遭遇妖異

「吉川さん」



落ち着いた声に目を開くと、黒い世界が映った。

キラリと光るものに気づいて凝視すれば、バッジのような、何かの柄のような。

どこかで見た気がする、服の装飾のような……。


装飾!?



「わっ!」

「危ない」



厚い胸板に勢いよく押し返す。思った以上に固いそれは目の前の人物の筋肉である。

ぐらりと後ろに傾いた身体は大きな手に引き戻された。



「す、すみません」



光に包まれる直前。固いものに身体が当たったと思っていたけれど、どうやら白石課長だったらしい。

咄嗟に私を庇ってくれたのだろう。今も背中に回る手が物語っている。



「いや、驚かせてすまない。無事か?」

「はい、大丈夫です」



地面にへたり込んでいた私は足に力を入れて、片膝をつく体勢をとる。

立ち上がらなかったのは白石さんがその体勢で符術を展開していたからだ。

魔法陣のようないくつもの円が私たちをドームのように囲んでいる。

よく見れば行書のような崩れた漢字によって作られているようだった。



「術を解いてみよう。体調が悪くなったら言ってくれるか?」

「はい、ありがとうございます」

「今の術は外部と遮断することで内部の魔力濃度均一に保つもの、『ここ』は少し……濃いようだ」

「濃い……ですか」



街灯の光が朝日を浴びて消えるように、術がふわりと解除された。

再び家の古びた臭いを感じる以外に違和感はない。

そう伝えると白石課長は微笑んだ。



「……元の家に見える、ようですが、」



立ち上がった私たちは和室からリビングに戻されていることに気づく。

ほんの数歩の違いだが、明らかに違和感がある光景だった。


『承認』の文字がどこにもない。

散らばっていた洗濯物もない。

あれだけ繋がっていた縁が、ひとつもない。


和室に繋がっていたはずの空間には、先の見えない廊下に繋がっていた。



「これは一体……ここはどこなんですか?」

「妖異の魔力が濃い、家の形が変わっているし、様子がおかしい。

 おそらく私たちは妖異のテリトリーに入ったのではないか?」

「飲み込まれたということですか?」

「そうだろう。これが君たちに報告された『臭い』の正体かもしれないな」



耳田さんの報告内容が脳裏をよぎる。

つまり私たちは、妖異に先手を打たれてしまったということだ。

これは妖異調査において最も悪手な初動だけれど……縁でも直前まで察知できないなんて、強力な妖異なのではないだろうか。



「妖異本体はどこにいるのでしょうか……それを見つけて対処しない限り、出られないかもしれませんね」

「ああ、どのような妖異であるかもわからないから、ひとまず進んで情報を集めよう」



緊張している私を横目に、白石課長はすたすたと廊下に足を踏み入れた。

はぐれないように後ろをついていきながら、ふと放置していたスマホを取り出す。


画面上部の電波強度を見る。

ここは妖異の中、どうせ圏外…………あれ?



「圏外じゃない?」

「ん?」



振り返った白石課長とスマホを覗き込む。

画面は通話中、相手は今関さん、そして電波は「弱」を示している。



「わずかに電話は通じるのか……声はこちらに届かないようだが」

「そのようですね、きっと今関さんが声掛け続けてくれますから、このまま繋がるのを待ちつつ進みましょうか」

「ああ、私の後ろから離れないように。常に会話をしておくようにしよう」

「はい」



ミシリ、ミシリと靴が木を刺激する音だけが廊下に響く。

右側は不気味なほど白い壁が続き、左側は不規則に扉が並んでいた。

だがそれはただの扉ではなく、私たちが入ってきた玄関や、襖、洗面台に続くドアノブが付いた扉など、清水家にあったありとあらゆる扉が並んでいる。

試しに1つ目の扉を開けようとしてみたが、開くことはなかった。



「扉は私がすべて開けてみよう。どこかに繋がっているかもしれない」

「はっ、私は引き続き縁を視ます」

「ああ、頼む」



私たちはひとまず情報収集に努めることにして、前へ進む。



――――――――――――――――――――――



ガチャリ


何度試したのかわからないくらい時間が経った頃。

白石課長の手がドアノブをひねる音がして、私たちは顔を見合わせた。



「白石さん、開けそうですか?」



絶えないようにしていた会話の中で、いちいち課長呼びするのも面倒だとだろうと気遣いを受けた私は、取り決めた通りに声をかける。

ドアノブを握ったまま真剣な目線を寄越してくる白石さんは、頷いた。



「ああ、縁に変化は?」

「いえ、その扉にも視えません」



スマホの電話は繋がらず、沈黙を守っている。



「私もあまり扉の向こうに違和感はない。とにかく……開けてみるぞ、私の後ろへ」

「はい」



その扉は、洗面台から浴室に続くものだった。

上下に分かれて貼られている曇りガラスは、向こうの部屋に電気がついていないのか真っ暗になっている。


白石さんがもう一度ドアノブをひねる。

その扉は、ゆっくりと開かれていく。



『ママー!』



扉の先は、リビングだった。

妖異に飲み込まれて最初に立ったリビングと構造は同じだが、古臭さはなく、全体的に明るい雰囲気を感じる。窓が草木に覆われず陽を存分に受け、壁や柱が色あせていないからかもしれない。

一番の違いは、人がいることだった。


小さい男の子。その2文字の発音でさえ不安定な響きは幼さを感じる、3~4歳くらい、遊離ゆうりくんだろうか?

頭の中に考えを巡らせていると、キャラクターが描かれた青いTシャツと黄色い短パン、裸足の彼を抱き上げる女性がぼんやりと現れた。


短いポニーテールにピンクのエプロン、疲労の隠せない表情をしている女性、おそらくこの方が夏恋かれんさんだ。



「これは過去のようだな」



白石さんは私の結論と同じ言葉をつぶやいた。



「縁が……縁が視えます」

「!」


『どうしたの?』

『絵!かけた!』

『あら、どんな絵?』

『ママ!』

『へー!見せて?』

『うん!』



ありふれた親子の会話。

その2人に縁の繋がりはない。おそらく、過去の映像であり本人ではないからだろう。

縁はあくまでに宿る。私が視えたのは、明後日の方向に向かう紫の縁だった。

先端はどことも繋がっておらず、ただ壁の方に繋がるその縁の先は、壁そのものよりその向こうにいる何かに繋がっているように見える。



「飲み込まれる前に見た妖異と同じ紫色の縁です。黒いモヤがかかっていて……追いかけます」

「待て!中に入らない方が良い」



思わず部屋の中に飛び込みそうになった私の腕を、白石さんが掴む。

小さい身体は抵抗できるわけもなく、引っ張られるまま後ろに下げられた。


何故だろう。黒いモヤがかかっている縁にだけ、なぜか『追いかけなきゃ』という気持ちになってしまう。

耳田さんから受け取った写真と縁を思い出しながら、私は呼吸を整えた。

不用意に飛び出さないよう、気をつけた方がよさそうだ。



「一度様子を見るぞ」



白石さんの言葉に従い、私たちは静かに目の前の親子を見つめる。

だが、その姿はすぐに消えていくことになってしまった。



『へえ~!よく描けてるね』

『へへ』

『壁に飾ろうか!どこにしようかな……あそこかな』


『ママーーーー!』



もう一度母を呼ぶ声、その瞬間、確かに紫の縁がゆらりと揺れた。


ゴゴゴゴゴゴゴ


突如地鳴りが聞こえた。

私たちがいる廊下は揺れていない、リビングから発せられている音のようだ。

だがリビングにいる2人も置かれているものも落ちたり壊れたりしていない、ただの地震ではないらしい。


この事象の原因に気づいたのは白石さんの方だった。



「幻影が消えるぞ!巻き込まれかねない、扉を閉めるぞ!!」



ぐにゃりと歪みだす視界、2人の姿。

白石さんが勢いよく扉を閉める瞬間、母親の夏恋かれんさんは振り向く動作をした。

縁の方を向いていたようだったのは気のせいだろうか。




再び静かになった廊下。

お風呂場への扉はもう、動かなかった。



「今のは……」

「過去の幻影を映したもの、で間違いないだろう」



私もそう思います。と答えると白石さんは私に縁の様子を報告するよう求めてくる。

最後に見た景色と共に細かく伝えてみると、彼は片手を顎に触れて思案する表情をした。



「カレンダーの日付は2年前の7月だった。映っていたテレビはオリンピックの話題、時期は一致する」



そこまで観察できていたのか。さすが課長だ。

それよりも縁ばかり見てしまっていた私は思わず反省した。


白石さんの考察は続く。



「過去の幻影を映す妖異か……いないわけではない、相手の欲望を形にして誘う妖異もあれば、過去を形にして相手を苦しめ迷宮に閉じ込める悪質なものもある。

 妖異や怪異に関しては誰よりも雫が詳しい。こんな時に電話が繋がれば……」



『ザザ――――白石課長、菜子ちゃん、聞こえる!?』



「「!!」」



不気味な空間の中、光のような声が聞こえた。

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