずい思いをしているに違いない。



「……吉川さん、先に言っておこう」

「はい?」



深呼吸をひとつ。

息を吐き切ったあと、白石さんは自分の胸にこぶしを置いた。



「白石家は、数ある家の中でも上流にあたるが端くれにいる。対して雪園家は王族御付の最上級の家、つまり俺は彼らの私生活を覗き見るのは無礼にあたり、彼らに知られたら家同士の問題になるだろう。

だから今ここに、白石家の紋をかけて、守秘を誓おう」



家の紋をかける。

それは、万一反故があれば家族親戚すべての白石姓の犠牲を厭わないことを指す誓いの言葉と聞いたことがある。



「ありがとうございます。その誓い、受け入れます」

「礼を言おう。さあ、開くぞ!」

「はい!」



白石さんは、体重を乗せて扉を押し始めた。

入り口とは思えないほどおもいそれは、錆びた音を悲鳴ように鳴らしながら開いていく。


まるで自分の心に閉じ込めた記憶そのもののようだった。




愛情、私だって感じたことは数えきれないほどある。

産んでくれた朧げ顔の両親、吉川家、そして雪園家。

もちろん返したい強い想いはある。


でも、それをそのまま伝えてしまえば、それだけ彼らに辛い想いをさせてしまうなら、いっそ胸に秘めようと思うのだ。


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