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 池袋駅へと向かう小さな裏通り。僕ら二人は、少しだけ互いのパーソナルスペースを縮めながら、ヤマアラシのジレンマを体現するように歩いた。左に彼女で、車道側に僕。郵便局のバイクがすぐ横を通り過ぎていく。

 彼女が言う『音楽がある場所』へ向かう道すがら、僕らはいろんなことを話した。好きな映画や、小説、音楽。それからいま僕らがこうして一緒にいるワケとか、いろいろ。

「初めてなんです。誰かに事細かに記憶されてるって、そういう経験が。わたし、いつもクラウドに消されてしまうんですよ」

「消されるって?」

「記憶されないんです。誰の記憶のなかであっても、わたしの優先順位は限りなく低いんです。要するに影が薄いんですよ、わたしって」

「そうは見えないけど」

 僕は左手に小清水さんを見ながら言った。

 誰にも記憶されないなんて、そんなことあるだろうか?

 少なくとも僕は、小清水さんをひと目見ただけでも忘れない自信がある。たしかに、彼女のことは決して手放しに「美人だ」と誉められる容姿ではないけれど。でも、彼女は綺麗だったし(僕の主観だけど)。それに赤いインナーカラーの入った髪もチャーミングで、記憶に残るような格好だ。たしかに背は小さくて、群衆に紛れたらかき消されそうだけど。でも、彼女にはそれを補って有り余るほどの情熱みたいなのがあるような、そういう風に僕は感じていた。

「でも、そうなんです。みんなわたしのことを忘れてしまう。名前を言えば、『ああ、そう言えば』みたいになるんですけど。誰もわたしのことを覚えていてくれない。そういう体質なんです。性格なんです。だからこそ、デッドメディアに記録したがるんでしょうね、わたしって」

「じゃあ、僕とこうしていることも、ある意味でその一部かもしれないですね。口頭で、人に誰かの物語を伝えているわけだから」

「あ、そうか! 口承文学ってことですね」

「まさしく。『イーリアス』とか『オデュッセイア』とか」

「叙事詩だ。『ベーオウルフ』とかもそう」

「そうまるでそれは――」

「吟遊詩人!」

 僕らは口をそろえてそう言った。なんだかその瞬間、僕らは考えていることのすべてが繋がったというか。僕と彼女とが、同じ思考様式をしているのだと、お互いにそう感じ取ることができた。ただ趣味が近いとか、互いの容姿が好きとか、そういうのじゃなくて。かくあるべくして接近したのだと、そう結論づけられるものを感じた。


 やがて彼女は、ある小さな扉の前で足を止めた。

「ここです」

 そう言う彼女の人差し指は、拡張現実看板ARサイネージに向けられていた。座標ジオタグに埋め込むタイプで、店の看板によく使われるものだった。

「クラブ?」

 と、僕はサイネージに表記された文字をそのまま読み上げた。

 音楽がある場所と、確かに小清水さんは言ったけれど。でも、彼女がこういうところに来るタイプの人間だとは思わなかった。確かに、見かけはどこかパンキッシュだけれど。こうして話してみると、彼女の頭の中はカタチある媒体デッドメディアと文学に対する深い造詣のもと成り立っているのだとわかる。だから、そんな彼女がクラブ? 僕の頭には疑問符がついて離れなかった。

「さ、行きましょう。わたし書きたいことがあるんです」

「あ、ちょっと待ってよ」

 知らぬ間に彼女が僕の手を取る。右手の先、さっきまでお互いにペンをつかんでいた指が触れ合う。かすかにインキのにおいが鼻を突いた。


     *


 店内は恐ろしく静かだった。

 入場ゲートにいる強面の大男をやり過ごして、分厚い水密扉を抜けた先。そこに広がっていたのは、薄暗いダンスフロアとバーカウンター。そしてその中で踊り狂う数十人の男女たちだった。

「チャンネルを4に合わせて。今日はジョウさんが入ってるの」

 僕の肩を、誰とも知らない女性が叩いていった。耳打ちされた言葉は、さらに視界上にも現れる。今日は4チャンネルに回してくれと。そうしたら、音楽が聴覚野に共有される。それまでこのフロアは無音だ。

「ねえ、小清水さん。僕、飲み物取ってくるけど。どうします? 今日はチャンネル4に合わせろって」

「その必要はないです。飲み物は一緒に取りに行きません? わたし、ビールは苦手なので。ウィスキーがいいです」

「わかった。その必要はないって、どういう?」

「あとで説明します。わたしがやりたいのは、そういうことなので。……藤巻さんは何がいいです? ビール?」

「僕も同じのでいいよ」

「じゃあ、スコッチ・アンド・ソーダを二つで」

 バーカウンターにいる金髪の男に、僕らは二つのスコッチ・アンド・ソーダを頼んだ。カウンターの彼は、ほかにパーティカクテルだとか、テキーラのショットなんかも勧めてきたけど。僕らはそのどれもを退けて、デュワーズのソーダ割りを手にした。粗雑な入れ方のソーダは、泡ぶくを吹き上げて、嵐のあとみたいだった。

「じゃあ、乾杯しましょうよ」

「なにに?」

「わかんないですけど。でも、何かに乾杯するってすごく素敵なことだって、そう思いません?」

「じゃあ、そのなにかに乾杯」

 グラスを重ね合わせる鈴鳴りみたいな音は、ダンスフロアに静かに響きわたった。ほかに聞こえてくるのは、足踏みをする群衆と、彼らの起こす衣擦れの音。それから四隅の陰から聞こえてくる淫靡な水音。それだけ。

「チャンネル、合わせなくていいの? じゃないと音楽は聞こえないけど。みんなクラウドをチャンネル4に合わせてる。そのDJけっこう人気みたい。ほら、いままさに――」

「いいです。これがあるので」

 言って、小清水さんが取り出したのは、あのカセットプレーヤーだった。それから二組のヘッドフォンと、二股に分かれたプラグ。刺叉のように二手に広がったプラグには、それぞれ二組のステレオプラグが刺されていた。

「こっちが藤巻さん。こっちがわたしの。ほら、つけてください」

「二人分のヘッドフォンなんて。もしかしてしっかり準備してた?」

「ええ、実はちょっと期待してました。ささ、早くつけてください。わたし、これがしたかったんです」

「二人でカセットテープを聴くこと?」

「それもそうだけど、ちょっと違います」

 ヘッドフォンを耳にかける。二人とも装着して、あとはもうスイッチに指を押し当てて再生するだけだ。

 すると突然、彼女の手が僕の耳元に伸びた。それはイヤホンが左右逆だったから、正してくれたのだけど。でも、耳たぶに触れた指の感触だとか、冷たさだとか、そういうのが僕の神経に触れることは明白だった。

「わたし、誰かとデッドメディアを共有したかったんです。誰か、わたしのことを認知してくれる人と一緒に共有して、それを表現したかったんです。それは文字であり、言葉であり、そしてダンスという肉体言語であったとしても……」

 吐息のかかる距離。すぐそこで笑う彼女は、プレーヤーの再生ボタンに触れた。

 彼女がさっきまで再生していた、その途中からテープは回転運動を再開する。ザ・キュアーの『フライデイ・アイム・イン・ラヴ』。あいにく今日は金曜じゃなくて、土曜日だったけれど。

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