第二話
夢を見た。
幼い私が、父と母に両手を繋がれて、楽しそうに何度も飛び跳ねている夢だ。
手を繋ぐ三人の後ろ姿を、夢の中で他人事のように見つめる。あの時の私の家族は、まさに理想的な家族だったんだろうな、と、ぼんやりと思った。
父と母の赤い糸が、互いに繋がっていないことを除けば。
・・・
ざあざあと、雨の降る音がする。
ちらりと窓の向こうに目を向けると、もはや空は豪雨で真っ白になっていて、十メートル先も見通せないくらいになっていた。多分外に一歩踏み出した時点で、全てが水浸しになるだろう。
「これはちょっと、傘なしでは帰れないかなあ」
何も刺さっていない傘立ての前で、はあ、と溜息を吐く。いつもの自習を終えて、いざ帰ろうとすればこうなのだから、自分の不運さが嫌になる。
釈明するのならば、その日の私は、きちんと傘を持ってきていた。なにせ、天気予報が、午後から堂々たる降水確率百パーセントを歌っていたからだ。これで傘を持って行かない人間は、天気予報を見ていないか、自分の運によっぽど自信があるか、それとも雨に濡れるのが大好きな馬鹿ぐらいである。
間違ったのは、持ってきた傘がビニール傘だったことだ。先日の台風で傘が壊れてしまい、間に合わせとして買ったその傘は、百均の割には丈夫で気に入っていたのだが、どうやら誰かに盗まれてしまったらしい。朝には傘が刺さっていたはずの場所には、ように何も残っていなかった。
ここの高校の治安が、悪いというわけではない。ただ、この豪雨の中では、盗みに手が出る人間もいるということなのだろう。腹立たしさよりは諦めの方が勝った。とりあえず、今度から、ビニール傘には名前を書くことにする。
この調子では外に出られそうにもないし、とりあえず教室に戻った方がよさそうだ。
窓から目を背け、床に置いていた鞄を手に取る。すると、廊下がきしむ音が聞こえてきた。校舎に残っている人間はほとんどいないはずだ。そちらの方に目を向けると、避けていた顔がやってくるのが見えて、思わず顔を引き攣らせる。この時間帯に高橋が学校に居ることは、今まで見た事がなかった。油断していた、と内心で舌打ちを打つ。
「佐倉。もう帰る?」
「………いや、まだ勉強するつもりよ。この雨じゃ、帰れないから」
名前を呼ばれてしまえば、流石に逃げるわけにはいかない。
窓べりから手を離して、身体ごと高橋に向き合う。そして、ばくばくと鳴っている心臓の前で拳を握りしめて、なけなしの矜持で高橋を見上げた。
好きなのにその手を取れないこととか、傷つけてしまったこととか。……いつか現れる、彼の運命のこととか。彼を見ると、どうしてもそんなことを考えてしまう。向き合うだけでこんなに心臓が早鐘を打つのならば、いくら寿命があっても足りやしない。
そんな私の思いも知らずに、高橋はいつも友人に向けているような笑みを浮かべて、持っていた缶ジュースを差し出した。いきなりの仕草だったので、思わず受け取ってしまう。渡されたその飲み物は、冷たいココアだった。私の好物だ。話した覚えはないのだが、いつの間にか知っていたのか。
「これ、やるよ。さっき、佐倉が勉強してるのを見かけて、買ってきた。好きだろ、確か」
「確かにココアは好きだけど、貰う理由がないよ」
返す、と高橋に缶を押し返そうとしたが、高橋はそれを躱した。それどころかひらひらと手を振って、困ったように笑う。
「とりあえず、受け取ってくれ。まあ、善意だけの贈り物ではないけどさ」
お前、無理やりでも何かをくれた相手から、黙って逃げ出すような奴じゃないだろ。そう言って、高橋は私を見た。
その眼差しの真剣さに、これ以上彼が私を逃がす気がないことを悟る。ここ数日、私が彼を避けていても声を掛けもしなかったのは、わざとだったのかもしれない。
「お礼は言わないからね」
そう言って、ココアの缶を空ける。今に限っては、いつもは美味しいと思うココアの甘さに、胸やけを引き起こしてしまいそうだった。眉を顰めそうになるのをこらえて、飲み切る。高橋はその間、ずっと私を見ていた。逃げ出しやしないかと、不安に思っているかのように。
「ご馳走様。……それで、用件は何?」
飲み切ったココアの缶を手で弄びながら、高橋を見据える。彼は相変わらず微笑んではいるが、とても内心は読めそうにない。むしろ、下手に覗けば、こちらが心を読み取られそうだ。
相変わらず、心臓は早鐘を打っている。足もかたかた震えそうだが、なんとか動きに出ないように、歯を食いしばった。
だが、私の誤魔化しは、次の瞬間、全く意味のないものになった。
「お前、俺のこと、好きだろ」
ひゅ、と息を呑んだ。
手から力が抜けて、ココアの缶が滑り落ちる。からん、と音を立てて、アルミ缶が転がった。拾わなきゃ、と真っ白に床に縫い留められたみたいに、身体が動かない。
黙り込んで唇をわななかせていると、高橋ははあ、と溜息を吐いて、私の頭を撫でようとした。咄嗟に右手で払いのける。そこで、身体がようやく動くようになったので、大きく一歩、後ろに退く。
「何を思い違いしてるの?私、高橋の告白、断ったよね」
「ごめんなさい、しか言わなかっただろ。あの時、お前は俺が嫌いだとか、他に好きなやつがいるとか、全く言わなかった」
「恋愛に興味が無いだけだよ」
「今更、そんな理由で騙されると思ってるのか?断った後、自分の方が傷ついた顔をして、俺を見てたくせに」
そんな顔、していただろうか。自分の迂闊さに歯噛みしながら、言い返す。
「そんなわけ、ないでしょう。見間違えただけじゃないの?」
「見間違えるわけないだろ。俺は、お前が思っている以上にずっと、お前のことを見てた」
空けた一歩を詰められる。伸ばされた手は、私に触れる直前に、躊躇うように止まった。
「お前は俺を、嫌いなのか?」
迷子になった子どものような目をしている。私を好きになったばかりに、こんなことを言わせてしまった罪悪感が、ひしひしと心の中でうごめく。
嘘をついてでも、嫌いと言った方が、きっと都合はいいだろう。でも、結局私の口から出たのは、当たり障りのない言葉だった。
「嫌いじゃないよ。でも、付き合えない」
「なら、理由を教えてくれ。このままだと、お前を諦めきれない」
「それは」
ぐ、と唇を噛んだ。
本当のことを言ってしまえ、と心の中で声がする。これほど必死になって追いすがられるのならば、生半な理由では決して納得しないだろう、と。
だが、それと同時に、信じてもらえるのかという疑問が頭をもたげる。赤い糸は、多分、本来人間には見えないものだ。下手をすれば、私が適当な誤魔化しを言っていると受け取られかねない。
小学校の時の記憶が、頭に過る。友人だと思っていた少女に、うっかり赤い糸のことを話してしまい、「嘘つき!」と叫ばれた瞬間。それは、凄絶ないじめの始まりだった。
だけれど、このまま彼の関心を私に向けさせ続けて、無駄な時間を過ごさせるよりかは、いっそ嘘つきとして嫌われてしまった方がいいのではないのだろうか。
多分それだけが、彼を好きな私が出来る、唯一のことだ。
抱いた決意と共に、顔を俯かせて、そのまま言葉を紡ぐ。
「………私には、赤い糸が見えるの。お話とかに、よく出てくるでしょう?運命の二人を結ぶ、赤い糸。それが、私には見える。高橋と私の赤い糸は、結ばれていない。高橋の運命の人は、他に居る。だから、これ以上、私に関わらないで」
早口でそう言い切って、私は彼に背を向ける。立ち去ろうとすると、彼にいきなり鞄のひもを捕まえた。こんな時でも私の腕を直接掴まなかったのは、流石高橋だ。だが、このまま彼の話を聞く気はない。
「佐倉」
高橋が何かを言おうとする。どんな言葉かを理解する前に、耳を塞いだ。嫌われるために話したと言っても、それでも高橋に嘘つき呼ばわりされることだけは耐え難い。誰に言われたって気にしないけれど、彼に言われることだけは、どうか。
振り向いた視界に、高橋が腕にかけている傘が目に入る。その瞬間、私は彼の傘を奪い取っていた。雨の中に、逃げ出すために。
「来ないで!」
鞄を、高橋の前に放り投げる。何事かを言おうとしていた彼が、咄嗟にひるんだ。
その隙をついて、私は校舎から、降りしきる雨の中に飛び出した。
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