6
なにが合図だったかはわからないけど、たぶんそれは静寂だったと思う。
その静寂が訪れるまで、僕は目に見えるすべてを記録した。自分の言葉にして、自分の筆跡にして、紙とペンとで書き記した。でも、そのほとんどは彼女の――小清水ケイのことだった。
まず彼女の容姿のこと。今日はどんな服だとか、髪型はどうだとか、化粧の印象が前と少し違うだとか。瞳が少し赤らんでいたとかそういうこと。ほかにも瞳孔が幾度となく開いたり閉じたりを繰り返していて。コーヒーを飲むとき少し左手を添えたりしてたとか、そんな所作だとか。とにかく目に映るすべて。記憶の片隅から、おそらく消えていってしまうであろう刹那の断片たちを寄せ集め、書き記した。
ペンは忙しなく動き続け、インキを吐き出し続けた。むしろ僕の指のほうが追いつかなくなって、腕が腱鞘炎になりそうなぐらいだった。
そうして指先が疲れだしたこと、やっと静寂が訪れた。
「なんだか、楽しそうですね」
小清水さんが笑っていた。ヘッドフォンを耳にかけたまま、僕のほうをみて。静かに白い頬をゆがめていた。
「出ましょうか、お店。もうコーヒーも終わちゃったし。それにほら、こんな時間ですし」
窓ガラスの向こうを見る。闇が降りてきていた。街灯がチラホラとつきはじめ、街路樹を加工用に
「ですかね。会計、僕がしますよ」
「いいですよ、割り勘で」
「ダメです。今回は僕のプレゼントで」
*
送っていく、とは言わなかった。でも、彼女が歩くのと同じ方向に向かって僕も歩いた。彼女もそれを拒まなかったし、むしろ受け入れてくれているみたいだった。
でも、しばらくのあいだ僕らに会話はなかった。小清水さんは耳にヘッドフォンをかけたままだし、右手はカセットプレーヤーを握りしめている。親指は三角形をした再生ボタンにかけられていて、かすかにメカノイズが聞こえた。キュルキュルと音を立てて、磁気テープが回転運動を続ける。まるで僕らの足が歩を進め続けるように。僕らとカセットの違いをあげるなら、それは歌わないことだろうか。
路地裏を抜け、大学前の通りを越え、芸術劇場もどこかに消えて、駅近くの通りまで来ていた。僕にとっては、あとはもう山手線に乗り込んで、田端にあるアパートに戻るばかりだった。
「ねえ、藤巻さん」
ぱたりと、突然彼女は足を止めた。
彼女の足元。輝いていたドクター・マーチンのブーツが運動を停止する。左手の指が停止ボタンを押して、テープの回転運動も止めた。メカノイズも、音楽も、すべて静寂に切り替わった。僕らを取り囲む
駅はすぐそこだった。僕らは、歓楽街のARサイネージが踊る通りの真下で、静寂のなか立ち尽くした。頭上には薄桃色をした広告の光。彼女の頬は照らされて、チークみたく赤らんでいた。
「このあとって、時間ありますか?」
「なくはないけど。どうして?」
「もう少しだけ、書きたいことがあるんです。よかったら付き合ってくれませんか?」
「いいけど。どこに行くの?」
「音楽がある場所です」
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