全力でにげる。
「ええ!?」
ガーベラ棟のナースステーションでは、看護師たちが色めき立っていた。
「室長が?今日来る予定じゃなかったわよね?」
「そうだったはず。先週来てたから今月中はもう来ないと思ってた」
「でも受付から申請が来てるわ!室長よ、間違いない!」
ここまで騒ぎになるということは、おそらく『特殊情報管理室』の室長のことだ。
特殊治安局の1部署で、符術や特殊能力の研究、治療を目的とする機関。
そのトップである室長は、このガーベラ棟も含めた『花園』の総管理者である院長の上司にもあたる。
「許可!すぐ許可を出して!」
「えー待ってくださいよぉ、化粧直させてくださいぃ」
「ダメよ、室長を待たせるわけにはいかないわ!」
数人がモニタ―を操作しながらきゃあきゃあ騒いでいる。
伊理塚さんはそんな姿を咎めずのほほんと見つめている。
それをよそに、私の脳内はパニックを起こしていた。
なんで、なんで『室長』が?
今日は何かの予定で横浜に行っていて、どうやって急いでも夕方に戻ってこられないスケジュールだったはず。
だから調べに調べて、午後にお休みをもらってまで来たのに…!
というより、なんでよりによって今日ここに来るのか!
正直に言うと、私はあの『室長』が苦手だ。
『顔面国宝』なんて言われる綺麗な顔立ちに万人に愛される物腰やわらかな性格。
王族や名だたる名家のお嬢様方にまで熱視線を受ける彼は、私には完璧すぎて目がつぶれそうなほど眩しかった。
特にあの笑顔でこちらを見てきたときにはもう、耐えられず顔を背けたこともある。
「許可したわよ!あと10分くらいで来るだろうから、急いで片付けるわよ!」
「「はーい!」」
何としても、会うわけにはいかない!
「せんぱーい」
「ん?なに?」
「吉川さんが棚の中に潜り込むから物が仕舞えません~」
あはははは!!と大きな笑い声。
カウンター下の棚に入ろうと試みる私に向けられたものだった。
「吉川さんの『室長』嫌いは何とかならないのかしらね~」
「せっかく縁視の研究者なんだから、お近づきになれるいいチャンスじゃない~」
「い、嫌なものは嫌なんです…!」
人より小さい体でよかったと思いながら棚に体をねじ込み、扉を内側から閉めると視界は真っ暗になった。
私の作戦は、『室長』が病室に入ったタイミングでガーベラ棟を出る、という内容だ。
ガーベラ棟は出入り口を鋭角として、楕円形の構造になっている。
ナースステーションを中心に病室が外周を取り囲んでいて、どこからでも患者の様子を見て、何かあれば最短距離で向かえるようになっている。
おそらく、『室長』はナースステーションに寄った後、どこかの病室に入る。
別の部屋に行ってしまえば、その間に全速力で棟を出るだけ。
出くわすことなくガーベラ棟を脱出できる!
まあ、もしどの病室にもいかないのであれば、このまま籠城して嵐が去るのを待つだけ。
お休みを取っている私は無敵だ。
何時間でも籠ってやる!
と、やる気満々で、私は浅く呼吸をしながらその時を待った。
――――――――――――――――――――――
コツ、コツと革靴の音。
看護師さんたちのハイトーンな挨拶が聞こえた。
…来た!
靴の音は確実に近づいてくる。
黙っていれば全くバレないのだけれど、私はじっとりと緊張汗をかいていた。
「……は、……な?」
「ええ、ただ見……が先日…」
話し声は聞こえるけれど、しっかり閉じてしまったので内容はわからない。
あ、もしかして見沼さんが亡くなったから急遽来たのかも。
だけれど…スケジュールを押してまで来るとは…さすがというか、なんというか。
「…そ……い……」
「わかり……た、こ……」
お、すぐに移動しそうだ。
靴の音が遠ざかる。
コツ、とその音は突然止まった。
…ん?
「……さ…、……てな……?」
「…い…………ん」
「………か」
再度足音が聞こえて、やがて扉の開閉音が聞こえた。
視える縁の量が減ったから、今がチャンスかも。
そっと扉をつついてみると、伊理塚さんが開いてくれた。
「室長は第6部屋です」
「ありがとうございます」
小声で話す伊理塚さんにお礼を言って、私はナースステーションを出る。
第6部屋は出入り口から近いところにある、急げ!でも足音は立てず…落ち着いて…。
できる限り急いで廊下を進み、黒い扉の前でカードをかざした。
ピピっ!!
あれ?
認証音、こんなに大きかったっけ?
「ん?今のは?」
「ああ…どなたかいらしたのでしょう」
この病棟はとても静かだ。
喧騒に紛れる小さな音だって、聞こえるほどに。
コツ、コツ
足音が近づくのをはっきりと聞きとった。
まずい、部屋を出たら私の姿が見えてしまう。
い、嫌だ!
早く!
早く開いてよ扉ーっ!
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