ミマイのその後

「はぁぁぁぁぁぁ」

「うっわ、菜子っち、ため息おっっっも」



灯ちゃんは執務室に入るや否や、机に額を当てて声を上げる私の姿を見て笑った。



結論から言うと、逃げ切れた。

病室の扉が開いたのは、出入り口の黒い扉が開ききった後だった。

かなりギリギリだったものの、ガーベラ棟から脱出に成功した私はそのまままっすぐに7係の執務室に戻ってきた。


疲労感に思わずため息が出たところを、タイミング悪く灯ちゃんに見られてしまったところ。



「っつーかさぁ、午後休みじゃなかった?」

「休みです…」

「じゃーなんでいんの?」

「…『ガーベラ棟』へ、お見舞いに」

「ああ…」



察した灯ちゃんはそれ以上何も聞かず自席に戻っていった。

代わりにニヤニヤした今関さんが私の向かいに座ってきた。



「もしかして室長とバッタリ?」

「…ええまあ、ギリギリ避けられましたけど」



知ってたんですか?と聞くと今関さんはまさか!と首を振った。



「変よねえ。普段はどんな相手にも温厚なあなたなのに、あの美人『室長』とオルトさんと『雪園家』だけは露骨に嫌がるんだもの」

「まあ、そうですね…」

「あの『室長』や『雪園家』って言ったら、誰もがお近づきになりたがる超有名な人たちじゃない?嫌がる人なんて菜子ちゃん以外に知らないわ」

「私は『お家』とか『権力』とか、そういうの嫌いなんです」

「わかるー あたしちょーわかるー」



ケラケラと灯ちゃんは笑って、私に飴を投げてよこした。

お菓子好きの灯ちゃんが他人に食べ物を渡すのは、あの子なりのエールだ。

口に放り込むと、リンゴの味がした。



「どお?青森の『とろけるリンゴ、詰めました』飴」



その名前は一体…。

青森ということは、また彼が送ってきたのか。

確かにとろけるような舌触りが心地いい。



「おいしいですね、もう1個ください」

「よし来た!おらあっ!」

「な!暴投!」

「いたっ」

「あっ」



飛んでいった飴はたまたま人に当たる。

むっとしてこちらを見てくるのはカケルくんだった。

反射的に謝ろうと口を開いたけれど、彼の言葉の方が早かった。



「食べ物を投げるなんで相変わらず下品な人ですね」

「…あーあーごめんねえカケルぅ、影薄すぎて気づかなかった~」

「…へえ、目もあまりよろしくないようで、老化ですか?」

「……ほーぉ?」



灯ちゃんは椅子から立ち上がると、カケルくんとにらみ合って言い合いを始めた。

そんな2人のいつもの光景に今関さんも微笑んで見つめている。

…いや、今関さんは止めるべきでは…まあ、いいか。



「次ガーベラ棟に行くときは私も一緒に行くわ」

「え?あまり良いものは見られませんよ?」

「いいのよ、そんな目的じゃないわ」



今関さんはメガネの奥の瞳をこちらに向ける。

私と同じ深い黒のそれは優しく輝いているように見えた。



「部下のことを知りたい。個人的にも立場的にもそう思っただけよ。

 それにね、私だって今のうちに準備はしておきたいもの」



どの係よりも慈愛に満ちた上司は優しく微笑んだ。



じゃあ、次は声をかけますね。



立ち上がって離れていく姿に、私は声をかける。

彼女は何も言わずひらひらと手を振った。




ひらり、ひらり。


エニシミエシミの蝶々が2匹、じゃれつく様に私の視界に飛び込んできた。

片手を振って遠ざけると、ひとしきり言い合いを終えたらしいカケルくんが声をかけてくる。



「菜子さん?どうしました?」

「ん?なんでもない」



もう夕方。

午後のお休みはあと少し。

洋服でも見て帰ろうかな、と私はバッグを片手に席から立ち上がった。



「お先に失礼します」



お疲れー。

お疲れ様です。

また明日ー!


そんな言葉に送られて、私は執務室を出た。





縁視同族』たちは今日も眠り続ける。

その輪に加わる未来を想像して、私は首を振った。


この先どうなるかなんてわからない。

不安に心を病ませるくらいなら、良い思い出をたくさん抱えて生きよう。


その時が来たら、両手を広げて受け入れられるほどに。

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