扉の向こうで生まれた懺悔

「申し訳ありません、白石さん。私は『マヨイガ』についてよくわからず……」

「構わない。とても珍しい怪異だと聞いたことがある。何せこの私でもマヨイガに出くわすのは初めてだからな」



そうなのですか。

思わず感想のような言葉をこぼせば、白石さんの口角がわずかに上がった。



「関東地方に伝わる『実在しない幻の家』の伝承だ。怪異にしては珍しく悪いものではないらしい。

その幻の家は訪れた人を惑わすものの、その人間が家の中のものを持ち脱出することができれば、富を得ると言われている」

「富を得る、ですか」

「無欲な人間だけがその恩恵を得られるらしい」



マヨイガ。もし間違いなければ、解決方法は単純な話だ。

脱出さえすればよいのだ。

ただ、その方法はわからないけれど。


ようやくこの不可思議な現象の正体が見えてきて心に余裕が出てきた気がする。

深く息を吐いた音が聞こえたのだろうか、白石さんは来た道と行く道を見つめてから私に視線を向けた。



「そうとわかれば早く脱出してしまおう。ずっとここにいて良いことはない。1つ提案がある」

「はい、なんでしょう」

「リビングに戻ってみないか?マヨイガはなにかも持ち帰ると富を得られるのでれば、持ち帰ることができる物品が存在するということだ。

この廊下や扉には一切そのような物はなかった。なら物がたくさんあったリビングを目指したほうが良いと思ってな」

「同意見です。それに……扉、アレしかなくなってしまいましたから」



白石さんは困った顔をした。


そう、私たちは話ながらも気づいていた。

廊下にたくさんあったはずの扉がない。

開くか開かないか試していた扉たちが白い壁になってしまったのだ。


たったひとつを除いて。



「見えますか?白石さん」

「ああ、君には何が視える?」

「縁です。でも……」



その扉は数メートル先の壁に佇んでいた。

床が軋むような家には合わない紺色の扉には銀色の取っ手がついている。

玄関というより部屋の中にある扉に見える。そして細かい傷があるのでそれなりに長く住んだ家の扉のようだった。


何よりも気になるのは縁の色だ。

今まで見たものとは違う、そして繋がっている先は驚いたことに。



「白石さんと扉が縁で結ばれています」

「私が?」



マヨイガの住人の縁とは違う、扉と同じ紺色の縁がはっきりと繋がっていた。

ここまで濃いということは彼との繋がりも強いということ。



「扉に見覚えはありますか?」

「うむ、この扉は……そうだな……無きにしも……」



歯切れが悪い。この反応はおそらく見覚えがあるんだろう。

だけれど言ったものかどうかという感じなのかな。




「開けてみますか?」

「ふむ……開けるか……?」



疑問に疑問で返された。挙動が怪しい。

さきほどの引き返そうといった堂々さはどこへ行ったのか。

だが今はこの目の前の扉しか手掛かりがないのだから、開けるしかない。


逡巡した白石さんはやがてこちらを向いて頷く。

私はそれに答えると、その扉を開けた。




え?

その先に見た光景に、息をのむ音が響いた。




「雫……!?」




そこはマンションの一室だった。

シミひとつない白い壁と床は天井にぶら下がるいくつかのスポットライトを反射している。

窓の外には夜景と広い夜空が広がっている。それなりの高層階、つまり家賃的な意味でなかなか良い部屋のようだ。


その家の中には若い男女がひとりずつ。

ふたりともTシャツにスウェットと楽な格好をしていて同棲しているのがわかる。

そしてその人が誰であるかもはっきりとわかってしまった。



「今関さんと、白石さん!?」

「この記憶は……まさか、まさか!」



うろたえる白石さんの声が聞こえる。

それを無視して口を開いたのは、短い髪をかきあげた今関さんだった。



『わたしたち、もうやめましょう』

『なにを言っているんだ!?あと少しで分家全員の賛同を得られるんだぞ』

『もうこれ以上時間をかける必要はないわ。あなたもわかっているんでしょう?』

『あきらめたくないんだ!!』



大声に思わず肩が揺れた。

後ろから声はもう聞こえない。



『本家が、あなたの家族が認めなきゃわたしたちは結婚できないの。

分家の賛同を得たところでひっくり返せると本気で思っているの?』

『やってみなければわからないだろう!?』


『もう、もううんざりなのよ!!』



今関さんの形相は見たことがないほど険しく、白石さんにまくしたてる姿に圧倒される。

この会話を考えるとこの記憶はきっと20年近く前だ。

ついこの前に再会するまで止まっていたふたりの最後の記憶。



『な、』

『私は、ここまで労力をかけるほどあなたのことを想っていないわよ』

『雫……やめてくれ』

『もし万が一結婚できたとしても、義理の両親にいびられる毎日なんて嫌だもの。あなたの想いだけでは耐えられないわ』

『聞きたくない!』


『さようなら』



淡々と告げる言葉に去っていく姿。

昔の今関さんのはずなのに、そのすべての想いが理解できてしまうのはなぜなんだろうか。


苦しくて悲しくて。胸がぎゅっと締め付けられて呼吸が止まる。



今関さんは出会ったころから淡々と仕事をこなす人だった。

笑顔や明るい声で周りを包む反面、目の前で繰り広げられる怒りや悲しみ、ぶつけられる苦しみに対してだけは冷酷と言われるほど。

そして彼女の言動にはわかりやすい特徴がひとつ。

本心と言葉が離れるほど冷たい物言いになってしまうのだ。


つまり、この今関さんの言動は。




ぱたん、と扉が閉まる。

振り返れば白石さんが片手で顔を覆っていた。



「………」

「………」

「……………」

「……………」



気まずい。

それはそうだ。私は今上司の恋愛事情、とくに修羅場をのぞいてしまったのだから。

今関さんの人柄を考えれば許してくれそうだが、ほぼ初対面のような白石さんと見てしまったとあっては状況が違う。


ど、どうしよう。

どうしたらこの目の前で憔悴している大男に気の利いたことがをかけられるんだろう。

ぐるぐると言い訳を考えて、考えて。

こんなときに語彙力を発揮できるような人間ではないのに。

縁がちょっと見えるくらいで私はごくごく一般人なのに。




「……人の過去まで映すなんて、ふ、ふし、不思議ですね」



なんとか平然を装ったのだけれど、どうだろうか。

恐る恐る隣にいる白石さんを見れば、両手で覆ったまま。

表情をうかがい知ることはできなかった。


沈黙が数秒。

すっかり目の前の扉が消えたころ、重いため息とともに白石さんは首を振った。



「…………すまない、動揺してしまったな」

「あ、いえ、いえ、そんな」



大男は私のひどく不器用な返答に、小さく笑みをこぼした。

口元こそ笑っているのに、瞳は全く笑っていない。

恐ろしいわけではない。

瞳は心の鏡、人の本性を映すもの。

深い深い深海がこちらをのぞきこんでいるようだった。


思わず奥歯を噛みしめる。

どうしてこんなに人は自分勝手なんだ。

見えないものに縛られて、視えないものを大切にして。


こんなに想い合う人々がどうして苦しまなければならないのだろう。

じわりと歪んだ視界にだって、赤い糸がそこにあるのに。



「今関係長の昔の姿だ。驚いただろう。あれは私の記憶だ」

「……今関さんと白石さんの過去については、伺ったことがあります」

「……そうか」


「もちろん、誰にも言いませんから、安心してください」

「ありがとう」



ギシギシと床が鳴り続ける。

息を合わせることなく、私たちは廊下を戻り始める。



「……あの」

「何だ?」

「不躾な、本当に失礼なことを聞いてもいいですか?」

「……構わないよ、口止め料としておこう」


「どうして、何年も、何十年もひとりのことを想えるのですか?」



遠のいていく床の音。

前で立ち止まった白石さんは、振り返るそぶりすら見せず、たくましい背中は微動だにしない。


息を止めて数秒。

かすかに聞こえたのは、小さな小さな笑い声だった。



「今まで数えきれないほど聞かれた質問だな。だがそれ以上に自問自答した質問だ。随分長い間しっくりくる答えが得られなかったんだが、最近ようやく見つけたんだ」

「そう、なんですか」

「もちろん君には答えよう。思えば、君のおかげかもしれないからな」

「え?」


「水だよ」



み、みず?

自分でもわかるくらいきょとんとした表情をしてしまった。

慌てて表情を硬くするも、何も見ていない白石さんはそのまま話を続ける。



「彼女は自由自在なんだ。コップに水が注がれるように、型やルールがあれば沿うが、時には逸脱してこぼしても、跡形もなく片付いてしまう。

何よりも熱い湯となって誰かの固い心を溶かし、自ら氷柱となり苦しむ人々の痛みを和らげる。

そして、とうとう蒸気となって俺の前から姿を消してしまった」


「そんな姿が見飽きなくてな。美しくて、強くて、優しくてたまらなかった。

十数年、彼女と顔をあわせることはなかったが、パーティで君が毒を飲んだ日に再会して気づいたんだ」


「切に願った彼女の隣に立ったのに、緊張も喜びもそれほどなかったんだ。

ああ、想っていてもそばにいる必要はなかったんだと気づいたよ。

水のように変幻自在な彼女を愛し、遠くから眺めているだけで幸せだったんだ」


「そばにいなくても……その、愛せる相手だから、想い続けられるのですか?」

「簡単に言えば、そういうことかな」



不思議な価値観だ。

今まで聞いたことのない考え方に、私は少し戸惑っていた。

何せ何年も雪園家、というかあの男に追い回されていた身としては、『大切な人とは一緒にいるもの』が染みついてしまっているらしい。



「はは、そんな難しい顔はしないでくれ。おかしな考えなのは重々承知だ」

「あっ、失礼しました!」

「それが普通の反応だ。大切にするといい」

「……私は、同調はできなくてもおかしい考えだとは思いません」

「そうか。君もまた優しい人のようだ」



白石さんはこちらを振り返って笑いかけてきた。

瞳の向こうに深海はあるけれど、何かがうごめいている。

表面には決して上がってくることはないけれども、彼の強さと覚悟が住処に戻ってきたようだった。



「白石さん」

「何だ」

「どうか、あなたも大切にしてくださいね」

「何をだ?」


「その美しくて優しくて、変幻自在な赤い糸を、ですよ」



静かな空間に響く小さな笑い声。

それはさっきよりもずっと高い、私という小柄な身体から発せられたものだった。


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