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 なにが合図だったかはわからないけど、たぶんそれは静寂だったと思う。

 その静寂が訪れるまで、僕は目に見えるすべてを記録した。自分の言葉にして、自分の筆跡にして、紙とペンとで書き記した。でも、そのほとんどは彼女の――小清水ケイのことだった。

 まず彼女の容姿のこと。今日はどんな服だとか、髪型はどうだとか、化粧の印象が前と少し違うだとか。瞳が少し赤らんでいたとかそういうこと。ほかにも瞳孔が幾度となく開いたり閉じたりを繰り返していて。コーヒーを飲むとき少し左手を添えたりしてたとか、そんな所作だとか。とにかく目に映るすべて。記憶の片隅から、おそらく消えていってしまうであろう刹那の断片たちを寄せ集め、書き記した。

 ペンは忙しなく動き続け、インキを吐き出し続けた。むしろ僕の指のほうが追いつかなくなって、腕が腱鞘炎になりそうなぐらいだった。

 そうして指先が疲れだしたこと、やっと静寂が訪れた。

「なんだか、楽しそうですね」

 小清水さんが笑っていた。ヘッドフォンを耳にかけたまま、僕のほうをみて。静かに白い頬をゆがめていた。

「出ましょうか、お店。もうコーヒーも終わちゃったし。それにほら、こんな時間ですし」

 窓ガラスの向こうを見る。闇が降りてきていた。街灯がチラホラとつきはじめ、街路樹を加工用に拡張現実AR動体広告モーション・グラフィクスがまたたく。違法な客引きに注意しろと、そう叫んだ次の瞬間には、風俗店のリクルート広告が流れ始めていた。

「ですかね。会計、僕がしますよ」

「いいですよ、割り勘で」

「ダメです。今回は僕のプレゼントで」


     *


 送っていく、とは言わなかった。でも、彼女が歩くのと同じ方向に向かって僕も歩いた。彼女もそれを拒まなかったし、むしろ受け入れてくれているみたいだった。

 でも、しばらくのあいだ僕らに会話はなかった。小清水さんは耳にヘッドフォンをかけたままだし、右手はカセットプレーヤーを握りしめている。親指は三角形をした再生ボタンにかけられていて、かすかにメカノイズが聞こえた。キュルキュルと音を立てて、磁気テープが回転運動を続ける。まるで僕らの足が歩を進め続けるように。僕らとカセットの違いをあげるなら、それは歌わないことだろうか。

 路地裏を抜け、大学前の通りを越え、芸術劇場もどこかに消えて、駅近くの通りまで来ていた。僕にとっては、あとはもう山手線に乗り込んで、田端にあるアパートに戻るばかりだった。

「ねえ、藤巻さん」

 ぱたりと、突然彼女は足を止めた。

 彼女の足元。輝いていたドクター・マーチンのブーツが運動を停止する。左手の指が停止ボタンを押して、テープの回転運動も止めた。メカノイズも、音楽も、すべて静寂に切り替わった。僕らを取り囲む群衆クラウドさえもノイズとして天上人クラウドがかき消してくれたみたいだった。

 駅はすぐそこだった。僕らは、歓楽街のARサイネージが踊る通りの真下で、静寂のなか立ち尽くした。頭上には薄桃色をした広告の光。彼女の頬は照らされて、チークみたく赤らんでいた。

「このあとって、時間ありますか?」

「なくはないけど。どうして?」

「もう少しだけ、書きたいことがあるんです。よかったら付き合ってくれませんか?」

「いいけど。どこに行くの?」

「音楽がある場所です」

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