第三話

木の下で、赤い和傘を刺しながら、桜の神様は立っていた。

つむぎ様、と名を呼ぼうとしたが、喉の奥がきゅっと締まって声が出ない。声の代わりにぽろぽろと流れ出した涙を、手の甲で拭う。

嗚咽を押し殺して息をすることが、こんなに苦しいだなんて知らなかった。

ずっとこのままなら、いつか息が止まってしまいそうだ。

ひゅうひゅうと必死に呼吸する私の背中を、つむぎ様は、とんとんと、なだめるように叩いた。まるで、赤子をあやす母親のように。

「落ち着け、ほまれ。………そう、ゆっくり、息を吐け。そなたには、わらわがいる」

言われるがままに、ゆっくりと息を吐くと、少しずつ嗚咽が収まりだした。ようやく声が出るようになって、私はもう一度涙を拭うと、つむぎ様の顔を見た。

「すみません、つむぎ様。泣いてしまって」

「別に構わん。それ程のことがあったのだろう?」

その言葉と共に、私の背中を叩く手が止まった。そして、つむぎ様は和傘を両手で支え直すと、じっと私の目を覗き込んでくる。何が起こったか話せ、と桜色の目が伝えてくる。

目は雄弁だ。時には口よりも、人の心を伝える。彼女の場合は神様だが。

促されるままに、私は起こったことを、ぽつぽつと話し始めた。

「高橋に、私が赤い糸を見えることを話したんです。俺のこと好きだろって、聞かれて。それを言われたら、誤魔化せなかった」

だから、本当のことを言わざるを得なかった。例え、信じてもらえなかったとしても。


「けれど、直接嘘つきと呼ばれることだけは、耐えられなかった。だから、ここまで逃げてきました」


今頃彼は、どうしているだろうか。一応職員室まで行けば、傘は借りれるはずだ。だが、勝手に傘を取ってしまったことを、どうやって詫びればいいだろう。あの時の私は、彼をどうやってあの場に引き留めるかにしか、頭が回っていなかった。とんだ暴挙に出たものだ。

だが、暴挙に出た甲斐はあって、今のところ高橋が私に追い付いてきた様子はない。つむぎ様の場所は、招かれざるものは入れない。だからここにやって来たのだが、流石にあの雨には追跡を諦めたのだろう。これ以上、彼の顔を見ている気はしなかったので、すこし安堵する。反面、明日のことを考えると、頭を抱えそうになるが。どうやって傘を返せばいいんだ。


「明日から、高橋にどんな顔を合わせたらいいんでしょう………。絶対に、気味が悪い女だと、思われているでしょうけれど」

「それはどうだろうか。人の心は、他人には推し量れん。お前にしても、みつるにしても」

「普通、あんなことを言えば、気味悪がられますよ。おまけに私は、傘も盗んでしまいましたから」


彼の興味を断つために、あんな振る舞いをしたとはいえ、傘を奪ったのはやりすぎだった。

彼は、無事に家に帰れているだろうか。私への興味を失くした後に。

そこまで考えて、私は思わず苦笑を零した。どうして私は、好きな相手を傷つけようと、努力しなけばならないのだろう。


「赤い糸なんて、見えなければよかったのに。………本当は、傷つけたくなんて、なかった」


私の呟きに、つむぎ様はふ、と表情を消した。

桜色の瞳が、私をまっすぐに見る。どうしたのだろう、と見つめ返すと、つむぎ様はやけに重々しく問いかけてきた。


「そなた、もし運命の相手がみつるであれば、あやつのことを好きになっていたか?」


その問いに、私はすぐに首を横に振った。

赤い糸の運命は絶対だ。一度赤い糸の相手に出会ってしまえば、人はその人に惹かれずにはいられない。結婚していようが、子どもが居ようが、

そう、例え既に己が誰かと結ばれても、赤い糸の運命は働くのだ。いっそ狂おしいほど、絶対的な力を以て。


「私の父と母の赤い糸は、繋がってなかったんです。だけれど結局、父の浮気で、私が幼稚園の時に離婚しました」


今でも鮮明に思い出せる。一度だけ見た、父の浮気相手___いや、再婚相手の後姿。手を繋いで歩く二人の小指には、赤い糸が繋がっていた。


「もし高橋の赤い糸が私に繋がっていたのなら、私は絶対に彼のことを避けていました。運命に自分の心を奪われるなんて、嫌だから。好きな人は、自分で選びたい」


赤い糸なんて関係なく、自分の思いのままに。

結ばれなくてもかまわない。ただ自分の心を焦がして、見つめ続ける。

それが、私の恋だ。実りを決して得られない、独りよがりな私の恋だ。


「破綻した恋だな。それならば、そなたが誰かと結ばれることなど、決してあり得ないだろう。運命の相手がいるならば拒否し、運命の相手でも拒む」

「ええ、この目をえぐりでもしない限り、あり得ないでしょうね。でも、もう私は、自分の性質を変えられない」


この赤い糸が切れていることだけが、救いだろうか。

いつか現れる、運命の相手を怯えなくていいのだから。


「赤い糸さえ見えなければ、きっと私は、彼と付き合っていたんでしょうね。いずれ現れる運命のことなんて、気にせずに」

「ああ。そなたとみつるは、結ばれ添うたのだろうよ。終生な」


そう、やけに改まって言いおいて、つむぎ様はぱちりと和傘を閉じる。

そして、両手で私の片手を取ると、祈るようにその額に手を当てた。


「そなたの赤い糸を切ったのは、わらわだ」


思考が、止まった。

暫く絶句する。ようやく私の口から出たのは、単純な問いかけだった。


「………嘘、でしょう?」


その問いに、つむぎ様は痛ましげな___私がこの前見たものと、同じ表情を浮かべた。そして、私の手を離すと、腰に吊るした日本刀の鞘に触れる。


「本当だ。この刀で、そなたの赤い糸を切った。赤い糸の相手に出会ってしまった、心を奪われたくないと、わらわに泣き喚いたのだ。そなたの歳は、まだ五つだったか」


ちょうど、私の両親が離婚した頃だ。だが、私は、そんなことがあったなんて、一切覚えていない。


「どうして私は、それを覚えていないですか」

「わらわが記憶を奪ったからだ。あの幼さで、運命を拒絶する様は、不憫だったのでな。だからせめてと、忘れさせた。お前がわらわの話し相手になると約束したのは、赤い糸を切った代価だ」


そなたがわらわと初めて出会った時の話だ、と言われて、必死に記憶を辿る。

両親が離婚する前後の記憶は、ほとんど思い出せない。ただ一つ、木の上に座るつむぎ様の姿が、脳裏にちらついた。その記憶を手繰ろうとした瞬間、強烈な頭痛に襲われる。ぐらりと体がかしいだ。傘を、地面に落としてしまう。

地面に膝をついて、ひゅうひゅう呼吸をしている間も、つむぎ様の言葉は続く。



「そなたが先の問いに肯ったのならば、わらわは運命を返してやるつもりだった。だが、そなたは今も、赤い糸の運命を拒絶している。だから、あれを切ったことは謝らん」


しかし、とつむぎ様の言葉は続いた。


「それとは別に、わらわは一つ、そなたに謝らねばならぬ。___高橋みつるを、この場に招いたことを」


「やっと見つけた、佐倉」


ずっと、遠くから聞いていた、声が響いた。

は、と息を鋭く吐いて、のろのろと後ろを振り返る。

鳥居の方に、人影が見えた。それが誰かを認識した瞬間、私は唖然とした。


「高橋?」


ぽろりと、名前が零れ落ちる。

ずっと眺め続けていたのだから、見間違いようがない。あの声、あの姿、間違いなく高橋だ。

高橋はぜえぜえと肩で息をしながら、こちらを見ている。その両手には、何も持っていない。傘も借りずに、ここまで来たのか。

いや、今疑問に思うべきことは、そこではない。どうして彼が、ここに居るんだ。


「なんで、ここに居るの」

「お前を、探したからに………決まってる、だろ。やっぱり、ここに居たか」


必死に息を整えながらも、高橋は私の問いを無視することはなかった。彼の瞳は、地面に座り込む私を写した瞬間、大きく見開かれる。


「おい、大丈夫か、佐倉?!」


そう叫ぶと、高橋はこちらに走って来た。そのまま、私が逃げる間もなく、私の前にたどり着く。彼は、制服が汚れるのも構わず膝をつくと、私に手を差し伸べた。


「立てるか?どこか、具合が悪いのか」


そう告げる彼の口調は、どこまでも真剣なものだった。どうやら彼は、本気で私を心配しているらしい。


どうするか迷って、結局私は、高橋の手を取った。

先程つむぎ様は、高橋みつるを招いた、と言っていた。それはつまり、ここが最早逃げ場ではないことを意味する。今、高橋の手を払いのけても、私は彼から逃げることはできない。ならば、私が彼の手を振り払う理由は、ない。


雨で冷え切っている手を取って、見上げた彼の瞳は、私のことだけを写している。

そのまっすぐな眼差しに射抜かれて、ぽろりと疑問が口から零れ落ちた。


「高橋。私の言ったこと、信じているの?」

「え?信じてるよ。当たり前だろ」


あまりにも簡単に、信じていると言われて、柄にもなくぽかんと口を開けてしまう。彼は本当に、私が嘘をついていないと思っているらしい。そのまっすぐな目を、疑うことすら馬鹿らしかった。

拍子抜けしたまま、彼の手を離す。そのまま、ふらつく足で、後ろに一歩下がった。今も、少しだけ視界がぐらついたままだ。


「………少し、頭が痛いだけだよ。大丈夫」

「お前、相当顔が青いぞ。本当に、それだけなのか?………あいつに、何かされたわけじゃないよな?」


高橋が、険のある声で呟いた。あいつ、というのは、つむぎ様のことらしい。彼の手を離して、後ろを振り向く。つむぎ様は、不快げに目を細めていた。


「このわらわが、ほまれを害なす訳がなかろう。見損なうなよ、みつる」

「なら、佐倉はどうして、こんな顔をしてるんだよ。神様」


高橋が、つむぎ様を神様と呼んだ。

つむぎ様は、一目見れば、ただの和装の女性にしか見えない。ということは、つまり。


「高橋、つむぎ様のこと、知ってるの」

「ああ、知ってる。会ったのは、これが二回目だけど」


いつの間に、とつむぎ様の方を見る。彼女は、ただゆったりと微笑んでいた。高橋とのことを隠していたことを、悪びれる様子もない。


「わらわの友が誰であろうと、そなたにとっては些事であろう」


その笑顔に、ああ、と私は、あることを確信した。いや、してしまった。


「つむぎ様。私の赤い糸の相手、高橋でしょう?」

「そうだな。そなたの赤い糸に繋がっていたのは、みつるだ」


やっぱり、と私はつむぎ様を睨みつけた。

つむぎ様は、誰にでも姿を現す訳ではない。高橋の前に姿を現したのには、相応の理由があったはずだ。

そして先ほどの、運命を返すつもりだった、という発言。もし私の赤い糸が今でも繋がっていれば、この恋は容易く成就した。暗に、彼女はそう言っていたのだ。


「運命に従えと、つむぎ様は言いたいんですか?高橋が私を好きなのは、赤い糸の運命だからと?」


唇を噛みしめて、つむぎ様に問う。

だとしたら、私はとんだ道化だ。運命に心を奪われたくないと足掻いて、結局それに縛られている。

だが、つむぎ様は、ふるりと首を横に振った。


「違う。そのようなことを、言いたいわけではない。そもそも切られた赤い糸は、何の効力も発揮しない。だから、みつるは、己の心だけで、そなたに恋に落ちた。奇跡のような偶然を以て。わらわが、新たに運命を結びなおしたのにも関わらず」

「それでも、高橋の赤い糸は誰かに繋がっています。それは、変わらない」

「そうだな。だが、このままみつるの恋が、切って捨てられるのも不憫でな。だから、機会を与えるつもりで、ここに呼んだ」


そう言って、つむぎ様は、腰に下げた日本刀を、帯から外した。そのまま、両手で捧げ持つ。何をするつもりだ、と訝しんだ瞬間、耳元につむぎ様の囁き声が落とされた。


「___ほまれ、動くでないぞ」


耳元で囁かれた瞬間、身体が硬直する。そのまま倒れそうになって、高橋に受け止められる。腕も、足も、何もかもが動かない。唯一動く目がとらえたのは、高橋の青ざめた顔。


「おい、神様?!お前、何をした?!」

「何、邪魔をされると困るから、少し力を奪っただけだ。用が終われば、すぐに治すさ」


どうして、とつむぎ様を凝視すると、彼女は困ったように微笑んだ。そして、高橋の元まで歩むと、日本刀を差し出す。


「みつる。そなたに選択肢を与えてやろう。お前が望むのならば、この刀を一度だけ、使わせてやる」

「………何を切れ、と?」

「これは、何だって断てるぞ。お前の目に映らぬ、赤い糸さえも」


ぐ、と息をつめる音が、耳元で聞こえた。

高橋は、心底忌々しそうに、つむぎ様を睨みつける。だが、溜息を吐くと、抱き留めていた私の体をつむぎ様に渡した。

待って、と動かぬ舌で懸命に叫ぶ。駄目だ。それだけは、してはいけない。だって、赤い糸が断たれてしまえば、高橋の運命は。


すらりと抜かれた刀は、鏡のように、彼の顔を写した。


「………お前、元からその魂胆だったろ」

「はて。わらわは、ほまれの幸せを願っているだけだ」

「相変わらず、それしか言わないな………。だけど、機会をくれた事だけは、感謝する」


高橋が、私の方を見た。


「佐倉。俺には、赤い糸は見えない。でも、今から俺がすることは、お前の気持ちを全部無下にすることだけはわかる」


その言葉とともに、高橋は刀を振り上げる。

彼の姿を、私は呆然と見ることしかできなかった。


「それでも俺は、赤い糸の運命より、お前の方がいい」


次の瞬間、高橋の赤い糸がざん、と断たれ、切れた糸端が宙を舞った。

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