赤い糸を別つ恋

紫野晴音

第一話

嫌な予感は、元からしていた。

テスト最終日の午後六時と言えば、いつもは部活がある生徒も早帰りをしている。学校に残っているのは私のような、テストの後でも勉強しているような変わり者だけだ。

何よりも、靴箱に入っていた手紙に書かれていた、呼び出し場所。体育館裏だなんて、例えば告白だとか、人目にはばかる話をするぞ、と言っているようなものではないか。


だけれども、まさか本当に用件が告白だなんて、思う訳がないだろう。だって私は、ほとんど高橋と喋ったことがないのだから。


「好きだ。付き合ってほしい、佐倉」


彼の小指___正確には、そこに結ばれた、赤い糸を見る。

私の小指にも、同じように赤い糸は結ばれている。が、それは、彼の糸とは繋がっていない。ぷつりと、切れてしまっているから。

たとえ告白されたって、元から結ばれていない赤い糸が繋がる、だなんて現象は起きなかったらしい。

唇を噛みしめて、高橋を見上げる。


「ごめんなさい。付き合えません」


きっかり九十度のおじぎをして、そう告げる。

そのまま、私は高橋の元から、脱兎のごとく逃げ出した。


・・・


私、佐倉ほまれには、小さい頃から赤い糸が見えた。

人の小指に絡まる、赤い糸。それが結んでいる相手は、異性だったり、同性だったり、犬だったり、果ては物だったりもする。だが、一つだけ共通していることがあった。


それは、赤い糸が結ぶ相手は、その人にとっての運命であるということだ。


例えば、幼稚園の頃から付き合っていた、恵ちゃんと浩介君。私と同じ高校に上がった彼らは、今でも名物のカップルだ。二人の小指は、出会ったころから変わらず、ずっと赤い糸で繋がっていた。

例えば、小学校の頃の担任だった、南先生。私が小学校一年生だった時、新任だった彼女は、卒業する頃には同じく先生の滝瀬先生と結婚した。二人の小指には、ずっと、互いに赤い糸が繋がっていた。

例えば、中学校の頃に私の友人だった、花と美空。彼女たちは私を挟んでずっと喧嘩ばかりしていたけど、結局お互い側を離れることはなかった。揃って私と違う高校に上がった彼女たちは、今でも時々喧嘩をしながらも、なんだかんだと寄り添い合っている。二人の小指には、最初から赤い糸が繋がっていた。


正直、他人の運命が見えるこの目を恨んだことは数知れない。なにせ、他人の恋の行方が、全てわかるのだ。赤い糸が結ばれていなければ、失敗か、そのうち別れる。赤い糸が結ばれていれば、大体成功。失敗したとしても、そのうち結ばれる。

何より、世間では、他人と「違う」ことは、何より疎まれる。小学校の時、一度この目のせいでいじめられてからは、私は他人にこの目のことを話したことはない。

自分の運命を勝手に覗かれてしまうだなんて、気持ち悪いだろうということも、わかるから。


だけど、何よりもこの目を疎ましいと思う時は、自分が誰かに告白される時だ。

だって、例え自分がその告白を受け入れたとしても、破局が待っているのが、その場でわかってしまうのだから。


「随分浮かない顔をしているな、ほまれ。今日、何かあったろう?」

その問いかけに、私は思わず顔を強張らせた。出来るだけ動揺を顔に出さないようにしながら、私は声が降って来た樹上を見上げた。

夏の癖に満開の桜の木の上には、美しい女性が座っている。いや、女性、と呼ぶにはそのひとはあまりにも中性的すぎた。腰には日本刀が下げられているし、髪はばっさりと肩口で切られていて、まるで少年のようだ。ただ、その女物の着物を着ているから、私は彼女を一応女として扱っている。


だけれども、もしかしたら、このひとには性別を当てはめること自体が間違いかもしれない。このひとは、神様なのだから。

つむぎ様は、ある寂れた神社の桜に宿る、神様だ。とはいっても、別に神社の主というわけではないらしい。本人曰く、祭られていた神はとうの昔に去っていて、もう残っていた桜に宿る彼女しかいないだけらしい。神主も存在しない、朽ちていくばかりのその神社にやってくるのは、私くらいのものだ。そもそもこの場所自体が神域扱いらしく、つむぎ様に招かれていない客は、入れないらしい。

そんな私がつむぎ様と出会ったのは、最早覚えてもいないくらい昔の話だ。多分、幼稚園ぐらいの時だったような気はするが、具体的なことは何ひとつ覚えていない。ただ、私は彼女と初めて出会った時に、時々彼女のところにやって来て、世間話をするという約束をしたらしい。覚えても居ない約束だが、神様相手の約束を破る気にもなれなくて、私は時々彼女の元を訪れている。

今日もその一環で、彼女の神社に訪れていたのだが、違う日に来た方がよかったかもしれない。勘がよくて好奇心旺盛な彼女に、玩具にされるに決まっているなんて、わかりきっていたのに。


「何もなかったですよ。今日やったことは、普通に学校に行って、勉強して、あなたのところに来ただけです。つむぎ様の気を紛らわせるようなことは、何も」

「嘘をつけ。顔に書いておるわ」


私のせめてもの誤魔化しの言葉を、ぴしゃりとつむぎ様は切り捨てた。

それなりに表情は隠せていたつもりなのだが、そこまで顔に出ているのだろうか、と頬を引きつらせる私をよそに、つむぎ様は桜の木の上でぱたぱたと扇を仰いだ。着物の上に羽織った、うす紅の羽織が、風を孕んでふわりと靡く。彼女の膝に座った猫が、ごろにゃあと退屈そうにあくびをした。

見上げていても、その光景は、まるでこの世ならざる絵のように美しい。まあ、実際神様なのだから、あながちその表現は間違っていないか。

現実逃避気味にそう考える私に、つむぎ様はぱちりと扇を閉じると、桜色の瞳をこちらに向けた。真っ赤な唇が、愉快そうに吊り上がっている。

彼女が私で遊ぶ気であることは明白だったが、抗うすべはない。溜息をつくと、私は大人しく本当のことを吐き出した。


「私、高橋……えっと、クラスメートに告白されたんですよ。しかも場所は体育館裏だし、呼び出し手段は手紙。本当に古風ですよね」


愚痴をこぼすようにぼやいた私に、つむぎ様はほう、と相槌を打った。どうやら、茶化すつもりはないらしい。珍しいな、と私が思っていると、つむぎ様は猫を一撫でして、気の重い問いを投げかけてきた。


「して、返事は?そなた、に、どう答えたのか?」


みつるは、高橋の名前だ。だが、私は彼女に、彼の名前を言った覚えはない。不思議に思ったが、つむぎ様は神様だからな、と思って、私は疑問を横流しにした。


「断りましたよ。大した話ではないでしょう」


私がそう言い捨てると、つむぎ様はぱちぱち、と目を瞬かせる。す、と彼女は表情を消すと、訝し気な声で呟いた。


「それにしては、随分浮かない顔をしておるがな。すまぬな、太一。少し退いておくれ」


そう言いながらつむぎ様は、膝に載った黒猫を退かす。太一と呼ばれた黒猫は、抗議の泣き声一つ上げず、そのまま大人しく幹の上に丸まった。

つむぎ様は黒猫の様子をちらりと確認してから、ひょい、と幹の上から飛び降りた。ゆさ、と木が揺れる。そのまま彼女は、思わず後ろに下がった私のところまでやってくると、白い指で私の目元に触れた。

ひんやりとしたその指には、きっと血が通っていない。

そんなことを思っていると、つむぎ様はこてりと首を傾げて、私に問いかけた。


「好きなのだろう?そやつのことが」

「どうして、そう思うんですか?」

「そなた、目元が腫れておるぞ。普通、惚れてもおらぬ男を袖にしたとして、そこまで泣きはせん」


その言葉に、私は押し黙った。伏せられた桜色の瞳からは、大して感情を読み取ることは出来ない。ただ、彼女が私を案じていることは伝わって来たので、私は詰めていた息を、ほうと吐き出した。

彼女の指摘は、嘘ではない。実際私は、この神社に来るまで、散々隠れて泣いていた。ここに今日来た理由だって、母の前でも泣いてしまわないように、気持ちを落ち着かせるためだ。


「………好き、でしたよ。というか、今も好きです」


少しだけ躊躇ってから、私は、心にずっと秘めていた思いを、口に出した。

一年前のことだ。体育でこけて、捻挫に陥った私を、彼が保健室に運んでくれたことがあった。そして、用事で不在だった先生を待つ間、痛みで泣きだしそうだった私の側に、ずっと居てくれた。話をしてくれた。

たったそれだけの理由だ。それだけの優しさで、私は、彼に恋に落ちた。

その時から、彼の赤い糸が自分の指に繋がっていないことは見えていたし、それでも別に構わなかった。どうせ結ばれやしないからと、適度に距離を開けて、出来るだけ関わらないようにしながら眺めていただけなのに、どうしてこうなったのか。

そもそも私は、保健室に運んでもらった件の後は、高橋と喋ったことすらない。どうして彼が私を好きになったのかとか、疑問が多すぎる。正直、訳がわからない。

あの、真剣そのものの眼差しは、そもそも私を好きなのか、などと疑う気持ちを奪い去ってはいるが。

目元に当てていた指を外して、つむぎ様が、心底不思議そうに、抱いて同然の疑問を口に出した。


「そなたたち、両想いというやつだろう。どうして好きでいられない、なんてことになるのだ?」


「簡単な話ですよ。あなたにも、赤い糸が見えるでしょう?」


そう言いながら、私は小指の赤い糸を見た。無残に切れて、ぷらぷらと片端がおどる。

私の赤い糸は、昔から、途中で切れている。

普通の赤い糸は、小指から、その人の運命まで、弛むことなく繋がっている。相手が、例えどれほど遠くに居たとしてもだ。私自身、他に赤い糸が切れている人間を見たことはない。神様であるつむぎ様の小指にすら、赤い糸はあるというのに。

何故私の糸が切れているのか。その理由は、わからない。

ただ、私に運命が存在していないことだけを、切れた糸は伝えている。


「高橋の糸、私以外の誰かに繋がっていますから。生憎相手はまだ見たことがないけれど、他に運命が居る相手と付き合うなんて、不毛です」

「それでもそやつは、そなたのことが好きだと言っているのに?別に、赤い糸が繋がっていなくても、結ばれる可能性はあるだろう。そなた、その調子でいけば、一生誰とも添えんぞ?」

「別に、一生一人でいいです。赤い糸の相手があの人の前に現れた瞬間、全部終わりなのをわかっていて、付き合うことはできません」


酷いことをしている自覚はある。でも、彼の思いを受け入れる気も、ない。

私が今まで見ている中で、赤い糸が嘘を吐いたことは、一度も無かった。その人に出会った瞬間、少しずつ人は、互いに心を奪われていく。………たとえ、己が結婚していようが、子どもがいようが。


高橋と私が結ばれることは、決してない。

例え、今の彼の思い人が、本当に私であったとしても。


「だから、もういいんですよ。このまま彼と関わらなくたって、一度好きになってもらっただけで十分です」


出来れば、卒業までずっと、彼のことを見ていたかったけど、それはもう叶わないだろう。なにせ、告白されてしまったのだから。多分もう、眺めることすら許されない。

私はつむぎ様の前から一歩後ろに下がると、無理やり笑った。零れ落ちそうな涙を、誤魔化す為に。


「話、聞いてくれて、ありがとうございます。日が暮れそうですし、今日はもう帰りますね。そろそろ、夕ご飯を作らなきゃいけませんから」


そう言って、地面に置いておいた鞄を拾うと、私はつむぎ様に向かって一礼した。そのまま、神社の出口に向かう。

鳥居を潜るとき、振り返って見たつむぎ様は、酷く痛ましそうに目を伏せていた。

だが、彼女はそれ以上何も言うことは、なかった。


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